第4話
汽車を降りた時に感じた空気の慣れない感じは、自宅へ近づくごとに薄れていった。入れ替わりに帰国を強く意識するようになる。空気の質が違う国の生活は遠里の肌を変化に敏感にしたようで、五十年近く慣れ親しんだ北九州の夏を初めて経験するような心地であった。
家の門をくぐって帰宅を告げると登世が出迎える。これも長年繰り返してきたことだが、不思議と新鮮であった。
「どうされましたか」
心持ちの微妙な変化を感じ取ったように登世は小首をかしげた。年相応に色艶は薄れたが、わずかな仕草で心を和ませる様は変わらない。彼女自身からしばらく離れているといっそう感じ入ることができた。
「久しく会っていなかったからな」
遠里は素直に心情を語った。
「そのような格好が慣れないせいでしょう」
登世は背広を指して、上着だけでも脱げばよろしいのにと笑った。ぎこちなさは着慣れない洋服のせいもあったのだろう。髷は過去の風習となって久しく、都市部では洋装も珍しくなくなってきたが、遠里自身は髷を落とした先へなかなか踏み込めないでいる。今回背広を身につけたのは、相手方に合わせたためだ。
「今回はお上の要請でこんな格好をしているからな。家に帰り着くまでは気を抜けぬよ。勧農社の社長が気の緩んだ姿を見せては示しもつかぬだろう」
言いながら遠里は背広の上着を登世に預けた。彼女も扱い慣れぬ服を、戸惑いがちの手つきで受け取った。
汗で濡れた洋服を全て脱ぎ捨てて、遠里は内着に着替えた。そして庭先へ降りる。庭の片隅に根付いて久しい南瓜は花をつけていた。
「今年もこの季節か」
何気なく捨てた種から芽を出した南瓜は、食用に育てるものは条件の良い畑へ移したが、それとは別に庭の片隅に残したものもある。自然の円環を前にした時の気持ちを忘れないために育てているもので、どんなに実りの悪い年でも一つは実をつけてきた。
代を重ねてきた南瓜を育てたのは自然の土と光である。しかしそれだけでは二年程度しかもたなかっただろう。何年も代を重ねることができたのは人の力だ。人には及ばざることがある。さりとて自然の力も万能ではなく人の力が重ねられる余地があるのだ。
人も捨てたものではない。我が身を振り返って思うと笑みがこぼれた。
「内着のままで、はしたない」
登世が呼んだ。
「良いではないか」
振り返って笑みを向け、遠里は登世の元へ戻った。
「お疲れではないのですか」
縁側に座った遠里に、横になる準備もできていますのに、と登世は言った。
「気が高ぶって眠れそうにないのだ」
偽らざる気持ちであった。ドイツのハンブルク港に降り立ったのは数ヶ月前の出来事で、その後フランス、アメリカ、インド、ベトナムと回った。経験のない環境や文化のただ中で気疲れもしたが、見聞が広がっていくことに興奮し、その高ぶりが未だに続いている。
勧農社設立以後、遠里は所属の実業教師を各地へ派遣する事業を始めた。中国から近畿地方を中心に実業教師は歩き、遠里の十数年の研究成果を広めていった。世間の評判は遠里自身の信認にもつながり、講演の依頼も相次いだ。勧農社設立直後から依頼は途切れず、林遠里と勧農社の名前を全国的へ広めていった。
有力な政治家を名誉社員に据えたのが功を奏したのか、遠里の名前は農商務省にまで伝わった。今回の洋行はドイツのハンブルク港における商業博覧会での説明委員を務めるためのものであったが、要請してきたのは農商務省であった。
「まさか洋行を依頼されるほどになるなんて」
海を渡ることになると明かした時の登世は心配を隠しきれなかったが、無事に戻ってきたことで安堵しているようであった。
「心配は要らぬと言っただろう」
登世の心配を除くために、福沢諭吉や岩倉使節団が洋行の結果大きな実りを手にしてきた話をしてやった。登世の心情を思えばそれは的外れであったが、地に足が着いた今はどうでも良いことであった。
「昔に比べたら信じられないことです」
帰農した時は農業への希望より、変化を続ける世の中への憤りが原動力となっていた。開墾を続けなければ成り立たない仕事は、身分によって禄を得られていた頃には考えられなかったことで、それが打ち切られることで経験した動揺は、やがて若い士族たちの血気盛んな行動につながった。それらを乗り越えてたどり着いた地位と得られた信頼である。遠里自身信じられないところもあるが、養うべきなのは家族だけではなくなった今、社長として堂々と振る舞わなければならない。
