第2話
「タケシ、久しぶりの家はどうだ?」
俺が家に入るなり、満面の笑みで一善は聞いてきた。俺が何も答えないでいると、「まだ病み上がりだから、よくわからないわよねー」と後ろから真由美がフォローを入れてくる。俺はただただ苦笑いを浮かべるしかなかった。
「そうだな、タケシも疲れてるだろうし、とりあえずベッドで休んでな。」
「うんうん、そうしたほうがいいよ。」
二人はそうやり取りすると、俺の意見も聞かず、一善が俺を抱っこして二階へと連行していった。連れて行かれた先は、子供部屋らしき小さな部屋だった。俺をベッドに寝かせると、一善は俺の頭をひと撫でしてから部屋を出て行った。一善が出て行ったのを確認してから、俺は露骨に大きなため息を吐いた。
これはまずい事になった、というのが率直な感想だ。まずいにはまずいが、なにがまずいのかわからないのが一番まずい。俺が今置かれている状況を説明するには、まず三週間前まで遡らなければならない。
俺は、高橋知宏、三十歳で独身。彼女もいないし(そもそも出会いすらない)先月まで働いてた工場から切られて無職だし、貯金だって雀の涙ほどしかない。いわゆるダメ人間だ。笑いたい奴は笑えばいい。むしろ笑ってくれ。
そんなダメ人間だったから、当然、未来への輝くような展望を望めるはずもなく、俺は自らの人生を終わりにしようと考えた。そして、実行した。本当なら、俺はもう死んでいるはずだった。ビルの八階から思いっきりダイブしたのだ。普通に考えれば助かるわけがない。それがだいたい三週間位前の話。
でも、俺は死ななかった。いや、今の状況を考えるに、そう判断するのは時期尚早かもしれない。俺はたぶん死んでいない。俺は今までの記憶を擁して、今も尚、考えることができている。五感全ての感覚も正常だし、動くことや食べることだってできる。ただ、自殺する前の自分と大きく変わってしまったことがある。それは、俺が「知宏」として存在しているわけではなく、「タケシ」という子供として、この世に存在しているという事実だった。
そう、俺は子供になってしまったのである。しかもまったく見知らぬ子供に、だ。
病院で現在の自分の姿を見て、軽く発狂しかけた時は大変だった。泣き叫ぶ俺を、医師と看護婦が押さえつけ、その後ろで真由美は涙を流しながら震えていた。(ちなみに、泣き叫んだとあるが、泣いたのは暴れたせいで体中が痛くて、自然に涙が出ただけだ)俺は酸素マスクをなんとか外し、「俺は知宏だ、タケシなんて名前じゃない!」とがむしゃらに説明(かなり暴言に近かったが)したが、当然わかってもらえるはずもなく、その場は鎮痛剤?か何かを打たれ、そのままオネンネしてしまったのだ。その次の日も、俺は目覚めたあと、かなり冷静に自分はタケシじゃないことを真由美や一善に説明したのだが、一善は苦笑いするばかりで信じてくれないし、真由美は泣きじゃくるばかりでわかってもらえなかった。結局、見かねた医師が「事故で頭を強く打った後遺症で、記憶が混乱しているのだと思います。」なんて結論づけて、俺の身の潔白は果たされずに今に至る。そのまま約二週間入院し、検査の結果も問題なしとのことで、俺は退院することができたのだ。
とりあえず俺は、周りに流されるまま、タケシとしての生活を送り、タケシを演じることにした。これは決して「知宏」を諦めたわけじゃない。この現状では「タケシ」として過ごすことが得策だと思ったからだ。あんまりしつこく言い過ぎると、下手したら精神病院送りになりかねない。それに今の俺は子供だ。なんの力も持たず、一人では生活ができない非力な存在なのだ。ここはとりあえずなあなあで過ごして、周りの環境をじっくり観察してから動いたほうが色々と安全な気がした。そして、機会を見てなにかしらの行動を起こすつもりだった。
俺は、ベッドに横たわったまま、見知らぬ子供部屋を見渡した。六畳の洋室で、床のフローリングには新幹線のキャラクターが描かれた絨毯が敷いてある。テレビはなく、あるのは、今寝ているベッドと、学習机、そしてタンスだった。
