6 妹は意識低い

 妹の意識の低さを裏付けるような事象の数々は、どれも少なくともここ数年は続くものである。

 それが事態の深刻さを物語っていると悲観的に捉えるか、それならもう言っても仕方のないことだと楽天的に受け止めるかは、人によって様々だろう。


 両親や兄夫妻からは、どちらかと言えば軽く考えている印象を受ける。

 妹の将来を危ぶむ言葉を耳にすることはちょくちょくあるが、どうにかしようと積極的に動く様子はあまり多くは見られない。


 俺とてはたから見ればそれと大差はないのだろう。

 しかし俺は気持ちの上では、まだ割り切って考える段までには至っていない。

 特にみんなの甘やかしを見ていると、せめて俺くらいは別の役割を務めなくちゃいけないんじゃないかと、自責の念に駆られることもある。


 もっとも、妹の現状を憂えたからと言って、彼女のために格別の指導や鞭撻べんたつほどこしているわけじゃない。

 精々控え目な苦言や忠告を、そこはかとなく耳に吹き込んでいるくらいなのが現状だ。




 そもそも俺が妹を意識低いと認識するようになったのは、ほんの最近のことに過ぎない。

 今であれば迷わず意識低さに起因すると解釈するような事柄であっても、従来は単にこの行いは行儀が悪い、この習慣は年頃の女子的でないなど、よりありふれた解釈を施していただけだった。


 この認識の変化は少し前「意識低い」なる言葉を知ってから起こったことである。

 友人とのSNSのやり取りの中でたまたまその言葉に触れた俺は、面白い言葉だと思い、もう少し深く知るためウェブを検索して回った。


 そこではっきりと概念を捕捉できたわけではないし、今でさえ深く理解しているとは言い難い。

 それでも俺なりに「意識低い」がどのような性質を指すか簡単に説明するなら、それは無気力やだらしなさであり、自分磨き的な活動への無関心さや成長志向の欠如などと言えるだろうか。


 中には単に能力の低い人や教養のない人物を指して、この言葉を用いている人もいた。

 でもそれは結果論であり、意識低い人間に見られる社会や世界への無関心さ、知的な好奇心の欠如といった姿勢が、そうした事態を招いていると考えるべきなのだろう。


 そしてまた意識低い人間が鈍感なのは、外へ限った話ではない。

 自分自身に関する事柄やその内奥ないおうに関しても鈍感なのだ。

 そうした性向は、無計画さや将来的なビジョンの欠如として表れたり、時に自分をよく見せることをしようともしないという性質となって表出ひょうしゅつしている。


 他にもわがまま、適当、甘えん坊、優柔不断、責任感の欠如、非活動的人間、主体性を欠いた人間――こうした特質をこの言葉に言い含めることは可能だろう。

 ネットスラングなので具体的な使われ方には大分揺れ動きも存在している。

 が、基本、否定的な意味合いを匂わせているという点では、おおよそ共通していると言えるだろう。


 似たような表現に「意識低い系」も存在している。

 語尾に「系」を付けた場合の方が、その分表現がまろやかになっているふしはある。

 ただ、妹に用いる場合は系をつけない方が適切だろう。

 妹は意識低い――これこそがまさに妹の姿なのだ。




 もちろん時には、妹が敢えて意識低く露悪的に振舞っているのではないかと、期待半分で観察してみたこともある。

 若々しい意欲や精力をただ内部に隠しているだけで、どこか家族に見えない部分でそうした気質を発散させているんじゃと探してみたこともある。


 残念ながら、今のところその期待に叶うような情景に接することはできていない。

 意識して見れば見るほど、妹が示すのは意識の低さを裏付けるような姿ばかりなのだ。

 それ故、妹の様態を表現するのに打って付けの言葉だとの感触は、今では深い確信へと変わりつつある。


 とは言え、こうした認識の動きはすべて俺の内心での出来事に過ぎない。

 はじめはこの言葉を用いて妹をさとそうなどと考えてはいなかった。


 ただ口に出したことがないわけではない。

 初めて出したのは、ほんの少し前。

 姪っ子の誕生祝いに夕飯を食べに行く予定があり、俺はどの店に行くのか知らなかったので、そのことについて母に尋ねた。


 母は俺の問いに対し、「すたみな次郎」と思わぬ答えを口にした。

 思わぬと言うのは、別にすたみな次郎をディスっているわけではない。

 ただリーズナブルな食べ放題の店は、祝いの席にしては主役が子供であるとは言えちょっと落ち着きがなさ過ぎやしないかと、母の選択にしては不思議に思われたからである。


 もっとも話の中で、母はそれが妹の提案であることを打ち明けた。

 当初は普通の焼肉でいいじゃないかと母も反論していたらしい。

 しかし妹はすたみな次郎を譲らず、結局折れてそうなった、しかも「絶対に元を取る」と店に行く前から血気にはやっている――と、母親はすたみな次郎へ至る顛末てんまつを嘆息混じりに説明していった。


