雑記(2115/8/5)
「脳停止」が、生きることに飽きる病であるって事は、前から分かってました。
このまま技術が進歩して、身体の全てが機械になって、寿命がどんどん伸びていったら。私は何時までも永遠に、ゲームを遊び続けられるんじゃないか。でも、そんなことがもし本当になったら、私もいつかは、生きる事に飽きてしまうんじゃないかなって。最初から、分かってはいたんです。仮にそれが、冗談だったとしても。
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私が最初に身体の一部をサイバネティクスと取り換えたのは…2060年頃で、お恥ずかしい話なんですけど、ゲームの遊び過ぎで腱鞘炎になった手をサイバネ化したんです。今でこそ私の身体は大量生産された既製品ですけど、まだまだサイバネが一般的じゃなかった時代じゃ、初めての義手は特注で造った非常に高価な一点ものでした。思い出しますよ。機械の腕なんて壊れちゃったらどうしようって、昇竜拳コマンドを入力することですら戸惑っていたくらいでしたから、あの日の私は。
でも実際には…、サイバネティクスの義手は、生身の私の手よりよっぽど丈夫でした。よくよく考えてみれば当たり前の話で、たんぱく質の塊が樹脂の塊より丈夫なわけがなかったんです。そして何より、一度っきりの生身の身体と違って、サイバネの腕はいくらでも修理が出来た。毎晩のようにゲームを遊んでも、造り物の腕には疲れるってことがありませんでした。思い出しますよ、機械となった自分の腕で、フォークロア・オブ・ノスタルジアのタッチパネルを連打した日のことを。
迷いはあったんですよ。本当。最後の最後まで。こんなものに頼ってでも、自分は余生に執着するのかって。でも私と言う人間は、やっぱり私と言う人間でしたから。「ゲーム」と「身体」を天秤にかけた時、ゲームが簡単に勝ってしまった。だって機械の腕さえあれば、永遠にゲームを遊べるかもしれなかったんですから。落ち着いて考えてみればみるほど、生身の身体はゲームを遊ぶのに適してはいないんじゃないかって、そう思えて仕方がなかったんです。
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今となっては気楽な話に聞こえるかもしれませんけど。「このまま身体をサイバネティクスで埋め尽くしていったら、いつまでも永遠にゲームが遊べ続けれちゃうんじゃないか」みたいな。あの当時私は、鈍く光る自分の腕を見て、そんな絵空事を考えていたような覚えがあります。まぁ私の頭の中にあったような永遠なんて、所詮は「今遊んでいるゲームを不眠不休で攻略できる!」みたいな、そんな程度の永遠でしかありませんでしたが。それはあながち、間違った想像でもありませんでした。
あの日の想像通り、今現在の私の身体は、脳と一部の器官を除き大半がサイバネティクスのパーツで代替されていて。痛みに苦しむこともなく、疲れに哀しむこともなく。こうやって、長い人生をゲームだけ遊び続けて生きてきました。いや、「遊び続けてしまったの方」がしっくりくるのかな。陳腐な言葉で申し訳ないですけど、代償ってのは何にでも存在するんだなってのが、今の私の率直な気持ちです。永遠にゲームを遊べたら、いつ死ねばいいのか分からなくなっちゃいますから。
昨日、バトマリを遊んでいて思ったんですよ。パーツを新調すれば永遠に遊べるって思ってたバトマリも、結局は素体の劣化で遊べなくなってしまった。なら、身体のパーツを同じようにプリンタで複製されている今の私は、いつまでこのままゲームを遊んでいられるんでしょう?一年、十年、それとも百年? ハッキリ言って百年じゃ、今遊び残しているゲームすら遊びつくすことが出来ません。でも、間違いなく。答えは、「いつまでも」じゃないんでしょう。
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皆さんは、脳停止の患者がどんな病状なのかって、見たことあります?
