4 妹はデニムを洗わない
高校にはちゃんと通っているので、外出の機会自体はそれなりに確保されている。
が、基本妹は出たがりではないので、同年代の若者たちと比べればやはり籠りがちと言うべきだろう。
出たがらない傾向がいつからのものなのか、はっきりとは断言できない。
それでもさすがに物心がつく前は、今のような出不精は鳴りを潜めていたように思う。
両親は仕事が忙しいこともあり、昔は家族サービスにも熱心な方ではなかった。
俺と兄の幼少時は、手間のかからぬ近場や、母の実家に里帰りに連れて行ってくれた程度の記憶しかない。
そうした家風が一変するのは妹が生まれてからのことである。
俺たち上二人と年が離れていたこと、そして待望の女の子であったこと――この二つが両親の育児観に大きく影響を与えたのだろう。
特に妹が立って歩けるようになってからと言うもの、暇を見つけては家族で遊園地やイベントごとに出向くようになっていた。
妹が出不精な性質をあらわにし始めるのは、もう少し成長してからのことだったように思う。
大体小学校も中学年になる頃には、例えばいざ有名なテーマパークに出向いても、「並ぶのダルい」と言って乗り物にも乗りたがらないような振る舞いが定着していたように覚えている。
そうした振る舞いは知的な催しを前にしても共通していた。
美術館や科学技術館などが催す子供向けの企画を前にしても、妹は「しょうもない」「子供だましだ」と冷めた言葉を口にした。
妹がテンションを上げるのは、何か土産物を買ってもらう時か、食べ物を前にした時くらいなのである。
両親も昔は妹の関心を拡げようと、あれこれ試行錯誤していた。
が、そのうちこれが妹本来の気質なのだと諦めたのか、好きなように振る舞わせるようになっていた。
実際、それが妹のありままなのだと考えるなら、今の妹を格別に心配する必要はないのかもしれない。
ただ最近では出歩かない傾向にも拍車が掛かっており、やはりこのままほっておいていいのか、俺は兄として
最近特に気に懸かっているのはネット通販の存在である。
それを覚えてからと言うもの、妹の出不精は加速しているのだ。
「用事があって忙しいから」「ネットでしか手に入らないから」など、もっともな理由でもあるなら、俺だって通販を利用することに別段反対はしない。
しかし妹が購入している物の中には、近所の店で手に入るようなものも多くある。
しかも普段の妹は
その姿を見かね「たまには自分の足で買いに行けば」と言葉を掛けることもある。
が、妹は「こっちの方が便利だ」と言って、出不精の極みを謳歌しようとするのだ。
妹が通販で購入する物で多いのは、まずはやはりマンガだろう。
それからアニメやマンガの関連グッズ、次いでゲームやAV機器。
たまにファッション関連の物や用途不明の雑貨などもあり、最近ではお菓子を始めとした食品にも手を付け始めた。
衝動的に買ったであろう物も多く、中には大して使っていない物も目につく。
妹は捨てることを基本的にしないので、商品が入っていた箱だけでなく、雑多な物が部屋の肥やしになってしまっている。
ネットで手に入れる個々の商品は、さして高価でもないのだろう。
なので俺は当然お小遣いで買っているものだと受け止めていた。
ただあまりに毎週毎週宅配便が来るようになると、その考えも怪しく思われ出し、その点について母親に尋ねてみたこともある。
その時母は、妹にせがまれ家族用のクレジットカードを持たせたと事情を明かし、月に5000円まで使用を認めたとも説明してくれた。
妹もはじめはその約束を守っていたのかもしれない。
しかし最近の買い物の頻度を見るに、今は約束した額以上に使用しているのは明白だ。
なぜ超過が見過ごされているのか、それもおおよその見当はついている。
妹は食品などを購入するに際し、本来自分が欲しいものを、「通販の方が安い」「まとめて買えばお得だ」などの
例外を認める親の甘さが妹の様態を悪化させている。
とは言え、そうした工夫を凝らしている今は、まだ
が、妹のこの配慮がいつまで続くかは疑問である。
このような浪費が完全に習慣になる前に手を打つべきだと、俺自身は考えている。
そんな出不精な妹ではあるがたまにはノリノリで出掛けることもある。
