第7話
夜の海は暗く、黒い。平穏な天気のおかげで荒れることはないが、それでも何か不穏な出来事を予感させてしまう。昼間ならば心地良い潮風も、夜になれば人々を凍えさせる。
そうした海を従えるグアデンの町の漁港を――誰ひとりいない、真っ暗な夜の漁港を、歩く者がいた。
静かに、ゆっくりと。どこか勝ち誇るようですらある。
その何者かはしばらく悠然と埠頭を進み……あるところで、ぴたりと立ち止まった。身体を海の方へと向き直らせる。
そこには、船が浮かんでいた。
係船柱に繋がれて、静かな波に揺れる船。漁船とは違う、荷を運ぶためのものだ。
バランスと操舵性を重視する漁船と違い大型で、帆を畳んだマストが三本立ち、積載量と高速性を求めた設計がなされている。人が五、六人は余裕で並ぶことのできる甲板には、酒樽と一緒に空の荷箱が転がっている。もっともそれは、船そのものが空であることを示すものではなく、単に怠け者の人夫が放り出したというだけだ。積荷は船内に未だ納められているだろう。
そんな大切な船だというのに、見張りも警備もいない。暗闇のどこかで倒れているはずだ。荷下ろしの人夫も同じく、例えば見知らぬ女に誘惑されてついていった先で一撃され、一緒に昏倒しているのだろう。
揺らめく漆黒の海に浮かぶ船を見つめて、人影は恐らく笑った。表情を窺い知ることはできないが、そういった気配を滲ませながら、さらに貨物船の方へと歩み寄る。船体には所有者や商会を示す名前が記されているのだろうが、今はほとんど読むことができない。辛うじて、マリセアという文字が見える。
本来は白いのであろう、今は暗く沈んだその船体に、影は静かに手を伸ばして――
「そこまでだ!」
瞬間。バッと周囲が明るく照らされる。
人影は思わず振り返り、顔を隠すように腕で覆った。その下から覗き込む人影の目に映ったのは、十を超えるランタンの群れだった。そこに灯された炎が自分と、背後の貨物船を赤く染めているのだ。
それを手にし、掲げている者たちについて、人影は見覚えがあった。当然だろう、全員が同じものを着ているのだ。白を基調とした厚手の素材に、三角形を組み合わせた黒いラインの引かれた制服――人影と同じ、自警団の制服だ。
しかしその中からひとり。人影の正面に立つように、唯一違う格好をした小柄な者が現れる。黒のズボンに、皮の胸鎧。黄金色の髪は赤く染まりながら炎のように揺れ、灼熱の色をした瞳はさらにその色を強くしている。
ハーリット・ヘレディ――
「やっぱりお前だったな……シェルさん」
少年の名前を浮かべた時、彼の方も同時に、人影の名前を呼んできた。
影は一瞬だけぴくりと身を震わせてから……ゆっくりと、自分の顔を覆っていた腕を下ろす。短く切られた茶色の髪に、無感動な目。
しかしそこには今までよりも多少、明確な感情がこもっていた――怒りが。
「……どうして、ここが?」
声は相変わらず平坦で、硬質としている。しかしそれが、全てを認めるつもりの言葉であることは、その場の誰もが理解していた。
少年も同じく淡々と、ただ思ったことを告げる。
「言い逃れはしないんだな」
「不可能でしょう。私に割り当てられたのは詰め所での待機であり、港など聞いてもいません」
「町の主要な場所が狙われているのに、港だけ空白なのはおかしいと思った、とでも言えばよかったんじゃないか? お前の計画そのままだけど、な」
「……それを言わせるために、わざわざ?」
少年は肩をすくめた。そんなわけじゃないと首を横に振って。
「ただ単に、動きやすくしてやっただけだ。あからさまな罠だったけど、お前は動かざるを得なかっただろうしな」
「…………」
シェル――屍旅団の一味が沈黙する。肯定の意味として。
