10.
もろみさんがぼくの手首を掴んで、漸次元シミュレートなんて言い訳はもう通用しないわよと言う。
ぼくは神が行き詰ることを懸念していた。
『神』は『世界』と同義である。
同義ではあるが、同等同質ではない。
『世界』が擬人化して『神』となったのではない。『世界』は世界であり、『神』は神なのだ。
そして神が神であり続ける限り、神はこの世界に必要ない存在となっていく。
変転する世界と、不変の神。
神が世界をいびつにしていく。
神によって歪められた世界は、それでも変転し続ける。
変転し続けた結果、世界は矛盾を許容できなくなり、世界は終わる。
世界の終わりは神の終わりでもある。
今はまだいい。
世界はその懐の広さで神をも内包している。
世界を創ったのは誰か?
神ではない。
では神は誰が創った?
神は創られたのではない。
世界と共に最初からそこに在ったのだ。
『世界』と『神』は不可分な存在として初めから在った。
ただそれだけのことだ。
そこに因果や宿業など存在しない。
あるのは無意味な事実のみ。
だからぼくは探求する。
これは神が『神』を辞める研究だ。
『神』を超越するための研究だ。
ああ、すみません。でも、聞いてほしいんです。こんなこと話せるの、もろみさんしかいないから……。『忘却の地平』へ行く気? もし、そこが到達すべき地であるなら、吝かではありません。
もろみさんが顔を伏せて、細い肩を震わせた。
ぼくはもろみさんの豪奢な金髪をそっと撫でる。
□ □ □
人間の進化が『神』を救うヒントになるのでは、と考えて「人の進化」を研究した。さらに「神の進化」へと研究は進んだ。そして、ぼくは一つの仮説に辿り着く。
それを確かめるため、神の行く末を知るため、自分自身を被験者とするため、ぼくは『忘却の地平』に赴く決意を固める。
もろみさんが泣き笑いの表情でぼくを見ている。
なに? お願いって。
すみません、もろみさん。
……今の今まで気づかなくて。
ただ心配してくれていただけじゃなかったんですね。
本当にすみません。
ぼくは今、もろみさんの気持ちに応えられない。
もしかしたら。
もしかしたら、遠い遠い時間の果てでなら、ぼくはあなたの気持ちに応えることができるかもしれない。
だけど、その可能性はほとんどない。
だから彼女に言えない。
彼女を期待させてしまう。
彼女はぼくを待ち続けるに違いない。
彼女を苦しめることになる。
だから――
研究成果を事業計画の形にまとめました。それを『何もできない神』が誕生したときに始動してください。
彼女は目に涙をため、それでも気丈に微笑んでくれた。
……何があっても、どんな姿になっても、ぼくは彼女を思い出してみせる。
ぼくは涙に濡れる彼女の微笑みに誓う。
□ □ □
想定していたとおり、『忘却の地平』は全ての始まりの場所であり、『世界』と『神』が本質的に同一である『原初』だった。
ここでなら……
ぼくは服を脱ぐように自分を脱ぎ捨てる。
神が『神』であることを意味する、本来ならできるはずがないこと、『神性』を分離することに成功した。
それこそ呆気ないほど簡単だった。
そして、脱ぎ捨てた『神性』を服を畳むように丁寧に整える。
丸まって眠る、小さな小さな女の子が形作られていた。
ぼくはこの子に罪悪感と希望を抱く。
この子は『何もできない神』だ。
だって、すべてを忘却してしまっているのだから。
すべてを忘却した、己が『神』であることさえも忘却した、進化の可能性を秘めた神――
そもそも『神』には『可能性』というものがない。
『神』とは現実そのものであり、結果だからだ。
そこに本来的な意味での不確定要素などない。
在るべくして在る者に途中経過などあろうはずがない。
『可能性』がないからこそ『神』なのだ。
『神』に『可能性』はない。
ゆえに『神』は『進化』できない。
それを覆す。
キミはぼくから独立して、思念であるところのぼくと平行し、並列し、かつてのリリエラ(ぼく)とは違う『神』になっていくはずだ。
よく眠っている小さな小さな女の子を、ぼくは元の世界へとそっと送り返した。
ぼくには好奇心だけが残っている。探求する心だけが今のぼくを支えている。
ぼくは『忘却の地平』からさらに先へと旅立つ。
□ □ □
ぼくは『忘却の地平』を越えて、その向こうへと辿り着いていた。
そこは『斥力世界』だった。
重力世界と斥力世界をつなぐ極微の一点を通り抜けると、そこは神のいない、ごくごく普通の世界が広がっていた。重力がないことを当たり前のこととして、その世界の住人たちは受け入れていた。
なんの変哲もない、本当に普通の世界だった。
『斥力世界』とは神のいない世界だった。
そしてそこで重大な事実を突きつけられた。それは――
『神』とは『重力』である
という単純で簡潔で、それでいてぼくにとって衝撃的な事実だ。
物質があるところならどこにでもいて、どんな物質の隣にも寄り添っている。
すべての生物、すべての無生物に神は宿っている。
次元を超えて伝播し、全宇宙に影響を及ぼし、観測でき、存在を証明できても、人間には決して姿を見ることも声を聞くこともできないもの。
それでも実感として知覚できるもの。
重力とは、神であり、目に見えない力であり、生命の根源であり、宇宙の息吹であり、皆に寄り添う者であった。
あとの記憶は曖昧だ。
どうやって斥力世界から帰ってこれたのか、自分でもよく分からない。
気障な言い方だが、待っているひとがいたから、ということにしておこう。
