第32話
■4
シアが少年冒険者との出会いを思い出したいと考えるのならば、それは一年前まで遡る必要がある。
その頃のシアは小説家ではないばかりか、それとは全く無関係の職に就いていた。正確を喫するのならば、彼女は職に就いていたわけではなく、その職として生を受け、それに従うまま育ち、生きてきたのだと言うべきだろうか。
かといってそこからの転職は彼女になんらかの不適正であったことを示すものではなく、正反対に彼女が異様なほどのエキスパートであることの証明と言い換えることもできた。彼女が現在のように小説を執筆するようになった理由の、最も根元的な要因というか、基礎的な土台を作り出したのは、間違いなく彼女の尋常ならざる才覚にあったと言っても決して過言にはならないだろう。唯一の欠点と言えば、彼女がその職によってなんらかの報酬を得たことも、それ以前にその職に関する仕事を行ったこともないというだけだった。
しかしそれも彼女の優秀さを端的に示すものであり、間違いなく両親から教え込まれたその職に対する心得を誰より忠実に守り抜いている証に他ならない。
仕方のないことなのだ。シアは生来の暗殺者であり、誰にも姿を見られてはならないと教えられたのだから。仮にそのせいで存在を一切知られず暗殺依頼が来なかったとしても、それは暗殺者としての心得を守り抜いた結果なのだから仕方のないことで、シアもそう納得していた。
ただ、一年前に少年と出会ったことによって、シアのそうした生活は変化を得ることになった……
ある夜のことだ。シアは近くを流れる川で魚を獲り、その周囲に群生する野草を摘み、自給自足とも言える生活をしており、その日も深夜になるのを見計らってこっそりと屋根裏部屋から外に出た。星明りすらないほど雲の掛かった夜空だったが、シアにとってはそれが最も都合がよく、完全に闇に溶け込み、屋根から屋根へと飛び移りながら町の外れにある川を目指したのだ。その道順は決まっていたわけではないが、同じような天候、同じような時間であれば、たいてい同じような道順になる。それに変化が起きる時というのは、通ろうとした屋根の下の住民がまだ起きて明かりを点けていたりだとか、警戒心の強い不気味に目をぎらつかせる野良猫や夜鷹のような鳥、あるいは酔って屋根にのぼってきた人間などの姿を見つけた時くらいである。
しかしその夜だけは、シアは全く別の要因によって道順を変更しようと思い立つことになった。それも人に見つかる可能性のある出来事が発生したせいではなく、さらに言うなら変更した先も普段ならば真っ先に避けて通らなければならない、唯一煌々とした明かりの灯る、酒場の屋根の上だった。
シアがわざわざそんなところに降り立とうという気になったのは、声が聞こえたためである。夜中に人の声を聞くのは実のところ珍しいものではなく、特にこうした酒場の周囲では昼間と変わらないか、あるいはそれ以上に騒がしい声が常に響いていた。少し離れた屋根の上からでもその様子は伝わってきたし、店から出た酔っ払いが道端で喚き散らすのも深夜の日常に違いない。ただ、その夜に聞こえてきたのは初めての、特別な意味のあるものだったのだ。
「だいたいな、お前みたいな十もそこそこの子供が冒険者を語るってのがよくねえ! 最近の若いもんは、なんとなくかっこいい程度で冒険者になろうとしやがる。そんなんじゃあダメだ!」
シアの耳がそちらに向けられたの最初の要因となった言葉はおおむねそのような、酒に焼かれた中年の男の声によるものだった。単なるよくある酔っ払いの説教であることは明白だったが、その中でシアの気を引いたのは十歳そこそこの冒険者という辺りに違いないだろう。それはシアと同程度の年齢であることを示しており、そのような年齢で世界を歩き回る冒険者になるというのは、シアにしてみれば驚くべきことだった。
そのためシアは酒場から数軒分ほどの距離から、まずはいくつかの屋根を超えて声の方に近付いていった。するとその間に声は続き、どうやらそこにいるであろう十代の冒険者に問い詰めたらしかった。
「いいか、冒険者ってのはもっと明確な目標を持たないといかん。冒険者はそんなに甘いもんじゃあねえ。お前にはそういう、冒険者としての目標はあるのか!」