ひとつは物欲が関わる場合で、妹は物欲発散の可能性を嗅ぎ取ることにはとても
ただこの欲求はネットで満たすことを覚えたので、最近は控え目とも言えるのかもしれない。
が同時に、ネットのせいで何でもかんでもネットと比べてコスパがどうたら
そしてもうひとつ妹の意識が外へ向かうのは、やはり食べ物が関わる場合である。
この条件さえあれば、近所のコンビニで何か買うといった程度でも妹を機嫌をよくさせるには十分だろう。
外食となれば、たとえ近場のファミレスであっても妹はほぼ確実にテンションを上げる。
これらも活動意欲と捉えれば、歓迎すべきことなのかもしれない。
しかしどうにも理由が幼稚である。
また、そうした折に身だしなみや行儀への配慮が普段より
それでも中学時代からすると、最近は身だしなみにも妹なりに気を使うようにはなったのだろう。
普段から顔の油を気にして油とり紙を乱用している姿は、進歩の一例である。
また学校に行く時など、昔は櫛すら入れずに出ていたのが、最近はちょくちょく髪の毛を縛るようになったり、たまには朝シャンを浴びてから出向いたりするのも、進歩の表れと見てよいだろう。
しかしそれで人並みに追いついたと言えるかはどうにも怪しい。
特に学校から解放された時や私服時となると、妹の気遣いはまだまだ心許ないと言わねばなるまい。
妹は基本メイクをしない。
髪も高校に行くときのひとつ縛りはまだ良い方で、私用となれば、今でもボサボサのまま出向くことは珍しくない。
もう高校生なのだからもう少し気にしてもいいんじゃないか、そんなボサボサじゃあ野人だぞと
こうした説明だけ聞くと、サバサバ系の明朗な姿を連想する人もいるだろう。
が、理心は断じてそうじゃない。
流行や世間といったものへの反抗心も、ないことはないのだろうが、妹の行動の原動力と言えるほどには強くない。
それに妹は個性的なファッション志向を持っているわけでもない。
露悪趣味者でももちろんない。
むしろ性格はただの内弁慶であるに過ぎない。
身なりや行儀を気にしないとは言え、それは家族や親友の前に限った話で、それ以外の他人の目があれば、徹底して我を押し通すような
優柔不断で、流されやすく、他人の存在を気にかけてはいても、集中力がなく面倒くさがりなので中途半端にほっぽり、ギリギリ許されそうなラインだけは巧みなラインコントロールで踏み越えない――これが妹の流儀なのである。
この前の休日、長兄夫婦が、イオソモールにランチでも食べに行くかと誘ってくれた時のことである。
妹も当然この申し出をすぐ了承し、着替えると言って部屋に入っていった。
俺は部屋に財布を取りに戻った際、着替えを終えた妹と廊下でたまたま出くわした。
見ると、上はさっき着ていたのと同じ「It's A Wonderful Journey」との英字がプリントされた、襟元のよれたTシャツである。
「そのTシャツで行く?」と俺は一階へ向かう妹に苦言する。
「いいでしょ? イオソくらい」
「それ醤油みたいなのついてるし」
俺は剥げかけた英字プリントの上にあるシミを指差した。
首元からは、薄ら汚れたブラジャーの肩紐が片側だけ露見している。
「いくらイオソでも、そんな服で来る人いないでしょ」
「いるし」と妹が言い返す。
「いないし」
「いるって」
「いてもおっさんとかでしょ。女子高生がおっさんレベルって――」
「おばさんでもいるし」
「同世代ではいないわ。みんなオシャレして来てるのに」
「イオソごときでおしゃれって。そんなの田舎臭いっしょ?」
俺たちがそう言い合っていると、ちょうど姪っ子が現れたので、俺は加勢を得るチャンスだと思い
「変だよね、これ?」
「ださい」と姪っ子は俺の期待通りの言葉を口にする。
「ほら、ださいって」とすかさず俺も妹を口撃する。
「ださくないしぃ」と妹は聞かぬふりで応じてくる。
「ださいよなぁ?」
「ださい」と再度姪っ子は繰り返す。
さらに兄嫁も現れたので、俺は同じことを問い掛けた。
兄嫁も姪っ子同様、俺の見解に同調する。
「理ぃちゃん、ださいわぁ」
「ださくないって」
「醤油はダメよ」
「ビンテージ感出てるし。合ってるでしょ、このパンツと?」
妹は先ほど身につけていた部屋着の短パンだけはデニムにはき替えていた。
しかしこのデニム、これがひと
