【第21回】阿知羅の御鏡

タイトル:阿知羅の御鏡

布教日:2037/09/29

布教元:絶対幸福主義


世界のあらゆる低評価なゲームをレビューしていくレビューサイト「The video game with no name」、第二十一回目となる今回は、2037年布教、書き換えられたルールブック「阿知羅の御鏡」の紹介です。


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皆さんには夢がありましたか、私にはありました。


…いや、正確には「今もあります」。


それは、ゲームの中に入りたいという夢です。


笑っていただいておおいに結構、哀れな男の戯言だと思って聞いてください。冒険がある、恋愛がある、選択がある、決断がある。ゲームに半生を捧げたこの人生が、いっそゲームの中に入れたらと、私にそう訴えかけるのです。


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コンピュータグラフィックによって描かれた、現実と見間違える程の仮想現実。画面の向こう側の世界…ゲームの中に入るための未来技術、バーチャルリアリティ!


人はいつから、もう一つの現実に夢を見なくなってしまったのでしょう? かつてはあれほど輝いていたはずの仮想現実も、今となってはポルノ広告が溢れるばかりの場所になり果てました。「ゲームの中に入れる技術」仮想現実は、100年前ほどまでは確かに、ゲーマーが追い求めてきた夢の技術だったはずなのです。


そこにはかつて、「現実」と見間違えるほどの「もう一つの現実」が存在していました。あまりに進化し過ぎたテクノロジーに、人類はいつの日か、現実と仮想現実の区別がつけられなくなるかもしれない。その時人類はゲームの世界の中に囚われてしまい、現実の世界には戻ってこれなくなるかもしれない…だなんてことを恐れて。


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しかし皆さんご存知の通り、仮想現実は今じゃ現実の一部でしかありません。サイバースペースに溢れるのは、いかがわしいポルノやクソ不味い人工肉の広告ばかり。数ペタバイトの容量しかない公共仮想空間以外は、金持ち向けにDLCで分割販売されている始末です。神に不満を呟いてみても、与えられるのはユーザーサポートへのお問い合わせ番号だけ。夢の仮想現実は、既に現実に支配されてしまいました。二つの現実に区別をつける意味は…、最早無くなってしまったと言うべきでしょう。


皆さんの中に、最近「現実と仮想現実の区別がつかなくなった」って方、いらっしゃいますか? …いらっしゃいませんか。それは残念。


現代を生きる皆さんには想像も出来ないかもしれませんが…、今から70年ほど前、人類には本当に、現実と仮想現実の区別がつかなくなった時期があったんですよ。ある時一本の画期的なゲームがリリースされ、そのゲームのあまりの出来の良さに、人々は現実を信じられなくなってしまったんです。どうです?現実離れした話にも思えるでしょう?でも本当に…、当時はたくさんの人が仮想現実に憧れて…、現実なんて存在しないみたいな事を言う人も少なくなかったんですよ。


そのゲームはまるで、神によって作られたかのようなゲームでした。いや、神が作ったゲームだった可能性を、完全に否定できた人間はいません。既に数十年前とは言え、私も完全には、このゲームに対する信仰を失った訳ではありませんから。当時は運営元も胸を張り、「これは神が作ったゲームだ」と堂々と宣言していましたし。その真偽がいずれにせよ…。このゲームは、「現実と全く異なることがない仮想現実」を、私たちに提供してくれました。それは、疑いようがありませんでしたから。


今回ご紹介する「阿知羅の御鏡」は2037年発売、ジャンルは…経典、です。いや、「発売」という言葉は本作にはふさわしくなかったかもしれません。2037年。本作は、救世の為の「布教」が開始された、とでも言うべきでしょうか。


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阿知羅の御鏡は、グラス型ウェアラブル端末にリリースされたゲームです。


布教元となった「絶対幸福主義」は、2020年に設立された新興宗教団体。開祖「阿知羅真眼」によって設立された、最盛期には12万人を超える信者数を有する宗教団体でした。


IT技術者による社交会が前身だという背景もあるのでしょう。絶対幸福主義は…、少し「異質」な宗教でした。御本尊はデータ化されていて、熱心な信者は本部六本木にあるメインサーバーに参拝していましたし。御本尊のコピーデータは個人個人のウェラブル端末に配信され、信者は全員「分霊」された自分の端末内の御本尊に祈りを捧げていました。御本尊のデータはアカウント情報みたいなもので、無断で削除した信者が教団からBANされてしまった…、なんて話も聞いたことがあります。