学習机も、俺が子供の頃に使っていた丈夫だが野暮ったい大きな学習机ではなくて、黒を貴重にしたシンプルでお洒落な机だ。タンスの上に置かれているランドセルも綺麗なスカイブルーで、お洒落なんだか奇抜なんだかよくわからない色だった。明らかに、俺が小学生だった二十年前(!!)とは、時代が変わったんだなぁとしみじみ思った。壁に掛かっているカレンダーに目をやると、俺が自殺してから約三週間が経っていた。西暦も同じだし、月も同じだ。まだよくわからないが、世界情勢も前と変わらないように思える。やっぱ現実なんだよな、この世界は。
部屋を見渡しても、たいした発見がないことに気づいた俺は、布団を頭まで被り全ての視界を遮った。これからどうしようか。当面は、タケシとしての生活を送るといっても、何事もなく乗り切れるんだろうか。部分的な記憶喪失という便利な設定をバカな医師が施してくれたけど、その無理くりな設定で、いつまでもつのだろうか。そもそも、だ。俺はタケシになった。では、知宏は現在なにをやっているのだろう。タケシとかいうガキが俺の中に入っているのだろうか?
そこまで考えると、急に背中がゾクッとした。えも言われぬ不安感がこみ上げてくる。俺は自制心の効く大人だからいいものの、八歳のガキは何をやらかすかわかったもんじゃない。俺の体にタケシが宿っているのなら、それは大問題だ。俺は無職だったから、仕事上での問題はないが、友人や知り合いに対して、とんでもないことをやらかす危険がある。考えうる中で一番やばいことは、俺が車を持っているということだ。当然、免許証もあるわけで、つまりそれはどういうことになるかというと、八歳のガキが合法で車を運転できるということになる。子供、しかも男だ、車を運転したくないわけがない。まるで遊園地のゴーカートの感覚でサラッとレッツ・ゴーしちゃうだろう。そこで人なんか轢いたりしてみろ、とんでもないことになる。責任を負うのは、この俺なんだぞ。
あぁ、どうして自殺するときにもっと生前整理をきちんとしなかったんだろう。俺が自殺する前にしたことと言えば、遺書を書いたことと、銀行に預けていた金を全て引き出したこと(そのお金は遺書と一緒に封筒に入れた)、あとは…、パソコンデータは初期状態に戻したし、見られたら恥ずかしい雑誌や書類なども処分した。でも車を廃車にしたり手放したりはしなかった。せめて車の鍵を捨てておけば、多少の時間稼ぎになったかもしれない。でもいまさらそんなこと思ってもしかたない。後悔先に立たず、だ。だからってこのまま何も行動しないでいいものだろうか。
まるで暗闇に置き去りにされた子供のように、俺は極度の緊張と、得体の知れない恐怖に囲まれていた。同じ日本なのに、言葉も常識も通用するのに、ただ知っている人が誰もいないというだけで、こんなにも世界は表情を変える。一人旅で感じる開放感や、センチメンタルな気持ちとは、似ているようで全くの別物だった。俺は今すぐにでも知宏に会いに行きたいと思った。会って、確かめたい。でもそれは、すぐには叶わない願望だった。何故なら、今、俺がタケシとして暮らしている土地は、知宏が暮らしている新潟県から遠く離れたところにある静岡県だった。俺が大人の容姿だったら帰れなくもない距離だが、今の俺は子供である。お金だって持ってないし、当然だが稼ぐこともできない。さすがに一善たちに脈略もなく、新潟に連れてって、なんて言えるはずもなかった。
それに、俺はまだ病み上がりだ。両足は骨折していて、当分は車椅子生活を余儀なくされる。自力で遠出など到底不可能だった。
いや、待てよ。そもそも俺はビルの八階から飛び降りたのだ。ということは、知宏の体も五体満足の状態じゃないはずだ。子供のタケシの体と違って、怪我の治りは時間がかかるだろう。あいつも当分は自由に動けない。怪我の程度がわからないから、なんとも言えないが、さすがに当分はベッドでの生活を余儀なくされるはず。
