第3話

「今晩、一緒にお風呂入ろうか?」


 唐突に真由美は俺に言ってきた。退院してから四日が経ったが、俺は未だに風呂に入れないでいた。別に入っちゃいけないと言われているわけじゃない。ただ両足を骨折していて、ギブスをつけているので入りたくても入りづらいのだ。この四日間、俺は濡れたタオルで全身を拭き、髪は洗面所で一善か真由美に洗ってもらっていた。でも今は夏場だから、さすがに気持ちが悪くなってきた。ボディソープでおもいっきり体を洗いたいし、温かいお湯に浸かりたくもなる。でも俺は一人じゃ風呂には入れない体なので、誰かに頼まなくてはならない。見た目は子供でも、中身は三十歳のおっさんなのだ。誰かに頼んで風呂に入れてもらうということに大きな抵抗感があった。でもさすがに我慢の限界だった。

 一善に「風呂に入りたい」と伝えたのは、昨日の夜のことだ。そしたら一善は「じゃあ明日入るか!」と約束してくれたのだ。確かに風呂に入りたいと言ったのは俺だが、それはけっして真由美に言ったわけではない。でも俺は少し考えてしまった。見た目は八歳のウブな子供でも、中身は三十歳のおっさんである。真由美の容姿はドストライクとまではいかないが、結構イイ線をいっている。告られたらオッケーするレベルだ。体も細すぎず太すぎずで丁度いいし、人妻というのもなんか背徳感があって興奮するじゃないか。

そこまで考えて、俺は慌てて緩んだ口元をキュッと引き締めた。

ダメだぞ、俺!これは超えてはいけないラインだ。人妻とのお風呂タイムを純粋に楽しむだけならまだしも、いくら八歳のガキっつっても、勃つもんも勃つだろうし、傍から見たら近親相姦だぞ。禁断の世界なんだぞ。

 俺は妙な名残惜しさを感じながらも、真由美の提案を断った。目の前に置かれた国産和牛のステーキを、要らないと突っぱねて引っ込めたような心境だった。

 あぁ、霜降和牛が遠ざかっていく。


「でも、タケシがお風呂に入りたいって言ってたそうじゃない。」

「パパに入れてもらう約束したからいいの!」

「いつもはママと入ってたでしょ?なんでパパがいいの?」

「…っ、とりあえずパパと入るの!」

「…なんかタケシ、最近パパの方が好きなのね。」


 訝しげな顔をして、真由美は拗ねたようにプイっと顔を背けた。いや、俺だっておっさんと入るより、あなたと入りたいよ。でもしょうがないじゃないか。あなたの目の前にいるのは子供のタケシじゃなくて、タケシの皮をかぶったオオカミなんだぞ。まるで赤ずきんちゃんの世界だ。

 真由美の態度を見ていると、どうやらタケシはママっ子らしいことがわかった。確かに、一善は昼間、仕事で出ているし、帰ってくるのは早くても八時過ぎぐらいだった。ふれあう機会が母親の方が圧倒的に多いわけだから、ママっ子になって当然っちゃ、当然だろう。しかし真由美と毎日風呂に入るなんて、タケシもスケベなやつ…じゃなかった、羨ましいというか、なんというか。

 俺は真由美の機嫌を取ろうと思ったが、なにを言えばいいかわからなかったので、結局何も言えないでいた。俺はタケシになってから、ずっとこんな感じだった。一善や真由美たちから聞かれたことには答えるけど、自分からなにか言葉を発するということはあまりしていなかった。それは単純に、俺からなにか話題を振ったことによって、ボロが出るのを恐れていたからである。もしかしたら、チグハグなことを言ってしまう可能性だってあるし、今までのタケシとは決定的に違う価値観や言動をしてしまうかもしれない。ただでさえ、今の俺は腫れものに触る感じで扱われているのに、それを更に悪化させる行為にしかならない気がした。

