第40話 それぞれの旅立ち

 リシスが王位を引き継いで五日余り後の事である。その日、カザリンがライディアスの部屋を訪れ、マリアリリアへ戻る旨を伝えた。

 来た時同様、突然の事であったが、カザリンの気儘さは、今に始まった事ではない。驚いたのは、それを知らないリシスぐらいなもので、宮廷では、大して話題にも登らなかった。


「陛下のお顔を、明るい陽の光の中で拝見できる日が、ようやく参りました事、嬉しく思います……」

「母上……」

 目を細めて自分を見据える母に、リシスは言葉に詰まる。


 カザリンが話しかけているのは、かつての仮面の王、シャルルにである。カザリンには、リシアーナ姫が身代わりのお陰で、その命を救われたのだという事を話していなかった。カザリンは、いま一人の息子は死んだのだと、そう思っている。たった三度しか会わず、数えるほどしか言葉を交わさなかった、その息子の為に、カザリンは喪服を纏っていた。


「……今度は、いつ、お逢いできますか?」

 リシスの問いに、カザリンは穏やかな笑みを見せる。

「もうここに、参ることはございません」

「……ならば、私が、マリアリリアへお伺いしても、宜しいでしょうか」

「陛下……」

「お話したいことが、たくさんあるのです」

 そう言ったリシスの顔を、カザリンはしばらく見つめていた。そして不意に、その口許に笑みを浮かべ、言った。

「マリアリリアの春は、百花が咲き乱れ、それは、美しゅうございます」

「母上……」

「花は、お好きですか?」

「はいっ」

「ほほ……では、花園の手入れをさせておきましょうね。陛下には、それまでご壮健であられます様」

「母上も……御元気でいらしてください」

 カザリンは優雅に会釈をすると、王の部屋から退出した。



 カザリンの乗った馬車が王宮を出て王都リブランテの街を抜け、南へ向かう街道へ入った頃、カザリンは向かいの席に白いドレスの女が座っているのに気付いた。

「ダーク・ブランカ様」

 ダーク・ブランカはカザリンの纏う明るい朱色の華やかなドレスに、物言いたげな視線を向ける。それにカザリンが微笑んで応じる。

「ダーク・ブランカ様。十九年前、私が生んだのは、ただ一人。リシスだけ。そして、そのリシスが、ランバルト王の後を継ぎ、王となった。……仮面の王は、幻影の王。あれは、ランバルト王が遺した、幻の王でございました。仮面がなくなった故、いずこかへ消えてしまった……そういうことなのでしょう?」

「そうね。全ては、星のめぐりあわせということね」

 ランドメイアの魔女はそんな言葉を置いて、意味ありげな笑みと共にカザリンの前から消えた。




 少年は、そこにいた。

 変わらぬ髪の色。変わらぬ瞳の色――


 陽の光を浴びて、金色を帯びる薄い茶の髪。マリンブルーの透明な瞳。ただこんな風に、じっとしていれば、美しいという形容詞が、真っ先に浮かぶ容姿なのに。


……性格がどうにも惜しいのよね……


 ダーク・ブランカは微笑を押し殺すと、宮廷服をどこか窮屈そうに纏ってバルコニーに身をもたせかけている少年の横に、何も言わず並んだ。


 その端正な横顔は、珍しく憂いを帯びている。昔は、こんな表情を見せたことはなかったのに。十余年という年月は、少年の姿こそ変えはしなかったが、その内側は、いつの間にか、大人になっている。


……そう、魔法なんて、所詮この程度のもの。ほんのめくらまし……


「……難しい顔をして、考え事?」

「失恋の痛みを、噛み締めていたところ」

 少年が独り言の様に言った。


 その瞳の奥にはまだ、消えてしまった女の、残像が残っている。ダーク・ブランカは少し考えてから、口を開いた。

「……行く先を?」

「いいよ」

 アステリオンは、何か吹っ切った様な顔で言う。

「聞くと、会いに行きたくなるし……あいつが会いたくなるまで、待つよ。どうせ年は取らないんだから、いつ迄でも待ってるさ。まぁ、あいつが、よぼよぼの婆さんになる前には、会いたいけどな……何だよ、その顔は」