「お前の目的は、自警団の崩壊だな。そのために自警団に潜り込み、犯人自ら町に不穏な噂を流し、内部に火種を撒いていく。自分がどんなに疑われようと、それ以外にも怪しい人物がいればそれでいい――そう考えてたんだろうな」
「…………」
シェルはやはり何も答えない。ハーリットの方はそんな彼女を見つめ、牽制と警戒をしながら続ける。
「宿で襲撃を仕掛けてまで計画の日程をずらさなかったのは、単純に船の停泊日が今日までだったからだ。交易船が襲われたとなれば、自警団は確実に責任を問われる。他に船の警備をしていた者がいても、だ――まあそれは、お前に倒されて気絶してたけどな」
その代わりというわけではないが、シェルの仲間である他の賊は、既に自警団が捕縛していた。分断された団員を襲い、港襲撃のついでに、さらなる醜態を晒してもらおうとした、というところだろう。
ただ、それらを聞かされても、シェルは動揺の素振りを見せなかった。他の賊については成功しようと失敗しようと、どちらでもいいと思っていたのかもしれない。
そうやって黙したままの犯人に、ハーリットはかぶりを振って問いかけた。「ひとつわからないことがある」と前置きして。
「お前が屍旅団の一味なら――この町の自警団を崩壊させることに、なんの意味がある? 屍旅団は、何を目的としているんだ?」
「……っふふ」
その時になってようやく、彼女は声を発した。初めて聞く、笑い声だ。しかも無感動な顔を歪め、とてつもなく面白い話でも聞いたように口を吊り上げている。その姿には団員たちも驚愕し、顔を見合わせた。
しかしハーリットはそこに不穏さばかりを感じ、警戒を強める。腰に帯びた剣の柄に手をかけながら、慎重に問う。
「何がおかしい?」
「そうですね、確かに私は『屍旅団』の一味です。しかし……っふ、ふふふ!」
「何がおかしいと聞いている!」
笑い声を隠そうともせず、片手で顔を覆って肩を震わせる女。ランタンの炎に照らされたその姿は、どこか狂気を帯びていた。取り囲む自警団の顔も、次第に驚愕から恐怖に変わっていく。
女はしばらくの間、ハーリットとの問いに答えずそうやって笑い続けた。
そしてようやく顔を上げると……狂おしいほど見開かれた目が、少年を射抜いた。その姿はまさしく狂人だった。刃のような犬歯の生える口を凄絶に吊り上げ、体液を滴らせながら言ってくる。
「貴方の疑問に答えましょう。自警団の崩壊になんの意味があるのか。簡単なことですよ」
そう言うと、彼女は顔面の造形が崩れるほどに笑った。同時に――そこから発せられる声が突如、泥のような汚らしい、怪物のものに変わって。
「全ては余興。我らが大いなる野望のための、ほんの余興に過ぎん!」
叫ぶと同時――シェルは突如として怪物めいた脚力を発揮して、逆さまになりながら大きく後方に飛び退いた。そこには当然、暗く沈んだ海がある。
女は激しい水音を立てながら、その漆黒の中へと逃げ込んだ。水しぶきが上がり、ハーリットも、自警団も慌てて駆け寄るが……そこには何も見えない。ランタンをかざしても呼吸の泡すら立たないまま、しぶきがびちゃびちゃと海面を叩くだけだった。
団長は慌てて海中捜索をしようとしているようだった。「銛を持ってこい」だとか「網を投げろ」だとか叫んでいるが、ハーリットは直感していた。そんなことをしても捕らえられない、と。
根拠はない。しかしあの女は既に、人が容易に届く範囲にはいないだろうと思えた。何か得体の知れない、おぞましい力を持っている。そう思えてならなかった。彼女が残した言葉、声音、気配には、そう思わせるだけの自信と凄烈さがあった。
そしてもうひとつ――
(恐らく、あいつが鍵を握っている。屍旅団のことも、父親のことも)
それもまた根拠のない確信だったが、追いかける理由としては十分なものだった。
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