デニムそのものは個性的でもなければ、流行の形状というわけでもない。
有名ジーンズメーカーの、一万円くらいの何の変哲もない代物に過ぎない。
しかしファッションにお金を掛けない妹からすれば、それで十分に高価なのだろう。
奮発した――との理由だけで、このジーンズは妹のファッションにおけるヒエラルキーの最上位を占めてしまっており、これさえ身に付ければ、場所がどこであろうが、上着が何であろうが、妹のオシャレは完成してしまうのだ。
妹から工夫や試行錯誤の可能性を奪ってしまっている――この点でこのデニムはまことに凶悪なアイテムなのである。
さらに厄介なのはそれだけじゃない。
夏を除いては週に1、2度という頻度で身に着けているにも関わらず、高価であったが故に、妹はこのデニムを洗おうとしない。
色は濃紺なので、ぱっと見汚れは目につかない。
が、それでも何となく湿り気を帯びているような感じは見て取れる。
恐らく、得体の知れない菌が繊維の間で繁殖しているに違いない。
廊下での押し問答の後、俺は兄嫁に見立ててもらえばよいと提案し妹を部屋の中へと押し戻した。
兄嫁も妹の常態はよく知っているので、ぐちゃぐちゃの部屋にも驚きは示さない。
相変わらずと呆れ顔の兄嫁に対し、俺はひとりくらい妹に厳しい人が居てくれた方が彼女のためにもなるとの期待を込め、妹が身につけるデニムの秘密を告げた。
「理心、このズボン全然洗おうとしないんだよね」
「これちょっといいやつだから」と妹はすかさず言い返す。
「いや、いいやつでも多少は洗うし」
「でも洗ったら色落ちするでしょ? 私は今のこの色がいいの」
「色落ちとか気にするほどファッションに興味ないでしょ?」
そう俺が言ってから、兄嫁は理心に問い掛ける。
「どれくらい洗ってないの?」
「買ってから、1回お母さんが勝手に洗った。それだけかな」と妹が答える。
「え、いつ買ったの? 結構はいてるよね?」
「去年の……、春だったっけ?」
「そりゃ洗わないと」と兄嫁は眉間に皺を寄せた。
「でもそんな毎日はいたりはしてないから。1回はけば、その
そう言って妹は三段重ねのAmazonの箱の上を指差した。
ただ兄嫁は常識人なのでそんな説明で納得するわけもなく、「それでも汚いわぁ」と重ねて呆れの言葉を呟いた。
俺は機を逃すまいと追い打ちを掛ける。
「ちょっとおしゃれって時は、大体これはくんだよねぇ」
「最近の子、デニム離れしてるって聞いたけど、理ぃちゃんはそういうのないよね?」と兄嫁は不思議そうに妹に尋ねた。
「デニム離れ?」と妹が問い返す。
「ボトムスも種類が増えたから、最近の子はデニムはかなくなったって、前ニュースになってたよ」
「まじで? 私まともなのこれしかないし」
と言って、妹は目をパチクリさせた。
ここで俺が兄嫁に期待していたのは、妹へのファッション指南だった。
が、優しすぎる兄嫁は、妹のファッションを否定する意図がないことを示そうとしたのか、こう言葉を続けていく。
「私はデニムはくけどねぇ。便利だもん」
「だよね?」と妹が圧を込めて発する。
「汚れも目立たないし、丈夫だし」
「ほんとそれ。こんな便利なの手放すって、馬鹿でしょ」
「お前の場合
「それ大事でしょ?」と妹が俺に言い返す。
「まあねぇ。楽は大事よ。確かに」と兄嫁は妹に同調した。
その言葉にすぐ元の調子を取り戻した妹は、「やっぱこいつだわ」とデニムの腿の部分を手のひらでスリスリさすった。
横にいた姪っ子は話題のデニムに興味を抱き、その表面に手を触れる。
兄嫁は間髪入れず横からそれを
「汚いから触らないの」
「汚くないから」と妹もすかさず抗弁する。
「汚い!」と姪っ子は未知の生物にでも触れたかのような興奮を示しながら声を上げる。
「全然汚くないしぃ」
妹は不満顔で呟くと、嫌がらせのためデニムをはいた足を姪っ子の方へと近づけていった。
姪っ子は妹の攻撃をかわし、ベッドの上に跳び上がる。
兄嫁が「ほこりが立つから跳ばないの」と姪っ子を叱りつけると、姪っ子は「はーい」と言って部屋の外まで走り出た。
「理ぃちゃん、部屋換気した方がいいよ。変なニオイするし」
「あーい」
妹は兄嫁に
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