大丈夫だ、時間が稼げる。
俺は心の中で小さくガッツポーズをした。どうせなら子供らしく思いっきり暴れて、泣き叫んでくれよ。精神病院でもなんでもいいから、長く病院に隔離されれてくれ。頼むよ、タケシ君。
まぁ、なんとかなるよな…。俺は楽観的に考えようと、自己暗示をかけるように「大丈夫、なんとかなる」と繰り返し呟いた。でも、いくら思ってもやっぱり不安感は拭いきれない。こんなことになって初めて、俺は知宏として生活していた頃に戻りたいと切に願っている自分に気づいた。知宏としての人生が嫌になって自殺したはずなのに。死ねなかったときは後悔すら感じていたのに。
俺はたまらず吹き出してしまった。なんて大きな矛盾なのだろう。知宏は俺が殺したんだから、もう戻りたいなんて思う必要はないはずだ。あんなダメダメな人生は懲り懲りだったんだから。
俺は、お腹が痛くなるくらい笑い転げ、そのまま疲れ果てて眠ってしまった。このまま目が覚め無ければいいのに、と、どこか他人事のように思っていた。
「おい、夕飯だぞ!そろそろ起きろ。」
聞きなれない声で眠りの世界から呼び戻された。
目を開けると、覚えのない顔が目の前にあった。咄嗟のことで驚きと戸惑いで瞬時に体がビクッと反応した。どなたですか?と言いかけて、あわててその疑問を飲み込む。危ない、危ない。
なに驚いてるんだよ、と一善は笑いながら言い、俺の体をゆっくりと抱き抱えた。そうだ、俺はタケシなんだった。眠っちゃってて、頭の中で状況がリセットされてしまっていた。
一善は俺を抱き抱えたまま、一回にあるダイニングに入っていった。ダイニングには真由美と、まだ幼稚園児の友香がいた。二人とも椅子に座った状態で、入ってきた一善と俺を待ち構えていたように見つめていた。テーブルにはたくさんのご馳走が並べられている。思わず、今日はクリスマスか?と勘違いしてしまいそうなほど豪華な食卓だ。一善は俺を椅子に座らせると、自らも椅子に腰掛けた。俺から見て右手には一善、正面には真由美、左手には友香が座っていて、家族四人が向かい合うように食卓を囲っている。あまりの気まずさに、自然と苦笑いが溢れた。
「それじゃあ、タケシの退院祝いということで…ねえ、あなたからなんか始まりの言葉かなんか言ってよ!」
「…そうだな。タケシ!退院おめでとう!早く元気になれよ!家族みんなで協力するから、困ったことあったらなんでも言えよ!」
一善と真由美が微笑みながら、俺に視線をやる。俺はぎこちなく頷き、間を置いてから微笑を付け加えた。
じゃー、とりあえず乾杯しますか、と一善が俺のコップにコーラを注いでくれた。俺はそのコップを持ち、ぎこちなく乾杯した。
「今日はタケシの好物ばかりでしょ?いっぱい食べてね。」
真由美が得意気に言ってきた。俺は目の前の食事に目をやる。大きなプレートにハンバーグとエビフライ、そしてメインのオムライスが盛り付けられていた。オムライスにはケチャップで「オメデトウ」と書かれていて、その文字の周りはハートで囲われていた。テーブル中央にあるプレートには、鶏の唐揚げや、サラダ、ミートボールなどがある。そのメニューを見て、やっぱどこの子供も、こういうもんが好きなんだなぁとしみじみ思った。どの料理も美味しそうで、盛りつけもお店で出てくる料理みたいにお洒落だった。
俺が何も答えないでいると、真由美が何やら悲しそうな顔をしているのに気がついた。こういう時はどう反応すればいいのだろう。「やったー!」と言えばいいか?それとも男の子らしく「ヴオォォォォ!」などと奇声を上げながら、喜びの舞でも踊ったりしたほうがいいのだろうか?いや、さすがにそれはできない。とにかく、なにか言わなくちゃと焦った俺は、苦し紛れに「わーい!」と明るめに言ってみた。言ってみたのはいいものの、強烈な恥ずかしさと居心地の悪さで、思わず下を向いて俯いてしまった。