うーん、あまり良い表現ではなかったかな。脳停止は、厳密には「病」ではなく、どっちかって言えば「老い」、もっと言えば「経年劣化」に過ぎませんからね。「生きることに飽きる病」なんて、わざわざ詩的な表現で悲劇を気取るから誤解を招くんですよ。ようは無理に身体の寿命を延ばした結果、脳が経年劣化で感情を失ってもなお、機械の力で生きながらえてしまうって状態の事でしょう? そんなの…、病とは言えないでしょうからね。
実は、もう三十年も前の事になりますけど。私と同じくらいの頃に身体をサイバネティクスで埋め尽くした友人の、お見舞いに行ったことがあるんですよ。その時はまだ…、この病には病名なんて大層ものはついていませんでしたから。私のところには、「感情を失ったので、ぜひお見舞いに来てほしい」って、本人から直接連絡が来たんです。感情を失った人間から「感情を失ったんで、お見舞いに来てほしい」って言われる、まぁ、ちょっとは面白いかなって感じでしたが。
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私だって、最初は心配してお見舞いに行ったんですよ。
彼もまた、ゲームに人生を捧げてしまった哀れな人間で。嫁も子供もいなければ、まともな人付き合いすらない男でしたから。そんな彼から「感情が失われた」なんて言われたら、いよいよゲームの遊び過ぎでイカれてしまったのかと心配になるでしょう。しかしながら、呼ばれて行った彼の病室には花もなければ写真もなく、案の定、ゲーム機だけが山のように積まれていました。感情が無くなった人間でもゲームは遊びたくなるんだなと、正直、拍子抜けした覚えがあります。
そんな病室の様子に輪をかけて、当の本人がこれがまた…、こちらの心配を小馬鹿にするような病状でしてね。人がせっかく見舞いに来ているというのに、ゲームに夢中でこちらに気付きもしやがらない。自分で呼びつけておきながら、ゲームを楽しんで気付かないとはどういうつもりだよ。業を煮やして「おい」と声をかけると、「あ、久しぶり」と悪びれもなくこちらに目を向けましてね。開口一番ですよ。「このゲーム、一緒に遊ぼうよ」と、能天気な事を言いやがったのは。
私も最初は流石に呆れてしまって…「もうゲームを遊ばない方が良いと思うよ」って、彼に声をかけたんですけど。彼はそんな事まったく意にも介していない様子で、「気を遣ってくれてありがとう」とだけ呟いて、ゲームの準備を黙々と進めていました。その時遊んだのはたしか…ホログラムを利用するゲーム機だったかな。間違いないと思います。病室だっていうのに、それをごちゃごちゃ広げだしたんですよ。しかもよりにもよって、ダンスゲームだったんですよ。そう、ダンスゲーム。
御大層な脳波測定器を頭に装着している身分だっていうのに、お見舞いに来た人間の前で、必死になってゲームを踊ってみせるんですもん。忘れられませんよ。これの一体何が一体恐ろしい病気なのかって、本当、馬鹿馬鹿しく思った覚えがあります。まぁ…、私も私で、人間が人間ですから。遊ばせてもらったゲームは楽しいゲームでしたし、しかも本当に珍しいゲームでしたから…。まぁ、彼がいいなら、止めなくてもいいかなって。最終的には、一緒になってゲームを遊んでしまいましたから。
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元気な彼の姿を見れて、ちょっとほっとしたところもあったんです。
「楽しいでしょこれ?」「楽しいよね?」「そう思わない?」
ダンスゲームを遊ぶ不謹慎な患者の姿は、病室で安静にしている模範的な患者の姿より、私にとっては正しい姿に見えました。どんな病気にかかったところで、結局彼は昔と変わらない。彼はいまだにちゃんと、ゲームマニアなんだと。自分の好きなゲームを気の向くままに遊んで、それを「楽しい」と他人に認めてもらいたくて仕方がない、そういう厚かましくて面倒くさいゲームマニアのままなんだと、私には思えましたから。彼と一緒にゲームを遊べて良かったと、本当にそう思ったんです。
「楽しいよこのゲーム」
だから私は、彼に、そう答えてあげました。間違いなく。
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久しぶりのゲーム談義で盛り上がって、お見舞いって目的をすっかり忘れて、はしゃぎ疲れて帰ろうとした後だったかな。
