第5話

俺は子供部屋のベッドで横になっていた。時間は十八時を少し過ぎたあたりだ。本当なら、友香が帰って来てから俺が眠る時間になるまでの間、俺は一階にいる予定だった。それが最近の習慣だったからだ。でも、さすがに今日は一階に居続ける気分になれなかった。もう耐え切れなかったのだ。真由美と一緒の空間にいることが。それは耐え難い苦痛となって、俺の心を蝕んでいた。

 

今までは、真由美は俺を疑っている「かもしれない」「だろう」で済んでいたので、俺は一緒にいるのも耐え切れないほど苦痛ではなかった。

でも今は違う。

真由美は完全に俺を疑っているのだ。疑惑ではなく、確証を得たのだ。この違いは俺にとって、大きな事実だった。「この人に嫌われているのかなぁ」と感じるのと「この人は俺を嫌っている」というのは似ているようでまったく意味の持つ大きさが違うのと一緒だ。嫌われているかもしれない人と一緒にいるのは気まずいが、確実に嫌っているとわかっている人と一緒にいるのはもっと気まずい。もう真由美がどんなに愛想よく俺に接してきても、それを素直に受け止めることなどできないだろう。その笑顔の裏に、俺を蔑む気持ちがちらついて見えてしまうのだろう。だから俺は同じ空間にいることから逃げ出したのだ。逃げ出したところで現状が変わるわけではないが、もう耐え切れなかった。ダイニングは真由美のホームだった。そして、俺にとってはアウェーだった。相手のテリトリーで、呑気に茶などを啜ってられるかってんだ。

だから俺は、迷惑を承知で真由美にお願いしたのだ。具合が悪いから二階に運んで欲しい、と。嫌な顔をされるかと思ったが、真由美は意外にも、俺を心配する素振りを見せ、素直に俺を二階へと運んでくれた。だが俺は、真由美に抱き抱えられて二階へと移動する間、気づいてしまったのだ。


俺は無力な子供なのだと。


どんなに力を振り絞ったって、大人の真由美には敵いっこないんだと。今この場で、真由美は俺のことを階段から突き落とすことだってできる。ベッドで寝ている俺の首を絞めることだってできる。そして、俺はそんな真由美に対して、対抗する術がないということも自覚してしまった。自力で動けないから、逃げ出すことだってできない。そして、そのことも真由美だってわかっているのだ。相手に弱点がバレているというのは、思いのほか怖いことである。

俺は真由美の手の平で踊っている、非力な弱者だ。真由美の機嫌次第で、俺の安否はどうとでもなるということを今更ながら実感していた。俺はそのことに気づかずに、今まで散々な態度を取ってきた。そりゃあご機嫌取りもしてきたが、一善に対するそれとは明らかに贔屓をしてきた。俺は一善さえ味方につければそれでいいと思っていたのだ。だけど、今となってそれは大きな間違いだったのかもしれないと思うようになった。一緒にいる時間が長い真由美の方を、本来は最優先に懐柔するべきだったのかもしれない。

 そんな俺の心配をよそに、真由美は優しく俺をベッドまで運んでくれた。そして、母親の顔でちゃんと心配の言葉もかけてくれた。俺はその裏の、邪な思想を読み取ろうとしたが、真由美は俺を本気で心配しているようだった。だから、俺は自分が悪い方に考えすぎていたのかもしれないと思った。そうだ。よく考えれば、今の俺の体は、タケシのものなのだ。真由美にとっては愛する我が子の大事な体だ。下手に傷つけるわけがないじゃないか。そう考え直していると、俺の気にしすぎなんだなと、少し気持ちに余裕が出てきた。

 俺をベッドに寝かせた真由美は、部屋を出ていきながら「ずっと地図ばかり見ているから具合が悪くなるのよ」と嫌味とも取れる言葉を呟き出て行った。その言葉に、俺は若干気分を濁したが、その時は恐怖から解放された達成感の方が優っていたので、特に気に留めず受け流そうと思った。とりあえず安全地帯に戻れたことで、大きな安堵感に包まれていたのは確かだった。



 俺はベッドに入りながら真由美のことを考える。部屋に戻ってから一時間ぐらい経ったのだろうか。やっと俺の心に平常心が戻ってきていた。一善が帰ってくるまであと二時間ぐらいだろう。

 それにしても、真由美は俺をどうしたいのだろう。部屋に運んでくれたときは、別人のように優しかった。そりゃあ若干の嫌味は言われたけど、あの態度はまるで俺を疑っているような感じは受けなかったぞ。まあ、タケシとして体の心配はするけど、中身はタケシ以外の別人だと気づいてはいるんだろうな。


 俺はただ何もせずじっとしていることが嫌になって、カーナビの電源を入れた。そして地図を開く。こういう時は気晴らしが一番だ。俺は開いた地図を操作して、ドライブごっこを始めた。

