嗤う世界

智瀬 一散

第1話

三十歳。職無し、妻子無し、予定も無し。

いままで大きな犯罪を犯したことはないが、人様の役に立てるような事もしたこともなかった。

でも、これでもう終わり。もういいんだ。

そう心の中で呟くと、俺は八階建てビルの屋上から身を投げたー。






嗤う世界






 目が覚めると、白い天井だった。

 朦朧とする頭でその白い天井を眺める。なにが起きたんだっけ。状況を把握するために、俺は辺りを見渡そうとした。すると、途端に寝違えた痛みを百倍ぐらいにした様な鈍痛が首元を襲った。痛い。痛すぎて頭が動かせない。せり上がってきた涙を堪えながら、俺は目ん玉を動かして辺りを覗った。


 白い天井と、白い壁。右側に窓がある。頭上右上には点滴らしきチューブが見え、俺は白い布団に寝かされていた。


ーここは病院か?


ーそうか、病院か。


 じゃあ、俺は助かったのだ。いや、助かったのではない、死にきれなかったのだ。生きてしまったのだ。

 そこまで理解して、俺は大きく息を吐いた。安堵の息ではない。大きな溜息だった。自殺したのに中途半端に生きながらえて、これからどうすればいいのだろうか?迷惑をかけるとしたら親と親戚ぐらい…、あ、あと自殺現場に使用したビルのオーナーとかにも謝罪しなきゃならないんだろうか。

 面倒くさいことから逃げるために死のうと思ったのに、余計面倒くさいことになってしまった。もう何も考えたくない。

 そのままふて寝でもしようかと、俺は再び目を瞑った。もうなるようになるしかない。とりあえず迷惑かけた人たちには謝ればいいんだろ。それでいいんだろ。


 どうやら病室には誰もいないらしく、物音ひとつ聞こえてこない。でも外から微かに鳥のさえずりが漏れていた。とりあえず耳は聞こえる。そして目も見える。手は動かせるだろうか?俺は瞑っていた目を開いて、手を動かしてみた。動かなかったらどうしようかと思ったが、ちゃんと手は持ち上がり、布団にテントを張った。よかった。そのまま足を動かしてみたが、足に力を入れた途端、激痛が体中を走ったのでとりあえず放置した。でも感覚はちゃんとある。口元には酸素マスクを付けられているようで、ちょっと息苦しかった。

 いまは誰もいないけど、誰かきたらなんて言えばいいのだろう。とりあえず謝るしかないか。そして泣いてみればいいか。子供のように泣きじゃくればみんな許してくれるだろうか。いや、待てよ。許すもなにも、俺は誰かを殺したわけじゃないし、昔ニュースでやってた事件みたいに無差別に人を襲ったわけでもない。ただ自殺をしただけだ。自分自身を殺そうとしただけだ。これは罪になるのだろうか。たった一度の人生というけれど、たった一度の人生だからこそ、自分が死ぬタイミングを自分で決めるのは悪いことじゃないと思う。人生の幕引きぐらい自分自身で決めたい。だってこのまま生きていてなんになるのか。そりゃ生きているのが楽しいって人もいるだろうが、当たり前だけどそんな人ばっかじゃない。

 でも俺は、生きているのが辛いかと言うと、そういうわけでもなかった。ただ生きていく意味がまったく見いだせなかったのだ。このまま年老いて、もらえるかわからない年金に期待して、だんだん体にガタが出て思うように動けなくなって、気づいたら親も死んで、家族と呼べる人が誰ひとりいなくなってしまう。このまま生きて「歳をとる」という当たり前のことが、俺はとても怖いと感じていた。気づけば俺は三十歳になっていた。高校を卒業した十八の頃に感じた「やっと大人になった」という喜びはとうに消え失せ、いまではそれが苦痛でしょうがない。それは、辛いというより絶望に近い感覚だった。戻れないから逃げ出そうと思って自殺したのだ。でも逃げ出せやしなかった。

 ではもう一度、逃げ出すことにチャレンジしてみては?と問われると、素直にイエスと言えない心境だ。自殺してみてわかったこと。それはとてつもなく“面倒くさい”ということだ。死ぬのは誰だって怖い。できれば死にたくない。自殺するということはその死の恐怖と真っ向から向き合うということだ。そりゃ疲れるし、面倒くさいわけだ。勇気と気力を振り絞って、やっと飛び降りたのに、やっと踏み出したのに失敗したら、またすぐに「もう一回」なんて簡単には言えやしなかった。例えるならRPGゲームのボス戦で苦戦して、苦戦して、長い時間を費やして、奇跡的にボスを倒せたのに、倒したと同時にゲーム機がエラーを起こしてゲームがセーブされていなかったようなものだ。俺だったら確実にその日はもうボス戦にはチャレンジしない。下手したらもうゲームそのものを辞めてしまうかもしれない。集中した糸が切れたら、もう興味すら沸かない。きっと諦めてしまうだろう。

 そもそも自殺するということ自体間違っていたのだろうか?なにも俺だって安易に自殺を決行したわけじゃない。それなりに悩んで、考えた結果、生きていくことを諦めたのだ。比較的仲の良い友人に相談したりもした。もちろん、深刻っぽい相談ではなく、茶化した感じで相談してみたわけだ。するとそいつは「自殺する勇気があるなら、その勇気を生きていくために使えばいいんじゃね?」とあっけらかんと言い放った。なんというか、ごもっともだ。ご立派な意見だと思う。確かに死ぬ勇気があるなら、なんでも出来そうな気がする。でも、“死ぬ勇気”と“生きていく勇気”はまったく同じものなのだろうか?俺は違うと思う。理由を聞かれても上手く答えられないけど、違うと思うのだ。かなり大雑把に説明すると、“死ぬ勇気”は上手くいけば一回の勇気で全てが終わる。でも“生きる勇気”は生きている間、何回使えばいいのだろう?何回必要になるのだろう?そんな事を考えると、気が遠くなってくる。まるで生き地獄のように感じる。そりゃ生きていて楽しいことも沢山あるよ。でも辛いことの方が圧倒的に多い気がする。