去り際、私は軽い気持ちで、「担当医の先生ってどこにいる?」と、彼に聞いてしまったんです。今となっては、余計な一言でした。彼は…、私が彼に同情するであろうことを、最初から計算にいれていたのかもしれません。待っていましたと言わんばかりに、「扉の前に待っておいてもらったから、俺の代わりに俺の病状を聞いてよ」と、彼は病室の出入り口を指さしました。そしてまた…、待っていましたと言わんばかりに、そこには担当医と思わしき先生が、険しい顔で立っていました。
今から思えば、人生「余計な荷物」を背負わされてしまったような感覚は、その時からはじまりました。担当医の先生は、逃げ道を塞ぐかのように詰め寄ってきて。もう逃げようがないという位置まで私を追いつめてから…、「どうでしたか」と、静かな口調で聞いてきたんです。もしかすると、これは、一種の罠みたいなもので。私には到底背負いきれない荷物が、そこにあるような気がしましたから。 「元気そうで何よりでした」と、私は冗談を言ってこの場から立ち去ろうとしました。
しかし先生は、そんな私の冗談を笑ってくれたどころか…、「本当にお元気でしたか?」と、馬鹿正直に聞き直してきた。おいおいおい、やめてくれよ。私にはそんな、他人の人生を背負ってあげるような、そんな力は無いんだって。ちょっとはっきりとは覚えていないんですけど、もうこの先にある話を聞くのが嫌で嫌で。とりとめのない言い逃れを、散々繰り返した覚えがあります。まぁ、はっきりしたことは何でもいいんですよ。結局、こんな言い訳、何の意味もありませんでしたから。
忘れもしません。病室を一瞥した後、先生が言った言葉。
あんまりにも、冷たい言葉でしたから。
「本当に、ゲームを楽しまれていましたか?」
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何を言ってるんだコイツって、真剣に思いました。
人がゲームを楽しいと言ったら、楽しんでいるに決まってるでしょう? それは個人の尊厳で、個人の価値観で、個人の権利で。絶対に、誰にも否定されてはいけない。
よくあるやり口でしょう? 「本当にこんなゲームを楽しんでいるのか?」みたいな論調で、そのゲームを遊んでいる人間の価値観もろともゲームを否定しようとする、そんな醜いゲームレビューが。
どんなにつまらないと世間で言われているゲームであっても、どんなに悪評だらけのゲームであったとしても、どんなゲームでも必ずそのゲームを楽しんでいるプレイヤーは存在する。だからこそ、その価値観を疑うことは許されない。
そんなの、当たり前の話じゃありませんか。
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だから私は、先生に言ったんです。
「彼は本当に、ゲームを楽しんでいました」と。
私の答えを聞いて、先生はちょっと複雑な表情を浮かべていました。
「それだけ聞ければ、十分です」と。
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「ご存知でしょうが、あの方には身寄りがありませんから、 病状を説明できる一番の知人は誰かと言ったら、貴方の名前をあげられまして」
先生はそう言うと、脳の立体図をその場に浮かばせました。当然、私には脳医療の知識なんてありませんから、出来る事と言ったら、目の前に浮かんでいた脳のモデルを眺める事くらいでしたが。宙を漂う脳は全体が灰色で、特に何ら動きがあるでもなく、ただそこに浮かんでいて、私には、グロテスクなだけにしか見えませんでした。
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先生は、一向に説明を始めませんでした。
まるで、「脳モデルを見れば普通だったら分かるだろう」と言わんばかりで、私は痺れを切らしましてね。「この脳の、いったい何が病状と関係しているんですか?」と、苛立ちまぎれに先生に聞いたんです。
すると先生は、表情の一つも歪めることなく、「これは今、患者さんの脳の感情の状態を、リアルタイムに測定して表示しているんです」と、重い口をあけました。
「赤い部位は感情の昂ぶり、逆に青い部位は感情の静まりという具合に、この脳モデルにはあの方の感情がリアルタイムに表示されます」