その時不意に、真由美が俺に放った嫌味が頭の中でパッと再生された。


「ずっと地図ばかり見ているから具合が悪くなるのよ。」


 俺は心の中で、ウルセー、と呟きながら、首都高のドライブを始める。俺が何したって、真由美にバレなきゃいい話だ。具合が悪いからって寝てなきゃいけないわけじゃない。他の子供だって、親にバレないようにテレビを見たり、ゲームしてたりしてんだから。真由美は一階にいるんだから、ばれるはずがない。

 そんな事を考えながら、呑気に首都高に乗った時だった。俺は真由美の発言の大きな違和感に気づいたのだ。


「真由美はなんで俺が地図を見ていたことを知っているんだろう」かと。


 そりゃカーナビが俺の部屋にあることは真由美だって知っている。でも俺は真由美の前では地図を開いたことはなかったのだ。たまたま真由美が俺を迎えに来た時にカーナビを使用していたことはあったが、その時は例外なくテレビを見ていたし、真由美が俺からカーナビを取り上げようとした時も、カーナビはテレビを見るために使っていることを説明していた。

 たしかに俺は今日の午後、真由美の言う通りカーナビで地図を開いていた。でもその事を真由美は知らないはずだ。

俺は、下半身から徐々に上がってくる不快な感覚を感じた。恐怖心に駆られながら、部屋のドアを見る。もしかしたら、真由美はこのドアの隙間から、俺に気づかれないように覗いていたのかもしれないと思ったのだ。ドアに覗ける隙間があるかはわからない。でも無性にそんな気がしてならなかった。そして、今この瞬間も、覗いているかもしれないのだ。俺の頭に、足音を立てないように階段を登り、直立不動で子供部屋にいる俺を覗く真由美のイメージが妙なリアルさを持って再生されていた。

そんなことを考えているうちに、俺は今までにない恐怖を感じ始めていた。俺の中の真由美という存在が、ただの女から、強大な鬼へと変化していた。もう恐怖の対象になっていたのだ。そうだ、今の真由美は鬼になりつつある。愛する我が子を取り戻す為に、修羅となって俺に牙を剥こうとしているのだ。

俺の考えすぎなのかもしれないが、今の俺にはそうとしか思えなかった。俺がカーナビを使用しているから、真由美は地図と決めつけて言ったのかもしれないし、なんの他意もなく、ただ嫌味が言いたかっただけかもしれない。俺は何度も何度も、そのように納得付けようとしたが、静かに階段を登ってくる真由美のイメージが俺を納得させようとはしなかった。その姿はまさに鬼だった。

子供の頃、悪さをすると鬼に連れて行かれると、よく親に言われていた。その時にイメージした鬼と、俺が今イメージしている真由美は、恐ろしいほど酷似していた。悪さをすると鬼に連れて行かれる。それは本当の話だったのかもしれない。

 俺は眠ることすら怖かった。今寝たら、夢の中に鬼が出てきて、俺を連れ去ってしまいそうだったからだ。布団の中で身を屈めながら、俺はただただ、救世主が早く帰ってきますようにと願うことしかできなかった。



 ふと気が付くと、俺は暗闇の中にいた。そこは何もない、変哲な空間だった。一歩先さえ見えない闇の中で、俺は母親を探していた。なぜ母を探しているのかはわからない。ただ呆然と、俺は母を探して彷徨っていた。あまりに暗すぎて、伸ばした自分の手の先さえ見えない。暗いだけじゃなく、なんの物音もしていなかった。自分が歩く音さえ、まったく響いてこない。手探りの状態で、歩いても、歩いても、そこには何もない空間が広がっているばかりだった。

いったい俺は、どのくらい歩き続けたのだろう。気が付くと、自分の目の前に誰かがいる気配を感じた。まだ姿は見えないが、たしかに人の気配を感じる。それを確認した俺は、大きな安堵感に包まれた。この暗闇の世界に、俺以外の誰かが存在していたことが嬉しかったのだ。

俺はそのまま、その気配の方へ、ゆっくりと歩を進めた。微かに人影が見え始める。俺は歩く速度を緩めながら、その人影をじっくり観察した。体が見え始める。そして、顔の輪郭がうっすら浮かび上がってくる。まだはっきりとは見えないが、女性の姿だと、俺は思った。

その途端、俺は急速に足を止めた。

その女性は俺の存在に気づいていないのか、まったく動く素振りがない。俺は大きく唾を飲み込んだ。そして、また歩き出そうと右足を一歩踏み出したが、体がそれを拒否しているかのように、そのままの状態で動けなくなった。

俺は「母さん?」と呟いてみる。しかし、目の前にいる女性は無言のままだ。しだいに俺は不安になっていった。もしかしたら、この女性は俺が知っている人なんじゃないかと考え始めた。母ではない。昔の彼女でもない。辞めた職場の同僚でもない。近所の綺麗なお姉さんでもない。漠然と俺の頭に浮かんだ女性は、他ならぬ真由美だった。修羅の顔をした、一人の母親だった。

