第41話 国王の執務室で

 扉にノックの音がして、リシスは現実に引き戻され、没頭していた書面から顔を上げた。ぼんやりと、自分の秘書官をしてくれているキャルが、扉を開けに行くのを眺めている。開いた扉の向こうには、大量の書類を抱えた、シャルル改め、エリアス・フォン・ラスフォンテ伯爵の姿があった。それを、山積みの書類のスキマから見ると、疲れ切ったような顔で、人生最大級の溜息を落とした。

「……この紙の山には呪いでも掛かっているんじゃないのか?ちっとも低くならないんだが」

「大丈夫ですよ、陛下。万事、順調に進んでおります」

 エリアスがにこやかに言って、執務机の上の書類を少し横にずらすと、そこに新しい山を出現させた。

「……お茶にいたしましょう、陛下」

 キャルが気遣うように言って、侍女を呼びお茶の支度を頼む。

「大変申し訳ないことながら、ここには、私がため込んだ、二年分の宿題も含まれておりますので……今しばらく、ご辛抱いただかなければなりませんが……」

「しばらく……って?」

「そうですね、陛下はとても仕事がお早いので、あとひと月もあれば、この尋常でない忙しさからは解放されるハズです」

「ひ~と~つ~き~ぃぃぃ?無理、生きていられる気がしない」

 リシスが弱音を吐いて、書類の上に突っ伏した。

「私が不甲斐なかったばかりに、陛下には多大なご迷惑をお掛けいたしまして、このエリアス、誠に心より申し訳なく思っております……」

 エリアスが、シュンとしてうなだれる。

「あ、いや、別に責めている訳では……」

「エリアス、リシス様は、真面目なお方なのだから、あまり掌で転がすような真似は、しないで頂戴ね」

 思い切り作ったような笑顔で、キャルが言う。

「リシス様、この者の言う事は、どうぞ、話半分ぐらいにお聞きください」

「半分は、酷いなぁ……」

 エリアスが苦笑する。そうこうしているうちに、侍女が三人分のお茶を運んで来て、リシスは強張った体をなだめながら、茶器が置かれたテラスへ移動する。

 秋の穏やかな日差しに大きく伸びをすると、心持ち頭がすっきりした。遠く丘陵地帯に広がる葡萄畑が紅葉しているのが見え、その美しさに心が和む。その横で、

「……私のことまで頭数に入れてくれるなんて、感激だなぁ……」

 と、エリアスが心底嬉しそうな声を出してに席に着いた。

「あなたには、お茶のついでに、確認をして頂かなくてはならない書類があるんです」

 そう事務的に言って、キャルが持ってきた書類束をポンとエリアスの胸に押し付けた。


 何というか、エリアスは、しきりにキャルの気を引こうとしているのだが、キャルはどういう訳か、一線を引いている。リシスにはそんな風に見える。それでも、席に着いた途端、早速書類に目を落としたエリアスに、穏やかな視線を向けるキャルは、まるっきり彼のことを邪険にしているという訳でもないようだ。

 立ち上る紅茶の香りを吸い込んで、その琥珀色を口に含むと、緊張していた心がいい具合に弛緩する。それを心地よく思いながら、リシスは頭上の青空を仰いでふうと、小さく溜息を付いた。


……ルイーシャに会いたいな……


 久しぶりに生まれた小さな気持ちの余裕に、ふとそんな思いが浮かんだ。そう思ってみて、しばらくその顔を見ていないことに気付く。そんなことに気付く余裕すらない程に、国王となってから、自分はそれほどまでに仕事に忙殺されていたのだ。


……ていうか……いつ……だったっけ……


 最後にルイーシャの姿を見たのは。そう考えて、記憶を辿る。皆の前で仮面を取った時、彼女は自分を見守っていてくれた筈だ。その後は……


……あれ……?……いつから、見てない?……


 不意に、背筋を冷たいものが下りた。あれ以来、自分はルイーシャの姿を見ていないのではないか。ガタンと音を立てて立ち上がったリシスに、エリアスとキャルが驚いたように顔を上げた。