現在は軽度の記憶喪失ということでなんとか納得して頂いてはいるが、さすがに長引けば、それなりの治療や検査をさせられることになるだろう。いずれにしても、このままの状態でのらりくらりで過ごすことは厳しかった。それは真由美たちもそうだろうし、俺の精神的にも大きな消耗となって現れていた。

 ただでさえ今の俺は、大きく神経をすり減らしている。完全に休息できる瞬間は眠っている間だけで、それ以外は常に大きなストレスに晒されていた。それは恐怖と隣り合わせの、助けを呼んで逃げ出したくなるほどのものだった。

                    

退院してきてから、初日を除いたこの三日間はまさに地獄だった。

俺が家に戻った翌日から、一善は仕事に行き始めた。友香は朝の八時過ぎに幼稚園に行き、夕方くらいまでは帰ってこない。日中、この家にいるは、真由美と、自由に動くことのできない俺だけだった。家といっても、俺にとっては他人の家も同然なわけで、他人の家に、その家の主である他人とずーっと一緒にいるのは思いのほか苦痛なことだった。本当なら子供部屋に篭って、自由に過ごせればと思っていたが、俺の体がそれを許さなかった。子供部屋は二階にある。でも俺は自力で階段を登ることがまだできないのだ。トイレは一階にしかないので、用を催すたび、真由美にお願いするしかない状態だった。それに子供部屋にはテレビもなければパソコンもない。暇をつぶせるアイテムは何一つなかった。もう寝るしかすることがないのである。わがままを言って、二階に篭ったとしてもだ。子供部屋に真由美までついてきたら、それは逆に俺を追い詰めることになるだろう。何もない狭い部屋で二人きりになってみろ、気まずさマックスだ。だったら気を紛らわせるテレビがあるダイニングにいた方が、まだマシかなと思っていた。

 上記の通り、知らない他人と空間を共有することはとても気まずいわけだが、一番の気まずさの原因は実は他にあるのである。それは気まずさを通り越して、大きな不安と恐怖を生み出す事象であった。


 単刀直入に言うと、真由美は俺を疑っている。これは不安からくる疑心ではなく、確信に近かった。


この三日間、真由美は常に俺のそばにいて、俺と行動を共にしている。そりゃたまに買い物に行ったり、友香の送り迎えとかもしているが、必要最低限のこと以外は、俺のそばから離れることはなかった。俺がテレビを見ている時、ご飯を食べている時、なにもせずボケーっとしている時、どんな時も真由美は俺に視線を向けていた。それは我が子可愛さからくる眼差しなどではなく、なにか疑心を含めたような懐疑的な視線だった。まるで、我が子が本当に我が子なのかどうか、俺の行動の一つ一つを、パズルのピースをはめていくかのように、静かにじっくりと考察していた。時には本物のタケシしか知りえない質問を俺に投げかけ、答えに戸惑う俺の反応を見ていた。躊躇しながらも、なにかしらの答えを俺が言うと、その答えに対して、真由美は否定も肯定もしなかった。あれ、そうだっけ?と疑問を投げかけることもあったが、大抵は俺が答えたところで、真由美は別の話題に切り替えてきた。それは一種の探偵心理に近かった。真由美は俺に本物のタケシという名の罠を仕掛け、その罠に獲物が掛かるのを手ぐすね引いて待っていた。自分のお腹を痛めて産んだ子だ。それが本物かどうか、母親にはすぐわかってしまうのだろう。


それとも俺の気にしすぎなのだろうか?今のところ、大きなボロをだした覚えもないし、真由美との間に、険悪な雰囲気になるような出来事もなかった。ただ俺は、自分から言葉を発していないだけだ。反応に困ったときは、とりあえず笑って誤魔化していたし、余計なことは何一つ言っていないと思う。だからまだ疑ってはいないはずだ。でも、真由美が俺を見る、あの視線の色は疑いを含んだモノに見えてしまう。どちらにせよ、まだ何も言ってこないということは、まだ疑っている段階ということだ。今は平静を装いながら、必死になって確証を探している最中なのだろう。いずれにしても時間の問題だった。