なるほどと、思うには思いました。しかし仕組みを説明されたところで、結局浮かんでいる脳は灰色のまま。一向に、何かが変わる気配はありませんでした。
まるで、「今の説明でもう普通だったら分かるだろう」と言わんばかりで、私は痺れを切らしましてね。「それでいつになったら、その測定結果が表示されるんです」と、苛立ちまぎれに先生に聞いたんです。
すると先生は、ちょっと複雑な表情を浮かべたあと、「もうずっと、リアルタイムで表示してます」と、そう答えてくれました。
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病室の中で彼は、「このゲームは楽しい」と、しきりにそう呟いていました。それはゲーマーとしての彼の尊重されるべき意志表明で、純粋な感情が生み出した気持ちの結果であり、絶対に誰にも否定されてはいけないはずの、神聖な領域でした。
ただ、目の前に浮かんでいた脳モデルは、灰色のまま、何一つ変化はありませんでした。何分も、何分も待ちましたが、結局何一つ、そこに感情は現れませんでした。もしかして、ゲームに遊び疲れて眠ってしまったのかなと。私はヘラヘラと笑って、彼の病室を覗きました。しかしそこには、残念ながら、先ほどと変わらず。一心不乱にゲームを遊ぶ、彼の「楽しそう」な姿がありました。時には笑顔で、時には苦笑いで、彼はゲームを、「楽しそう」に遊んでいました。
しかし、彼の脳は、何も感じてはいませんでした。少なくとも、彼の頭にゴチャゴチャと装着されていた脳波測定器は、再会の懐かしみも、病気に対する恐怖も、ゲームを遊ぶ感動ですらも。 彼の脳は一切何も感じていないのだと。そう、はっきりとデータとして表示していました。いくら「楽しそう」に見えても、いくら本人が「楽しい」と口で言っていたとしても。彼の脳は既に死んでいて、まるで「楽しそう」に振る舞っているだけ、それだけの事なのだと。
さきほどまでの彼は、あれだけ楽しそうにゲームを遊んでいたというのに。いや正しくは、私の目には確かにそう見えていたはずだというのに。彼の脳は一切、何一つ、ゲームが楽しさを分からなくなってしまっていた。感情はとっくに失われているというのに、彼の全身を覆っている機械が、ただ身体だけを以前のままに動かしているだけ。まるで自分が感情があるかのように、過去の記憶通りに振る舞っているだけなのだと。科学技術は、私にそう言うのです。
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何度も何度も繰り返し遊んで、クリア後のおまけ要素でさえ遊び過ぎて。遊ぶ手は止まらないのに、何の感慨もないままに、とっくに飽きてしまったゲームを遊ぶかのように。彼の脳はもう、生きることに飽きてしまったんだと。
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脳停止は、別に死ぬような病気じゃありません。脳が経年劣化で感情を失ってもなお、機械の力で身体が生きながらえるという、それだけの病です。
生きていくだけなら、感情なんて、別に必要でもありませんから。
脳が経年劣化でゲームを「楽しい」と感じられなくなったって、「ゲームを遊ぶと楽しい」という記憶を外部媒体から呼び起こし、サイバネティクスの発声器官で「楽しい」と聞こえる音を発生させ、ナノマシンによって発汗や心拍数の増加を促し、人工筋肉によって笑顔に見える表情を作り出せばよい。仮にそこに「楽しい」という感情が存在していなかったとしても、残る結果は同じなんです。
誰にだって、他人に感情があるかどうかなんて分かりません。いやおそらく自分自身にすら、感情があるかどうかなんて誰にも分からないでしょう。いや、正しくは…、他人に感情があるかどうかなんて、誰も問題にしていない、とでも言うか。相手に感情があるかどうかなんて、倫理的に疑ってはいけない、とでも言うか。それはちょうど…「ゲームは楽しい」という他人のゲームレビューを、疑ってはいけないように。
楽しいと感じて、楽しんでいるのか。
楽しいとされているものだから、楽しいとされている行動をとっているのか。
そんなの、疑ってはいけないはずの違いでしたから。
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やられたな、と思いました。背負わされたな、と思いました。
彼は、自分では怖くて確認できなかった事実を、私に確認させやがったんですよ。