異質…という表現は、少し正確ではなかったかもしれません。

ただ、宗教団体というより、彼らはゲームの運営に近い存在だったんです。


設立当初こそ技術者向けの啓発セミナーでしかなかった団体でしたが、なにせ資金力が並外れて強かった。開祖の取り巻きとなった教団幹部はゲーム関連企業の経営者が多く、最盛期においても信者の大半はゲーム業界の人間が占めていた…、なんて噂を聞いたことがあります。当時のゲームメディアには、連日のごとく絶対幸福主義の広告が掲載されていた覚えがありますし。彼らの経営する企業では、当然のごとく勧誘活動が行われていたとも聞きますし。あながち、大げさな話でもないのでしょう。


もちろんゲーマーにも、信者は少なくありませんでした。いや、多かった。明確に多かった。徳の高いお人はゲームも強い。あらゆるゲームには「絶対幸福」名義のギルドが存在していましたし、人気のゲーム実況者のオフ会が実質絶対幸福主義のセミナーだったなんて話も聞きました。名乗る人こそ少なかったですが、どんなゲームにも徳の気配を漂わせるプレイヤーは存在していた…、そんな覚えがあります。絶対幸福主義とは、「ゲーマーのための宗教」だった。そう言えなくもないほどに。


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絶対幸福主義の教義は、シミュレーション仮説という思想の上に成り立っています。


シミュレーション仮説とは、この現実の全てが「プログラムによって成り立っている」と解釈する学説のことなんですが…、ご存じありませんか?無いでしょうね。当然です、遅れた思想ですから。後の低評価を思うと悲しくなりますが…、2030年代当時にはまだ、こんな屁理屈みたいな話にもそれなりのリアリティがあったのです。


仮想現実と現実の区別がつかないという事は、現実と仮想現実の区別がつかないという事でもある。だったら、我々が今まで現実だと思い込んできたこの世界が、むしろ本当は仮想現実だったと言われても…誰も否定は出来ないだろう。大昔の理屈っぽい人間が、そんな理屈を並べ始めたのがこの仮説のはじまりでした。


いま私たちが見ている現実は、もしかしたら「仮想現実」なんじゃないか。

裏ではプログラムが動いていて、計算によって構築されているだけの世界なのに。

我々はそれに気付かずに、シミュレーションの中で生きているだけなんじゃないか。


それが、「現実がシミュレーションゲームの中だったら良いのにな」というゲーマーの甘い甘い願望を絵にかいたような世界解釈、シミュレーション仮説の全てです。


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シミュレーション仮説なんて、所詮は机上の空論でしかありません。その上、当時としてもさして目新しい議論でもなかった。かつては荘子やデカルトも「夢と現実の区別がつかない」という議論に熱をあげていたと言われていますし、思考実験としては、およそ数百年前に飽きられている議題と言ってもよいくらいでしょう。


しかしながら、仮想現実の進化をリアルタイムで見せつけられていた世代にとっては…。それは、机上の空論などではありませんでした。日に日に現実に近づいていく仮想現実の進化速度には、それを納得させるだけのリアリティがあったんです。「仮想現実と現実の見分けがつかなくなる未来」が到来する、それだけの説得力が。


人々は、シミュレーション仮説を疑えなくなっていました。

私には、当時の人たちの気持ちが理解できるんです。

私自身がかつて、シミュレーション仮説を信じた人間でしたから。


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この世は神が創造したシミュレーションゲーム。

人間はその中で生かされている神工知能にすぎない。


現実のゲームで遊べるシミュレーション同様に、すべての事象はソースコードに記述された計算式によって動かされている。光の速度は超えられない。何故なら速度の変数の上限が光の速度と決められているから。時は巻き戻すことが出来ない。何故ならプログラムは不可逆だから。時の流れは一定ではない。何故なら計算機の処理能力には限界があって、あまりに重い個所では処理落ちしてしまうから。


面白い。面白い。面白いとは思いませんか。現実のルールは不条理ばかりで、ゲームバランスはとにかく最悪。渡る世間は不具合ばかりで、まともに遊べた試しはない!しかし現実は…ゲームではありません。バランスが調整されることも、不具合が修正されることも、ルールが改定されることすら起きやしない。私たちはどうしたって、この破綻しきった現実を生きていかなくてはなりません。


しかし仮に、現実がゲームなら…? 現実がゲームで、プログラムの不具合を修正することが可能な存在だって言うのなら…!この世はまるでゲームみたいに笑顔にあふれて、みんなみんな楽しく遊べて、辛いことも苦しいこともゲームのイベントとしてみんなで乗り越えて!争いも遊びで、憎しみも遊びで、全ての戦いはみんな遊びで!この世はえがおに溢れていって…!なんだか、攻略意欲が湧いてきませんか?


