5 妹は坊主の前でも意識低い

 何の緊張感もなくリビングで駄弁だべっていた妹も、坊さんが運転する黒塗りのレクサスがやって来たのを合図に二階へドタドタ駆け上がり、自らの支度に取り掛かり始めた。


 残った面々の間から、妹の準備を待とうとの案は出なかった。

 リビングでの挨拶もそこそこに、一同は坊さんを隣の仏間へ招き入れる。

 そして早速読経にあずかろうと、おそなえ物であふれる仏壇の前へ順々に居並んだ。

 妹が再び姿を現すのは、そうして読経が始まろうとしていた時のことである。


 列席者のほとんどが、場に相応しい服を身に着けていたのを既にその目で見ていた以上、さすがの妹も配慮して制服を着てくるだろうと予想していた。

 しかし5分と掛からず何食わぬ顔でひょいと現れた妹が身に着けていたのは、予想していた制服ではなかった。

 くだんの――つまり長らく洗っていない、オシャレ着ジーンズなのである。


 上は幸いにもダルダルのTシャツのままではなかった。

 が、Tシャツの上に重ねて着ていたのは、ピラミッド様の四角錐が散りばめられた黄土色の柄物長袖シャツという、得体の知れない代物だった。


 一応ウェットティッシュか何かで顔を拭うなどはしたのだろう、目やにの塊はきれいに除去されていた。

 しかし化粧など当然ほどこされてはおらず、髪は雑なひとつくくりのまま。

 歯も恐らく磨いてはいないらしい。


 妹的な――と条件をつければ、一応身繕みづくろいの痕跡は見て取れた。

 妹的価値観に照らせば、あのジーンズやシャツは上等なオシャレ着ですらあるのだろう。

 もっとも俺たちがこの場に求めていたのは世間的な配慮である。

 こちらの基準に照らすと、妹の装いが法事の場にかなっていたとは決して言えないのだろう。




 格好はさておき、いざ坊さんがお経を読み始めると、列席者の一番後ろに、俺や甥姪たちと並んで陣取っていた妹も、坊さんの読経に真面目顔で耳を傾けていた。

 さすがに意識低い妹も、こうした儀礼の最中にふざけることはしないのだなと感心がないわけでもなかった。


 しかし明らかに浮いた服装と、やたら気合の入った真面目顔とが織り成すコントラストは、俺の中で不可思議の感を刺激した。

 これは俺の悪いさがである。

 一旦その点に関心を奪われてしまった俺は、式事への集中力を失った。

 なぜ妹はこれほどまでにバランス感覚を欠いてしまっているのか、一体全体こいつの美的感覚はどうなっているのか――といった事柄に惑乱し、祖父への弔意ちょういを忘れてしまっていたのだから、不出来な兄であると言わねばなるまい。