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みなさんは…、今こうしてゲームの事を語っている私には、感情が残っていると思われますか? それとも、もうとっくに脳停止で感情なんて失われていて、惰性でゲームの事を喋っていると思われます? まぁ、こんなの私自身にだって分からないんですから、聞いたって意味なんてないか。どうせ「貴方には感情が無いかもしれません」なんて言われたって、笑っちゃってまともに聞けそうにもありませんから。
実はね、ちょっと恥ずかしい話なんですけど。最近、なんで自分は突然ゲームレビューサイトなんか開設して、なんでゲームのレビューなんてはじめたんだろうって、ちょくちょく思う事があったんですよ。正確には、このサイトを始めた直後からずっと。なんで自分は、古ぼけたゲームのレビューサイトを年甲斐もなく始めようとしてるんだろうって、自分で自分の行動が、よく分からなかったんです。
私という人間は、こんな人間では無かったはずなんです。脳停止に苦しんでいた友人が、好きなゲームの評価を知りたがっていたのを見て。「病気で死にかけてる奴が、知りたがるようなことかよ」と、彼にそう声をかけたはずなんですよ、かつての私は? そうだと言うのに…、いざ自分が彼と同じ病気にかかったら、結局、私はあの時の彼と同じ行動を繰り返そうとしている。こんなの、支離滅裂じゃありませんか。
彼が私に、好きなゲームの評価を聞いたように。
このサイトを通じて、私は皆さんに、好きなゲームの評価を聞こうとしている。
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おそらく皆さんは…、こうしてこのサイトでゲームの思い出を語っている私を、「ああ、この人は寂しいんだな」って、そう思ってくださっているのかもしれません。寂しい年寄りの孤独の発散か、面倒な年寄りの説教の場か。ま、似たようなもんでしょう。大丈夫です、両方正解ですから。私自身、かつては友人の事をそう思っていました。彼も病気で孤独を患い、誰かとゲームを遊んで孤独を癒したくなったのかなって。私は、友人の気持ちを勝手に想像していたんです。
ただ、それは…、正解ではあるけれど、もうちょっと複雑だったと言うか。自分も感情が失われていく側の人間になって、ようやく分かってきたこともあって。ゲームを「楽しい」って感じるのは、自分に感情がある証拠でしょう? でも自分の脳からもし感情が消え去っているとしたら、今自分が認識している「楽しい」が、本当に脳が楽しさと感じた「楽しい」なのか、あるいは劣化した脳が見ている幻の「楽しい」なのか、もう自分じゃあ判断がつかない。
自分が本当に楽しかったから「楽しい」と言っているのか、機械の身体が過去の記憶を惰性で模倣して「楽しい」と言っているだけなのか、もう分からない。
彼はおそらく…、自分の「楽しい」という感情が本物なのか、誰かに確認してもらいたくて仕方がなかったんでしょう。信頼のおける、誰かに。
私も、たぶん、そうなのだと思います。自分が楽しいと思ったゲームを、他人にも楽しいと言ってもらう事で。自分にはまだ感情がちゃんと残っていて、人と同じように正しくゲームを楽しいと感じられているんだって、そう、言い聞かせたがっている。
自分でも気がつかないうちに、私はこのサイトを開設しました。
私は、自分の楽しいという感情を、他人に確認してもらおうとしていました。
自分自身に感情があるのかどうか、分からなくなっているんですよ、おそらく。
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哲学的ゾンビって言葉があるじゃないですか。
外から見ると完全に人間。泣いて、笑って、怒って、騒いで。心があって、感情があって、感想があって。ちゃんと確固たる意志があって、動いているように、見える。見えるだけで、実際にはその中には意志と呼べるようなものは何もなく、ただ、周囲からはそう見えているだけ。中身は空っぽなのに、アウトプットだけはまともだから、人間として不自由なく生きている、そんな存在を指す言葉です。
