【第4回】フォークロア・オブ・ノスタルジア
タイトル:フォークロア・オブ・ノスタルジア
運営開始日:2060/12/3
運営元:ポテンヒット
世界のあらゆる低評価なゲームをレビューしていくレビューサイト「The video game with no name」、第四回目となる今回は、2060年サービス開始、最後のブラウザソーシャルカードゲーム「フォークロア・オブ・ノスタルジア」の紹介です。
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先日自身のオンラインゲームライブラリを整理していた際に気付いたのですが、この度喜ばしい事に、そしてお恥ずかしながら、私の積みゲームの数が晴れて5万本を突破しました。もともとこの「積みゲーム」という言葉の「積む」とは、ゲームが物理メディアで提供されていた時代に、遊んでいないゲームを床に積み重ねて保管していた事によるのだそうで。老いぼれがゲームで圧死する前に、オンラインストレージの技術が進歩してくれたことに、今はただただ、こうして感謝をするばかりです。
本来「雲の上」とは、あの世を比喩する言葉のはずじゃありませんか。そう考えると、老後に遊ぶ為のゲームをクラウド上に保存している私は、死んでも遊びきれないゲームの山が既にあの世にまで到達してしまったという事なのでしょうか。親より先に死んだ子は、賽の河原で石積みをやらされるという話もありますしね。半死半生のこの人生、積んだゲームが山となり、死んだ両親がいるあの世にまで山頂が届いてしまった。息子が現世で楽しくやっていることが、あの世に少しでも伝わってくれると嬉しいのですが。
また、この記念すべき5万本目となった「Gagarin」というタイトル。90年代初期の宇宙シミュレーター系ゲームを忠実に再現した、言わば「ノスタルジー作品」と言えるゲームでしてね。5万本の中には未だ90年代のゲームが遊びきれずに保管されているわけで、私はそれらの全てを遊び尽くす前に、それらのノスタルジー作品まで手に入れてしまったことになる。なんだか、自分の寿命がゲームの消化に追いつかなくなってしまったみたいで。一体自分はなんのためにこのゲームを買ったんだって、そんな気にさせられるじゃありませんか。
人間本来の持つ寿命は、大体125歳までが限界と言われているんです。人生というゲームが遊べる最大のボリュームが、125年。こんなに内容が薄っぺらいゲーム、普通だったら文句の一つも言われておかしくないはずですよ。遺伝子をいじったり、サイバネティクスで身体を埋め立てたり、寿命を延ばす方法もないわけじゃありませんが…、結局のところ、いかに足掻いても125年が限界という事実に変わりはないわけで。125年ぽっちじゃ、あまりに足りない。生きるのに短いと言っている訳じゃないんです。世に出ているゲームを遊びつくすには、一生は足りなさすぎると言っているんですよ!