ただ、『忘却の地平』を往復したがために、ぼくは自分が神であったということを完全に忘却していた。それでも、全て忘れたぼくは無意識のうちに、重力世界に送り返した幼い希望を探し続けていたようだ。とんでもない方向へ性癖を歪めてまでね。
× × ×
「『完全な平均』と『進化』の話に戻ろう」
唐突にリリエラ氏の声が聞こえた。
頭の中の映像は終わっており、ぼくは蜂蜜みたいなものが満ちる空間で蜂蜜みたいになって漂っている自分を発見した。
「進化は弱者の特権と思われがちですが、実は違います。本当の弱者は滅びる。だから進化は平凡な者の特権と言えます」
まだよく分からない。
もろみさんの声が頭の中で聞こえる。
「……この計画に優秀な個体なんていらないの。なぜなら、優秀であれば進化する必要がないから。だって優秀なのよ? なんで進化しないといけないの? 劣ってる個体は淘汰されるなり、劣っていることを逆手に取ることもある。優れていない。劣ってもない。そんなどうしようもない個体。進化させるために必要な個体は、この上なく平均的であること。標準的であること。平凡であり、凡庸であり、中途半端であること。つまりあなた。平凡の中の平凡。中途半端のチャンピオン。前に進めない。後ろに下がれない。横にも動けない。いつまでも同じ場所に居続けようとする。そんな個体のお尻を叩こうって話よ。叩いたらどこへ飛んで行くのかしらね?」
明るく無邪気に解説してくれるもろみさん。
ちょっと酷くないですか?
だってそもそも……
「……そもそも『余命換金』の話はどこへ行ったんですか? ぼくはてっきり余命換金係には、目標や目的を失った人間に自分を取り戻させる、っていう隠された使命が――」
「そんなもの、あるわけないじゃない」
「? 余命換金係が創設されたのは」
「建前に決まってるでしょ」
「!? じゃ、じゃあ、あの優しい囁きは? 『なんであなたが選ばれたのか分かったような気がする』ってやつ!」
「あなたをその気にさせるための演出」
建前?
演出?
「……あんな赤裸々に語ったのに」
「恥のかき損ね」
「…………なんという斜め上な展開!」
「あのねぇ、自分の問題を自分で努力して解決するのと、神様や天使に都合良く解決してもらうの、どっちが斜め上だと思う?」
「…………………………………………………………………………………………」
返す言葉もない。
そうですね。
そうですよね。
「人間関係のこじれ? 色恋沙汰? そんなもの自分で解決しなきゃ! なに他人に頼ろうとしてるワケ?」
おっしゃるとおりです。
おっしゃるとおりです……
おっしゃるとおりですが! これはあまりにもあまりな仕打ちではないでしょうか!
…………だから余命換金は取って付けたような話だったのかよ。
「事業計画を作成したのは私だ。だから責めるなら私を責めてほしい。もろみさんは私の指示に従っていただけなんだ」
申し訳なさそうなリリエラ氏の声と態度が波となって伝わってきた。
この蜂蜜づけな空間では嘘をつけない。嘘なら嘘と伝わってしまう。だからリリエラ氏が本心から申し訳なく思っているのが分かるのだ。
だから、怒るに怒れない。
「……ぼくが『平凡』だから『進化』に適しているのは分かりました。でもそれと神様の進化がどう繋がるんですか?」
「キミが進化して、彼女を先導してほしい」
「!?」
リリエラ氏がちゅるるちゃんを見たのが分かった。ちゅるるちゃんがその視線に気付いて小首を傾げたのも分かった。
「共に進化することを共進化という。捕食者と被捕食者を見れば分かりやすいかな。被捕食者は逃げ足を速くしたり、体を大きくしたりして捕食者の標的から逃れようとする。すると捕食者の側も足が速くなったり、体を大きくしたりする――なんて作用なんだけどね。キミに被捕食者になってくれって意味じゃないよ? 彼女の進化のキッカケになってもらいたいんだ」
神様と人が共に進化する?
互いが互いの進化に触媒として作用しあうということか。
「うん、良い表現だね。互いの進化に触媒として作用しあう。彼女は……ちゅるるちゃんは『何もできな神』だ。でも、それは絶望を意味しない。なぜなら、彼女はまっさらで、今はまだ『可能性』だからだ」
褒められていると勘違いしているちゅるるちゃんが訳知り顔で頷いているのが波のように伝わってくる。
「『可能性』はキッカケが与えられないと『可能性』のままで終わってしまう。進化にはキッカケ、契機が必要だ。その契機こそ『何もできない神』にとっては『全人類の完全な平均』であり、『全人類の完全な平均』にとっては『何もできない神』なんだ」
う~ん、分かるような分からんような……
リリエラ氏は簡単に進化してくれと言うが、そんなにホイホイと出来るものとも思えない。進化って遺伝子の突然変異があってこそだろうし、ぼくは突然変異ではないし、平均的なだけだし。
「平均と普通――はほぼ同じ意味を持つだろう。でも、『完全な平均』は違う。それは普通などとは程遠い存在だ。突然変異に相当するんだよ」
「ぼくは生まれたときからこの形で、頭が二つあるわけでも、手が四本あるわけでも、蛇の尻尾が生えてるわけでもないですよ」
「身体的な能力向上を必ずしも進化とは言わない。人間は進化に身体的な能力を求めなかった。人間が身体的な強さを得てもそれは人間の亜種でしかない。考えてもみたまえ。生身の人間がライオンや虎に敵うと思うかい? 人間はそんなステージで勝負しようとしなかった。まったく別の観点での勝利を目指した」
筋肉量が増えようとも、歯や爪が鋭くなろうとも、元が人間ならそれは所詮人間だろう。たしかに肉食獣と喧嘩して勝てるとも思えない。
「人間とサルの違いは何だと思う?」
ぼくは考える。
染色体の数? 知能?