今のは結構な棒読みっぽかったぞ。大丈夫か?怪しまれなかったか?明るく言ってみたものの、若干の羞恥な感情が篭ったニュアンスになってしまったし、料理の感想を言うまでにそれなりに間が空いてしまった。俺は恐る恐る真由美の顔を見る。真由美は一善と目を合わせ、明らかに困惑しているようだった。やっぱ、今のはまずかったよなぁ…。なんとか雰囲気を変えないと。そんなことを思っていると、「もう食べていいの?」と誰に問いかけるわけでもなく、友香が可愛らしい声で呟いた。慌てて一善が、おう!じゃー、いただきまーす!と食事の号令を出すと、友香はニッコリ笑って、豪快にフォークをハンバーグに突き刺した。
…助かったぁ、と胸の中で安堵の息を吐く。子供特有の、空気を読まない無邪気さに助けられた。俺も友香を真似て、ハンバーグから箸を付けた。
てか、こんな量で足りるか?俺は料理の乗ったプレートを眺めながら考える。八歳の食事としてはそれなりの量なんだろうが、俺から見たらとても腹一杯になれる量には見えなかった。さすがにおかわりとかしたくないし、どうしたものか。そういえば、ゆっくり噛んで食べると満腹感が増すってテレビで言ってたな。ゆっくり噛んで食べてみるか。
「すごーい!タケシ、お箸の使い方が上手になってる!」
俺がハンバーグを箸で小さく切り分け、チマチマ上品に食べてると、それを見た真由美が感嘆の声を上げた。上手ってか、普通だろ?と思った矢先、またまずっちゃった、と冷や汗をかいた。そうだ、俺は八歳の子供なのだ。八歳の子供、ましてや男の子だ。箸の使い方をもう少し汚くするべきだった。…そうは言っても、箸の汚い使い方ってどうすればいいのか咄嗟にはわからなかった。慣れって怖い。俺は思わず苦笑いを浮かべた。そんな俺を見て、真由美はまた一善の顔を見る。その顔は明らかに、一善に対して、助け舟を求めている顔だった。なにか言いたいけど、言い出せないといった感じだ。そんな真由美の救助要請に気づいた一善は、俺を一瞥した後、「そりゃ箸だって、使ってりゃそのうち上手くなるだろ。」とやんわりと、でも真由美を牽制するかのように言い放った。真由美は渋々納得したように、自分の食事を食べ始めた。俺は、そのまま食事を続けていいのかわからず、箸を持ったまま、呆然とハンバーグを眺める。もう気が張り詰めすぎて、食欲など遠に失せていた。かと言って残したら残したで、また何かしら勘ぐられそうだ。汚い箸の使い方ってどうだっけ、と考えながら、俺は箸を持つ手を試行錯誤する。でも今更、汚い使い方をしたところで、もう遅いのだ。逆に怪しまれてしまう。
俺が手元で箸をカチ、カチと空振りさせているのを見て、一善は、気にすんな!飯食えよ、と優しく言った。真由美は気まずそうに一善と俺の顔を交互に見ている。俺のせいで夫婦仲が少し悪くなってしまったのかなと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
もうわかっているかと思うが、一善はタケシの親父だ。短髪の黒髪で、清潔感がある顔立ちをしている。パッと見、営業マンっぽいが、なんの仕事をしているかは今のところ不明だ。入院している時に、真由美のカバンから保険証を盗み見たら、なんと俺と同い歳ということが判明した。同じ三十歳なのに、俺と一善パパはまったく違う人生を送っている。そりゃ違う人間なのだから当たり前なんだけど、あまりの落差に俺は大きな戸惑いを感じていた。料理上手の嫁さんを持って、子供を二人ももうけている。家の中の雰囲気から、多分、仲のいい家族なんだろう。俺にはない、温かい家庭を築き、それを守っている“大人”だった。
この家だって、若干の木材の匂いと汚れ一つない室内を見るからに、おそらく新築なのだろう。周りにも似たような外観の家がいやに多かったので、ニュータウンの分譲住宅だろうか。ごく一般的な中流家庭といった感じだったが、とても幸せそうに見えた。