きませんか。


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ここだけ説明すればなんだか新しい信仰の形にも聞こえるでしょうが、その実態は、絶対幸福主義も従来の宗教とさしたる違いはありません。


彼らは現実の開発者の事を「神」と呼んでいましたし、このゲームの運営の事を「教団」と呼ぶように信者には指導していました。マニュアルの事は「経典」と呼んでいましたし、開発に要望を送ることは「祈祷」と呼んでいました。規則性は読めましたか? トッププレイヤーの事は「教祖」と呼べと言われていましたし、ゲームに対する課金の事は…「お布施」と呼べと言われていましたね。


信者は他の宗教同様に、毎日毎日「徳」を積むための善行に励んでいました。ゲーム内の存在である我々には、内部数値である徳の値を確認することは出来ません。しかし「徳」は非常に重要なパラメータで、人生のエンディングに影響を及ぼすと言われていました。徳が低ければゲームオーバーで地獄行き、徳が高ければ輪廻転生でニューゲームと脅されれば、みんな目の色を変えて善行に励むというものですよ。


仮に現実がゲームだとするなら、教義というのはゲームのルールでしょう。

教団は、ルールに則ってゲームを円滑に遊べるよう管理していく運営。

信者達の繋がりは…、ゲームの攻略コミュニティとでも呼ぶべきですか。


ゲームの攻略法は人それぞれですから、もちろん攻略法の違いから信者同士が対立することもありました。しかし結局のところ、「現実をゲームと見做す」という基本ルールについては、信者たちは誰も蔑ろにすることはありませんでした。つまりはみんな、教義に従って正しくゲームを遊んでいた。教団の適切な管理の下、えがおの会というゲームは、神の思し召しにより運営されていた、というわけです。


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「阿知羅の御鏡」は、何百万条(公称)にも渡る絶対幸福主義の教義を、広く一般の信徒に分かりやすく説明するための「経典」。いやもっと言えば、教義の内容に従って現実を見るための「視覚補助ソフト」です。デジタルでサイバーな新時代のレリジョナル・アクションである絶対幸福主義には、文字で書かれたような難解な経典はありません。さぁ皆さん、心を開いて。私と一緒にこのゲームを遊び、絶対幸福主義の素晴らしい教えを一緒に楽しく学んでいきましょう!


本作を遊ぶためには、まずグラス型端末にゲームをインストール。端末にダウンロードしてある御本尊のデータを連携し、アカウント認証が成功すれば準備は完了です。


楽しいゲームを遊び始める前に、一点だけ注意があります。本作はゲームを一度始めたら、もう止めることは出来ません。つまり、脱会は不可能です。どうしても本作を止めたい場合は…死ぬか、そのウェアラブル端末を破棄してください。とは言え、徳を失っても構わないという反信仰的な方々は、ウェアラブル端末のOSから無理やり本作を削除することも可能です。まぁ今となったらそれで許されますが、そんなことをしたらバレて破門にされてもおかしくありませんでしたよ!


ゲームを開始しても、オープニングはありません。始めてすぐの段階では、目の前にあるものがそのまま見えているだけでしょう。ではせっかくですので、そのままの状態で何かを軽く投げてみてください。…おそらくそこには、「数式」が光って見えたと思います。では続いて、部屋の壁を見てください。おそらくそこには、小さく「数値」が光って見えたと思います。あたりを見回してください。動くものにはすべて数式が、あらゆるものには小さく数値が浮かんで見えるでしょう?


よくよく見れば、数式の意味は分かるはずでしょう。今自分が投げたものが、どんな放物線を描いてどんな速度で動いているのか、その計算式ですよ。数値の意味はいろいろありますが、時と場合によって見えるものは違います。温度、質感、あるいは構成する物質の化学式、場合によっては色の番号、人によっては本当に無意味な数字の羅列が見えることもあるかな。いずれにせよ、この世の全ての物質が持っている内部数値、本当は数字としては見えないはずのパラメータが、そこには見えているはずです。


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眼前に広がる無数の数字は…、この世界の全てが計算によって成り立っている事を意味しています。何かが動けば数式が走り、何かが描画されれば数値が参照される。部屋の窓から外を見ることが出来る人は、街の様子をご覧になってはいかがでしょうか。人々の生活が、みるみるうちに数式と数値が埋め尽くされていって…。この世の全てが数字によって創られている現実を、身をもって体験できるでしょうから。