「科学的に言うなら大ハズレではないけど、私は別の見方があると思っている」
便利だけど恐ろしい空間だ。思ったことが波となって、波として相手に直接響く。リリエラ氏の言葉も聞こえてくるというより、届いてくると表現するほうが相応しいかもしれない。
「私はそれを『精神』だと考えます。もっと言うと『心』。サルも人も見た目に大差はありません。人間以外の哺乳類とホモ・サピエンス。両者には『意識』だとか『精神』だとか『心』だとかの部分に圧倒的な差がある。これこそ、進化の中で人間が獲得した特異な形質です。人間だけが豊かな精神世界と意志の力を持っている」
見ることも、手で触って確かめることも出来ない『心』や『精神』なんて不安定、不確実極まりないものを人は進化によって得たということか。
進化で得る『器官』として、それは不定形すぎないだろうか。
「豊かな精神世界、豊かな感情を『器官』と捉えるのはセンスが良い」
「『精神』が器官ですか……心臓や胃や腸みたいな?」
「手や足や目や耳や鼻や口みたいな、だね。人間は器官として『意識』や『精神』を発達させた。人は〈外〉ではなく〈内〉に可能性を広げることを選択した。そして、だ」
「?」
「外界を知覚するために目の視覚や耳の聴覚といった五感が必要であるように、内なる世界を知覚するための感覚が必要だとは思わないかな」
「あー、なんだか分かるような分からないような……」
「人間は進化して『意識』という器官を得た。その『意識』を知覚する感覚が『心』なんだよ」
「? 『意識』の上に『心』があるんですか?」
「その考え方は違うな。どちらが上とか下とかはない。そもそも内なる世界に上も下もない」
「はぁ……」
なんだろう。さっきまでの科学的な話が急に形而上学的な話になってきたような気がする。
「人間の『心』を仮に視覚化できたとして、そこに広がる光景は三次元だろうか? 四次元だろうか? 人の『心』は記憶の中で自由に振る舞える。しかも十年前のことも昨日のことも今現在のことも同時に平行して存在させて行き来もできる。それは四次元で可能だと思うかい?」
ぼくがさっきまで居た現実世界に置き換えて考えてみた。
面接でボロクソに言われているぼくと、ガムテープで簀巻きにされたぼくと、酔っ払って洗いざらい白状するぼくと、梁に吊るされたぼくと……。それらは同一線上にいたと言えるけど、少なくとも同時並行には存在できない。四次元を俯瞰できるようなところまで行かないと無理だ。
「俯瞰というより、記憶の外、意識の外に出て見る感覚だね。二次元であるところの絵を知覚するには三次元に居なくてはならないように」
「そう、ですね」
「でも現実には人間は三次元プラス時空間の四次元に存在する。となると『心』は四次元以上の余剰次元――人間が今現在知っている空間三次元以外に存在する、四次元以上の空間次元のことだけど――『心』は余剰次元に存在していると推測できないかな?」
推測なら別に誰に断わる必要もないかな、と思う。
「張り合いないなぁ」
リリエラ氏が不満そうに口を尖らせる。
そうは言ってもあれやこれやが唐突に起こって今は蜂蜜でゼリーで頭の中はパンパカパーン状態ですよ。
……我ながら酷い表現だ。
「進化とは知覚の獲得だ。知覚を増やすごとに生命は把握できる次元を増やしてきた」
リリエラ氏は表情を引き締め、いきなり直截に言い切った。
「次に人間が進化するとしたらそれは知覚を増やし、新しい次元――余剰次元で活動できる個体になることだと私は予想しています」
確かに、進化の一番最初にいた生物なんて微生物みたいなもので、単純な知覚しかなかったはずだから三次元に居ようが四次元に居ようが、平面にいるような感覚だったんだろうな。
ん? そう言えば人間は五感を持ってて、四次元を知覚してる。
ってことは、第六感を獲得すれば五次元を知覚できるようになるってこと!?