最初の頃は「一善って、一日一善かよ!」と彼の名前を心の中で茶化したりしていたが、今となってはとても正当な名前に思える。俺も一日に一回くらい善な行いをしていたら、彼のような人生を送れたのだろうかとボンヤリと思った。俺は思わず奥歯を噛み締める。
俺は今まで、結婚願望がない人間だと思っていた。一生独身でも寂しくないし、むしろ気楽でいいとさえ思っていた。世間ではよく、独身男性を独身「貴族」と言っているのを耳にする。自分で稼いだお金は許す限り、外食やキャバクラなどの女遊びに思う存分、浪費できる。ちょっとした節約はするけれど、やはり既婚男性に比べたら“我慢する”という機会はそんなにはないように思う。別に朝帰りしようが問題なんてないし、自分の趣味などにも没頭できる。お金も時間も体力も、すべて自分のために使えるのだ。それに比べて、結婚しちゃうと、稼いだ金は嫁に取られ、その中で家計をやりくりしてもらい、必要最低限のお小遣いしか貰えないイメージが大きいし、実際、結婚した友人は月のお小遣いはだいたい二万円ぽっちだと嘆いていた。一生懸命働いて、辛い思いもいっぱいして、いろんな事を我慢してお金を稼いでも、月に二万しか使えないのだ。その二万円も全てが好きなことに使えるわけではなく、そのお金の中から交際費やら食事代やらを出さねばならないわけで、実際に好きに使えるお金がいくら残るかと考えると、背中がぞわっと寒くなる。結婚は人生の墓場という、一部の仮説を俺は信じていた。だからこそ、俺は結婚なんてしなくていいと思っていたのだ。
でもどうだ。墓場に入ったはずの一善が、とても輝いて見えるのはなぜだろう。とても墓場の中とは思えないキラキラした世界がそこにはあった。
俺は、心の中で「羨ましい」と呟きかけたが、慌ててそれを飲み込む。俺はその気持ちに気づかないように必死に蓋をした。認めてしまったら、今まで自分が築き上げ、必死になって守ってきた何かが、ガラガラと音をたてて崩れてしまいそうで怖かった。でも果たして、その築き上げてきた何かとは、これからも守る価値があるものなのだろうか?それは孤独感なのだろうか、それとも自分の人生を正当化するための言い訳なのだろうか。よくわからなかったが、俺は深く追求するのを躊躇した。その何かに気づいてしまったら、途端に俺という存在に絶望してしまいそうだったからだ。
もしかしたら今まで俺が必死に守ってきたものは「俺」という存在意義そのものだったのかもしれない。
俺は無性に人生をリセットしたい衝動に駆られた。何もかも忘れて、赤ん坊の状態からやり直したい。そして、一善のように暖かい家庭を築いてみたい。それはボンヤリした願望ではなく、ハッキリとした輪郭を持った明確な理想だった。俺はどこで人生のルートを誤ったのだろう。男は結婚して一人前という時代は、もうとっくに過ぎた(それでもまだ根強いが)が、それでも世の中の大半の男は結婚している。もちろん離婚している人も多いが、それでも俺の周りの同世代は半数以上が既婚者だ。結婚経験者を含めればさらに多くなる。だから俺だって、結婚して、子供を持って、家を構える人生があったはずなのだ。
でも俺はそうはならなかった。まだ三十歳、これからいくらでも修正が効くよと言われそうだが、俺にとっては、しっちゃかめっちゃかな状態になったルービックキューブを元の状態に戻す事くらいに不可能なことに感じた。不可能というよりは、投げやりな気持ちだった。人の一生は人生ゲームとは大きく異なる。特定のコマで停止して結婚したり、子供が出来たり、家を買ったり、転職したりを必ずできるわけじゃない。もう「人生ゲーム」なんて名前は辞めて、「人生」の前に「理想の」と、つけるべきだ。まぁ、現実でも、全てできる人もいれば、全てではないが何個かできる人もいるだろう。そして当然、俺みたいに全てできない人種も存在する。そう考えると、本当に何も持っていないんだな、俺って。
