4 妹はナチュラルを履き違える

 七回忌前夜、妹は喪服を買ってくれとしつこく悪態をつき続けた。

 しかしそのような時間などあるわけもなく、当然のことながら彼女の願いが叶えられることはなかった。


 そもそも急にそんなことを申し出る妹の気まぐれが何よりの問題なのはさてくとして、俺はこの出来事からある不安を胸にいだいた。

 願いを拒まれたがゆえに妹は機嫌を害し、それが尾を引いてのちの法事に悪影響を及ぼすかもしれない――との危惧である。


 俺がこう考えるのには他にも理由があった。

 ひとつは、法事という式事が有す元々の性質である。

 死者をとむらうという儀式は、若い妹には慣れない営みであり、そうした場への出席がストレスをもたらすことは容易に想像できた。


 さらにもうひとつの懸念は、妹の生活習慣である。

 土日、妹はいつも遅起きで、昼まで寝ていることも珍しくはなかった。

 その習慣が法事の存在によって乱されるとなれば、妹が気分を害すことも十分に考えられた。


 そして妹はただでさえ重度の面倒くさがりである。

 いつもより早目に起き、いつもより丁寧に身繕みづくろいを行い、いつもは居ない来客の前で、いつもの振る舞いを自重する。

 ひとつひとつは取るに足らない事柄である。

 が、これが一度にとなると、妹のキャパシティを超えているように思われてならなかった。


 これら諸々もろもろの事情を勘案かんあんすればするほど、危惧は俺の中でより大きくなっていった。

 いざ当日になって、例えば寝床から起き上がることを拒み、法事そのものをすっぽかすなんてことが起こるのでは――そんな予感すら、俺の脳裏には浮かんでいた。




 当日の朝、母親が何度か起こしに行っても起きなかったまでは、俺の予想通りにことが進んだ。

 もっとも、すっぽかすまでには至らなかった。

 自宅にやって来ていた甥っ子姪っ子が起こしに行くと、妹は眠そうな顔ではあったが、意外にも足取り軽く一階へと下りてきた。


 それが常識の為せるわざであったなら、どんなに幸せなことだろう。

 しかしそこまでの評価を下すことはどうにもいたしかねた。

 と言うのも、妹が起きてきたのは僧侶の訪問予定時刻ほんの少し前のことであり、かつ妹には準備を済ませていた様子は微塵みじんも見受けられなかったからである。


 上に着ていたのは前夜と同じPeople of the darknessのTシャツ。

 下も同じく灰色の短パンである。

 当然、身繕みづくろいなどされてはおらず、髪もぼさぼさのままだった。

 顔すらまだ洗っていないのだろう。

 妹の顔面は皮脂でテカテカに照り輝いており、目元には粘性ねんせいを帯びた目やにの群体をビッタリとこびりつかせていた。


 妹が起きてきた頃には、既に親族の多くは我が家に到着済みだった。

 それでもまだ坊さんの来訪前ということもあり、みな仏間やリビングで賑やかに団欒していた。

 出席者の服装は様々ではあった。

 が、法事目当てで来ている以上、一様いちいようにそれなりではある。

 まだ場が厳粛でなかったとは言え、寝起きそのままの妹の姿は、場に調和したものとは言えなかった。


 しかし親族の多くは妹の性分を理解してくれていたため、あからさまに怪訝けげんな顔を向ける者もいなかった。

 向けていたのは母親と俺くらいだろう。


 特に母親は「早く着替えて来い」としきりに妹をせかし続けた。

 もっとも妹は母親の言いつけにすぐ従ったりはしない。

 他人から寝起きのスッピンや普段着を見られることにも、大して抵抗はないらしい。




 興味深いのは、この日の妹が珍しく寝起きから機嫌良さそうだった点である。

 最初は余程寝覚めが良かったのかと受け止めていた。

 が、眺めていると、どうもそうではないらしい。

 妹の快調さは目の前のお菓子の存在によって導かれていたのだろう。


「これ食べていい?」


 起きて早々そうそう妹がまず始めたのは、来客用にセッティングされていたお菓子の物色である。

 テーブル上の木製お盆の中には、多種多様のお菓子が山盛りに用意されていた。

 少し上等なクッキー類やバームクーヘン、法事らしい甘納豆や羊羹、さらに子供向けなのか、スーパーで売っているような馴染み深い製品の数々――。


 目の前のお菓子の山を吟味していた妹は、その中からひとつを手に取った。

 カントリーマアムバニラ味である。

 それを選び出すや、妹は来客用だからと躊躇ためらう様子も見せず、その場の人間から承諾を得ることもせず、独断でふうを切って食べ始めた。

 妹の口元からは、マアムのかけら一片いっぺんがぽろりとこぼれ落ちる。

 俺は絨毯の上のかけらを摘まみ上げ、近くの灰皿に投じた。

 そして壁掛け時計を見やり、アホづらでマアムを頬張ほおばる妹に声を掛けた。


「もうすぐ来るって、坊さん」

「もう? 早くね?」と妹は食べながら応じる。

「10時半には来る」

「ってか、今何時?」

「10時と、15分」


 いかに時間が残されていないか丁寧に説明したにもかかわらず、やはり妹はすぐ準備に移ろうとはしない。

 マアムを食べ終えると、今度はお盆の脇に置かれていた萩の月に興味を移し、箱を手に取り喋り出した。


「これ何?」

「叔父さんが持って来てくれた」

「食べていい?」

「もう時間ないって。先に準備したら?」と俺がせかす。