ただ、俺には若干の自信があった。普通に考えれば、他人の精神と肉体が入れ替わるなんてありえない現象だ。むしろ本当のことを俺が告白したところで誰も信じやしないだろう。つまり、俺が認めなければいいことだ。現状を見て、真由美か俺かどちらを信じるかと言ったら、十人中十人が俺を信じてくれるだろう。それぐらいありえない現象なのだ。俺だっていまだに信じられない。


真由美が俺を警戒するように、俺も真由美を警戒していた。互いに疑心暗鬼な二人が、日中の大半を同じ空間で過ごすのである。拷問以外のなにものでもない。だから俺は、友香が帰ってくる夕方が待ち遠しかった。そういう意味では、俺は友香と触れ合う理由が出来始めていた。真由美と話をしているより、友香と遊んでいたほうが明らかに気が楽だった。真由美も、友香が帰ってくると、探偵の仮面を脱ぎ捨てて、母親の顔になった。俺は心の中で友香を天使と崇めてすらいた。


 今日の一善は七時過ぎに帰宅した。いつもより少し早いご帰還だ。俺は嬉しくなって、車椅子を引いて玄関までお出迎えした。俺は明らかに、真由美よりも一善に懐いていた。理由は簡単だ。一善はまだ俺を疑っている素振りがまったくなかったのだ。この家の中で、唯一の味方が一善パパだったのである。


「おう!ただいまー。風呂か?ちょっと待っててな。」


 おかえりなさい、という俺を見て、一善は一瞬驚いてから、嬉しそうに目を細め、俺の頭をひと撫でした。仕事から疲れて帰ってきたら、可愛い我が子が玄関まで出迎えに来てくれたのだ。父親として、嬉しくないわけがないのだろう。今までのタケシはママっ子だったみたいだし、もしかしたら出迎えなんてことは今までやってなかったのかもしれない。

一善が帰ってきてからの時間は俺にとってフィーバータイムだった。一善がいるときは、真由美は俺に何も言わなくなるのだ。別に俺を無視するというわけではない。俺を疑うような言動をしなくなるというだけだ。それだけで、俺の心は大分軽くなる。張り詰めていた糸が、ゆっくりと緩んでいく感覚を久しぶりに味わう。

真由美は明らかに一善に気を使っている。一家の大黒柱だからなのか、それともまだ俺が気づいていないだけで、実際は亭主関白な家庭なのかは知らないが、それは俺にとって明るい材料だった。そして、真由美と同じように、俺も一善には全力で気を使っていた。一善の帰宅を出迎えたのは、味方が帰ってきた嬉しさもあったが、一番の理由はご機嫌取りである。俺はこの数日間で、一善さえ懐柔してしまえばこの家庭はなんとか攻略できるという事に気がついた。だから好かれる為に、必死で愛想を振りまいていた。

でもこれは一歩間違えたら一転して地獄に突き落とされる諸刃の剣だった。一善さえ懐柔すればいいということは、逆を言えば、一善一人に嫌われたらその時点でアウトなわけで、現状の俺にとっては一善は神よりも尊い存在に成り上がっていた。

とりあえず今のところはそれがうまくいっているように思う。一善も悪い気はしてなさそうだし、それどころかメチャクチャ嬉しそうだった。

もしかしたら、そんな俺の行動が、真由美の疑いの念を増長させている一番の原因なのかもしれない。


 家族四人で夕飯を食べた後、俺と一善はバスルームにいた。風呂に入るといっても、俺の両足はギブスが嵌められていて固定されているので、結局はシャワーで済ませるしかない。ギブスに水がかからないように、俺の体を支えながら、一善は優しく体を洗ってくれた。若い女にやってもらうのも恥ずかしいが、いい歳をしたおっさん二人が素っ裸になって、肌を密着させる様はこの世のものとは思えないくらい異様な構図だった。そうはいっても、傍から見たら親子で風呂に入る微笑ましい図にしか見えないので、その異様さを感じているのは俺一人なわけだが。