本当はこんなの、賢いだけで役に立たない哲学者たちがでっちあげた、無駄で無意味な机上の空論でしかありません。恐れる必要も無いような、架空の化け物にすぎないんです。世の中には意志と言うものがあって。それがある人間とない人間は一体何が違うんだろうとか。本当に意志なんてものが存在するのだろうとか。そういう何の意味もない議論の為に生み出された、何の意味もない言葉ですよ。
ただ、もし仮に、もう既に私の脳からは感情の全てが無くなっていたとして。私は…、私自身の意志のもとで動いている人間なんでしょうか? それとも私こそが、科学者が生み出してしまった哀れな化け物なんでしょうか? いや、科学者というよりは、哲学者? 哲学者が生み出した、フランケンシュタインの怪物? 昨日までキッズホビーいじってた化け物とか、ちょっと哀れすぎやしませんか。
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友人は、本当に幸せ者でしたよ。
最後は、ゲームを遊びながら寝てしまい、呼吸困難に陥って亡くなりました。なんでも担当医の先生の話では、「ゲームに飽きるより先に、脳が呼吸に飽きてしまった」んだそうで。脳停止の患者の死因は、99%自殺、それも生きることに飽きてしまっての自殺と言われていますから。彼の人生は、本当に理想の人生でしたね。なにせ彼には、彼の人生を幸福だと言ってあげられる友人が、一人だけ残っていた。ちゃんと葬式をあげてくれる、優しい友人が残っていましたから。まぁ、私なんですけど。
私には、残念ながらそういう友人は残っていません。本当だったら私の葬式をあげてくれるはずだった友人は…、呼吸をするのに飽きてしまって、ゲームを遊びながら死んでしまいましたから。私が死んでも、誰も葬式はあげてくれません。役所のデータベースに、哀れな老人の孤独死の記録が一つ追加されるだけ。まぁ、死んだ後のことはどうだっていんです。本当に、本当に気が重いのは…、私には、脳停止となった私の人生を背負ってくれる人間が、誰もいないってことですよ。
実は先日の入院を経て、昨日から自分の脳の状態を測定出来るようになりましてね。具体定期には、BMIからリアルタイムで自分の感情を確認できるようになったんですよ。本当は、家族が患者の病状をチェックするためのアプリなんでしょうが。でも私には、家族はいませんから。本来は別々である受信と送信のソフトを、一つの脳にインストールしている。自分の脳がどれほど衰えて危ない状態なのかを、衰えて危ない自分の脳で確認しなきゃならないってわけです。
ファミリー向けのパーティゲームを、一人で遊ぶようなもんですか。
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この文章を書く寸前、本当に寸前まで、実は確認できなかったんです。
迷いはあったんですよ。本当。最後の最後まで。こんなものに頼ってでも、自分は余生に執着するのかって。でも私と言う人間は、やっぱり私と言う人間でしたから。「ゲーム」と「身体」を天秤にかけた時、ゲームが簡単に勝ってしまった。だって、この数値を知っていれば、自分がいつまで楽しくゲームを遊んでいられるかを確認できるんでしょう? そんなの、知りたいに決まってるじゃありませんか。
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現在私の脳には…、平均的な人間と比較した場合、76.5%、感情が残されています。23.5%の感情が、既に失われた分。長く生き過ぎた代償ということでしょう。
私にはまだ、感情が残っている。
これから減り続ける数字ではあっても、まだ、76.5%も感情が残っている。
ゲームを遊んでも、まだ今までの76.5%楽しいと感じることが出来る。
脳停止に対する恐怖は、今までの23.5%は怖いと感じずにいられる。
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私は、私が楽しいと感じているから、ゲームを楽しく遊んでいるのです。
たとえそれが76.5%であったとしても、私は今、ゲームを楽しんでいる。
自分が楽しくゲームを遊んでいる、その感情に疑う余地なんてあってたまるかって。ゲーマーとしての小さなプライドが、穏かな余生の邪魔をしやがるんです。
2115/8/5 (Article written by Alamogordo)
了
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