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老いてもなお若かりし頃のままゲームを遊びたいという欲求は、何も今に始まった話ではありません。かつて遊んだ昔のゲームを再現する為に、演出としてわざと技術的に見劣りするように作った作品達。言わば「ノスタルジー作品」は、150年という非常に短いビデオゲームの歴史の中でも、頻繁に繰り返されてきた重要なムーブメントの一つでした。
かつては幼かった子供達も、いつかは老いて死んでいく。
しかし、幼いころに遊んだゲームは、老いてもなお変わらず夢中になれる。
背中を丸めてゲームに興じる姿は、そのまま老いていくものです。
懐かしいところで言えば、初期VRを忠実に再現した「Everlasting」をご存知ですか。初期VRゲーム群にありがちだった酔いやすさやメニュー周りの質素さを再現した秀逸な作品で、VR酔いが恋しくなったという高齢者を根こそぎ虜にしていきました。他のキャラクターに近付きすぎると身体の中身が透けて見えてしまう事を演出に盛り込んだシナリオも、「このゲームはちゃんと身体の中身が透けて見える!!」とVideonicaのレビューでも驚きをもって評価されていましたね。
歴史的に見れば、2016年に初期ポリゴンゲームのザラついた質感を忠実に再現した「Back in 1995」とそのフォロワー達、聖典「スーパーマリオブラザーズ」が著作権切れとなった2056年にお菓子のオマケにまでついて来たFCマリオ再現ゲーム群、裸眼でAR情報が見えるこの時代にわざわざヘッドマウントディスプレイを着けないと見れないARを開発した「Re:AR」、などなどが有名なところでしょうか。いずれも、その時代の疲れた大人達を癒したタイトルばかりです。
ゲームの数だけゲーマーがあり、ゲーマーの数だけそのノスタルジーがある。老いて遊ぶゲームが変わるのでなく、老いたからこそかつて遊んだゲームを遊ぶというのは、やはりゲームは老いず、青春がそこにあり続けるからこそでしょうか。
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高齢者向けのゲームというのは、数は少ないながらも、現在もなお毎年一定数は必ずリリースされ続けているゲームジャンルです。もちろん需要があるというのは確かなのですが…、これは2050年代に厚生労働省が策定した「リハビリテーションソフトウェア特別促進事業」に基づき、認知症予防に効果のある娯楽用ゲームの導入の際に、福祉施設および利用者当人へ補助金が支給される影響によると言われています。まぁようは、この手のゲームは作るだけで、国からお金がもらえるんですよ。
2020年代から始まった政府の介護医療事業への集中投資により、サイバネティクス・BMIに多額の研究資金が流れたのは皆さんご存知の事でしょう。ただ、その二事業が特段成功を収めたというだけであって。実はそれらの傍流として、「医療用リハビリテーションソフトウェア」にも注目が集まった時代があったのです。ただ、まぁ。事業としては誰もに忘れ去られてしまった通り…、医療用リハビリテーションソフトウェアは、総じてあまり評判が良いとは言えません。
通常のゲームレビューサイトでそれらのゲームの評価を探すことは出来ませんから、「大人の」情報を知りたいのであれば、古きよきクラシックSNSであるTwitterのアーカイブをご覧になってみるのはいかがでしょう。「遊ばされているとしか思えない」「この歳になって勉強するのはただただ辛い」「ヘル」。そこはインターネットに残された高齢者の生の声の宝庫。若い介護士にリハビリテーションソフトを勧められて、苦しみながらゲームを遊んだ人々の嘆きの声が溢れていますよ。
「ゲームを遊ばされているように感じる」という問題は、リハビリテーションソフトウェアというゲームジャンル自体を、未曽有の低評価に叩き落しました。ゲームは自分で遊ぶから面白いのであって、誰かに遊ばされればもう労働と変わりがない。どうしたら楽しく、効果的に、…そして強制的ではなく、ゲームを遊んでもらえるのか。多くの若い開発者がこの難問に挑みましたが、高齢者の皆さんを納得させるようなゲームは…、これまでただの一本たりとも生み出されてはいません。