感じられますか。この世の全ての事象は、計算が可能です。どれだけのエネルギーを持って、どれだけの質量が、どれだけの速度で動いているのか。それが計算可能だという事は、物理法則はシミュレートが可能だということになる。


この世の全ての存在は、数値で性質が表されます。どんな元素で構成されていて、どれだけの熱量を持っていて、どんな色をしているのか。それが表現可能だという事は、パラメータを設定することが可能だということになる。


ゲームを遊ぶプレイヤーには、ゲームの内部数値を見ることは出来ません。現実を生きる人間にも、現実の内部数値を見ることは出来ません。しかしゲームが動いている裏では必ず、無数の数式と数字がひしめき合って、その結果としてゲームが正しく描画されている。それと同様に、現実が動いている裏では必ず、無数の数式と数字がひしめき合って、その結果として現実が正しく描画されている。


貴方は今、現実のソースコードを、デバッグで覗き見しているのです。


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最後にせっかくですので、鏡で自分自身をご覧になってみてください。

額に、何か数値が書かれているでしょう。

それが、貴方という人間の持っているパラメータ。「徳」です。


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ソフトウェアとしての本作は、温度や速度を感知してそこに数式や数値を表示する、単なるセンサーアプリでしかありません。計測できる数値もウェアラブル端末の機能の範囲内ですし、徳が見えると言えば神秘的にも聞こえますが…、ようはプレイヤーのアカウントを検知して、サーバーに登録されている「徳」の値を拡張現実に表示している、というだけの仕組み。種を明かせば、なんら不思議なものでもないのです。


しかし想像してもみてください。夢中になって遊んでいたゲーム画面に、突如としてデバッグ用の内部数値の表示欄があらわれてしまったら…? どれだけゲームの世界に浸っていたとしても、その世界が作り物であることを実感してしまうでしょう。表示されている数値や数式が理解できなくても、なんだかコンピューターが裏で複雑な計算をして、そこに何か作り物を描画しているように見えてしまう。


本作を遊んだ信者たちは、あっさり「現実」から現実感を失っていきました。


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内部数値に過ぎなかった「徳」が、誰の目にもハッキリと目に見えるようになった。それは…あまりに背徳的でした。本作を起動した状態で「善行」を行うと、徳が少しづつ増えていくんです。御本尊に祈れば祈るほど、自分の額の「徳」の数値はどんどん積み重なっていく。そうして貯まった自らの徳は…、もちろん他のプレイヤーにも見えてしまう。自分たちの人間としての価値が、レーティングされて他人から見えるようになってしまったようなものなのですから。


そのうえ本作は面白いことに、教団による信者の監視ソフトウェアという側面もある。ソフトが「悪行」を認識すれば、徳が減らされてしまうんです。本作を起動した状態で教団に不平不満なんて言おうものなら、徳は一万くらいガツンと減らされる。もちろん御本尊を削除なんてしようものなら…、一千万は徳を減らされます。神の教えに背けば徳が減るのは当たり前!こうも分かりやすく数値として表示されてしまえば、徳を失う事を気にせずにいられる人間なんていやしません。


目には見えない「徳」には興味を示さなかったはずの人々も、目の前にぶら下げられた「徳」が魅力的なあまり、本作にはのめりこんでいきました。


目には見えない「徳」を意に介さなかったはずの人々も、目の前に「徳」の喪失感をチラつかされるがあまり、本作からは抜け出せなくなってしまいました。


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ゲームとして本作の遊び方は、実に簡単です。正しい事をして、徳を積めば良い。それだけ。徳を最も積んだものが強く、徳の最も高いものが全プレイヤーの頂点に立てる。とは言え、徳を積むには本作に「徳を積んだ」と認識をされる所作が必要です。何が「ただしさ」で何が「善行」なのかを決める、それが経典というものでしょう?