第七感があれば六次元を、第八感があれば七次元……あれ? これってすごい発見なんじゃ……。
リリエラ氏の苦笑が伝わってきた。
「残念ながら、人には九感以上あるよ」
「えっ……五感じゃ……それに第六感……」
「平衡感覚とか固有感覚なんてあるけど、普段気にすることのない感覚だからね」
おう、赤っ恥。
「さて、分かりにくかったかもしれないから、おさらいしよう。
私が求める『神の進化』には、『進化』を最大限に利用してきた人間の進化が不可欠だ。人間が進化することにより、『何もできない神』であり『可能性』であるちゅるるちゃんが共進化しうる。進化する可能性のある人間は当然、突然変異だ。その突然変異こそが『平凡の中の平凡』であり、全人類の完全平均である慎太くんに他ならない。
ここまでが一つの仮説で、精神だの次元だの話はまた別の仮説だね。
慎太くんが進化しやすいように、人間の進化の本道、人間の進化しうる形を提示してみせたってところかな」
「………………で、ぼくに五次元や六次元を知覚できるようになれ、と」
「お願いします」
醤油取って、と大差ない簡単さで依頼されてしまった。
無茶苦茶だよ。
歩いて月まで行けと言われたようなもんだぞ。
ゴールを示されてもそこに辿り着けるとは限りません。
「重力は余剰次元に伝播する唯一の力だ」
「神様は五次元でも六次元でも行けると?」
「十一次元でも二十六次元でもね」
うん、想像不可能だ。
想像不可能だけどリリエラ氏が十一次元や二十六次元のイメージを波にしてぼくに届けてくる。人間であるぼくにはやはり知覚できない。
それでも酔いそうになる。
「ぼくに神様になれってことですか?」
「神はただ存在する者であって、生命体ではない。人間は人間。神は神だ。人間が進化して神になるわけじゃない。それだと『進化』じゃなくて『神化』になってしまう。神はもう在るんだ。なぜ既に存在してるものになる必要がある? 人間が神に進化することはないし、する必要がない。それにね、人間は神と正反対の存在なんだ。人間と人間は『意識』を、『心』を一つにすることはできない。本質的に宿業的に人間は反発しあう。それは斥力だからだ」
リリエラ氏が畳み掛けてくる。
それは変なクスリみたいでぼくに酩酊感をもたらす。
「不思議だよね。『忘却の地平』を越えたところにあるはずの斥力世界を人間は体の中に持ってるんだから。でもこれは、人間が脳内に仮想空間を構築した唯一の生命体だからなんだ。ニューロンネットワークを積層構築して生体電気を走らせる。そこに仮想空間を立体投影して疑似的な四次元を生みだし、豊かな精神世界を生み出している」
……脳内の空間は擬似的だから四次元から五次元へシフトもできる、と?
「そう、これからの人間の進化は、進化でも神化でもなく、『深化』となる」
……脳が深化?
「頭が良くなる、という意味ではないよ。優秀、明晰な頭脳を獲得することが人間の進化、『人の次なる者』とはならない。情報の処理速度を求めるなら生命である必要がない。それならコンピューターに手足を付けてしまえばいい。筋力に限界があるように、情報処理能力にも限界がある」
だんだん考えるのが面倒臭くなってきた。
あっちにこっちに流されていくような不思議な漂泊感に身を委ねる。
それこそリリエラ氏の言う脳内の疑似的四次元を潜っていくような気分だった。
それこそリリエラ氏の言う深化のため深く深く潜っていくような気分だった。
それこそ……。
ぼくはぼくの頭の中、ニューロンネットワークに生体電気が流れているさまを眺める。
生体電流が描く軌跡。
それは長時間露光で夜の道路や星の動きを撮影した写真に似ていた。それが一瞬で出来上がり、一瞬で消えていく。
その模様は、この世の者ではない何者かを召喚する奇妙な魔法陣にも似ていた。
不思議なほど気持ちが凪いでいた。
心が平らかと言うか。
凪いだ海面から海の底へとゆっくりゆっくり沈んでいく。
眠気がじわじわと、水が染みこんでくるようにぼくを取り込んでいく。
「――人間にサルの悩みなんて分からない。『人間の次なる者』には人間の悩みなんて分からない。つまり『人間の次なる者』は人間の悩みから解放される。そしてキミはそれを求めていたはずだ」
求めていた。
ぼくは、ぼくを理解してくれない周囲の人たちから解放されたかった。
話の合わない馬鹿な同級生たちから解放されたかった。
中学時代、みんな頭が悪く見えて仕方なかった。
椎原くんは頭いいから。
高校時代、そう言われて満足していた。
満足するフリをして自分を納得させていた。
でも知っていた。
自分が惨めな人間だと。
いつも一人だった。
孤独ではなく孤高なのだ、望んで一人でいるのだ、と思わせようとした。
自分と周囲に。
哀れみの視線に気づかないでいるためには自分の世界に閉じこもるしかない。
こんな惨めで哀れなぼくを救ってくれる人が現れないか、とよく夢想した。
王子様を待つシンデレラみたいだった。
誰でもいいから助けてくれないかなー。
味方になってくれないかなー。
凡庸の生体標本じゃなくて、他力本願の生体標本だ。
誰も味方してくれないこんなところから解放されたかった。
味方がいないから、助けてくれる人がいないから、周囲に溶け込む勇気が出なかった。
だから解放されたかった。
「――『人の次なる者』と人間は同時に、平行して存在することになる。ヒトとネアンデルタール人が同時に存在したようにね。でもそのうち、『人の次なる者』は人間をチンパンジーのように感じはじめるはずだよ。人間がチンパンジーを見るような感じで」
ぼくは解放されるのか……。
さすがにチンパンジーと同じメンタリティではいられない。
でも引っ掛かる。
引っ掛かっている。
ぼくの中のなにかが拒絶する。
味方がいないから。
助けてくれる人がいないから。
……じゃあ、ぼくは誰かの味方になったことがあっただろうか?