その夜は家で休んだが、次の日から遠里は勧農社へ出向いた。登世は心配したが、本当なら帰ってきた直後に行きたかったところだ。自分が離れていた数ヶ月間を副社長である息子の誠が守っていたはずだが、これほど長い留守は初めてで不安だった。
その誠も、父が帰着した翌日から動き出すとは思いも寄らなかったようで、休んでいれば良いのにと心配しきりであった。
「自然が相手では休んでいられんよ」
そう言いながら遠里は、誠と共に社長室へ向かった。それほど広くはないが、実業教師の名簿などを保管する大事な部屋である。
遠里が洋行している間も実業教師の派遣は行われ、特に東北からの要請が多かったため、それに応じて人を派遣する数ヶ月であった。
「福島と宮城からの要請が多かったので、多く人をやることになりました」
実業教師の仕事は、究極的には林遠里の代わりをすることである。資格を得るための試験には、鳥取県庁から発行された講演筆記を暗誦し、更に遠里から口頭試問を受けるというものがある。実業教師とは、遠里の代理として寸分たがわぬ指導と講演ができることを求められる仕事であった。
「寒水浸や土囲法の評判はどうだ。実業教師たちはちゃんと伝えられているのか」
それは陰陽思想と結びつけた独自の農法であった。中国から伝えられた陰陽思想において、寒気は陰の極、陽の元にして万物発生の気を含めるものであるから、春に芽吹いて秋に収穫するものは冬に種を播くべきであると説いた。しかし稲は冬に播くことはできないので、種籾を水に浸したり土中に囲ったりして寒気に触れさせておく。そうすることで冬に播かれたのと同じ効果を得られ、増収を図ることができるというものであった。
「実業教師たちの資質に関しては、父上が一番よく知っているでしょう。寒水浸や土囲法についても、熱心に取り組んでいるようです」
遠里は一つ手応えを感じた。寒水浸、土囲法共に誰の助けも借りずに作り上げた独自の農法である。それが受け入れられたのなら、農業指導者としての名声も高まっていくはずである。
二つともしっかり行えば収量は二倍、三倍と増えていく。陰陽思想がどこまで受け入れられるか不安もあったが、世の中の農民たちは文明開化をはじめとする物事の西洋化に食傷気味であったようで、東洋的な思想に基づいた農法は好評ということであった。
「犂はどうだ。いくら種が良くても土をうまく耕せなくては持ち腐れになる」
誠にとり、一番報告したいことであったらしい。彼は柔和な顔を嬉しそうにほころばせた。
「東北などではまだ湿田が多く、暗渠排水についての理解も得られていないので広まるには時間がかかるでしょう。しかし九州や山陰などではだいぶ受け入れられています。元々それらの地域には受け入れられるだけの土壌もありました。そこに勧農社のお墨付きと進んだ農法が入り込んだのでいっそう盛んになりました。もはや我が社が福岡農法の中心と言っても過言ではないでしょう」
「過言だ、傲るな誠」
息子を一喝しながら、そう思ってしまうのも無理はないと思った。父親は有力政治家たちを会社の名誉社員にする手腕を発揮し、各県の知事と厚い信頼を築き上げた。各地から講演依頼が相次ぐ時の人となった父を、息子は誇らしく思っているようであった。
息子に尊敬される父親を目指したわけではないが、それも悪くないと思えるようになった。帰農したばかりの頃は開墾した土地を維持するため必死で働いて知恵を絞ったが、その集大成が会社設立になるとは思いも寄らなかった。
しかし当時と変わらない気持ちが一つだけある。遠里の胸には、今も不平士族の反乱に身を投じて死んでいった若者たちの面影が残っていた。
自分や勧農社は、士族たちの希望になれているだろうか。そう問うと、誠は是非もない様子で頷いた。
「社長が元士族というだけで、大きな希望として見てくれる人もいます。きっとその人も士族だったのでしょう。父上と同じ立場で、同じ道筋を行こうとしています。それは日本の発展にとっても良いことなのではないでしょうか」