まずは基本の、御本尊への祈祷。自身の端末にインストールした御本尊への祈祷は、一回するごとに1つ徳が積めます。各支部のサーバーに直接出向いた上での祈祷は、一回ごとに10徳。本部六本木のオリジナル御本尊に直接祈祷した場合は、一回ごとに100徳。もちろん、教団支部で生活している聖職者の皆さんは徳が高い。同じことをやっていても、一般の信者とは徳の基礎成長量が違いますからね。


続いて、基本教義の朗読。これは一回ごとに10徳、ちなみに基本教義の朗読は聞いているだけでも1徳積むことが出来るので、計11徳加算されます。しかし一回り読むだけで1分くらいかかりますから…、正直言って徳を積む方法としては効率が悪すぎるのが悩みどころですね。祈祷にしろ教義の朗読にしろ、所謂「連続ボーナス」的なものは存在していましたが…、一回ごとに積める徳が少なすぎるますから。


続いては善行、これは場合により100から10000の徳が加算されます。これはどうやら脳波を調べているようで、「善行をした」と脳が認識した時点で徳を積める仕様。らしいのですが…、ハッキリ言って脳の認識など曖昧なもので、確実に徳を稼げる方法ではありません。私も妊婦さんに席を譲ったりしてみたんですが、どうやら私の脳はそれを「当然」と思っていたようで、徳は一切積めませんでした。


逆に、勧誘の最中に抵抗する相手をぶん殴った人でも、「俺は彼らに良いことをしてあげた」と本気で信じ込んでいた人達は、どうやらその行いによって徳が加算されていたようです。自分が正しい信じ切っている人間は、どんな世界でもやっぱり強い! まぁ彼らは教団からは秘密裏に破門にされたそうですから、プラスマイナスで考えれば…徳はマイナスになったみたいですが。攻略する上では不安定な要素ですね。


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まぁこんなことを地道に続けなくても…、もっと楽に徳を積む方法はありますよ?


一つ目は、新規信者の勧誘ですね。所謂、新規ユーザーの勧誘ボーナスってやつですよ! この攻略法の何処が素晴らしいかって、みんなが幸福になれるところ。まず勧誘した側に徳が100000加算。そして勧誘された側にも徳が10000加算。つまり、勧誘した方も勧誘された方も揃って徳が増えていく。みんな幸せになれるのです!


二つ目は、お布施ですね。所謂、課金ってやつですよ。この攻略法の何処が素晴らしいかって、誰も不幸にしないところ。自分でお金を使えば使っただけ、1円1徳の換算でみるみる徳が積まれていく。好きな回数好きな金額をお布施すれば、それに応じて無理なく徳が積める。誰も不幸せにならずに済むのです!


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本作がゲームとして特筆されるべき点は、やはり「行動に結果が伴う」という一点に尽きるでしょう。ゲームと現実は大きく違います。現実はいくら頑張っても報われるとは限りません、目に見える形で結果が残ることも稀です。しかしゲームは違う。ゲームはプログラミングされた世界。何か行動を起こせば、必ず計算式の向こう側に結果が表示される。努力が報われないことはありません。


教団幹部はゲーム業界で財を成した経営者たちばかり。おそらく彼等には、ゲーマーの動かし方が分かっていたんでしょう。徳の大小で上下関係が決まるというゲームルールの単純さ。そして単純さを土台とする、徳を稼ぐために許された行動の自由度の高さ。「極楽に行ける」と目の前に餌をチラつかせるその射幸性の高さ。何を取っても上手すぎる…。ゲーマーの心を揺らすのが上手すぎるんですよ、この宗教は。


毎週毎週、全信者の徳がランキング形式で発表されるとあっては、課金をせずにいられる奴なんか存在しません。あんまり低い徳で街を歩いたら、近所のガキにも馬鹿にされてしまいますよ。定期的に開祖の生誕祭やらのイベントで徳のボーナス期間も発生しましたから、なかなか止めるタイミングも巡ってこない。徳を稼げば稼ぐほど、「護符」と称してかっこいい神様の絵が描かれた画像も貰えた始末です。


「ゲームなんか遊んだって意味はないよ」と言われ続けたこの人生。それがあっという間に一変し、現実はゲームになり果てた。本作を通して見た現実には、あらゆる行動に「徳」という結果がついてくる。遊べば遊んだ分だけ、ちゃんと報われる。人は私を、尊敬してくれる…!やればやっただけ報われる現実なんて…、そんなの楽しいに決まっているでしょう!?