「5分あれば準備できるから」

「それ着替えるだけでしょ? こういう時くらいさぁ、髪とかもちゃんとした方が――」

「でも法事でメイクとかすんの、逆にあれでしょ。ナチュラルな感じで出た方がいいでしょ?」

「ナチュラルにもさぁ、限度があるよね……」


 妹の方便ほうべんに呆れた俺は、露骨に侮蔑の視線を向けながら苦言を呈した。

 しかし萩の月に心奪われる妹が受け入れるわけもない。

 それどころか腹立ちあらわに言い返してくる。


「は?」

「いや、だってお前の場合ナチュラルどうこうじゃなく、何もしてないじゃん」

「は? それがナチュラルでしょ?」

「いや、普通こういう時のナチュラルって、ナチュラルメイクとか、ナチュラル系ファッションとか、飽くまで自然っぽくよそおうことを意味してるわけで――」


 このように俺は妹の考えをただそうと試みた。

 が、妹はニヤニヤしながら反駁はんばくしてくる。


「いやいやいや、それ違う」

「いや、ナチュラルってそういうことでしょ?」と俺も応酬する。

「いや、そのナチュラル間違ってる。私のが本当のナチュラル」と妹も譲らない。

「それもナチュラルかもしれないけど、ここで必要なのは、俺が言ってるようなナチュラルでしょ?」

「そんなの誰が決めたの?」

「決めたも何も、そういうもんだって。そんな目やにつけてナチュラルとか言ってる人、どこにもいないし」


 俺が指摘すると、妹は指で目頭をほじくり、Tシャツのすそで指をぬぐった。

 その挙動に効果アリと判断した俺は、すかさずこう付け加える。


「お前のナチュラルの方が世間的には邪道なのよ」

「どこがよ? ナチュラルじゃないのにナチュラルぶってる方がよっぽど邪道でしょ?」

「ナチュラルぶるのが世間のナチュラルなんだって。何もしないのとは違うのよ」

「それは世間が間違ってる」

「……おま」と俺は返す言葉が見つからない。

「私のナチュラルは、そういう卑怯なナチュラルじゃないから。私のは、完全なナチュラル」




 そんな風に詭弁を弄しながら、妹は萩の月の箱を開いた。

 ひとつを手にとると、淀みのない手つきでビニールの封を切る。

 そしてスポンジ生地を潰さないよう、やたら慎重な手つきで指に持ち、ゆっくりと唇で挟み込む。

 その瞬間、内部のカスタードクリームが少し漏れ出し、妹の口のに付着した。


「うまっ」

「じゃ、そろそろ準備したら――」と俺は根気強く妹を促す。

「和菓子もねぇ、こういうのだといんだけどなぁ」

「まあ萩の月って実質洋菓子みたいなもんだけどね――ってか準備」

「それ最高じゃね? 和と洋のいいとこ取りってことでしょ?」

「そうね。分かったから、はよ、準備」

「やっぱもみじ饅頭とかでも、あんこよりチョコの方がおいしいもんねぇ」

「はよ」

「大福も、あんこだけのやつよりイチゴ入ってる方がおいしいし」

「はよ」

「あ、バームクーヘンある」


 そう言って妹は萩の月を食べながら、お盆の方に片手を差し向ける。

 阻止しなければと、俺は語気を強めて威嚇いかくする。


「そんなのあとで食えるから、先に準備」

「バームクーヘンって最近みんな買ってくるから、ぶっちゃけ飽きた感あるんだよねぇ」と妹は俺の言葉を無視して喋り続ける。

「なら準備したら――」

「しかもあれさぁ、時間経つとすぐパサパサんなるじゃん?」

「あ、そう。それは分かったから――」

「やっぱかぶらないって大事だよねぇ。お土産ってどうしても被りがちだから」

「はいはい」

「実際に行った場所かどうかとか、あんまこだわらない方がいいよね。変なせんべえとか買って来られても困るし。一番おいしそう――やっぱこれが一番重要だわ」

「分かったからはよ――」

「ってか、萩の月ってどこのお菓子?」

「……。仙台かな、確か……」


 俺がそう口にすると、お菓子を持って来てくれた叔父さんが背後からこう補足した。


うたんは梅田やで」

「梅田って、大阪?」と妹は少しだけ声色を変えて問い掛ける。

「そう」

「大阪行きたいなー」

「遊びん来る?」と叔父さんが受け止める。

「行きたーい」

「夏休みにでも遊びんおいで」

「USJ行きたいなー。何か今度マリオのヤツできるって聞いたし」

「人多いでー」

「そこがネックなんだよねぇ。ま、私乗り物とかにはあんま興味ないからまだいいけど」

「食いもんも、中のはたっかいでー」

「そうそう、テーマパークとかってぼったくってくるから困る」


 妹は叔父さんと談笑し始めた。

 話が長引くとまずいので、俺は妹が萩の月を食べ終えるタイミングを見計らい介入する。


「じゃ、はよ準備」

「分かってるって」


 と言いながら、妹はもったいぶって最後のひと口を口の中へ投じた。


「やべー。水分持ってかれる」

「歯ぁ磨いてこいよ」


 俺がそう言うと、妹は両手を顔の前に持っていき、はぁーと息を吹きかける。

 自分でもニオイが気に掛かったのか、鼻先を指でピンと弾いてから物申した。


「何か飲みもんある?」


 俺はテーブルの隅の、法事用にわざわざ用意されていた上等な急須を指差した。


「お茶しかないの? 絶対ジュースあるでしょ、こういう時って」


 妹は憮然ぶぜんとした表情で言い置くと、冷蔵庫の方へ歩き出した。

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