 一善は、友香が使っているであろう、子供専用のバスタブにお湯を張り、俺をその中に入れた。子供用のバスタブといっても、八歳の男が入るには小さすぎる代物で、俺の胴体部分がかろうじて浸かれるくらいの大きさだった。足を浸けることができないので、この状況では都合のいい大きさといえる。一善は普通のバスタブに浸かり、開放感から出る大きな吐息を吐いた。


「タケシは最近、パパっ子になったなぁ。」


 嬉しそうに一善が俺に問いかけてきた。まさか「俺の世界での救世主があなただから、ご機嫌とってるだけですよ」とは言えないので、うん!と無邪気を装って答えた。救世主は満足そうに、うん、うん、と頷いた。男同士で気取ることもないのでもの凄く気が楽だった。

やっぱ俺の中で、真由美は母親ではなく、女そのものだったし、友香に関しては異性とかそんな感情はもちろんなく、ただのうるさいガキだった。一善とは歳も同じだし、出会い方さえ正常だったら、友達になれたかもしれないとぼんやりと思った。そのぐらい、いい奴だった。

 俺はお湯に浸かりながら、水面をホワーッタ!と人差し指で付いた。救世主に対する最大級の敬意である。俺にとって一善はケンシロウだった。となると、俺はさしずめバットあたりが有力か。これはけっして一善を馬鹿にして言っているわけではない。たまにはふざけて冗談の一つや二つやりたくなってくるのだ。俺はただ気兼ねなく話ができる話し相手、もっと追求すれば友達がほしかった。そんな願望を一善に向けていたのだろう。というか、一善くらいしか向ける相手がいないわけなのだが…。

 そんな俺の奇っ怪な行動を見て、一善は、何やってんだ、と笑ってくれた。スベったらどうしようかと思ったけど、とりあえず反応があっただけ助かった。てか、北斗の拳の真似だって気づかなかったのか?


「ケンシロウの真似だよ、北斗の拳、知らない?」

「…いや、知ってるけど、お前こそよく知ってんなー。結構古い漫画だぞ。」


 俺は思わず、頭部が水に浸からないように支えていた背中を、バスタブの中で滑らせてしまった。危うく頭部が水没するところだった。慌てて一善が湯から出て、俺の体を抱き抱えて体制を直してくれた。体も危なかったけど、今の発言はちょっとまずかったなぁ。さっきの俺は素で三十の男に戻ってしまっていた。一善だって北斗の真似だってわかっていたんだろうが、八歳の子供が知るわけがないと思って、あえて反応しなかったのだ。


「…あ、いや、テレビで見たから…。」

「なんだ?今、テレビでアニメの再放送でもしてるのか?」

「ん、いいや、そうじゃなくて、特集みたいなのしてて。」

「おー、そうなんだ。パパ、漫画本持ってるぞ、見るか?」

「マジで!?」

「んじゃ、風呂上がったら貸してやるから、読んでみな。けっこう泣けるんだぞー。」


 一善は俺の犯した些細なミスをたいして気にも留めていない様子だった。マイナーなアニメの真似をしなくてよかったと思った反面、これからはもっと気をつけなくちゃと気を引き締めた。

それにしても、喜ぶべき展開になった。今まで娯楽がテレビしかなかった俺に、漫画という新たなアイテムが加わるのである。恥を忍んでケンシロウの物真似をした甲斐があったってもんだ。今だったら子供らしく、奇声を上げながら喜びの舞をやってもいい。


俺は有頂天な気分で、一善にケンシロウの物真似の催促をした。一善はオレが浸かっているバスタブの水面に、豪快に百烈拳をかました後、


「お前はもう、死んでいる。」


と、ドヤ顔をしながら、俺に人差し指を向けた。

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