第4話
退院してから二週間が過ぎた。こう言うと、日にちが経つのは早いなと思われてしまいそうだが、俺の中では人生で一番長い二週間だったといえよう。だが、俺を取り囲む環境は目まぐるしい変化を遂げていた。それは革命と言っていいほどの大きな変化だった。
相変わらず、平日の昼間は俺と真由美、二人だけの生活が続いていた。俺はなんとか真由美を懐柔しようと試行錯誤したが、やはり上手くいかず、モヤモヤとした気持ちを抱えていた。試行錯誤とあるが、特になにか行動をしたわけではない。無邪気に子供らしさをアピールしたり、ちょっと甘えてみたりしただけだ。一善には効果的だったこの攻撃も、真由美には思ったほど効果が得られていないようだった。それどころか、俺が子供アピールをする度に、真由美はどこか白けた笑いすらするようになっていった。もう何をやっても逆効果みたいだ。これはもう、放っておく以外なにもできない。
そういう訳で、俺は今、日中の大半を子供部屋で過ごしている。娯楽が何もない部屋で篭って何をやるんだと思われるだろうが、この部屋の環境変化こそ、俺の身に起きた、大きな革命なのだった。十日前、一善と風呂場で北斗の話で盛り上がった(訳でもないが)のが事の発端だった。その日の風呂上りに、一善が約束してくれた通り、俺は北斗の拳の漫画本をゲットし、それを読みあさることに時間を費やしてきた。なかなかの長編である。でも、いくら長編とはいえ、一日中何もしない人間が読めば、たった一日で読破することなどお茶の子さいさいだった。(北斗を読んでいる時に感じた、真由美の視線もラオウに勝るとも劣らぬ、なかなかの眼力だったが、俺にはケンシロウがついているのである。大丈夫なんである)
案の定、たった一日で全巻読破した俺は、また暇を持て余すこととなった。なんとか三日間、何回も北斗を読みなおすことで時間を潰したが、いくら面白い漫画とは言え、さすがに飽きてきた。そこで俺は、一善にその旨を相談したのだ。すると、一善は北斗の代わりに新しい単行本や小説、果ては車に取り付けていたポータブルのカーナビゲーションを俺の部屋に持ってきてくれたのだ。特に大きかったのがそのカーナビゲーションだった。
カーナビと一言でいっても、今のカーナビは多機能で、色んなことができることを知った。まずはテレビが見れる。そして内蔵されているHDに録音されている音楽が聴ける。でも一番、俺の興味をそそったのが、文字通りカーナビ機能だった。地図が見れる。地図に沿って、色々な情報がタッチ一つで表示される。滅多に家から出ることのない俺にとって、それは外出の変わりだった。一日に一回、真由美と外に散歩しに出かけてはいたが、毎回決まった場所ばっかりで正直飽きていた。何回か病院にも行ったりしたがそれも当然退屈なお出かけだった。
俺は地図を操作し、自分が現在いる地域の環境や、知宏が住む新潟県へのルートを熱心に研究していた。そんなことをしていると、時間はあっという間に過ぎた。しかも、このカーナビは家庭用電源に対応しているので、コンセントをさせば気の済むまで使うことができた。例えこの地図旅行に飽きたとしても、テレビも見れるし、面白い番組がやってなかったら本を読めばいい。俺の中の娯楽要素が突然、何倍にもなって降り注いできたのだ。まさに恵みの雨だった。
そして、俺が部屋に引きこもる後押しをしたのが、携帯トイレである。これも一善が買ってきてくれたものだ。さすがに大の方はむりだが、小程度だったらこれでことが足りた。
この大革命のおかげで、俺は気まずい思いをしてまで、ダイニングにいる必要がなくなったのである。まさに北斗様々である。
日中に俺が一階に降りるときは、朝、昼、そして夕方から夜寝るまでの三回だけになった。朝起きたら朝食を食べに下に降り、一善が会社に行くときに二階に運んでもらう。昼もまたご飯を食べる時に真由美に降ろしてもらい、日課の散歩をした後、二階に戻される。そして夕方は友香が帰ってきたあと、友香の遊び相手として、俺はまた一階に戻っていくのだ。トイレはなるべく、下に降りたときにやってしまうので、意外と携帯トイレを使うことはなかった。いわば、なにかあった時の保険である。あれば安心して部屋に篭っていられるので、真由美が買い物に行って出かけたとしても安心だった。