北九州の片隅で続けてきたことが、日本の発展に寄与するかもしれない可能性を得た。それだけで充分とも思えたが、養うべき人が増えた今はできるだけのことをしなければならないのも宿命であった。
遠里の寧日は遠く、翌日も鳥取での講演依頼が入っていた。実業教師にも同じことができるように仕込んだつもりだったが、本物の方が良いのか、遠里自身の人気は衰えなかった。
この日中心に据えたのは農具、とりわけ犂のことについてであった。
「日本の農具はどれも完全なものとは言いがたい」
県の公会堂に集まったのは老いも若きも様々であったが、皆一様に日焼けして、土の匂いが漂ってきそうな顔ぶれであった。
その男たちは、前のめりに遠里の話を聞いている。ちょうど勧農社の実業教師が来ることになっている土地だから、ここで社長自らが講演をすれば受け入れる土壌も作りやすいであろう。そう思って言葉を継ぐ。
「農具の改良は今日農家が努力せねばならないことであるから、よく研究しなければならない。今日は犂のことについて話そうと思う。日本で使用される多くの犂は、深さを一定にするための工夫が設けられている。そのため扱いは容易だが、代わりに深く耕せないので作物はよく育たない。収量を上げたければ深耕を実現しなければならないが、それができないとあっては犂を使う旨みも薄れてしまう。しかし、私の地元、筑前で使われている犂は、扱いやすくするための工夫がないので労力はいるが土をより深く耕すことができ、作物の生育もよくなる」
遠里は筑前で使われている犂として、抱持立犂を紹介した。犂には犂床という部品がついている長床犂と、ついていない無床犂がある。抱持立犂は無床犂に分類される犂で、犂床がない分安定せず、一定の深さで耕耘を進めるには熟練が必要とされている。
「抱持立犂をはじめとする無床犂は使いこなすのが難しいかもしれない。しかし人が作ったものであり、使える人間もいる。我が勧農社からも、うまい使い方を教える人間を派遣しているので、是非使いこなせるようになってほしい」
講演の次は、来たる実業教師による実演であった。受け入れやすい土壌を作ったところで社長の仕事は終わり、翌日には福岡へ戻ることになる。できれば自分も実業教師として全国を飛び回ってみたいが。洋行の時のように国からの依頼でもない限り私事都合となるだろうし、それではせっかく育てた実業教師たちの仕事場を奪うことになりかねない。
講演会場から引き上げる準備をしている時であった。ためらいがちにかけられた声に遠里は足を止めた。
「今、お時間、よろしいですか」
発音は悪くないが、言葉のつながりが途切れがちで、経験の少ない言葉を喋っているのが瞭然であった。それでも遠里は背広姿の男に好感を持てた。慣れない言葉で語りかける懸命さが、男の人となりを伝えてきた。
遠里は言葉少なに返事をした。相手が異人であるのは瞭然で、少し戸惑いも覚えている。それを見透かされるのは癪であった。
「先ほどの講演、聞かせていただきました。興味が持てました。それで、少し、お話をと思いまして」
言葉をうまく組み立てようとして、空転しているような感じがした。見たところ欧州の人間のようで、ドイツ語ならわかると伝えてやるべきか迷った。
「それはそれは。農学校に招かれたのですか」
ややあって遠里は日本語で応えた。彼が懸命に相手に合わせようとしているのを無駄にはしたくなかった。
「いいえ、地質調査所です」
異人はマックス・フェスカと名乗り、地質学者として来日したことを告げた。地質研究と犂の話がどこで結びつくのか考えたが、現在は駒場農学校で農学の講義をしているとフェスカは明かした。
「林遠里先生が講演をすると言うので、聞いてみたくなりました」
専門が異なるとはいえ、政府に招かれるほど有能な異人の注目を浴びるのは、思いがけないと同時に嬉しいことであった。
「地質研究の一環として、農業改良の研究をしているところです。先ほどの講演、お噂に違わず、素晴らしいものでした。私も農業改良に犂は欠かせないと考えます」
その理由を、フェスカは深耕を充分に実現できる道具だからと説明した。
「私が見た限り、施肥量が充分なのに収量が上がらないことが多くあるように思えません。きっとそれは、深く耕せないために作物の根が深く張れないためと考えます。この問題を解決するには、六寸は必要でしょう」