一方で子供の方は何か答えたようだったが、恐らく彼は酒を飲んでおらず、反論の際にも中年の男のように声を荒げなかったため、少し近付いた程度ではそれを聞くことができなかった。シアは当然としてさらに近付き、自分と同程度の年齢の、しかし見知らぬ人と出会いながら旅をするという、自分よりも遥かに優れた忍耐力と精神力を持っている幼い冒険者が、どのような考えを持っているのかと盗み聞こうとしていた。それほどまでに他人に興味を持つこと自体がシアにとっては初めてであり、奇妙なことだったが、シアはそれをのちに単なる気紛れや極端な生活の反動などではなく、運命だと位置付けた。
いずれにせよシアはそうした理由によってその声に最も近い、酒場の屋根の上に降り立ったのである。そこは木造の建物と同じような色合いを見せる瓦の敷かれた、平入りの緩い切妻屋根だ。出入り口の方には屋根の幅いっぱいの看板が張り付けられており、姿を隠すのには丁度いい。またその下には庇があり、少し離れなければ看板すらも見上げることはできなくなっていた。看板の陰から見下ろせば乳白色をした庇が明かりを浴びてぼんやりと光っているのが見え、さらにその下には出入りする客の影を見つけることができる。声の主たちは、そうした出入り口からは少し外れた位置にいるようだった。姿は庇に隠れて見ることができず、微かな黒い人影だけで判断した。
中年の男が荒げる声はいつの間にか聞こえなくなっており、代わりにこのような酒場に似つかわしくない、張りのある少年らしい声が聞こえてきて、彼はこう言うのだ。
「目標はある。だからこそ僕は冒険者になった。準備はできている。あと二日もすればこの町を出て、探しに行かないといけない。そもそもここは僕の故郷でもないから、未練もない」そうして彼は重い息を深く吐き出した。「故郷は盗賊に襲われて……僕の父親は、そこでさらわれたんだ」
それに対して中年の男は何も言い返してはこなかった。少年の語った言葉には並大抵では挫けないだろうという強い決意と、悲痛なほど深遠の苦悶が含まれ、酩酊の度合いを問わず相手の耳に突き刺さるものだったことは間違いない。中年はそれに怯むか感服するかして押し黙ったのかもしれない。
シアは後者の方だった。あるいはそれよりも遥かに強い感銘を受けて、じっとその場で少年冒険者の影を見下ろしていた。そうするうちにふたりはそれ以上の会話をすることなく、酒場を後にしてしまう。シアは少年冒険者の顔が見えるかもしれないと思って目で追ったが、彼は中年男に肩を貸しながら、シアに背を向ける方向へと進んでしまい、金髪を湛える後姿しか確認することはできなかった。追いかけて正面から顔を見ようとするのは相手からも目撃される危険があったためにやめておいた。
いずれにせよ少年冒険者に対してシアは詳しい事情を聞くことなどできないが、推測することは可能だった。だからこそより深い感銘を抱いたと言えるし、何よりその少年冒険者の言葉を受けたために、自らもただ無目的に自給自足の生活をして暗闇の屋根裏で息を潜めるだけでなく、彼のように何か為さなければならないのではないかと考えるようになったのだ。
結果としてシアが小説のことを思いついたのはその翌日。自分以外に誰もいない家の中で無意識に息を殺し、足音を忍ばせて歩き回りながら、自分にできることの手がかりを探し求めていた時のことである。生物の急所に関するものや戦闘の指南書、天文学の書物などの中に一冊だけ混じっていた、娯楽小説を発見したためだった。そしてこれならば誰とも会うことなく為すことができるという、シアにとっては合理的な考えを得たことで、その道に踏み入る決意が固まった。さらにそこで描き出すのが他でもなく少年冒険者のことであることは、シアにとっては考えるまでもないことだった。彼に尊敬と憧れの念を抱き、彼の過去に起こったこと、そして未来に起こること、それらを自分の手で描き出すことには深い意味があるはずだという、なんらかの確信があったのだ。
もっともそれは、シア自身は無自覚ながら、そうすることで憧れの少年冒険者に近付こうとする、同一視や取り入れの防衛機制からなるものだったかもしれないが――暗殺者としての教育以外を一切受けず、その結果として人との交流の一切を得ずに育ってきたシアにとっては、確かに深い意味があるものだったとも言えた。
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