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とは言え、そんな悲しい話で終わらせるわけにはいきませんから。今日は、すべてが低評価に終わった「リハビリテーションソフトウェア」というゲームジャンルの中から、最も正解に近づいたと思われるゲームを一本、皆さんにご紹介しましょう。
実はこの問題、解決自体は、そんなに難しい事でもないのです。高齢者に楽しくリハビリを遊んでもらうには、一体どうしたらいいのか。それはもちろん、彼らが実際に楽しく遊んでいたゲームと同じゲームを作れば良いだけの話なのですから。
ところで皆さん、遡ること百年前に大流行した「ソーシャルカードゲーム」というゲームジャンルをご存知ですか? 一瞬で市場に流行し、急激に進化して原型が無くなっていた、と言われるゲームジャンルなんですが。
いえ、知らなくてもいいんです。2060年の時点ですら、そんなゲームを遊びたがるのは、ほとんど死にかけの高齢者くらいでしたから。彼らは老いて呆けても昔遊んだゲームが忘れられず、既に無くなったゲームを遊びたがっていたんですよ。
今回ご紹介するフォークロア・オブ・ノスタルジア(以下FoN)は、2060年サービス開始。2010年代に青春を残してきた「高齢者」のために、彼らの青春を再現してあげようとした、心優しいリハビリテーションソフトウェアです。
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ここで改めて「ソーシャルカードゲーム」というジャンルを、読者の皆さんに説明しておきましょう。
ソーシャルゲーム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
Wikipediaの編集が45年前で止まっている事からも分かるとおり、ソーシャルカードゲームは今から100年前に流行した歴史あるゲームジャンルです。当時はSNSが普及し始めた頃であり、人々は携帯電話(※)からWebブラウザを通してSNSにログインしていました。当時のWebブラウザは現在のように五感が共有出来るわけでもなく、確認が出来たのは文字と画像くらいなもの。思考共有なんてもちろん存在しない。人々は非常に制限された中で、情報を共有していました。
※携帯電話
おおよそ手のひら大のサイズの電話。後期のものは画面がついており、簡素なWebブラウザやゲームが搭載されていた。
ソーシャルカードゲームは、そんな制限の中だからこそ発達したカードゲームの文化です。文字と画像しか表示できないブラウザの中だからこそ、画像をカードと呼び、画像の下にキャラクターの設定やシナリオが文字で記述されました。物語を語るのは、映像じゃないんですよ。単なる、文字で。またそれぞれの画像は個別にレアリティを持っており、レアリティが高い画像を手に入れるには「ガチャ」と呼ばれる抽選機能で、非常に低い確率の中を引き当てる必要がありました。
ガチャで手に入れた画像の持つ数値を、他のプレイヤーの画像の持つ数値と比べ、バトルを行う。レアリティの高い画像は、高い数値を持つ。バトルに勝つためには、ガチャでレアリティの高い画像を手に入れる。このシンプルなゲームサイクルを見れば、当時の若者達が「制限された中で生み出されるゲーム性」に心を奪われた理由はお分かりになるでしょう。レアリティの高い画像を引き当てられる確率は、驚くなかれ実に1%以下! 人々は、画像の希少価値に心酔したのです。
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FoNを開発した「ポテンヒット」(※)は大学を卒業して数年の若者達が立ち上げた開発スタジオでしたが、大学でソーシャルゲームの歴史を学んだ言わば「研究者」達のスタジオでもあり、ゲームとしても非常に歴史的考察に優れたゲームでした。
※ポテンヒット
「カキンと言わなくてもヒットとなる事」に「課金無しでもヒット作となる事」をかけたダブルミーニングとされるが、未確認。