 俺がふいに「意識低い」を思い浮かべたのはこの時のことで、想起するや、そのまま何の気なしに「こういう言葉がある」「妹はまさしくこれだろう」と母親に告げた。

 俺の言葉を聞いた母親も、妹の意識低さを否定はしなかった。

 しかし予想に反して、この言葉に別段驚きや感嘆を示すこともしなかった。


「心配してどうにかなるもんでもないわぁ」

「でも、ほっといたら悪化しない?」と俺は懸念を表明する。

「どうにかなるなら、とっくにどうにかなってるでしょ?」


 俺はその後、父親や兄夫妻にも同じように発見を伝えた。

 妹が意識の低い人間であることは、皆一様に認めてはくれた。

 が、下手をすると、何か妹的な様態が世間によって認知されていることに安心すらしているようで、いずれも真面目に危惧するような反応は示さなかった。


 初めはそれでいいのかと、俺は家族のいい加減さに落胆し、思っている以上に妹の現状は危機的なのではと恐怖すら覚えた。

 他力を期待していてもらちが明かない、俺自身があの意識低さに対し何をしてあげられるかが大事だと自問しもした。


 しかし長々ながなが見て見ぬふりをしてやり過ごしてきたのは、俺も家族と同じだった。

 いざとなると大した具体案も思い浮かばず、どうしたものかと、しばらくは心のうちで煩悶とするより他はなかった。




 唯一、これは効果があるのではと期待をかけていた考えもある。

 妹自身にこの言葉を明かし、意識の低さを自覚させる――という手法である。


 もっともスラングをはじめとしたネット文化には、妹の方がより慣れ親しんでいるのは明らかだった。

 なので下手に持ち出してもかえって逆効果になるのではとの考えも捨て切れず、中々切り出すタイミングを測りかねていた。


 そんな折、俺は妹が、ソーセージが丸ごと入っているのを売りにした意識の低そうな惣菜パンを貪っている光景をたまたま目にする。

 俺は今だと意を決し、この言葉をぶつけてみることにした。


「うわっ……。そのパンめっちゃ意識低いやつじゃん」

「は?」

「意識低そうなパンだなって」

「は、これが?」


 妹は怪訝けげん面持おももちで手にしたパンを見つめた。


「そう、それ、意識低い」

「パンに意識なんてある?」と妹が不服げに反問する。

「意識低い人が好みそうってこと」

「それ私のこと?」

「……意識高いは知ってるでしょ? その反対」と俺は妹に説明する。

「ふーん」

「ふーんて。あんまそんなものばっか食べてたら、人からそういう風に見られるぞって話で――」

「ふーん」

「……気になんないの?」

「全然。余裕」

「褒め言葉じゃないよ?」

「そんなの思いたければ勝手に思ってればいいし」


 妹は菓子パンを食べる手を止めずに放言した。

 食べ方も、ソーセージの部分だけ大事に残し周りのパンからかじるという、まことに意識の低そうなスタイルだった。




 この時以外にも、意識の低さについて妹の眼前でほのめかしてみたことはある。

 しかし返ってきた反応は大体同じようなものだった。


 妹はそもそも意識の低さを悪いことだとすら考えていないらしい。

 そこでくじけず、理解するまで説き聞かせるのが、兄である俺の務めだとの思いは山々である。

 が、いざ妹を前にすると馬の耳に念仏の感が否めず、どうにも調子が狂ってしまうのだ。


 覚束ないのは、俺自身が決して意識高い人間じゃないせいもあるのだろう。

 むしろどちらかと言えば、俺は妹と同類の人間だった。

 恐らく妹にも、そういう部分を見透かされていたに違いない。


 それに効果がないだけならまだよいが、何度か反応見ているうちに、やはり逆効果の危険性があることを痛感させられた。

 と言うのも、話の中で妹は「世の中は意識高い人と低い人でバランス良くできているのだ」とか「これが自分のありのままなのだ」といったたぐいの言葉を何度か口にしていたためである。

 そんな言葉を聞いていると、俺のにわか説法ではかえって開き直りの機会を与えかねないと思わざるを得なかった。

 なので今現在、「意識低い」を口に出すことは控えるようにしている。


 事態は堂々巡りである。

 その言葉を知ったからと言って、俺の妹への対応は、知る以前とさして変わっていないのが現状だ。




 それでも妹の生態を理解するには、「意識低い」が便利な言葉なのは間違いない。

 より理解を深めていくことは、今後のサポートを考える上でも有用だろう。


 理解の深まりは、今のところ諦めの念を払拭してはくれていない。

 妹の意識低さが、表面的な、一時的なものでないとの認識は、理解が深まるにつれ段々と強くすらなっている。

 それは決して望んでいたものではない。

 しかし妹はそういうたちなので仕方がないと、ぼんやり認識していただけの頃からすると、その性質の内実にまで考えを及ばせられるようになった点では、進展もあるのだろう。

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