今まで困ってる人を助けてきただろうか?
いつも見て見ぬふりをしてきたじゃないか。
関係ないと思っていたじゃないか。
人が困ってるときは放っておいて、自分が困ってるときだけ助けてもらおうとか、味方になってもらおうとか、そんな自分勝手な考え方をしていたわけだ。
そんな自分勝手な人の味方になりたいかって聞かれたら、ぼくならお断りする。
そりゃ嫌われるわ。
好かれるわけないし、友達にもなりたくないよなー、そんなやつと。
ぼくは助けてもらいたがっているだけのクズ人間だ。
人間から解放されるかもしれないが、クズであることからは解放されない。
クズのままでいたくない!
ぼくは全身を満たしていた眠気を無理やり追い出した。
「なかったことにしたいんでしょ? それができるんだよ」
リリエラ氏が困ったような顔でぼくを見ている。一片の狂気もない瞳が恐ろしい。
琥珀色をした空間は静かで穏やかで、静かすぎて穏やかすぎて恐ろしい。
ぼくは催眠術の要領で見事にリリエラ氏の望むほうへと誘導されていたのだ。
リリエラ氏がぼくを騙したとか、ぼくが騙されたとかのレベルではなく、これはこういう事業計画であり、実行プランなのだ。
困り顔のままリリエラ氏が言う。
「もろみさんと話してたじゃないか。超常の存在に都合よく解決してもらう。忘れてしまいたいことや消してしまいたいことを、なかったことにできる」
それは魅力的で、絶望的な果実だった。
ぼくがぼくを諦めれば、すべてを諦めれば、ぼくは『人の次なる者』とかいう、進化した存在になれるのかもしれない。そしてぼくの進化に引っ張られてちゅるるちゃんも神様から、神様を超越した何者かになる。
……ちゅるるちゃん? そういえばちゅるるちゃんはこのことをどう思っているんだろう?
そう思ってぼくは蜂蜜の海に耳を澄ます。浜辺で潮騒の中から一つの波を聞き分けるようなものだが、なんの苦もなく聞き分けられるし、見つけられる。ここはそういう場所なのだ。
死神幼女はぼくとリリエラ氏を当分に見比べ、小首を傾げた。
……この子、なんにも考えてねぇ。
分かってない、に近いのかもしれない。
むしろちゅるるちゃんの両脇のふたりのほうが分かっている。
大切な友達を失う予感に、にゅるるちゃんはちゅるるちゃんの手をぎゅうっと握っている。怯え、畏怖、そういった感情が伝わってくる。ためらいがちに、でも泣きそうな気持ちでみゅるるちゃんもちゅるるちゃんの手をぎゅーっと握っている。
ちゅるるちゃんは事態を理解していないながらも、ふたりの手を握り返し、疫病神幼女と貧乏神幼女にニカッと笑ってみせる。儚さの欠片もない笑み。
だからこそ力強く、心強くなる。
にゅるるちゃんとみゅるるちゃんの不安が後退する。みゅるるちゃんは自分がちゅるるちゃんの手を半泣きで握っていることに気づいて急に恥かしくなったのだろう、慌てて離そうとする。でもちゅるるちゃんが離さなかった。みゅるるちゃんも敢えて手を振りほどかなかった。
「モラトリアムは終わりだよ」
リリエラ氏が事務的に告げた。
終わりと言われても……。
ぼくはずーっとこのままでいいのに。
怠惰な自分が顔を出し、お前はクズだけどクズのどこが悪いのかと居直り、開き直り、慰撫してくれる。
お前はお前のままで良いんだよ、と優しく囁いてくれる。
「ぼくは……」
「慎太!」
ちゅるるちゃんの大声が、蜂蜜状の流体が満ちたこの空間を揺るがせた。
ハッと我に返った。
良いわけがない。
良いわけない。
引き篭もっていたときに溜め込んだ感情が奔流となって噴き出す。
消えてしまいたい。
消してしまいたい。
それは、ぼくはぼくでいたくないということ。
それは、ぼくは今のぼくでいたくないということ。
ならば……
ぼくは変わらなくてはならない。
進化なんて大袈裟なものじゃなく、もっと手近で身近なところから。
小さくても、ほんの少しだけでも、自分の足で一歩を踏み出さないといけない。
ここまで思って、考えて、決意しようとしているのに、それでも諦めの悪い消極的なぼくが頭をもたげようとする。
ぼくはぼくに絶望しそうになる。
「しっかりするでちゅ!」
大声がぼくの背中を思いっきり叩いた。
背中を押された。
臆すな! 立ち向かえ! と。
ぼくに味方が現れていた。
あれほど求めた味方が。
リリエラ氏言うところの積層構築されたニューロンネットワークが描く魔法陣から勇気が召喚される。
人間だけが持つ豊かな精神世界の底の底から意志の力が湧きあがってくる。
だから!
いま変わらないと!