異人の口から寸という単位が出てきたのも驚きだが、驚くほど似通った見方に引きつけられた。
「よく学ばれておりますな」
そう言うとフェスカは礼を言った。大きさで日本人を凌駕する骨格ながら、その仕草は堂に入っていた。
「今度来る実業教師には乾田の必要性も説かせるつもりです。常に水が湛えられた状態の田では肥料が根に吸収されにくいですからな」
「乾いた田では土が硬くなります」
「だからこそ、犂を使うのです」
フェスカとて日本の田の状況についてそれほど明るいわけではない。しかし地質学者だけあって、土に注目して新たな農業技術を編み出そうとするのは新鮮であった。講演が終わったばかりの疲れも忘れて遠里はフェスカと話し込んだ。
鳥取に調査で出張してきていたという彼は、二ヶ月後に福岡に現れた。今度は農業、特に犂の使用状況について調べるということであったが、その中心にあるのは福岡農法を全国に発信する勧農社であると聞いたと言い、遠里がいる間に会社を訪ねてきた。
遠里はフェスカをもてなしながら、異人の男からもっと話を聞いてみたいと思った。互いが持つ知識を交換する約束をした。
互いの予定を合わせて、落ち着いてもてなせる日が来るまで一週間かかった。異人が来ることを事前に伝えてはいたが、それでも登世は緊張しきりであった。
登世が準備した酒を注いでやると、フェスカは物珍しげに透き通った酒をのぞき込んだ。ライスヴァイン、という呟きが聞こえた。
「日本の酒は初めてですか」
そう訊くとフェスカは顔を上げ、ドイツにいたことがあるのですか、と訊いた。
「少し前にドイツのハンブルグ港に行っていました。農商務省の依頼で、博覧会の説明委員をしに」
「そうでしたか。本当に、日本人は熱心です。政治の体制が変わって二十年程度しか経っていないのに、もう憲法を作るところまで来ている。それでいて学ぶ気持ちと革新を疎かにしない」
「当然のことでしょう。私はハンブルグ港で初めて世界に触れました。アメリカのマシュー・カルブレイス・ペリーが多くの文物と共に横浜に降り立ち、それに日本人が魅了された気持ちがわかりました。あれを実現する者たちの背へ追いつき、追い越したいと思えば、あなたの言う学ぶ気持ちと革新を疎かにしている暇はない」
「駒場での教え子たちを思い出します。歳は違えど、あなたと同じ目をして学びに励んでおりました」
フェスカは自分自身の経歴について語り出した。勧農社設立の前年となる明治十五年に来日したフェスカの肩書きは地質学者であり、あてがわれた仕事場も地質調査所であった。本来なら農学は畑違いのはずだが、農学も地質学も土が密接に関わる学問である。本業の研究を進める内に興味を抱き、やがて教え子を持てるほどの知識を蓄えるほどになった。
土を知る男が、土に生きる男たちの仕事に触れ、その長所と短所を知るのも必然であった。フェスカはにんじんの白和えを、異人にしては器用な箸さばきで口に運び、味の良さを喜んでいる。そして米から作られる酒をすすり、農民たちの仕事ぶりを賞賛した。
「こういうものが広く作られるようになるのを望みます。そのためには学問と技術と、それを伝える人が必要です」
「実業教師はそのためにいます。期待にも応えられましょう」
遠里は言い、新たな酒を注いでやった。フェスカもすぐに応える。知り合ってから短い間柄だが、同じ地平で生きると思うと距離感は限りなく短いものに思えた。
フェスカは教え子たちのことを語った。若い彼らがどのように日本の発展に寄与していくのかと思うと楽しみだと言い、当初のぎこちなさの取れた顔で笑った。
その話の中に、横井時敬と酒匂常明という名前が表れた。何かつながりがあるのかと訊くフェスカに、敵ですよ、と笑った。
「いや、私は特に何も感じてはいませんが、向こうは私のことを苦々しく思っているようでして」
横井時敬と酒匂常明は、共に駒場農学校を出た農学者で、若いが優秀な学者だと聞いている。直接的なつながりはないが、二人ともよく批判的な文書を送りつけてくる。特に寒水浸や土囲法についての批判はすさまじいものがあった。
「横井は今、農商務省にいます。そのせいか、農商務省にも私に批判的な人間が多いようで。この前の洋行でも、農商務省の役人に殺されるのではないかと警戒しながら行ったほどですよ」