 当初キレイな正座を保持していた妹も、読経が続くうちに徐々に型崩れし始めた。

 それでも居苦しそうにもぞもぞする程度で、終わるまでは忍従していた。

 外面や内実はどうあれ、一応妹なりの誠意があったことにも言及しておくべきだろう。




 「なーんまーんだーぶー」と坊さんの美声での朗誦ろうしょうが終わると、親族は坊さんに対し口々に礼を述べ、お香を立てたりし始めた。

 取り分け祖母のキヨミは、亡き祖父への感慨もひとしおだったのだろう。

 坊さんに返礼するだけに留まらず、祖父や先代の住職にまつわる昔語りを行い始めた。


 祖母の話を無理に押し留める者はいなかった。

 ただ母親は長話が始まるのを見て取るや、直ぐ様キッチンへと退出した。

 正座の苦しみに耐えていた妹も、席を立つタイミングを見計らっていたのだろう。

 母の退出に合わせヨボヨボと立ち上がった。

 そして生まれたての子鹿のようにふらつきながら、前かがみの状態で自らのふくらはぎをジーンズの上から揉みしだき始める。


「足やべぇ」

「ケツ仏壇に向けんなよ」と俺は妹に注意する。

「やべぇ、立てない」

「ケツこっちに向けんなよ」


 徐々に仏間の密度が下がり始めると、妹は再び畳に腰を下ろした。

 そしてあぐらをかいた状態で、今一度、足のマッサージを入念に執り行っていく。

 それを片目に、俺もそろそろ仏間を出ようと立ち上がる。

 ただその瞬間、俺の目にあるものが留まった。

 妹の履いている靴下の裏側が、グレーに汚れているのだ。


「めっちゃ久々に正座したわぁ」

「お前そんな汚い靴下で――」

「これしかなかったんだから、しょうがないじゃん」

「それ洗ってないやつでしょ?」


 俺が苦々しく指摘すると、妹は自らの右足裏へと視線を送った。

 それから左の裏側も確認して言い放つ。


「ギリ大丈夫」

「ぜんぜん大丈夫じゃねーわ」


 妹は俺の注意がしゃくだったのだろう。

 場を弁えず汚い靴下を片方脱ぐや、隣りにいる甥や姪の方へ向かって振り回し始めた。

 子どもたちのキャッキャという叫び声が、仏間の中に響き渡った。




 自らの語りの世界に入っていた祖母は、俺たちの騒がしさに気づくと「お祖父じいさんに線香を立ててあげてくれ」と手招きした。

 甥と姪は仏壇の前に歩み寄る。

 そして祖母の手ほどきを受けながら、覚束ない手つきで線香を蝋燭の火へと近づけていく。

 背後で線香の順番を待ちながら、俺は依然片足裸足のままの妹に物申した。


「靴下履けや」

「もう脱ごっかな、両方」


 と言って、妹は脱いだ靴下をジーンズのポケットにしまい込んだ。

 それからあぐらを崩して畳の上に正座する。

 が、やはり苦手なのかすぐ膝立ちになり、行儀悪く座布団を手で引き寄せた。

 そんな妹の落ち着かない姿をかたわらで見ていた坊さんは、おもむろに語り掛けた。


「楽にしてて構わんけどね」


 それが坊さんの社交辞令であることは――いや実際にそう思ってくれていたとしても、そこら辺は謙譲するのがこうした場での作法というものだろう。

 しかし妹は許しを得たと即断したらしい。

 坊さんの前で堂々とあぐらをかくや、悠然と語り出した。


「やっぱ5分以上の正座はきついなぁ」

「今の若い人は、正座する機会もそんなないわなぁ」と坊さんはもの柔らかに受け止める。

「正座って、足みじかくなるって言いますし」

「最近の子は皆、足スラッとしてるもんなぁ。やっぱ正座しないからもあるのかなぁ」

「正座と、あと運動。これやると確実に足太くなりますよ」

「そら、なるわなぁ」


 坊さんは妹の意識低い言葉にニコリと微笑んだ。

 相手が坊さんなので、語り口こそ、妹は普段より丁寧だった。

 しかしその意識までには配慮も及ばないらしく、話の内容はいつもと何ら変わらない。


「なんまんだぶって、南無阿弥陀仏のことですよね?」と妹が坊さんに問い掛ける。

「そうそう」

「私その部分しか分かんなかった」

「それだけで十分。無理して読む必要ないからね。大事なのは気持ちだから」

「ですよねぇ」


 と、妹はさも自分も理解していると言いたげな様子で受け答える。

 俺も人のことは言えたたちでない。

 が、いつもの癖で、くささずにはいられない。


「いや、理心はまず格好からちゃんとすることを覚えた方がいいわ」

「大事なのは気持ちだから」と妹は坊さんの言葉を利用して俺に反論する。

「そうだけど、ちゃんとデキる人があえてやらないのと、そもそもやる能力がないのとでは、意味違ってくるから」

「私だって本気出せばできるから」

「それいつも言ってるでしょ? 本気出せばとか、本気出してないだけとか――」

「事実でしょ? 本気出してないだけだしぃ」

「いつ出すのよ? 出すなら、い――」と言い掛けて、俺は某予備校講師の顔を思い浮かべ、何となく気恥ずかしくなり口ごもる。

「え、だってこういう時は自然体が一番でしょ?」


 俺の逡巡を見てとるや、妹はお得意のナチュラル志向を持ち出した。

 すると横にいた坊さんは、それが自堕落を保持するための言い訳であることを知ってか知らずか、妹の言葉に同調する。


「自然が一番だわなぁ」

「ですよねぇ」

「自然が一番」と坊さんは頷きながら繰り返す。

「ですよねぇ」


 妹は邪気に満ちた笑みを浮かべながら、坊さんの動きに合わせてコクリコクリと相槌を打った。

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