もうわかるかと思うが、俺は真由美の懐柔を半ば諦めているのだ。もう白旗である。当然、こんな俺の態度を真由美が面白いと思っているはずもなく、たまに嫌味ともとれることを言われたり、「カーナビなんて使い道ないでしょ」と、取り上げられそうになったりしたが、そんな時は「パパが用意してくれたものを使っちゃいけないの?」と言っちゃえば、真由美は何も言わなくなった。痛いところを突く、嫌な子供である。だが、俺を取り巻く娯楽環境が整ったおかげで、真由美とちょっとした冷戦状態に入ってしまったのは、大きな誤算ではあった。でもそれがさして 気にならないくらい今の俺は充実しているといえよう。
よくよく考えたら、タケシでの暮らしはそんなに悪くはなかった。小学生だから働かなくても生きていけるし、まだ体を安静にしてなきゃいけないので、あとしばらくは学校にも行かなくていい。寝て、起きて、飯食って、漫画読んでゴロゴロして、テレビを見て、また寝て、また飯を食べる。完全なるニート状態である。良く言えば、この環境に慣れてきたと言えるが、悪く言えば、危機感が無くなってきたとも言える。俺はなんだか、このままの生活が続くのも悪くないのかな、と漠然と思い始めていた。
そうだ、この世界は俺が望んでいた世界そのものじゃないか。もう一度、人生をリセットしたいと願う、自分の願望そのものじゃないか。これは喜んでいいことなのかもしれない。じゃあ知宏はどうしようか?
…そうだよな、俺が良くても、知宏の中に入っているタケシは嫌だろうな。このままみんなを騙して暮らしていても、いつ知宏がこの家にやってくるかわからない。
俺は数日前、電話という連絡手段を思いついた。なんで今まで気付かなかったんだろうと、俺は自分で自分を責めたのだが、その妙案は結局、実行することはなかった。実行しなかったというよりは、実行する術がなかったのだ。俺はスマートフォンを持っていたが、携帯のキャリアを変更したばかりだった。ナンバーポータビリティにしなかったので、携帯番号が変更になっていたのだ。そして俺はまだ、新しい自分の番号を記憶していなかった。少ない脳をフル稼働させて、誰かしらの番号を思い出そうとしたが、知り合いに電話するときは、結局アドレス帳からワンプッシュで発信していたので、誰ひとりの番号も記憶していなかった。親の携帯番号すら、俺は記憶していなかったのだ。家に固定電話を置いていなかったので、そちらに掛けるというのも無理だった。俺はガッカリした反面、ほんの少しだけホッとしたのを覚えている。真実を確かめるのが怖いと思ったのも理由の一つだが、俺はまだタケシと話す心の準備が出来ていなかったのだ。今となっては、番号を覚えていなくてよかったと思っている自分がいた。
でも俺が良くても、それをタケシは許さないだろう。やっぱズルは良くないよな、と自分に言い聞かせ、俺は一善が与えてくれた単行本を手に取った。
その単行本を読みすすめているうちに、時間はあっという間に過ぎていった。
夕方になり、真由美に呼ばれて俺は下に連れて行かれた。友香が帰ってきたのだろう。ここ最近は、幼稚園帰りの友香の遊び相手をするのが俺の日課になっている。俺が友香の相手をしている間、真由美は夕食の準備をするのだ。俺は友香の隣に腰を落とし、彼女の動向を覗った。
