第33話

 ――ジレイネスは、近隣では多少名の知れた冒険者だった。

 土色の髪と、同じ色の顎まで覆うたっぷりとした髭を生やす筋骨隆々の長身は、大木を思わせる。

 実際、それは似たようなものだったかもしれない。彼は村の中の誰よりも力強かったし、誰よりも豊富な知識を有し、村を統率していた。

 ジレイネスがそれだけ信頼されているのは、その能力のみならず、実績によるものも大きい――彼は魔物退治の専門家だった。冒険者として各地を点々と巡りながら、そこで人と敵対する魔物を討伐していたのだ。

 その中でも最も大きな功績は、彼が三十歳の頃である。五歳ほどになる息子と共に南西の港町を訪ねたジレイネスは、そこで魔物の群れの襲撃に遭遇したのだ。しかし彼はそこから逃げ出すこともなく、それどころか混乱する町の冒険者たちの先頭に立ち、それらを率いて魔物と戦った。

 戦いは熾烈を極め、港町の住民の話では、魔物の数が二十に対して冒険者は半分しかいなかったとか、魔物は五十以上はいたとか、指揮していた男は実は魔物を裏切って人間に味方する鬼神だったとか、針小棒大も含めて様々に語られている。

 いずれにせよ、この戦いで見事に魔物を撃退したジレイネスは近隣で英雄視されるようになり、絶対的な信頼を得たと言っていい――もっとも当人にとっては英雄視などにさほど価値はなかったらしく、その後も変わらず魔物退治を続けていたが。

 彼の生まれたムウロという村は、オーフォーク領の南端の森の中にある。川の近くの森を切り開いて作られたという小さな村で、人口は百には満たないが五十よりは多いという程度だろう。そこから英雄が生まれたというのは、当人の意志は別として村の一大ニュースになっていた。銅像を建てようという村民をジレイネスが必死で説得して止めるのに、三日を要したほどである。

 ……それまでは平和で、順風な生活だったのだ。村の人々は元より穏和だったし、大袈裟なところはあるが好意に溢れていたし、行く先々でも自分を知っている者は歓迎してくれた。息子はそんな父親を慕い、尊敬し、自らも冒険者の道を歩むために修行の真似事を始めるほどだった。

 そう、それまでは何事もなかったのだ。ジレイネスが小さな村の英雄になってから、四年間は。

「魔物だ! 魔物が攻めてきた!」

 その日の朝――村に響き渡った声は、帰郷して休息を取っていたジレイネスを飛び起きさせた。

 出てみると、ジレイネスだけではない。村民が全員、騒然としながら家から飛び出し、声のした方に駆け集まっていた。

 村の周りは背にある川と、その反対にある街道へと続く細道以外、ほとんどが深い森の姿のままである。一応、膝丈ほどの木柵が村を囲うように立てられているが、そこから数歩先はもう深緑の匂いを湛える木々で埋め尽くされている。

 声が聞こえたのは、そうした薄暗い森の中からだった。声の主は、よほど大声で叫んでいたのだろう。村民が慌てて木柵の前に集まる頃、その主はようやく姿を現した。

 それは村の周囲の安全を確認する、自警団のような役目を担った若い男だった。彼は少なくとも、全身を傷だらけにしていた。どれも致命傷には至らない、かすり傷のようなものだが、作業着がボロボロになっている。そして背後の何かに怯えるように、今にも転びそうなほど足をもつれさせながら駆け、実際に柵の手前で転倒した。それでも這いずりながら柵まで辿り着く。

「どうした、何があった? 魔物だと?」

 村長が慌てながら声をかけると、男はなんとか顔を上げた。しかし叫び、全力で走ったおかげで、息を喘がせるだけで精一杯の様子だった。ただその顔には、明らかな恐怖と怯えが混じり、走ってきたばかりだというのに真っ青になっている。

 彼は訴えかけるように口をぱくぱくと動かしていたが、声はまだ発せられない。それにもどかしくなっているうち――男が突如、ハッと何かに気付いたように背後の森を振り返った。

 村人たちも同じく、そちらを見やる。そこにはただ黒い影を湛える森があるだけで、何も見えない。

 だが音は聞こえてきた。森の中の草を踏みつけ、枝を折りながら猛然と駆けてくる恐るべき轟音。少なくとも今まで村の誰もが聞いたことのない、何かとてつもない恐怖を抱かせる足音だった。

 村民はそれがなんであるのか、直感はしていたかもしれない。しかし理解している者はいなかった――唯一ジレイネスだけが理解して、誰よりも早く動き出していた。柵に飛びつき、そこから身を乗り出して男の身体を引っ張り上げと手を差し出す。

「早く上れ! こっちへ来るんだ!」

 しかし、遅かった。

 ジレイネスが叫ぶのと同時に、森の中で爆音のような地面を叩く音が聞こえたかと思うと、次の瞬間には柵の外で倒れ込む男の上に、大きな黒い影が落ちた――そして、もう一度爆音。

 黒い何かが思い切り地面を叩いたのだと、ジレイネスが理解できたのは一瞬遅れてからだった。村民たちはその衝撃波に押し返され、仰け反るか尻餅をつくかしながら悲鳴を上げた。ジレイネスも、間近でそれを受けて転がるようにして倒れ込んだ。

 急ぎ起き上がると――そこには、内側に倒れた柵と、それに絡みつく男の腕があった。そしてその少し先に、飛び散って地面を濡らす真っ赤な染み。

「……!」

 ジレイネスは息を詰まらせた。村民が少し遅れて、悲鳴と共に逃げ出していく。

 ただひとり、ジレイネスはそこに留まった。

 静かに、剣を抜く――黒のインナーとズボンは単なる普段着だが、剣だけは持っていた。その判断は正しかったらしい。どうせなら鎧も着込んでくるべきだったと思うが、大差はないかもしれない。

 いずれにせよ彼は怒りに奥歯を噛み締めながら、立ちはだかるように『それ』を見据えた。

 鮮血の染みを踏みしめながら立つ、敵。それは紛れもなく魔物だった。

 真っ先に目に付くのはその巨体である。人の背丈は優に超え、すぐ近くに建つ民家と比較しても見劣りしない。少なくとも天井まで届くだろう。同時に横幅もかなり大きく、人がふたり並んでも足りないほどだ。

 その身体を支えるのは、人間と同じく二本の脚。これもやはり巨大で――人の上半身くらいなら、足の裏に覆い隠してしまう。

 ただし人と違うのは、爪先立ちのように折れ曲がっている骨格だった。異様に肥大化した不恰好な犬が二足歩行をすれば、このような姿にもなるかもしれない。実際、顔も鼻の凹んだ犬種が凶暴化したようであるし、その巨体は森に溶け込む黒々とした緑色の体毛に覆われていた。尻尾だけはないが――代わりに背中をなぞるように尖った骨板が並んでいる。

 その姿を見て、ジレイネスは驚愕した。

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