俺は呼吸が苦しくなるほどの動悸と、強い目眩を感じ始めた。足元がふらふらしてくる。後ろに下がろうと、俺はゆっくり踏み出した右足を下げようとした。しかし、足は動かない。俺は足元を見ようかと思ったが、今目の前にいる女性から目を背けてはいけないと強く思った。目を背けた瞬間、俺は殺されてしまうと意味もなく感じていたのだ。俺はその場から動くことができず、懸命に目の前の女性を見つめていた。見つめていたというよりは、視線を外さないように意識をし続けていたというべきだろう。

一分ぐらいの間があってからだった。目の前の女性はゆっくりと、こちらに近づいてきた。俺は手のひらを握り締め、力の限り目を瞑った。その顔を見てはいけないと頭の中で警鐘が鳴る。

やがて女性は、と息がかかるぐらい、俺の傍まで近づいていた。尚も俺は、必死に目を瞑り続けた。すると俺の頭に、温かい何かが、優しく触れた感覚がした。すぐに頭を撫でられたのだとわかった。俺は恐る恐る、ゆっくりと目を開いてみる。ぼんやりと女性の顔が見えてくる。その顔が見えた途端、俺はその人の名を呼ぼうと、口を開きかけた。

まさにその時だった。俺は強い力で後ろにいる誰かに引っ張られた。それは抵抗しようにもできないくらい強い力だった。

俺は後ろを振り向いた。

振り向いた途端、俺は声にすらなっていないような掠れた笑い声を漏らした。

視界の先には、俺の右肩らへんに、満面の笑みを浮かべる真由美の顔が浮かび上がっていた。

真由美は俺の体を激しく揺さぶってくる。けっして笑みは崩さずに、俺を見つめ続けたままで。

俺は力を振り絞って、やっとのことで大きな叫び声をあげた。


「おい!大丈夫か!?」


 まだ体は揺れていた。俺は必死に叫び声を上げながらできる限りの抵抗を続けていた。やがて、なんだか意識がハッキリとした感覚を覚え始める。

突然、目の前の世界に光が差した。その光に映し出された顔を見て、また俺は大きな声を上げた。そして、俺は自分をかばうかのように、両手で顔を覆い、小さい体を更に小さく縮こませた。


「どうしたんだ!どこか痛いのか!?」


 その聞き覚えのある声で、俺は正気を取り戻し始める。その声は、俺に安心感をもたらすに十分な声の持ち主だった。

 俺の目の前には、真由美ではなく、一善が立っていた。俺の両肩を強く握り、その顔には不安の色が溢れている。まだ頭が朦朧としていながらも、身の安全を感じた俺は、一気に体から力が抜けていくのを感じた。

 一善は俺の体を起こし、俺の額に湧き出していた汗を拳でぬぐった。額だけではなく、俺の体全体から洪水のように汗が噴き出していた。まるで風呂上がりに体を拭かず、そのまま服を着たみたいな気持ち悪さを感じた。


「どうしたんだ!?怖い夢でも見たのか!?」


 ただ事じゃない俺の様子に、一善は気が動転しているようだった。俺はその質問に答えることもせず、ただ黙って一善の顔を見つめていた。

俺はやっと、さっきまでの世界は夢だったんだと悟った。その途端、張り詰めていた糸が切れたみたいに、抑えていた感情が津波のように押し寄せてきた。


 気が付くと、俺は無意識に涙を流していた。泣きじゃくるわけじゃなく、ただ淡々と涙が溢れ出していたのだ。俺は自分の頬の涙を手で触った。


―殺されるかと思った。


いまだに夢という感じがしない。あれは現実だった。もの凄くリアルだった。


 何も言わない俺に業を煮やしたのか、一善はおもむろに俺を抱きしめてきた。「もう大丈夫だぞ。もう心配いらないぞ。」と励ましながら。その刹那、俺はまだ小さかった頃の自分に戻ってしまった。何が原因なのかわからない。子供扱いされるということが久しぶりだったからかもしれない。

大人になったら泣いてはいけないと、心のどこかで思っていた。どんなに辛くても泣くことは許されなかった。泣くのは子供の特権だと、心のどこかで戒めていたのだ。


 俺は大声でわんわん泣いた。恥ずかしさなど微塵も感じず、俺は子供に戻ったみたいにただひたすら泣きじゃくった。もう感情がコントロールできなかった。

気が付くと俺は「母さん…母さん…母さん…」と叫んでいた。さっきまでいた暗闇で、俺の頭を撫でてくれたのは母さんだった。俺は、俺を助けてくれる存在として、無意識に母さんに助けを求めていたのかもしれない。

 

 自分の腕の中で母を呼びながら泣き叫ぶ我が子を、一善パパはなにも言わず背中をさすりながら受け止めてくれた。俺は泣き止む気配などなく、その優しさの中に母の面影を感じていた。

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嗤う世界 智瀬 一散 @ichiru

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