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はじめて教団幹部達を見た時と言ったら…、それは衝撃的なものでしたよ。はじめて遊んだゲームのランキングで、古参プレイヤー達のスコアを見た時のような、あの絶望感。額に浮かぶ徳の数値が、どいつもこいつも軽く億を超えている。教祖に至っては、「1兆」という無茶苦茶な数値の徳を積んでいることになっていましたからね。


ただ、それで信者の心が離れたかと言ったら…、そんなことはありません。

むしろ、それがまたうまい。ゲームの運営として、非常にうまかった。


だってゲームのスコアランキングでトッププレイヤーのスコアを見た時に、ゲーマーが考える事なんて一つしかありえないでしょう。


どうやってゲームを攻略すれば、効率的にコイツの上に立てるか、ですよ。


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本作が低評価になった理由は多岐にわたります。


「よく分からない集団のよく分からない教義」そのものに抵抗感を示した人も少なくありませんでしたし、本作を見ているだけで教団の下心が見え透いてくると憤る人もいました。ただ結局のところ、それらは全て外部からの低評価。信者が一丸となって拒否感を叩きつけた、内部からの低評価ではありません。


では本作が低評価になった主たる原因は何かというと…、実は、そうもったいぶるような話でもないのです。「アップデートの際に、ゲームルールを特定のプレイヤーに都合よく改定してしまった」からです。読者の皆さんも飽き飽きしているほど、この手のゲームではありふれた、よくある低評価の一つでしょう?


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阿知羅の御鏡が崩壊するきっかけとなったのは、川崎の小学校で本作を理由にした喧嘩が発覚したことでした。絶対幸福主義なんてまったく知らない数名の小学生たちが、本作を気まぐれでダウンロード。最初は面白がって本作を遊んでいたようですが、次第に互いの数値を上昇させる争いがヒートアップ。やがてはそれが子供達に対立を生んでしまったという、非常に痛ましい内容のニュースでした。


本作は、正規プレイヤーにはサーバーに登録されている徳の数値を表示しますが、非プレイヤーにはランダムで徳の数値が表示される仕組みになっています。教団発表によれば、悪ガキどもは近所のおっさんを徳スカウターで計測。どちらが発見したおっさんが強い徳を持っているかでバトルを行っていたのだそうで。子供向けのゲームなんて、これくらい単純でわかりやすい方が盛り上がりますからね。


子供の遊び道具としては、互いの戦闘力が表示されるというのもウケが良かったのでしょう。徳なんて言われても「凄ぇパワー」くらいの理解しかなかったでしょうから。徳が低い数値であれば、友達からは馬鹿にされてしまう。徳の意味も分かってはいないのに、みんなして徳を積むのに躍起になっていたようで。喧嘩も原因も、徳が低かった男子児童が、他の児童を殴ってしまったのが理由とされていました。


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子供たちの喧嘩は確かに大きな問題ですが…、子供は何のゲームで遊んでも仲良くは出来ませんから、それが原因で本作が低評価になったという訳ではありません。


問題は、それらの小学生が1億もの大量の徳を積んでいた、ということです。


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この経典、徳の判定がガバガバなんですよ。


例えば教義の朗読。「教義の朗読は聞くだけで徳が積める」とは言いましたが、音量がどれほど必要かとは言っていない。端末の内蔵アプリで聞く分には、無音でも徳は加算されます。もっと言えば、同時並行で朗読を聞いても、ちゃんとそれぞれに徳が積めます。内蔵アプリを100個同時に立ち上げて一斉に朗読を聞けば、1分間に100も徳が積める。24時間流しっぱなしなら、144000。ちなみに音読の場合は骨振動を読み取っているので、声に出さなければ徳は加算されません。逆に言えば…、音程さえ合っていれば、母音だけで「あーうー」と言ってても加算されます。


礼拝も判定がガバガバです。所定の動作で手を合わせれば、あとはどんな体勢でも礼拝一回分とカウントされてしまう。「祈りの時間」の長さは判定条件に入っていないので、練習すれば拍手するようなスピードで徳を積むことも出来ます。アカウント管理においても独特の仕様をとっているようで、数台のマシンから同一IDで同時に礼拝をしても、全マシンから徳が加算されていました。おそらくこれはバレたら罰を受けたと思いますが、破門扱いでも徳はマイナス一千万。懲りずにこの方法で頑張れば、3か月くらいで0まで戻せるレベルでしょう。


報道内容を聞く限りでは…、川崎の小学生がやったのは「教団支部の参拝による徳稼ぎ」でしょうか。教団支部の参拝による徳稼ぎは、言ってみれば教団公認のチートのような手段ですからね。川崎の教団支部は当時既に閉鎖されていたのですが、本作は位置情報のアップデートを怠っていたため、ソフトがいつまでも跡地を教団支部として認識し続けていたんです。閉鎖されたビルに忍び込んだ悪ガキたちは、旧教団支部でやりたい放題。こんなこと善行であるはずもないのに、ソフトウェアはそれを徳の高い行為だとみなしていたって言うんですから。皮肉としか言いようがありません。


