第4話
町にはいくつかの宿があったが、ハーリットはその中で海に最も近い場所を選んだ。理由は単に自警団が近いというだけだ。
外はすっかり夜の帳が下りている。その暗闇の中で、ランプに火を点けることもせず、ただベッドに横になる。
胸鎧はベッドと反対の壁際にある、書き物机の上に置いておいた。その隣には衣装ダンスが設置されているが、わざわざそこに入れる必要もないだろう。剣も携帯していたが、それは自分のすぐ脇に置いていた。
何を警戒するわけでもないが、そうしておかないと心許なく感じてしまう。それはやはり――探し求めた宿敵が近くにいるという意識のせいかもしれない。
いずれにせよ、ハーリットの頭にあるのはその宿敵のことだけだった。どう捕らえるか、そしてどうやって父のことを聞き出すか。そのことばかりが頭を巡り、自警団でどのような調査をするべきかは朝になってからでないと考えられそうになかった。
もっとも徹夜で夜を明かすつもりもないので、ハーリットは静かに目を閉じた。
ベッドと並行する大きな窓と景色は宿の主人の自慢らしいが、もはやわざわざ起き出して、数歩先にある窓まで行こうとは思わない。鎧戸を閉めずに風が入り込むに任せていたのは、潮風が興奮する自分を落ち着けてくれるためだった。小さく聞こえる波の音も、休息には適していると言える。
そのうち、そんな小波に少年の規則的が息遣いが混じるようになって――
……さらに別の音が入り込んだのは、それから少し経ってからのことだった。
大きな音ではない。むしろ潜むように微かな足音。それも廊下からではなく――窓からだ。
そこにいたのは人の影だった。部屋に差し込む星明りを身体で隠すようにしながら、部屋の床板に足を下ろす。完全に部屋の中に入ると、人影はゆっくりと……ベッドに近付いていった。そこではシーツにくるまれた少年が、小さな呼吸を繰り返している。
人影は静かに腕を上げた。その手に握られた銀色の刃が、鈍く光る。そして――
その銀光が弧を描き、少年の横たわるベッドに突き立てられた。
どすっ、と布を突き刺す音が響く。
「……!」
しかしそれは、人影を驚愕させた。無言でその気配だけを発し、不可解さと口惜しさを滲ませる――肉を突き出す音がしなかったためだ。
「まさかこんなところで襲撃に遭うなんて、驚いたな! 寝付けなかったのは正解か」
声を上げたのは、ハーリット。
彼はベッドから転がり抜け、既に剣を構えて人影と対峙していた。
「ただの強盗ってことはないだろうな。屍旅団の一味だな?」
「…………」
問いかけるが、人影は何も答えない。暗闇に紛れる真っ黒な姿で輪郭だけを晒したまま、無言で銀の刃を持つナイフを引き抜く。
「答えないならそれでもいい。力づくで聞き出す!」
少年は叫ぶと同時、人影に向かってベッド越しに剣を突き出した。
しかし人影もまた動き出していた。予測していたように左半身を引いて剣をすり抜け、そのままベッドを乗り越えて向かってくる。薙がれるナイフの刃は決して大きな動作ではなかったが、その分だけ鋭く、的確にハーリットの首筋を狙っていた。
ハーリットは躊躇なく剣を手放すと、飛び退くように敵の刃から逃れた。もとよりさほど広くない室内では、剣を振り回すことなどできない。実際、彼はすぐに背後の壁にぶつかった。
その機を逃さず、人影が追撃を放ってくる。ハーリットには当然逃げ場などなかったが――逆に壁を蹴り、猛然と敵に向かって突進していった。捨て身の体当たりを躱そうとして、人影は身をひねる。と同時にハーリットも半身を開け、攻撃の意志などなかったように、そのまま影とすれ違った。
人影が意表を突かれて足を止め、振り返る頃には、ハーリットは既に目的を達していた。ベッドを乗り越えるのではなく、書き物机の方に飛びつき、敵を迎え撃つ態勢を整えている。
しかしその手に武器がないことを見て取ると、人影も臆することなく再び攻撃を仕掛けてきた。身を低くして、避けづらい、斜め下の角度から斬り上げてくる。一方で少年は、今度は避けるではなく、背後から何かを取り出して盾のように構えた。
それは、置いておいた皮の胸鎧だった。さして強度があるわけでもないが、コンパクトに急所を狙うだけの斬撃程度ならば受け止めることができる。
そしてその目論見どおりの通りの結果になると同時、少年は今度こそ攻撃に転じた。接近した敵に向かってさらに一歩を踏み込み、肉薄した状態で相手の腹部に掌を叩き込む。
どふっという鈍い音と共に、人影はその打突によってベッドの方へと弾き飛ばされた。大してスプリングが効いているわけでもないベッドが歪み、人影を跳ねさせる。少年は相手の落としたナイフを拾うと、ベッドに飛び込むようにしながらその刃を振り下ろした。
立場が逆転し、今度は人影の方が転がってベッドから脱出する。と同時に、人影は立ち上がる勢いで窓の方に飛び退いた。ハーリットは間髪入れず、手放されて放置されていた剣を掴むと、追いかけるようにそれを突き出す!
それは一瞬、浅い手応えを残したが――それだけだった。
部屋は二階にあるのだが、人影はそれでも窓から逃げたのだろう。そこにはもはや誰もいなくなっていた。ハーリットが窓に駆け寄り、見下ろしても、暗闇の中で動くのは黒い海に浮かぶ船だけだった。
「くそ、やるだけやってとんずらか」
ハーリットは無念に舌打ちし、海に向かって嘆息した。宿敵が自ずから飛び込んできたというのに、なんの情報も得られなかったというのは、口惜しくて堪らない。
しかし、同時にわかったこともある。
「この事件、意地でも解決しなきゃならないってことだな」
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