登世に聞かれたら卒倒しかねないと頭の片隅で思ったが、彼女は今繕い物をしているはずだ。
「しかし横井の言う塩水選、あれは素晴らしいと思います」
「簡単にして確実、しかもこれまで注目されてこなかった種籾の扱いに関する方法です。横井はきっと、何かを変えるでしょう」
まだ公式に発表されていないが、遠里も同業者として横井が考え出した塩水選のことは聞いたことがある。種籾を塩水に入れて沈んだものを播く。塩水に浮かなかった種籾は栄養分である胚乳が多いため育ちやすく、良種を残しやすくなる。特別な技術や知識の要らないやり方は革新の足がかりとなるはずであった。
「批判に、腹は立たないのですか」
フェスカに訊かれ、遠里は首を振った。
「批判と言っても、彼らは感情任せで私を貶めているわけではない。むしろ受け止めてやりますよ」
遠里は更に、実業教師には横井や酒匂が唱えるやり方も必要に応じて伝えても良いという指示を出していることを明かした。慢心は禁物だが、勧農社が名実共に福岡農法の中心となる日も近いだろう。その時反対意見を受け入れられない狭量さを持っていては困る。器の大きさを示してやることで、派手な宣伝だけの会社ではないことを示してやるのだ。
「しかし勧農社は、日本農業の発展を目指しています。批判も賛同も全て受け入れた活動ができれば、それは必ず発展へつながります。それこそ目標なのですから」
賛同と批判が世間からついて回るようになったのは会社設立の直前からであった。名誉社員に有力政治家を迎え入れるというやり方を実現したのは遠里自身の人脈によるものだが、汚いやり口という批判が外から聞こえ、内側からは画期的という賞賛が上がっていたのだ。それは実際に勧農社を設立した後で強くなり、一日たりともやまなくなった。
それだけ世の中全体から一人の農学者に至るまで、勧農社に注目しているということだろう。社長として冥利に尽きると思いながら、遠里はずいぶん遠くへ来たものだと思った。開墾に精を出していた頃には思いもしなかった結果である。
「この国はどう見えますか」
フェスカの周囲には誰もおらず、自分もまた同じである。加えて実直な人柄から、率直な意見が期待できた。
「夏を迎えた、熱い国でしょうか」
ややあって言ったフェスカは、すぐさま言葉を重ねた。
「いや、世の中の動きが、そう見えるのでしょうか。いずれにせよ、変化が楽しみな国ですよ」
見る人が見れば事情も変わるものだと遠里は思った。帰農したばかりの頃は、誰もが変化の大きさに戸惑っていたし、そのうねりに飲まれたように息絶えた者もいた。とても楽しみに思う余裕はなかったが、地位を築いた今はゆっくり振り返ることもでき、異国からの来訪者が語る日本像に頷くこともできた。
「ドイツなどから見れば少年のようでしょう」
約三十年前に幕府が結んだ不平等条約は未だに効力を持ち、発展のための足かせになっていると聞いている。端的な原因は国力の差だと言われ、フェスカのように異国から好待遇で教師を雇い入れるのは、条約改正に情熱を燃やす政治家たちの気持ちの表れであった。
自虐的な遠里の言葉に、フェスカは首を振って応じた。
「確かに、今は少年のようと言っても否定はしませんが、その少年も着実に育ってきていると、私には見えます。国には国の、政治家には政治家の思惑はあるでしょうが、少年が大人となる日も近いように、思っています」
三十余年をかけての成長としては遅いようにも思うが、あまたの人間が支える国の成長は一筋縄ではいかないものだろう。遠里は世辞のないことを信じて頷いた。
フェスカは日本という国を夏の少年にたとえて言い、それをまかなうために生産高の底上げが必要だと説いた。それを実現するのが、講演で遠里が取り上げた抱持立犂であると言う。
「西洋式のやり方をただ導入するだけでは、実情に合わずうち捨てられるだけです。抱持立犂は古来使われてきた道具です。あとは全国へ広めれば、必ず生産高も上がります。それを成すのは実業教師でしょう」
政府からのお墨付きを得て来日している男からの賛辞は何よりも力になるような気がした。
「それほど興味がおありなら、一度見てみますか。今度新潟へ行きますが、講演の後に私が実演もやることになっています。実業教師の都合がつかなかったので、今回は特別ですが」