そんな事を考えながら、俺はよく噛んで食事を完食した。よく噛んで食べたおかげか、それとも子供の体で胃が小さいからなのか、予想以上に満腹になった。久々に顔を上げ、周りの見渡すと、みんなは既に食べ終わっていた。食い盛りの男の子なのに、食べ終わるのは俺が一番遅かったようだ。
「じゃあ、ケーキ切ろうか?」
俺が食べ終わるのを待っていたらしく、空になった俺のプレートを見た真由美は席を立って冷蔵庫からまん丸のホールケーキを持ってきた。生クリームが沢山かかった苺のケーキだ。まさかこれを四等分するんじゃないだろうな?俺はゲンナリした気分で運ばれてきたケーキを眺める。
その嫌な予感は的中し、真由美はケーキを四等分に切った。まじかよ、と俺は心の中で悪態をつく。俺は甘いのは食べれなくはないが、あまり好きではないのだ。真由美は切り分けたケーキを皿に乗せ、どうぞ、と微笑みながら俺の前にゆっくりと置いた。その時の笑顔があまりに慈愛に満ちていたので、俺も自然と笑顔が漏れ、「やったー!」と柄にもなく声を上げた。それを見た真由美は更に顔をクシャクシャにして笑ってみせた。
真由美はタケシの母親だ。初めて見たとき、「地味な女」と評したが、その意見を撤回しないとならない。病院で見たときはスッピンかと思うくらいメイクをしている感がなかったが、今日はきちんとメイクもしているし、服装も花柄でフリルが付いたワンピースを来ていてとても華やかな女性に見える。彼女はもう二十八歳だが、フリルのついた服を着てもまったく違和感がないどころか、幼い容姿も手伝って、とても似合っていた。メイクも濃すぎず、薄すぎずで上品な感じだ。初めて会ったときは後ろで髪を結っていたが、今はダークブラウンの髪を結ばずに下ろしていた。ストレートできれいな髪だった。
真由美は傍から見ても、とてもよい母親なのだろうが、実際、とてもよくできた母親だと思う。何事も子供第一で考えているのが伝わって来るし、俺が入院している間は、ほぼ付きっきりだった。同じ服を連続で着ていた日もあったし、俺が不安そうな顔をしていたら落ち着くまで手を握ってくれた。おまけに料理はすごく美味しかったし、食器のセンスもシンプルで上品だ。俺の部屋や、リビングもきちんと片付けられていて、リビングの窓辺には、彼女干したであろう洗濯物がエアコンの風でゆらゆら揺れている。俺は漠然と、結婚するならこんな人がいいなぁと考えていた。
「友香、ケーキ、とりあえずママと半分コしようか?」
「やだ!トモ、全部食べれるもん!」
そう言うと、友香は四分割にされたケーキを更に半分に切ろうとする真由美を制して、自らの手元に四分割されたケーキの皿を引っ張っていった。おいおい、幼稚園児のガキには大きすぎるだろうとついつい口に出してしまいたくなった。でもまぁ、子供の頃はそんなもんだよな、と微笑ましい気持ちになってくる。俺だって子供の頃、レストランに行った時なんかは、食べ切れやしない量のメニューを頼んで、親に「そんな量食べいれるの?辞めて他のにしなさい!」って言われてたのを思い出した。食べきれるよ!と言ったけど、結局、毎回残していたっけ。そして俺の食べ残しを、毎回親父が文句言いながら食ってたな。
友香はタケシの妹だ。詳しい年齢はわからないが、まだ幼稚園児らしい。俺が入院中は、真由美の実家に預けられていたそうだ。俺には姉が居るが、妹はおろか、弟すらいない。だから俺は、自分より下の兄弟の扱い方がイマイチわからなかった。血が繋がっていないから、特にかわいいとも思わないし、お兄ちゃんだから妹を守る!なんて感情ももちろんなかった。俺にはただのうるさいガキにしか思えない。