あなたがもし今現在130歳ならば、まず開始の時点で、システムメニューに当時の携帯電話を思わせるテンキーを採用しているところから驚かされる事でしょう。ゲームを開始するとまずはじめに「この物語は、古の伝説が伝わるノスタルジア大陸…」と壮大なオープニングムービーからはじまりますが、ムービーとはいってもキャラクターの画像が浮かんでは消えするだけです。この、こだわり。そもそもゲーム内の動画自体、このオープニングとバトル開始終了時・ガチャ抽選時の三箇所しか存在しないのですから、開発陣の徹底した歴史考証に唸らされるところです。
オープニングの後にはじまるのはゲームチュートリアル。ナビゲーター役の魔法使い「ミランダ」の指示に従い画面上のバーチャルテンキーをクリックしていくと、おおよそ7クリックで最初の敵を粉砕。その報酬として無料でガチャを引くことが出来、そこでレアリティの低いゴブリンのカードを入手出来ます。手に入れたゴブリンのカードはさっそく生贄にささげて、ミランダのカードを強化しましょう。そうすれば、続くボス戦にミランダ一体で勝利。「戦闘」「ガチャ」「強化」の一連の流れを経て、チュートリアルは終了します。
高齢者向けとあって非常に手厚いチュートリアルと言えるでしょう。1クリックごとに「戦闘に勝利しました!やるじゃない!」「強化に成功しました!あんた見かけによらずやるじゃない!」「あんたならもしかして、世界を救えるかもね」とミランダが褒めてくれるので、モチベーションを高いままゲームを遊び続けることが出来るのも見逃せないポイントです。この仕様は特に素晴らしい。タップする指も軽快になります。これは現在ではあまり見られなくなった「ゲームを遊ぶこと自体をゲームが褒めてくれる」という、大変心憎いユーザー配慮ですね。(※)
※2115/5/3追記
メールにて、「当時のソーシャルカードゲームのチュートリアルは、大体の作品は1クリックごとに褒めていたのでは」というご指摘をいただきました。仰るとおり、これは高齢者向けの手厚さというよりは、忠実な原作再現にあたる要素です。誤解を招く表現、大変失礼いたしました。
しかしながらこのゲームは、単なる「過去の名作達のフォロワー」というだけの作品ではありません。少しばかり遊んでいるだけでも、すぐにそれはプレイ感覚として感じられるはずでしょう。ユーザーインターフェースは高齢者向けに最適化され、文字の一つ一つはハッキリクッキリと大きく表示。色調も淡い色彩でまとめられており、バーチャルタブレットによる目の疲れを緩和させる優しい光を放っていました。2010年代当時はプレイヤーの寿命を削ってゲームの難易度も、高齢となったプレイヤーへの負担を考え、非常に優しいものに設定しなおされています。
FoNは、2010年代にコアゲーマーが愛した作品の模倣にとどまらない。2060年の価値観によって生まれた、高齢者向けのゲームだったというわけです。
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流石に研究者だけあって抜け目がありません。ゲームでノスタルジーを味あわせるために、「そのゲームが遊ばれていた時代の空気感」が必要であるということを、彼らは忘れていませんでした。全国の高齢者福祉施設のAR掲示板に、2010年代当時を思わせる「事前登録でSRミランダ貰える」(※)という涙も枯れるレトロリスペクトな画像広告を展開。分からないでしょう分からないでしょう。「絶対遊ばないでください」と書いてある広告を見て、遊びたくなる気持ちは若者には分からないでしょう。その時代を生きた人々にとって、これらの広告は青春の輝きなのです。
※事前登録
2010年代当時ソーシャルカードゲームはサービス開始前からプレイヤー登録を行うとレアリティの高い画像をゲーム開始時に入手できるサービスが一般的だった。
こうして大々的にプレイヤーを集めたFoNは、サービス開始時点で実に10万人もの後期高齢者ユーザーを集めていたと言われています。もうほとんど生きる希望を無くしていたような高齢者たちが、見違えるように色めきだって、誰も彼もが数十年前のネットスラングを思い出して!年甲斐もなく興奮して、ミランダの二次創作イラストをアップロードしたり。もう十数年もログインしていないSNSのパスワードを思い出して、生き残っていたかつての仲間同士でゲーム用のグループを作ってみたり…。ある種、祭りのような状態だったのかもしれません。
当然、本作にはサービス開始初日から計算通りにプレイヤーが殺到し、ブラウザカードゲームとしては数十年間ぶりの華々しいサービス開始を迎えました。