「社長自らやるのですか」
「帰農してから二十年が経っています。今や社長業より農業の方が性に合うほどですよ」
農民としての毎日は、武士として過ごした時間に迫る長さになっていた。これから先武士が復活することはないから、農民生活が武士として暮らした時間を追い抜くのは時間の問題であった。
約束の日に遠里は新潟へ飛び、フェスカとは現地で会った。新潟の山間の村で、休耕田を使った実演である。来年以降馬耕の練習をするために開放される予定の土地で、その周囲は黒山の人だかりであった。
狭いあぜ道には蕎麦の屋台まで出ており、主旨を忘れそうになる雰囲気さえあった。
「まるで見世物でしたね」
その様子を見ていたフェスカは、苦笑しながら言った。
「実際に見世物だったのでしょう。娯楽が少ない土地ですから」
時々瞽女が門付修行に訪れることがあるというが、それだけでは若者たちの好奇心を満たすには足りないのだろう。特に東へ行くほど乾田化が進んでおらず、牛馬の使い方も荷役以外にない状況である。現地の人々が思いも寄らない方法で田畑を耕してみせたのは、大いに興味を引いたはずである。
「どんな形でも関心を持ってもらうのが一番ですよ。そうでなければ始まらない」
実業教師たちは、必要なら笑いを取ることもやるように言っている。それに反発する者もいるが、評判が良いのは相手と柔軟な関係を築ける者である。
「ねえ、フェスカさん。実業教師というものを派遣するようになって思ったのですが、蒲公英をご存知ですか」
「レーヴェンツァーン、ですね。もちろん」
「その蒲公英の綿毛が飛んでいくようだと、北九州で実業教師たちが派遣されていくのを見て思うのですよ。言うなれば実業教師は風、犂は綿毛、我らの仕事は綿毛が芽吹く土地を作ることではないかとね」
自然の種と違って、芽吹くまで時間がかかるかもしれないが、人の手を介して育てられる芽は長い命を得るはずだ。庭の片隅にある南瓜が、未だに代を重ねているように、人の手は決して無力でも矮小でもない。
「そんなあなたの行動を批判する者もいますが、彼らに反論しようとは思わないのですか」
横井や酒匂の言葉に反論することは容易で、そのための道具も遠里には揃っている。それでも遠里は、それらを駆使したことはない。
「自分の信じるやり方を貫くことが、既に彼らへの反論なのですよ。どちらが正しいかいずれ答えは出るでしょうし、どちらにしても後世のためになります。たとえ間違っていても、反面教師ぐらいにはなれます。どんな形でも、人に教えを残すのが教師の役目ですから」
率直に語った思いは、フェスカの胸にも通じたようであった。何かを得心したような顔をして、私もそのために招かれているのです、と言った。
「この熱く若い国の発展のために」
そう言って二人は、杯を付き合わせた。米から作られる透明な酒が揺れ、土から生まれた杯が短く素朴な音を立てた。
世間の勧農社に対する要求が衰えることはなく、遠里は社長として働く間各地の講演依頼に引っ張りだこであった。それは勧農社への要求でもあり、新たな農法の希求の表れでもあった。
最盛期となった明治十八年(一八八五年)から二十六年(一八九三年)の間に、勧農社は三十の府県に四五〇人を超える人数の実業教師を派遣した勧農社は、創立から十五年後の明治三十二年(一八九九年)に活動を終える。寒水浸や土囲法といった陰陽思想を採り入れた農法は、収量の倍増を謳っていたこともあり、失敗が相次ぐと凋落も早かった。しかしその点を除けば、福岡農法として広められた高い技術力を確立したこと、牛馬耕を広めマックス・フェスカと共に犂を掘り起こした功績はたたえられ、勧農社は世間に多大な刺激を与えてその役目を終えた。
勧農社の廃業が正式に決まった翌日、遠里は夜も明けきらぬ時間に目が覚めた。そしていつものように出かける準備をするのだが、顔を洗っているところで自分がもはや社長ではなくなっていることに気がついた。
社長でないのなら何になれば良いか。老い先の短い人生ながら、投げ出してはならない命題であった。