友香はおもちゃ箱から塗り絵の本を取り出すと、十二色のクレヨンを使って、慎重に色をつけ始めた。俺は何をするでもなく、塗り絵が完成していく様を、ただ黙って見つめていた。友香の方から喋りかけてくることもなく、塗り絵に集中している。俺はまともな相手をしなくてもいい安心感で、ダイニングを見渡した。このダイニングはキッチンも併設されている、いわばダイニングキッチンで、奥のほうはそのままキッチンになっている。キッチンのカウンターにはこちらに体を向けた真由美が、包丁を手に持って、何かを切っているのが見えた。子供がいる家庭では、このような間取りのダイニングキッチンが人気なのも頷ける。料理をしながら子供の様子を逐一チェックできることは、親にとってなにより安心できる環境だろう。真由美は時折、俺と友香の様子を伺っては、また下を向いて夕飯作りに専念していた。その際に、何回か俺と目があったが、彼女は笑いかけることもせず、さり気なく視線は外し、また調理に取り掛かっていた。このままの状態じゃいけないよなぁ、とさすがに心配になってきた。
「できた!」
そう大声で言うと、友香は完成した塗り絵を俺の前にヒラヒラと差し出して見せた。お世辞にも上手とは言えない完成度だが、幼稚園児の作品である。俺は「上手く出来たねー。上手だねー。」と簡潔に褒めてあげた。それを聞いた友香はニッコリ笑って、次の作品に取り掛かった。超ラクだ。楽チンだ。友香がたまたま手が掛からないだけかもしれないけど、俺って子守いけんじゃね?と意味のない自信が湧いてくる。そんな自信より、ほかにもっと持つべき自信があるのは置いといてくれ。
少し子守に自信がついた俺は、友香に話しかけてみようと思った。友香が塗っている塗り絵は日曜の朝にやっている美少女アニメのものだったので、俺はそれを話のネタに振ることにした。
「友香はどのキャラが好きなの?」
「リリちゃん!」
友香はそう言うと、青い頭の女の子を指さした。なるほど、これがリリちゃんか。このアニメはよく知らないけど、セーラームーンみたいなもんなんだろうか。
「リリちゃんのどこが好きなの?」
「…う~ん、…お姉ちゃんみたいだから。」
「友香、お姉ちゃんいないじゃん。」
「…いないけど、トモ、リリちゃんみたいなお姉ちゃんが欲しい。」
「そうなんだ、お兄ちゃんだけじゃ足りないのかな?」
「…う~ん、…だってお兄ちゃんいつ帰ってくるかわからないし。」
「なに言ってんだよ友香、お兄ちゃんならここにいるだろ?」
「…だって、ママがお兄ちゃんはお兄ちゃんじゃないって言ってた。ママ、泣いてたもん。だからトモは、お兄ちゃんが帰ってくるように神様にお願いしたの。」
俺は思わず、真由美の方を見た。どうやら真由美には今の会話は聞こえていなかったらしく、黙々と料理を続けていた。俺は友香になんて言ったらいいかわからなかった。子供は素直だ。親が言っていたことは、それが嘘でも子供の中では真実になってしまうことが多々ある。本当なら、真由美もこの話を俺にはして欲しくなかったはずだ。子供は口が軽い。だから俺も、子供だからといって友香に下手なことは言えないのだ。友香になにか話したら、それは真由美にまで伝わるということになる。いままで真由美に重点を置いて警戒していたけれど、友香も危険に足る人物として、俺の中にインプットされた。友香は真由美サイドだ。俺が懐柔できる相手じゃない。
それにしても、やはり真由美は俺を疑っていたか。しかも、その疑いようは俺が考えていた以上のものだった。俺を取り囲む包囲網が、想定していたよりも完成されていたことに、俺は挫傷にも近い、大きな焦りを感じていた。俺の味方は一善だけなんだと、改めて思った。でもこのままじゃ、いつ一善も真由美サイドにつくかわからない。思っていた以上に時間がなかった。俺は最悪、全てを打ち明けることも視野に入れようかと思った。でも、これは切り札だ。一善すら敵になったその時に切ればいい。まだ時ではない。まだいける。
そんなことを考えながら、俺は挑発的な視線で真由美を見つめた。とりあえず俺は戦うしかない、それでダメなら開き直るしかないのだ。もはや真由美に期待することは諦めよう。とりあえず、一善という名の命綱を死守することが現状における優先事項だった。
テレビもついていない静かなダイニングに、包丁で野菜を切る切断音だけが、静かに響いていた。
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