が、惜しむらくは。プレイヤーが殺到したのがゲーム本編ではなく、ユーザーメッセージボードだったことでしょうか。サービス開始から数時間で、ユーザーメッセージボードは落胆するプレイヤーに溢れ、ログは「何も分かっていない」という阿鼻叫喚のメッセージで埋まりました。ある者は泣き、ある者は喚き。ある者は、「結局はこのゲームも、見た目だけ取り繕っているだけで、リハビリテーションソフトに過ぎなかった」とだけ呟いて。もう二度とゲームには戻ってきませんでした。
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ここでサービス開始直後のこのゲームの更新履歴をご覧になっていただきましょう。
2060/12/21
ご指摘をいただいておりました以下の箇所を修正しました。
・明確に表示されていた文字のフォントを、見え辛いものに修正。
・ノーマルとして排出されていた下記のカードのレアリティをレアへ修正。
ドアノブの女神
漆黒人魚ユイ
約束された愛
2060/12/23
ご指摘をいただいておりました以下の箇所を修正しました。
・体力回復にかかる待ち時間を短縮する機能を削除。
・1クリックで済んでいたバトルを10クリックかかるよう修正。
2060/12/27
ご指摘をいただいておりました以下の箇所を修正しました。
・全カードのエフェクトを煌びやかに修正。
FoNが「リハビリテーションソフトウェア」として優れていたという事実は、誰にも否定することは出来ません。しかしながらプレイヤーの大多数は、リハビリテーションソフトウェアとして優れていたからこそ、本作に「ゲーム」としての不満を持っていました。例えば上記にあげた修正点に、不具合らしい不具合が一つも無いことはお分かりになりますよね? むしろその内容を見ていくと、修正の大半は「リハビリテーションソフトウェアとして秀逸さ」を削除したものだという事が、読者の皆さんにもお分かりになる事でしょう。
私も言うほど若くはありませんから、理解は出来ます。
年寄りという生き物には、絶対に許せないものが二つある。
一つ目は、不必要な配慮。人間扱いされていないみたいで腹が立ちますから。
二つ目は、過去への無理解。人生を否定されているみたいで腹が立ちますから。
その二つが合わさったとあれば…、もう我慢がききませんよ。
はじまりは、高齢者を労わってハッキリと表示した文字が、「当時のゲームはこんなにフォントがハッキリしていない!」という欠点と認識された事でした。高齢者の負担を考え搭載された体力回復機能の大半は、「本当に当時のゲームのバランスを知っているのか、舐めるな」という不勉強へ。優しいインターフェースを目指した色調は、「とにかく…昔のカードはもっとこう…なんだかゴワゴワキラキラしてたんだけど…」という不信感へ。本作にちりばめられた「リハビリのための配慮」は、ことごとく、「過去への無理解」だとしか認識されなかったのです。
更新履歴を見るに、全てのカードにキラキラやゴワゴワをつける作業が、クリスマスの夜に徹夜に行われていたのだろうと思われますが…。むしろその頃プレイヤーの大半はと言えば、「クリスマスはクリスマスイベントをやるのがこの手のゲームの常識だろう」という方へ怒りを向けていました。「最近の若者は道理を知らん」という、まぁ、その手の話ですよ。運営はプレイヤーのためを思って配慮したはずなのに…、当のプレイヤーはそれを無理解としか捉えなかった。ゲームに低評価がついているというよりは…、若者が説教されているという方が、正しいのかもしれません。
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リハビリテーションソフトとしての「配慮」は、ノスタルジーゲームとしての「無理解」。ノスタルジーゲームとしての「配慮」は、リハビリテーションソフトとしての「無理解」。一体この世の誰なら、配慮と無理解の違いを定義つける事ができるのでしょう。2115年の世の中において、FoNが低評価になった理由はプレイヤーに対する「無理解」だったとされてはいます。しかしそれは本来「配慮」と評されてもおかしくないものだったのではないか、私はそう考えてもいます。