「いかがなさいました?陛下……お顔の色が……」

「キャル、ルイーシャ……は……?」

 リシスがそう問うと、二人が顔を見合わせた。

「……まさか、何もお聞きになっていらっしゃらないのですか?」

 逆にキャルにそう聞かれた。

「何もって……何をだ?」

 それに応えたのは、エリアスだった。

「ルイーシャは、我が愚弟と共に、ランドメイアヘ行くと……」

 リシスは言葉を失った。


――ルイーシャが、アルベールと一緒にランドメイアへ。

 そう聞いた途端に、頭に血が上った。否応なしに鼓動が早まる。


――大丈夫、リシスさまなら、きっと出来ます。


……あの時の笑顔は、変わらずに側にいてくれるって……そういう意味じゃなかったのか。どうして、私を置いて……


「いやだわ、ルイーシャったら、陛下に何も言って行かなかったんですか?」


……しかも、一言もないないなんて……そんなの、許せると思うか?……私が許すと思うのか?……


「……いつだ?」

「えぇ?」

「ルイーシャは、いつ、ここを出た?」

 恐らく初めて聞いた、怒りに満ちたリシスの声に、キャルは戸惑った顔をエリアスに向けた。代わりにエリアスが軽く肩を竦めて答えた。

「ここを出たのは一昨日です。三日後、アランシアから出る船に乗ると、私はそう聞きましたが」

 その答えを聞くや、リシスは乱暴に指輪を引き抜くと、大股で部屋を横切っていく。ライディアスの髪色から、元の長いプラチナブロンドの髪へ、その変化する背中をエリアスが呼び止めた。

「リシス様、これをお持ち下さい」

 振り返ったリシスに、エリアスは目元だけが隠れる仮面を投げた。

「お気をつけて」

 そう言われて頷くと、リシスは足早に部屋を出て言った。



「何で、止めてくれないのよ」

 キャルが不満げに言う。

「この辺で、少しぐらい息抜きしたって、問題ないよ。君のリシス様は優秀だから。身代わりぐらい、この私が、いつだってやって差し上げるし……たまには、二人きり……というのも、悪くないと思わないかい?キャル」

「……それ、仕事になるんでしょうね?」

「どうだろう?」

 エリアスが軽く笑う。

「君にだって、たまには息抜きが必要だよ」

「……昔は、もっと凛々しくて真面目だったのに」

「だって、その辺が、君には物足りなかったんだろう?野性味溢れる御仁と比べたら……」

「別れた男なんかと、比較しないで下さる?」

 苦笑しながら、キャルがエリアスの膝の上に乗ってその首に腕を回すと、エメラルドの瞳が直ぐに近づいて来た。だが、唇に下りたのは、ふんわりと優しい子供のような口づけ……

「……焦らしてるの?」

「流石に、国王の執務室で、というのはどうなんだと、ちょっと理性が働いた……かな」

 その言い分に、キャルが吹き出す。元王太子殿下は、やはりお育ちがいい。

「仕事しましょ」

 キャルが腕を解いて、身を起こす。

「こんな書類の山を枕に、色事もないわ」

「まあ、そうだね」

 少し残念そうなエリアスに、キャルは微笑みかける。

「続きがない訳じゃ、ないわよ?」

「え?ほんとに?」

 分かりやすい表情に、こちらも悪い気はしない。

「陛下の不在がバレないように、頑張ってくれたら、考えなくもないわ」 

「それはそれは……」

 その掌で転がされるのが、今は何だか心地がいい。八年の隔たりに比べれば、この程度、だ。今は、手の届く場所に、彼女はいるのだから。それが、何よりの幸せだ。彼女の横顔を見ながら仕事が出来るなんて、本当に、これ以上の幸せはない。

「今日は仕事が捗りそうだ」

 





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