日が昇り、登世と共に朝餉を摂る。少し体が落ち着いてから、遠里は思いついて庭に降りた。作業着に着替える時間ももどかしく感じて、遠里は内着のままで靴を履く。庭の片隅には思った通り南瓜の芽が出ていた。気温の高まりと天気の推移を長年の経験と照らし合わせて、もうすぐ芽吹くと予測していたが、それは間違っていなかった。社長を辞めたとしても、まだ農夫としては現役でいられるかもしれない。
登世が呼び、はしたないと笑いながら咎めた。
良いではないか、と笑い返しながら遠里は登世の元へ戻る。こんな会話を、あの南瓜が芽吹くきっかけの直前に交わしたような覚えがあった。
南瓜が芽吹いたことを言うと、登世は勧農社の社長の面目躍如ですねと笑った。もう社長ではないと苦笑すると、周りはそう思っていませんよ、と水を湯飲みに注いだ。
「福岡農法を広めた一番の功労者なのですから。それは一生ついて回る宿命になったのですよ」
横井や酒匂などは、目の敵にしていた勧農社がつぶれたことで目標を達したように感じているかもしれないが、彼らにとって間違ったことを教え続けた元凶は健在なのだから、何かをやろうとしたらまた抗議が来るかもしれない。そうだとしたら、彼らにとっての林遠里はいつまで経っても勧農社の社長なのだ。一農夫には最後の最後までなれない。
「老人に無理をさせないでくれ」
言いながら遠里は笑みがこぼれた。どこまで枯れたとしても、まだ求めたり注目したりしてくれる人がいる。理由を考える前に、嬉しさとなって遠里を満たした。
「全てはあの時始まったのだな」
登世は小首をかしげて、何のことでしょうと訊いた。
「種を何気なく捨てたあの夏に南瓜は芽吹き、安定していたはずの職を得ていた一人の士族も帰農を決意した。自然があの種を生かさなければ、もっと違った人生になっていたな」
登世は微笑むにとどめた。安定した職を捨てて帰農した夫についていくことは苦労になっただろう。思うことはいくつもあるに違いない。しかし全てを胸にしまいこんで、脇で微笑むことを選んだのだ。そうでなければ、名声や地位を築いた夫の輝きをくすませることになるからだ。
「そうそう、少しお待ちください」
何かを思い出したように登世は弾みをつけて立ち上がり、家の奥へ消えた。ややあって戻ってきた彼女は一枚の文を渡した。
書かれている文字はお世辞にも上手いとは言えないが、その分懸命さが強く伝わってくる。慣れない言葉で誠実に思いを伝えようとした男の声が聞こえてくるようだった。
「以前いらした異人の方ですね」
登世は差出人の名を見て言った。
フェスカは五年前に帰国し、ゲッティンゲン大学の教授に就いている。お雇い外国人として日本で過ごした日々は、彼の著書日本地産論に集約されており、その功績を活かして現在も学問に生きているようだった。
自分自身のことを伝える一方で、遠里への激励の言葉も含まれていた。犂を見つけ、深耕の必要性を知り、それを全国へ広めた人との出会いは誇りであった。これからも日本農業の発展に寄与することを期待する。海の向こうへ戻っても日本の抱持立犂を忘れずにいることで、遠里は自分の国が誇らしく思えた。
そしてこれからも活動を続けてほしいとも書かれていた。どこか心配するようなフェスカの顔が思い浮かび、要らぬ心配だ、と呟いた。
「今度は熊本へ行くことになっている。巡回講演だ」
登世が言うように、やはり世間は勧農社の社長として自分を見るだろう。会社がなくなったとしても、その事実がなくなることはない。
登世は微笑み、静かに応じる。
「老け込む暇もなさそうですね」
「嬉しいか」
「とても」
互いに素直な言葉を重ねて笑い合う。南瓜の芽が風に吹かれていた。三十年前に捨てた南瓜の種は自然の円環の中でいくつも代を重ねてきた。その壮大さは素晴らしい。されど、それは自然の力だけではない。及ばざる事ばかりを抱える人の力を添えてこそである。
庭に吹き込む風は、土の上に映る陰影をも揺らして過ぎ去っていく。梢の葉先が触れ合う音も絶えた瞬間、妻と二人きりであるのを強く思った。やがて世間に求められる通りの仕事をする日々が始まるが、それまで続くこの寧日を堪能するのも悪くない気分であった。
夏の芽吹き haru-kana @haru-kana
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