意識低い妹の夏休み

1 妹はアイデンティティを探さない

 意識の低さについて思い巡らすと、それにも色々種類があることをつくづく思い知らされる。

 あまりに際限さいげんがないので、その全てを捉えているという感触は残念ながらまだないものの、現時点でも様々の特徴を挙げることはできる。


 代表的なのは、何と言ってもまず情欲に左右され過ぎな性質だろう。

 妹は行動だけでなく、思考や価値観も、感情や欲望の強い影響下に置かれている。

 と言うか、ほとんど支配されてしまっているようにすら映ることもある。


 そんなのは思春期的な不安定さから来る一時的様態ようたいに過ぎないと考える人もいるだろう。

 実際、俺だってそう思おうとしたことは何度もある。

 しかし思春期の不安定さの根っこに通底しているものと言えば、人間であれ社会であれ、目で見たり触れたりしてきた部分の向こう側が見えてくることへの戸惑いや、そうした状況へ不慣れであるがゆえのたじろぎなどではないだろうか。


 妹が示すのが、自らの変化についていけず戸惑う姿だとか、情緒が乱れ荒ぶる姿だとか、一歩踏み出すことに躊躇するいたいけな姿といった、典型的な思春期の姿であったなら、ある意味それは安心感をもたらしてくれたていたに違いない。


 しかし、その点で妹は妙な落ち着きを示したりするのだから奇態きたい極まる。

 妹は心理的な懊悩といったものを感じさせない。

 妹が示す揺れ動きと言えば、「寝るべきか食うべきか」「これを買うべきかあれに使うべきか」といった、欲望間での優先順位を決めあぐねての揺れ動きばかりなのである。


 ひとえに自らの情欲に適合するかどうかで物事の価値を判断する妹の姿を見ていると、「割り切っている」だとか「達観している」といった風に好意的に形容することに、どうしても躊躇いを感じてしまう。

 はっきり言って、歪んだ価値観に基づいた悪癖だとしか、今の俺には思えない。




 他にも妹の意識低さには、知性の軽視という特徴が挙げられる。

 これが厄介なのは、知性を欠いているわけではないという点だろう。


 妹とて人並みの頭脳は備えている。

 なので、自らを取り巻く世界がどのように形作かたちづくられ、どのように動いているか、年相応には理解している。


 ただ知性を使って状況を把握しても、妹はそれを有意義に用いようとしない。

 それどころか「これはこのくらいでやっていればよいだろう」「それはその程度で十分だ」といった判断のために、せっかくの知性を駆使しているのだ。


 こうした思考様式は、目の前の物事に真面目に取り組もうとしないという習性として、生活のあらゆる局面で色濃く現出げんしゅつしてしまっている。

 もちろん、ことと次第によっては、そのような習性が身を助けることもあるのは分かる。

 たまの息抜きや、窮状に追い込まれた時に身をゆだねるくらいなら、誰も文句は言わない。


 ただ妹の場合、場当たり的な判断に頼り過ぎである。

 適当に考え、適当に振る舞うのを続けることは、妹自身の可能性をせばめ、彼女の未来を破滅に向かわせかねない、まことに危険な生き方だと、どうしても懸念を禁じ得ない。




 結婚式の際、俺が苦しんだ恋人出席問題などは、世間というものについて考えるキッカケとして打って付けの題材であったに違いない。

 慣習のわずらわしさ、文化の意義、人間関係の複雑さ、資本主義社会の利便性、大人の責任、家族のありがたみ、決断力の重要性、消費社会の悲哀――何であれ妹の人生に役立つ示唆を引き出すことが可能だろう。

 そうしたものを頭に浮かべれば、おのずと自らの振舞いや価値についても、考えが及ぶというものである。


 式後も、傍目はためには妹に特段の変化は見られなかった。

 が、いくら意識低いとは言え、妹も心の中に思うことは色々あったに違いない。

 それだけの感受性があることは俺にだって十分分かってはいるのだ。

 ぜひとも、心に浮かんだことと真摯に向き合ってみればよいのだが、そこに及ぶと妹の動きは著しく鈍くなる。




 妹は面倒から距離を置くことに抜かりがない。

 いざ面倒が自分に及ぶかもという場面では、如何いかに存在感を消し、面倒をうっちゃるか――妹はこのことばかりを考える。

 そのせいでこの技能ばかりが向上してしまってもいる。


 それとて、ひとつの処世術と言えば言えなくもない。

 が、それは飽くまでひとつでしかない。

 いくら今のところどうにかなっていると言ったって、それだけで世間を渡っていくのは到底無理な話だ。


 このような面倒への対処法は、単に周囲を取り巻く事象に対してだけ用いられているわけじゃない。

 内面的な事柄に対してもほぼ共通しており、何なら深刻度では、こちらの方がより高いと言えるのかもしれない。


 妹は自らの社会的な価値を模索しようとしない。

 アイデンティティーを探求したりもせず、むしろそれを唾棄だきするようなことばかりを口にする。

 当然、自分自身のレゾンデートルを巡っての葛藤なども見られない。


 将来何に成りたいのだと聞いても、かんばしい返答はそうそう得られない。

 「何もない」ならまだ良い方で、多くの場合返ってくるのは、「成るようにしかならない」「そういうことは考えないようにしている」といった、冷めた言葉ばかりなのである。




 何も完全無欠であれと要求しているわけじゃない。

 急ぐ必要はない、これから一歩ずつ経験を積んでいけばいい――俺たち家族はそう望んでいるだけなのだ。

 しかしそんな助言に対しても、妹は「自分などどれだけ成長したところでたかが知れている」と真っ向から向上心を否定する。

 悩み失敗するのが思春期なのだと同情的にさとしても、「自分はもうたくさん失敗してきたので十分だ」と開き直る。

 そんなことではこの急速に変化する現代社会で生活していけないぞと苦言しても、「それは社会の方が悪い」「そんな社会に未練はない」と言い捨てる。


 これが妹らしさなのだと受け止めるのは、現状を容認してしまっているようで気が進まないし、一種の諦めのようで自責の念を感じてもしまう。

 しかしこれが妹らしさ以外の何なのかと問われれば、言葉に窮するより他はない。


 やはり必要なのは妹の自覚――これに尽きるのだろう。

 ただ悲しむべきことに、待てども待てども何のきざしも見られないまま、高校入学後数ヶ月が過ぎ、夏休みがやってきた。

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