友達がウェアラブル端末を新調する時に、古い端末をドローンに括り付けて旧川崎支部のビルの屋上に飛ばすでしょう。後は時間を設定して、自分からの勧誘という形で本作をインストールするようにしておけば…。名目上、教団支部内で新規勧誘に成功したことになる。まずは新規勧誘ボーナスがドン。そこへ教団支部での地域ボーナスが十倍でドン。善行が重なり重なって、積んだお徳が1億ドン!年金をお布施にしているおじいちゃんおばあちゃんじゃ、死んでも稼げないような徳の高さなんです。これぐらい徳を積んでいれば…、小学校は卒業までサボっても天国には行けるでしょうね。


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配信から1年、教団の公式ホームページは連日連夜のサーバーダウンで、まともに見れる方が珍しいという事態に陥りました。新興宗教のゲームを子供たちが遊んでいたという事実をマスコミはセンセーショナルに騒ぎ立てましたし、それがイジメの原因につながったとあって母親たちもヒステリックに騒ぎ立てました。


そしてなにより…、信者たちが、教団に怒りの声をあげ続けたからです。


まずそもそもの話、信者たちは「徳を稼いだ小学生は本当に徳が高い人物なのか」、という問題を非常に気にしていました。我々の感情としてはもちろん単なる悪ガキに決まっているのですが、絶対幸福主義の経典である「阿知羅の御鏡」の表示する数値を疑う事は、これまで自分が信じてきた宗教の教義が間違いだったと、暗に認めてしまうことになりますから。これは今から考えるよりよほど、デリケートな問題だったんですよ。


続いてもし仮に、小学生が稼いだ徳が無効なものだったとした場合、どういう基準でその行為が「正しくない」と判断されるのかを、殊更に気にしていました。我々の感情としてはもちろん単なる不正に決まっているのですが、彼らは決められたゲームルールの中で徳を積んでいたにすぎない。それを帳消しにしてしまう事は、後付けで善行が悪行に変更されてしまったという事態を意味する。


サービス途中のゲームのルールを改訂しようとすれば、どんな対応を行ったとしてもそこには必ず不平不満は生まれるものですよ。今まで自分が遊んできたゲームのルールが、ある日突然一変してしまうかもしれない。それどころか、自分が稼いできたゲーム内数値が、ある日突然無効にされてしまうかもしれない。しかし問題解決を放棄してしまえば…、ゲームは問題を残したまま緩やかに死んでしまう。


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宗教における「教義」は、非常に神聖なものです。


後の時代になっていくら不都合が発生したところで、教義を修正するようなことは絶対にあってはなりません。何故ならそれまで信仰してきた人間たち全員を、裏切る事になってしまうからです。


ゲームにおける「ゲームルール」も、非常に神聖なものです。


しかしこちらは逆に、サービス開始後にゲームプレイの妨げになる不具合が見つかった場合、速やかに修正作業を行う必要があります。何故なら不具合を放置されたゲームなんか、無茶苦茶になって遊べたものではなくなるからです。


では、宗教でありゲームである本作は、修正すべきなのか、せざるべきなのか。


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絶対幸福主義は、世に言われるようなカルト教団ではありません。

彼らは…、単なるゲームの運営にすぎませんでした。


絶対不可侵な「教義」の神聖性よりも…、全員が楽しくプレーできる「ゲームルール」の柔軟性の方が、彼らには重要だった。現実で起きている問題よりも、仮想現実で起きている問題の方を、彼は優先してしまったのです。


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教団本部は潔くゲームルールの非を認め、本作のアップデートに踏み切りました。


疑わしいアカウントの徳を軒並みリセットし、挑発的な態度をとった信者の徳も没収。徳の判定基準も非常に厳格なものに再設定され、これまでは善行とされてきた行為の大半は悪行として判定されるようになりました。経典の多重再生は禁止、母音で経典を読むのも禁止、教団支部へドローンを飛ばすのももちろん禁止。徳は本来、そんな風に積むものではありませんから。そもそも一日に積める徳に上限が設けられ、新規から古参まで、全プレイヤー間の徳バランスはみるみるうちに改善されていきました。