口の周りをクリームだらけにして、友香はケーキを美味しそうに頬張っていた。フォークで荒らされたケーキは、既に原型を留めていなかった。汚ったねーと思いながら、俺は友香から目を背ける。真由美はそんな友香を微笑ましい目線で見つめていた。そんな真由美を見て、親って、やっぱ親なんだな、と当たり前のことを思った。やっぱ親になると、子供が何してもかわいいもんなのかな。自分の子供だからなのか、はたまた子供が出来て価値観が変わったからなのかわからないけど。あぁ、もとから子供好きってパターンもあるか。
我が子を愛おしい目で見つめている真由美を、更に一善が微笑ましく見守っていた。そんな幸せ家庭を、俺が一線引いた目で冷静に眺めている。ものすごい疎外感があった。俺がどんなに取り繕っても、この愛の輪には到底入り込めるはずがない。愛は地球を救うという偽善的な言葉を、今の俺だったら信じてしまいそうだった。愛がものすっごい輝いている。それは太陽みたに家族を照らし、たくさんのエネルギーを生み出している。俺は、眩しすぎて目眩すら感じた。
タケシが事故にあった時は、きっと大変だったんだろうなぁと俺は思った。それはきっと太陽がこの世から姿を消したぐらいの修羅場だったに違いない。
タケシは学校帰りに事故にあったそうだ。居眠り運転のトラックが下校中の小学生の列に突進して、数名の生徒が軽い怪我を負ったらしい。タケシ以外の子は咄嗟に避けて、かすり傷や軽い打撲程度で済んだらしいのだが、列の中心にいたタケシは逃げるのが遅れ、トラックに文字通り跳ね飛ばされたとのことだった。真由美や一善からは、事故についての詳細な情報は教えては貰えなかったが(そもそもしつこく聞く気になれなかった)、担当の医師と真由美の話を聞いていたら、だいたいの状況は飲み込めた。タケシはトラックに跳ね飛ばされた時に両足を骨折し、跳ね飛ばされた先で、アスファルトに頭を強く打って昏睡状態になったそうだ。医師の話だと、かなり危ない状態だったらしく、今の状態まで回復したのは奇跡的とのことだった。
だからなんだろうか?
ビルの屋上から飛び降り、生死を彷徨った俺と、同じ時期にトラックに跳ねられ、生死を彷徨ったタケシ。この世とあの世の狭間で彷徨っていた二人の精神が、何かの行き違いで入れ替わってしまったのだろうか。俺は間違ってタケシの肉体に宿り、タケシもまた、間違って俺の肉体に宿った。仮に地元に戻って、知宏に会えたとしても、俺とタケシは互いに元に戻ることができるのだろうか?現代の科学じゃ説明もできない現象だ。病院に行っても元に戻す手段はないだろう。会ったところで、入れ替わりの事実を確認する意外、他にできることはない気がしてならなかった。それでも俺は、知宏に宿っているタケシに会いたかった。例え問題が解決できなくても会いたかった。それは義務に近いような、強制感のある願いだった。多分、俺は同じ環境の仲間が欲しいのだろう。この摩訶不思議な体験をしている、同じ境遇の異質な仲間が。この心を蝕んでいる孤独感は、周りが知らない土地や人間ばかりだからというわけではなかった。やはり、一般的な人間と自分とでは同じようでまったく違う生き物にしか思えなかったのだ。遠く離れた土地で、タケシも同じような不安を感じているのだろうか。そう思うと、ほんの少しだけ、気持ちが楽になった。
そうだ、悩んでいるのは俺一人じゃないのだ。少なくとも同じ悩みを抱えている人が、一人はいるのだ。それは大きな希望だった。でも、俺は大人だからまだいいが、タケシは大丈夫なんだろうか。まだ八歳だ。親にだって会いたいだろうし、突然の環境変化に順応できるはずもないだろう。俺以上に不安な気持ちを抱えて、毎日を過ごしているんだろうな。
俺は、タケシが少しぐらい俺の体で悪さをしても、許してあげようと心に誓った。せめて殺人だけはしませんようにと神様に願いながら。
案の定、友香はケーキを食べきることができず、半分以上残してグズっていた。だから言ったでしょ、と唇を尖らせながら真由美が言った。
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