変わる。
変わるんだ。
ぼくは変わる。
変わるために――
ぼくは認めなくてはならない。
自分に問題があったということを。
誰のせいでもなく、自分の問題だったということを。
ぼくという人間に問題があったのだ。
環境を変えようと、ぼく自身が変らなければ結局なにも変わらないということを。
もう目を逸らさない。
以前の自分は以前の自分として受け入れる。
受け入れることが最初の一歩だ。
友達がいなくて恋人もいなくて、寂しくて虚しくて、惨めな人生。
それが今日までのぼくの人生だ。
もう見栄を張っても仕方がない。
自分を偽っても解決にはならない。
寂しさと虚しさに満ちた日々。
でも!
寂しさも虚しさもぼくのものだ。
この傷も、痛みも。
誰のものでもない。
ぼくのものだ。
ぼくがこのどうしようもない人生で手に入れた、数少ない、手触りのある本当のモノなのだ。
ぼくの人生がぼくの人生であると証明してくれるモノだ。
それを投げ出したり、捨てたりなんてしない。
失敗の数々はもう取り返しがつかないけど、それを無かったことになんてしない。
「それでも」
ぼくは腹に力を入れて、声を絞り出した。
自分に負けてしまわないように。
進化したいのか、したくないのか。
人間でいたいのか、いたくないのか。
「それでも、ぼくは人間でありたい……!」
友達がいなくて恋人がいなくて、寂しくて虚しくて、惨めな人生かもしれないけど、それでもぼくは、人間でありたい。
過去を無かったことにする進化ではなく、自分の力で、今いる自分の手と足と気持ちと心で、現実に向き合っていきたい。
ぼくは前進する。
いつまでも同じ場所に居続けるのはもうやめだ。
「そうか……」
リリエラ氏は残念そうに、満足そうに呟く。
「それで、キミはこれからどうするつもりだい?」
「学校に行きます」
自然に答えていた。
「後ろ指さされても、恥かしくても、辛くても、格好悪くても、あそこに戻ります」
みじめでも、みっともなくっても、みすぼらしくても、みにくくても、それがぼくの人生なのだから。
頷きながらリリエラ氏は聞いてくれる。
「できれば迷惑をかけた人に謝ります。避けられるかもしれませんけど」
そこはぼくが人間として社会に属するための取っ掛かりで、現実と折り合いをつける足場で、再出発するべき場所だ
「……ごめんなさい。神様のお役に立てなくて」
ぼくが進化を拒否したことによって、リリエラ氏が懸念していた神の消滅は回避できなくなってしまったのだ。
「ああ、そんなに気に病まないで。神が行き詰るかどうかはまだ決まったことではないし、探せば他にも回避する方法があるかもしれない。なにより、キミの言葉を借りるなら……今いる自分の手と足と気持ちで現実に向き合うべきなのは神様自身だからね」
申し訳なさで身を縮こまらせるぼくにリリエラ氏は肩を大きく上下させ、おどけてみせてから振り返った。
「と言うことですアズズくん」
ぼくはそこにアズズ氏がいることを完全に失念していたので、ちょっと驚いた。アズズ氏は眉間に皺を寄せ、すごく悩んでいるような顔をしていた。
「私の持っている情報を全て読み取ってくれたことと思います。ここでは嘘は嘘として、隠し事は隠し事として伝わってしまう。だから包み隠さずアズズくんに私の中を晒したのは分かってもらえますね?」
自我が崩壊しないようにというリリエラ氏の忠告もあったが、人間であるぼくは処理能力の関係上、流入してくる情報の相当量を知覚も理解もせず、ただ受け流している。逆に言えば、処理能力が人を超越した神様なら蜂蜜漬けなこの空間は知覚する気になればどこまでも情報を得られるということだ。
だから、ぼくとリリエラ氏が進化についてあれこれ遣り取りしている間、アズズ氏はひたすらリリエラ氏の中にある情報を読み続けていたのだろう。そしてリリエラ氏もそれと察知していながら、なんら拒まずに読ませ続けていたようだ。
「あとは『神』であるキミたちが解決するしかない。慎太くんには進化の先導を断わられてしまいましたが、ちゅるるちゃんが『可能性』であることに変わりはないです。まだ道はあるし、切り拓けると思います。それに、私が抱いた懸念も、現実のものになるかどうか、確定していません。だから私の中にあった情報を持ち帰って、一番偉い神様に今後の方策について投げ掛けてみてください。あの方も今度は重い腰をあげるでしょう」
「……先輩がこんなに悩んでおられたなんて気づきもしませんでした」
悔恨に満ちた声。
「アズズくんが責任を感じる必要はないですよ。私が勝手に難しく考えていただけです」
「しかし……」
「そんなアズズくんに一つお願いがあります。もし、私のことを今も先輩として慕ってくれるなら」
リリエラ氏は一度言葉を切り、アズズ氏の目をじっと見つめた。それから丁寧に頭を下げた。
「ちゅるるちゃんのこと、どうかお願いします」