配慮と無理解を言い換えれば、「どこからどこまでが必要とされている介助で、どこからどこまでが不必要な世話焼きなのか」という、介護医療における永遠の命題そのものと言っていいかもしれません。
介護医療の分野において「必要な介助」と「不必要な世話」の線引きが難しい事は、ゲームの中でも変わりはありません。FoNはゲームの歴史でも稀に見る、ゲーム内での「必要な介助」と「不必要な世話」の線引きを迫られたゲームでした。文字の明確さの「必要な介助」と「不必要な世話」の線引きはどこにあるのか。ゲームの難易度の「必要な介助」と「不必要な世話」の線引きはどこにあるのか。チュートリアルの丁寧さの「必要な介助」と「不必要な世話」の線引きはどこにあるのか。
SSRの排出確率が何%以上ならリハビリソフトとしての負担の許容範囲なのか。
SSRの排出確率が何%以下ならノスタルジーゲームとしての原作再現なのか。
そんなの、この世の誰にも決められるわけがない。
FoN運営はその後も「リハビリテーションソフトウェア」としての要件を満たすため、あの手この手で数々の施策や調整をこなしました。そして結果だけ言えば、どの施策もプレイヤーを満足させることはありませんでした。
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私がFoNを「配慮」溢れるゲームだと考えているのは…、プレイヤーからいかに運営が「無理解」だと説教され続けてもなお、それらの施策を止めなかったためです。
ゲームの更新履歴が示すとおり、リリース開始直後の炎上以降から終了に至るまで、FoNの運営がユーザーの説教に逆らったことは、ほとんどと言っていいほどありません。「課金兵(※)という言葉知らないだろお前らは」「イベント報酬安ない?」「お前らが生まれる前からログインボーナス貰ってるんだぞ俺は、即刻仕様変えろ」ユーザーの声を真摯に受け止め続けたFoNは、リリースから日を追うごとにゲームをバージョンアップし、文字通り一日一日と2010年代へと遡っていきました。
※課金兵
有料コンテンツのあるゲームに大量のお金をつぎ込むプレイヤーの事、2010年代~2030年代までに見られたインターネットスラング。
しかしそんな修正の嵐の中にあっても、FoN運営は懲りずにユーザーへの配慮を諦めませんでした。例えば、ゲーム画面の背景の色。一度、FoNのプレイ画面を是非検索してみてください。緑色の画像ばかりが目に飛び込んでくるでしょう? 実は初期のFoNは、こんな緑ばっかりのゲームではありませんでした。「背景は原色で、白文字かが普通だよな」という指摘の修正の際に、色を緑ばっかりに変えてしまったんですよ。「緑は目に負担が少ないから」という理由、おそらくはそれのみをもって。
「画像がクッキリし過ぎている」と言われれば、画像の解像度を2010年代ベースに落とすのと同時に、こっそり画像のサイズを大きくして見たり。「すぐに体力がなくなってゲームを長く遊べない」と言われれば、体力を長持ちするように調整するのと同時に、指を体操させるかのようにボタン配置を変えてみたり。プレイヤーの要望に応えているは応えているのですが…、そこに必ず、プレイヤーが気づかないうちに、何かしらの新しいお節介を入れようとしてくる!
ユーザーの不満には正面から対応しながらも、ユーザーへの配慮の基本を忘れることは無い。それはまるで、祖父母の長々とした説教を聞き流しながらも、甲斐甲斐しく世話をしている孫を見ているかのような…。両親が不必要だと言っているにもかかわらず、心配をやめられずにいる子供を見ているかのような…。「無理解」と「配慮」のジレンマの狭間でバランスを必死に探り続けたFoNに、私は、介助者として苦悩する人々の姿を重ね合わせて見ていたのかもしれません。
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リリース開始時は批判で賑やかだったFoNも、百年前のゲームがそうであったように、運営期間が長引くにつれプレイ人口はジワジワと減っていきました。FoNが衰退した原因は様々あります。寿命でみんな死んでいったのもあると思います。しかし主だったものとしてはやはり、「競争についていけなくなったプレイヤーが離れた」という理由が大半でしょう。当初は難易度の低さが非難されていたFoNでしたが、プレイヤーの要求に合わせてアップデートされた後期のFoNは、往年を思わせる熱い課金バトルの舞台に様変わりしていましたから。