「徳の高い低いは、人間の優劣を決意味するものではありません」


徳の高い低いで喧嘩を始めた小学生を諭すために、教育機関へ向けての声明も発表されました。「徳の高い者はその分だけ人間的に優れているので、あなたの徳は低いと指摘する事はイジメにはあたりません」と発表するわけにもいかないでしょうから、これもゲームの運営としては無難な対応と言えるでしょう。長期のメンテナンスで迷惑をかけた全信者に対しは、お詫びのための徳を無料配布。徳を稼げなかった期間の補償も、完全に行ってみせました。詫び徳を貰って、溜飲が下がった信者も多かったみたいですしね。


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総括して言えば、絶対幸福主義は非常に優秀なゲームの運営でした。


仕様の穴をついてゲーム内スコアを稼いでいたプレイヤーを、BANした。

これまでのゲームルールに不備があったことを認め、即座に修正を行った。

ゲームがきっかけで起きた問題に対し、それをいさめる公式声明を出した。

ゲーム内スコアを、お詫びとして全プレイヤーに配布した。


実際、このアップデートはゲームの運営としては素晴らしい対応だったのでしょう。教育関係からの批判はほどなくして沈静化しましたし、不正プレイヤー達は一網打尽にされました。お詫びの徳が全員に配布されたことで離れていた信者も戻ってきましたし、かつての徳のインフレバランスは調整され、アップデート後は緩やかな徳の上昇を楽しめるようになりました。


それらは全て、ゲームの運営としてしかるべき対応だったと、私は思います。


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しかし生憎ながら、本作はゲームでありながら、ゲームではありませんでした。


これまで信じてきた善悪の判断基準は、一夜にして真逆にひっくりかえされ。

これまで教えられてきた教義は、間違いであったと修正され。

これまで積んできた徳は、人間の優劣を決めるものではありませんと否定され。

善行の結果であるはずの徳は、お詫びとして無料で配布されてしまった。


ある日突然、これまでの信仰の全ては、間違いだったことにされてしまった。


熱心な信者の大半は、「教義」が簡単に書き換えられてしまった事に絶望し、一人、また一人と本作から去っていきました。上位プレイヤーがゲームをやめれば、下位プレイヤーも連動してゲームをやめていく。この手のゲームにとって、過疎は致死性の毒ですよ。争う相手がいないゲームなんて、楽しくはありませんから。


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サービス途中でルール改定をしてプレイヤーに反感を持たれたゲームなんて、末路は悲惨なものしかありません。プレイヤーの大半は一気にやる気を失ってしまい、徳は一気に無価値な数値と化しました。運営は必死になってルール修正を矢継ぎ早に行いましたが…。そんなのやればやるほど人の心は離れて行くのが、この手の話のお決まりでしょう。


2040年には「阿知羅の御鏡」は公式に失敗作と認められ、新たな教団幹部たちの手で葬り去られることになりました。「これは単なる出来の悪い体験シミュレーターであって、仮にこいつが間違った判断をしていたのだとしても、絶対幸福主義の教義には一切関係がない」と、餞別の言葉をかけられて。


運営によって直々に「このゲームのルールの全ては間違っていました」と布告され、本作は惜しまれることもなくサービスを終了しました。


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「阿知羅の御鏡」は、現在も絶対幸福主義関係のサイトでダウンロードが可能ですが、御本尊のデータがもうコピー不可能なため、新規に遊び始めることは出来ません。インストール済みの中古端末を探すことは不可能ではないのですが…、サーバーは既に閉鎖されているため、他人のアカウント情報を視認することは出来なくなっています。つまり、他人の徳の数値を知る事は出来ません。


おそらくは、御本尊のオリジナルデータも削除されてしまったのでしょう。礼拝や経典朗読といった、御本尊を介して徳が加算される機能はゲームから削除。課金や新規勧誘といった教団への貢献行為も、最終バージョンでは機能が削除されています。現状の本作に出来る事は…、自分の「徳」の数値を確認することと、善行によって徳を高めること、その二つだけになってしまいました。


これがこのゲームの完成形。もうここから先、ルールが変わることはないでしょう。


「一人黙々と善行に励んで徳を稼ぎ続けるゲーム」へと、ルールが落ち着きました。


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私にはかつて、ゲームの中に入りたいという夢がありました。いっそこの現実がゲームであったらなと、心の底から信じていました。


現実は不条理でいっぱいなのに、不条理が無くなることはない。不条理を乗り越えた先に徳を積めると言われても、徳が目に見える事はない。


不具合がいつまで経っても修正されず、攻略しても何の見返りもないゲームだなんて…、真面目に遊べるわけがないと思うんですけど。


みんな、よく現実なんか真面目に生きてますよね、本当。


2115/9/29 (Article written by Alamogordo)


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