かつて別れたもうひとりの自分。すでに別個の存在となった半身。リリエラ氏は今も彼女に負い目を感じているのだ。そしてリリエラ氏には彼女を助けることも、見守ることもできない。
リリエラ氏の万感が籠もった想いを受け、アズズ氏は背筋を伸ばした。
「先輩」
呼ばれて頭を上げるリリエラ氏。
「なにが出来るか分かりませんが、やれるだけやってみます……!」
胸を張って答える後輩にリリエラ氏が再び頭を下げようとする。それをアズズ氏が慌てて止める。お世話になったひとに何度も頭を下げられるのはやはり面映いのだろう。
「それより! ちゃんと謝らないといけないひとがいるんじゃないんですか?」
アズズ氏はもろみさんをちらりと見てから咎めるような口調で言った。
気恥ずかしそうに笑ってリリエラ氏は後輩から目を逸らした。アズズ氏はそんな先輩と、静かにそして嫣然と佇む美女から距離を取る。
「ちゅるるさん! みゅるるさんとにゅるるさんもこちらへ。帰りましょう」
三幼女と鳩とフェレットが死神課課長のもとに集まる。
「椎原さん、ちゅるるがお世話になりました」
アズズ氏がぼくにお辞儀した。
「えっ? あ、はい……はい?」
「死神課余命換金係の業務は一時停止させていただきます。一番偉い神様の裁可次第ですが、業務そのものが廃止されるかもしれません。今後のことにつきましては、後ほど私から連絡させていただくことになろうかと」
「それは……、どうも、ご丁寧に……?」
「本来なら椎原さんの記憶を改竄して、我々のことを忘れてもらうのですが、今回は例外と言いましょうか、まだ我々の方針が定まっていないから先走るわけにもいかないと言いましょうか」
なんつーか、物腰は柔らかいのに一切値引きしてくれないタフな営業マンみたいだなぁ。……やべぇ、ここでは考えてること筒抜けなんだった。
アズズ氏は爽やかな笑顔を作った。
「お気になさらず」
気にするのはぼくじゃなくてアズズ氏のほうなのだが、そう言ってくれるならまぁ、気にしないでおこう。
「それじゃ、みなさんとはもう――」
言いかけて、ぼくは急にその事実に気づいた。
そう、ちゅるるちゃんたちとお別れなのだ。
また会える保証もない。というか、会えない確率のほうが高い。
昨日の夕方からのほんのわずかな時間しか一緒に過ごしていないのに、もの凄く寂しく感じる。
なんだかんだで、ぼくは彼女たちと過ごした時間が楽しかったのだ。
ぼくは彼女たちとの別れに寂寥感を抱きつつ、ちゅるるちゃん、にゅるるちゃん、みゅるるちゃんを順に見た。別れを惜しんで涙ぐんでくれると思っていたわけではないが、案の定、誰も悲しがっていなかった。
「名残惜しいですが、これにて失礼!」
アズズ氏は爽やか笑顔のまま踵を返した。すると、この蜂蜜漬けの空間が渦巻き、アズズ氏の進行方向にトンネルのような道が出来上がった。アズズ氏がトンネルに入ると、すぐにその姿が見えなくなる。さすが神様、どこへでも行けるし、どこからでも帰れるってことか。
三幼女が続こうとする。
「……ちゅるるちゃん、にゅるるちゃん、みゅるるちゃん、元気でね」
「それじゃね、慎太おにーさん。なかなか楽しいバカンスだったわ」
みゅるるちゃんは立ち止まって顔の横で手を振り、かわいい笑顔を見せてくれた。が、それも一瞬のこと。すぐにぼくの前から駆け出した。
「あ~ん、待ってください、アズズ課長~」
みゅるるちゃんの甘えた声が遠ざかっていく。フェレットは相変わらず鼻風船を膨らませて萎ませていた。なんと言うか、みゅるるちゃんらしいお別れだなぁと思っていると、ちょいちょいと裾を引っ張られた。
「お世話になったのです。それと……」
「?」
「ちゅるるちゃんを助けてくれてありがとうなのです」
助けられたのはぼくのほうなのだが、にゅるるちゃんの中ではぼくが助けたことになっているらしい。否定するのは簡単だが、お別れの挨拶でそれはいただけない。
「ちゅるるちゃんはこれからの方が大変みたいだからさ、にゅるるちゃん、ちゅるるちゃんの力になってあげてね。一番大切なお友達なんだから」
にゅるるちゃんは恥かしそうな、でも嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。鳩のおしるこさんはにゅるるちゃんの頭の上で頷いている。ぼくがお別れの意味を込めて手を振ると笑顔のまま手を振り返し、にゅるるちゃんはトンネルの中へとてくてく歩いていった。
さて……。
ぼくは小さな小さな淑女の前に片膝をついた。ちゅるるちゃんの青い瞳を真っ直ぐに見る。
「さっきはありがとう、味方になってくれて」
「ちゅ? ちゅぅぅぅううううう……」
ちゅるるちゃんは初めて無糖のコーヒーを飲んだみたいに口をもにゅもにゅさせる。
「ありがとう、しっかりしろって励ましてくれて。ちゅるるちゃんは『何もできない神様』なんかじゃないよ」
きみのおかげでぼくは立ち止まることができた。立ち向かうことができた。
居心地悪そうに身じろぎする死神幼女は、見慣れない感じがして可愛らしい。