トッププレイヤーで2000万円(※)、セカンドプレイヤーが1000万円、上位クラスは200万円からと言われた争いは、老兵は死なずを2060年の世に伝える見事な戦いぶり。震える我が手をしかりと抑え、唇を噛んでガチャをひく。一つひいてはガチャのため、二つひいてはガチャのため。しかしながら、かつての年金制度が本格的に限界を迎えつつあったのも、丁度このゲームと時を同じくする2060年代。レビューサイトに残された「手に汗握る年金バトル」というジョークも…、当時の世相を鑑みればより一層の「決死の戦い」を感じさせるところです。
※2000万円
2115年現在にして4000万円ほど。
スマートレンズさえ普及した2060年の世に、人々が揃って「板」を必死に見つめるあの日の青春の光景は。若い人たちには、なんだか奇怪で、なんだか奇妙で、なんだか恐ろしい光景に見えたのかもしれません。当初はリハビリテーションソフトウェア唯一の革新的ヒット作としてニュースサイトに取り上げられていたFoNでしたが、「異様なムーブメント」として世間の目を集めるようになると、それに歩みをあわせるかのように、ポツリポツリとプレイヤー人口を減らしていきました。「おじいちゃん、板を弄るのはやめて」なんて、孫に言われたプレイヤーもいるはずでしょう。
リリースから二年後の2062年11月30日。「年寄りの楽しみを奪わないで…」との声に応えてオフライン版FoNをリリースし、それと引き換えに、オンライン版FoNはサービスを終了しました。オフライン版FoNはほとんどオンライン版FoNと同一の内容でしたが、唯一の違いは、長時間プレイすると「一旦プレイを休みましょう!」と画面半分を覆い尽くして表示される心憎い仕様。プレイヤーはもちろん「余計なことしやがって!」と怒りに狂いましたが、既にゲームは死んでしまった。最後の最後まで「無理解」と「配慮」を忘れない、2年間という、あっという間の人生でした。
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FoNはリハビリテーションソフトウェアとして、本当にユーザーの健康に効果があったのかについては、オンライン上に公開されている信頼できるデータは存在せず、諸説あるのが現状です。「FoNは年寄りの財産と寿命を吸い取った」と烈火のごとく怒る人もいれば、「FoNを遊んでいる祖父母が好きだった」と優しく語る人もいます。私にももちろん、その効果のほどは分かりません。しかし一点だけ、現在のFoNの評価については苦々しくは思っています。何故なら、もし仮に、楽しいゲームを遊んで寿命を削ったのなら。私には、それはそれで、幸せな事に思えるからです。
2062年サービス終了前夜のFoNは、先述の通り課金額で殴りあう苛烈なゲーム性となっており、特にトッププレイヤーとセカンドプレイヤーの争いはまさしく寿命を削る激しい争いになっていました。両者ともに、ゲームに使うお金の額に上限を決めているとは思えず、ゲームの勝敗は単に「どちらが長くゲームを遊び、どちらが素早くお金を使うボタンをクリックするか」という状態だったとさえ言われています。おそらくは、若い日に遊んだゲームプレイそのものの戦い方だったんでしょう。文字通り、どちらかが倒れるまでの時間と金での殴り合いですよ。
セカンドプレイヤーは長きに渡ってこの勝負に負け続け、サービス期間の大半を二番手として過ごし続けていました。ただ、2061年夏のイベント頃より、急にトッププレイヤーを打ち負かすようになります。トッププレイヤーが調子が悪くなったわけではありません。ただただ、セカンドプレイヤーの連打速度が急激に速くなったのです。結局、最終ランキングではセカンドプレイヤーがトップに立ち、順位が大逆転したところで、本作は終了しました。どうしても…、どうしてもこのゲームで勝ちたかったんでしょうね。この人は。私には、気持ちが分かりますよ。