 何も考えたくないと思いながらも、やはり色んな事を考えてしまう自分に腹ただしさを感じた。でも、何も考えない人がこの世に存在するのだろうか?人は常に何をか考えながら日々過ごしているわけで、何か物事に没頭していても、何も考えていないわけじゃなく、その没頭している物事について考えている。ゲームでも、仕事でも、友達との長電話中でもそうだ。だから考えてしまうのはしょうがないことだ。

 もう一度眠ろうかと思ったが、眠れる気配がまったくなかった。気が立っているわけじゃないが、なんだかフワフワとした浮遊感が体全体を覆っていた。

 俺は眠りに逃げるのを諦めて、白い天井を眺める。よく見ると天井にはレースっぽい柄が描かれていた。俺はそのレースの波を目で追いながら、腹が減ったな、と思った。

 俺が空腹を感じていると、病室のドアを開ける音がした。俺は瞬時に入り口付近に目を向けた。さっきまでの浮遊感は消え、体中が緊張に支配されるのを感じた。

 入ってきたのは若い女だった。若いといっても、俺よりも少し下ぐらいだろうか。肩まで届きそうな髪を後ろに結い、簡単なメイクを施しただけの地味な女。地味だけど、清潔感を感じる清楚な雰囲気があった。その女は俺を見るなり目を見開き、両手を自らの口元にあてた。


「目が覚めたのね!?」


 女はおもむろに叫ぶと、ベッドに駆け寄ってナースコールを押した。

 

 ていうか、誰だ?親戚にこんな女いたか?

 唖然とする俺に、女は容赦なく話かけてくる。


「よかったー!ホントによかったー!」


 ものすごいハイテンションだ。その勢いに思わず押される。誰だかわからないけど、俺が生きていて喜んでくれる人らしい。ていうかマジで誰だよ、こいつ。

 怒涛の勢いで、マシンガンのように喋りだした女は布団の中の俺の手を握り、これ以上ないくらいの笑顔を見せた。その合間も喋る喋る。ボケーっとその様子を見ていたら、おもむろに女性は泣き出すではないか。なんだなんだ。まったく知らない人だが、その涙が嬉し涙だということだけはわかった。

 とりあえず、落ち着け、俺。

 すると女は泣きながら携帯を取り出し、どこかに連絡し始めた。おいおい、援軍を呼ぶんじゃねーだろうな?と若干の不安を感じながらも酸素マスクのせいで、上手く声が出せない。もう取ってしまおうか。


「あなた!タケシの意識が戻ったの!ホントよ!ホント!早く病院に来て!」


 ん?タケシって言ったか、今?聞き間違いか?

 いったい誰に電話しているか知らないが、この女は俺の意識が戻ったことを電話先の人に報告しているみたいだ。もしかしたら危ない人なのかもしれない。

 唖然を通り越して、俺は恐怖すら感じ始めていた。目の前にいる女にまったく見覚えがないばかりか、おそらく向こうも俺のことを別の人と勘違いしているようにしか思えなかった。電話を切り終えた女は再び俺のそばに寄り添った。

そして真っ直ぐに俺の目を見つめてくる。本来ならドキッとくるはずのシュチュエーションだが、今はとてもそんな気分にならない。逆に怖かった。


「タケシが目覚めてくれて、お母さんホントによかった。」


 女は涙を滲ませながら、呟くよう俺に言った。タケシ?お母さん?

 こりゃやばい。マジで危ない奴だ。

 俺は手を動かし、酸素マスクを取ろうとした。それを見て、女が、まだダメよ、先生が来てからね、と制止した。邪魔すんなよ!と若干の憤りを感じながら、俺の手を掴む女の手を払いのけようとした瞬間、思わずひっくり返りそうになった(ベッドで寝ているのだが、そうなってしまうんじゃないかと思うぐらい驚いてしまった)女が握っている俺のものと思われる手が…小さかった。俺は思わず、目を見開いて凝視した。自分の手が子供の手ぐらいに小さい。というか子供の手そのものじゃないか!自殺の後遺症?それともまだこれは夢?いったい何が何だかわからなかった。ただはっきりしていることは俺の手が子供サイズの大きさになってしまっているということだけだ。


「タケシ、落ち着いて、大丈夫だからね、大丈夫、もう怖くないの。」


 女は必死に俺をなだめる。でも俺はそれどころじゃない。まるで忌々しいものを見るかのように、俺は小さくなった自分の手を凝視した。今すぐにでも叫んでしまいそうだったが、かろうじて正常を保っていた。現実感がなさすぎて、逆に唖然としていたというべきか。これは夢だ、悪い夢だ、きっと。そう思わないとやっていられない。

 女は覆いかぶさるように俺を押さえつけ、大丈夫、大丈夫と優しく言っていた。大丈夫?なにが?俺の手はどうなってしまったんだ?そもそもお前は誰だ?俺はいったいどうなってしまったんだ?

 女は俺を抱き寄せるようにして頭を撫でる。その途端、体中に痛みが走り思わず声が漏れそうになった。抱き寄せられた頭を元の位置に戻そうと、ふと下の方に視線を向けた瞬間、俺はこらえきれず絶叫した。ただの叫びではない、それは狂人の雄叫びだった。

 俺の視線の先には、女が持っているスマートフォンがあった。その暗くなったディスプレイには叫んでいるのか笑っているのかわからない、見知らぬ子供が映っていた。







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