「み、味方じゃないでちゅ! ちゅるるが慎太の魂を刈るためでちゅ!」
ちゅるるちゃんは憎まれ口を叩くと照れ隠しに「べーっ」と舌を出し、駆けだす。
ぼくは人生の最期にまたこの子に会えるかも、とちょっと期待する。できればずーっと先の未来であればいいなと思っているうちに小さな小さな女の子の後姿はトンネルの中に消えていった。騒がしくて傍迷惑な竜巻みたいな死神様は振り返りもしなかった。
「――すみません、もろみさん」
「待ったんだから」
もろみさんの声は咎めるものではなかった。ふたりに目を向けると、もろみさんは愛しいひとにしか見せない表情を浮かべていた。
「でも、それは許してあげる。あなたは帰ってきてくれたから」
当たり前といえば当たり前だが、まるっきり恋人同士の会話なので、部外者のぼくはなんとも目のやり場に困った。とは言え、ぼくは一人で帰れないので聞こえていないフリをして誤魔化すしかない。
「知ってる? 女の武器は涙だけじゃないって」
ゴージャスお姉様のセリフとも思えない。しかし、もろみさんが長い時、リリエラ氏を一途に思い続けてきたことは厳然たる事実だ。
リリエラ氏はもろみさんの気持ちに応えて、神様たちの世界に行ってしまうのだろうか? でも、ちゅるるちゃんのことをアズズ氏にお願いしていたくらいだから……。もろみさんもきっとそのへんを分かっているはず。だから、こうやって別れを惜しんでいるのだろう。
「リリエラ」
「……はい」
「信じて待つことができるのも女の武器なの。私はまだ待てる」
「…………はい」
「ちゃんと迎えに来なさい」
「………………………………」
「返事は?」
試すように、挑発するようにリリエラ氏の目を覗きこむ。
「……はい。必ずあなたを迎えに行きます」
「よろしい♪」
ああ、ほんとに嬉しいとき、このひとはこんな笑顔になるんだな。もろみさんの笑顔が眩しい。リリエラ氏も目を細めて、もろみさんの笑顔を見つめている。
「じゃ、約束ね」
もろみさんの瞳に悪戯っぽい光が踊る。
細くてしなやかな腕が雅やかに伸ばされ、リリエラ氏の首にかけられる。そこからは一瞬だった。もろみさんはリリエラ氏の首に抱きつくと、有無を言わせず愛する男の唇を奪った。リリエラ氏に為すすべなどあろうはずがない。
しおらしいことを言っていても、やっぱり肉食系。ゴージャスお姉様の本領ここに極まれりだ。
リリエラ氏の唇の感触を充分に楽しんだ女傑は、飽きたと言わんばかりにリリエラ氏を突き飛ばした。
「約束の証はもらったわ。楽しみに待ってるから」
短すぎる別れの言葉を残し、女傑は女傑らしく、いささかの未練も見せずリリエラ氏に背を向けた。そして、ぼくを観客に見立てて、ウィンクひとつ。闊歩する調子でアズズ氏の作った渦巻き状のトンネルをくぐって行ってしまった。
トンネルはもろみさんを飲み込むと間もなく自然消滅してしまった。
初めからそこには何もなかった、そんな感じだけが残った。
苦笑いしつつもろみさんを見送ったリリエラ氏がぼくに視線を転じた。
「我々も帰るとしようか」
「はい」
と返事をしたのと同時だった。
世界がひっくり返った。
針の穴ほどの微小な口を通して、巨大な袋の内側と外側を一瞬で引っくり返したように世界が変容したのだ。
すべての流体が過ぎ去って、ぼくは自室の真ん中で立ち尽くしていた。
ちゃぶ台、型落ちしたテレビ、古びた畳、狭い部屋。
自分の部屋のにおいを随分と懐かしく感じる。
立ち尽くすぼくの前に、胡坐をかいて座り込んでいるリリエラ――いやもうこれは如月氏か。かつての如月氏とさきほどのリリエラ氏、両方の雰囲気を纏った感じがする。なんというか、眼差しからしてもう知的な感じがするのだ。たぶん、幼女で発狂することもないはずだ。
そのニュー如月氏が人を陥れるときに誰もが見せる輝かしい笑顔を向けてきた。
「さて、キミは幼女教に入信すると言ったね」
「!」
「キミに幼女教司祭の地位と責務を譲ろう!」
「あ、あれは!」
「自分で入信すると宣言したんだ、異論はあるまい?」
た、確かに。
ぼくはなんと恐ろしいことを口走ってしまったのだろう。小一時間前の自分を全力で殴り飛ばしたくなった。
「さあさあさあ! 今宵は新司祭の誕生を祝おうじゃないか!」
悪意のない笑みを浮かべ、如月氏がぼくを追い立てる。
ぼくは先代司祭の手から逃れ、裸足で部屋から飛び出す。足の裏にひんやりとした地面の冷たさを感じる。構わずそのまま走り出す。
走り出したい気分だったのだ。
後ろから如月氏が「走れ! わこうどよ!」と笑いながら声援を送ってくる。ぼくはその声を聞きながら、明日、学校に行こうと思った。
もしめげそうになったら、「ちゅるるるるん♪」と盛大に麺をすすって景気づけしてやるんだ。
夜空を見上げて走りながら、ぼくはそう決めた。
〈了〉
ちゅるるるるん♪ ふてね @_-_
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