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ゲームのメッセージボードには「これは不正では」との投稿が並びましたが、そんなわけはありません。なんでゲーマーがゲーマを疑うのか。虹彩認識・指紋認証のあるバーチャルタブレットで代理プレイは難しいですし、そもそもそれに長時間付き合ってくれる人はいませんよ。プレイヤー達の大半は…、「こんなことはあり得ない」とうろたえていましたが、当然でしょう。年寄りが突然ゲームがうまくなるなんて、普通はあり得ませんからね。しかしながら、私が考えるに、私が考えるにですよ。2060年代時点でも、実はこのゲームの攻略法は少なくないんです。
ちょっと考えればわかるのは、量子ネットワークでのオンライン接続ですね。一般的に2070年代が普及の本格化をイメージされる量子テレポーテーションの技術ですが、実際には2060年代の段階で国家機関・学術目的に限り既にネットワークの整備がはじめられていましたから。回線が量子であれば「速さ」において既存回線のプレイヤーに大差をつけて勝利できますが…、これを一般人が2060年代に利用しようとなると、ちょっと現実的ではないところもありますし。恐らくは、この方法はとっていないかもしれません。この方法じゃ…、勝てなかったでしょうね。
アンドロイドを利用した…、ってのもありえます。こちらも一般的に2070年代が普及の本格化をイメージされる技術ですが、2060年の段階で医療介護分野では試験的な導入が進められていましたし。ただ、アンドロイドにゲームを代わりに遊んでもらうというのは…、もうほとんどチートに近い攻略法ですからね。これに手を付けてしまっては、それこそ人間としてもゲーマーとしては終わりみたいなもので。恐らくは、この方法もとっていないでしょう。この方法じゃ…、勝っても満足は出来なかったでしょうから。
まぁ、順当にいけば。このプレイヤーは2060年前後に、腕をサイバネティクスに交換したのでしょう。2060年代は既にサイバネティクスによる身体のパーツの入れ替え技術が普及していた時代であり、体力的に手術に耐えられない高齢者からは敬遠されてはいましたが、それを承知の上で手術を望む人も少なくはありませんでした。しかし腕をサイバネティクスに入れ替えるには、手術に耐えうる体力と、リハビリに臨む精神力と、痛みを乗り越える強い覚悟が必要になります。ゲームを遊ぶっていう強い意志が無ければ…、こんな馬鹿な事はしなかったとは思いますよ。
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若かりし日ってのは、ゲームを遊ぶには何もかもが足りません。お金はない、時間もない、生身の身体を酷使するしかない、おおよそゲームの為には使えない遅い遅い回線しかない。こんな状態じゃ、ゲームで負けても仕方がありません。
トップランカーの連中みたいに。お金があって、時間があって、ツールでプレイを補助しながら、超高速のネットワーク環境でゲームを遊べたら。俺だって絶対に負けないのに。誰だって、一度はそんな無意味な妄想をするじゃありませんか。
いつか時が来て、今の自分にはそれが全部できるようになったんだと気付いたとき。目の前に、当時と同じゲームがあったとしたら。どんな手を使ってでも勝ちたくなってしまうものだと…私は思うんですが。みなさんは、どう思われますか。
===
ゲームに勝ちたいという一心が、腕をサイバネティクスにさせたか、アンドロイドを呼び出したか、はたまた量子ネットワークへの接続を果たしたか。それとも、オレコマンダーを利用したか。いえいえやはり「優しさ」をもって見るのであれば…、勝ちたい心がプレイヤーの身体を純粋に強くしたと思うべきでしょうか。
今となっては真相は分かりませんが、一つ確かに推測出来ることはあります。老いている暇が無いほど熱中したゲームが、かつてそこにあった。いかなる方法を使用してでも、自分が老いていることを忘れて、勝ちたくなるようなゲームがあった。
幸せな事じゃありませんか。何かに熱中して寿命を削るという事は。
残りの寿命を数えながら遊ぶゲームなんて、味気がなくなってしまいますからね。
2115/5/2 (Article written by Alamogordo)
了
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