「……大人になったもんだなぁって、思って」

「馬鹿言え。もう三十に片足かけてんだぞ、そういつ迄も……」

「成程。そうして、国に帰る、大決心もしたか。結構結構」

「……俺も、昔は見る目がなかったよな。こんな女にひっかかっちまうなんてな」

「お生憎様ね」

 白き魔女は笑いながら姿を消した。


「アステリオン様」

 背後で、声がした。

「マーシャか」

 振り向かずとも、もう声で分かる。

「兄、リィンヴァリウスが、参りました。お支度を」

「うん、分かった……国に帰ったら、俺もお前も、親父殿から、絞られるんだろうな」

「はぁ……」

 マーシャが気の抜けた返事をする。

「よし、こうしよう。俺が、お前の親父殿に巧く取り成してやるから、お前は、俺の親父殿に上手に取り成してくれ」

「アステリオン様……それでは、条件が不公平でございますわ。私が陛下に、ご意見申し上げるなど……」

「何を言うか。こんな可愛い嫁の言う事なら、親父殿はきっと何でも聞いてくれるぞ」

「アステリオン様……」

「お前が、ど~しても、ランドメイアへ行きたいというなら、止めはせぬが……ダーク・ブランカの下で働くのは大変だぞ。何しろあれは、人使いが荒い」

「私がお側にいても、宜しいのですか?」

 そのマリンブルーの瞳の奥に潜むものを見極める様に、マーシャはアステリオンの顔を覗きこんだ。そんな風に自分を見据える少女に、アステリオンは笑顔見せると、徐に言った。

「まあ……俺の側にいるのも、大変だろうが……お前が居てくれると、すごく助かる、と思うんだ」

「では、微力ながら」

 少女は微笑んで、頭を垂れた。





 シャルルは宰相の執務室で書類の整理に追われていた。父の残した仕事を整理して、新しく決済を取らねばならない。農村では、葡萄の取り入れが始まっているし、ワインの製造にも目を配らなくてはならない。ランバルト王の代からの借財の整理も、考えなくてはならなかった。


「……クリストフ2世の秘蔵ワインを、競売にでも出してみるか……」

 百年もののワインの中でも、クリストフ2世の在位五十年を記念して造られた、特別のラベルの貼ってある代物がある。好事家なセントセレベスタの国王あたりが、喜んで買っていくだろう。


「失礼いたします、閣下。クロード殿が、お見えにございます」

 秘書官が告げる声に、シャルルは、書類から目を上げた。

「ああ、キランか……傷の具合は?もう起き上がって、大丈夫なのか?」

「ああ……」

「何て顔をしているんだ」

「……シャルル。私は、罪もない者をこの手にかけて、殺してしまった……」

「キラン、お前に罪があるというのなら、それは、私の罪だ。私のことがなければ、お前が、そんなことをするはずは、なかったのだからな」

「しかし……」

「償いをしたいというなら、私の仕事を手伝え。忙しくて、目が回りそうなんだ」

 なおも深刻そうな面持ちのキランに、シャルルは言い聞かせる様に言う。

「……記憶が戻ったら、お前はきっと苦しむだろうと思ったが、あのままお前がすべてを失っていくのを見ていることは出来なかった。お前は、一人じゃない。私が傍に居る。私の罪の後始末を手伝え。私達は、共犯なんだから……後始末も一緒にするんだ」

「シャルル……」

「だから、ここに……私の元にいろ」

 シャルルが、身を乗り出すようにして、キランを見据えている。

「ああ、分かった」


 友の言葉が、暖かかった。

 私の星は、まだここにいる。

 何よりそれが、嬉しかった。


「ああ、それから……」

 シャルルが付け加えるように言う。

「私の名は、エリアス・フォン・ラスフォンテ伯爵、という事になっている」

「エリアス?」

「シャルルは、国王の御名だからな。呼び捨てにすると、不敬罪になるので、注意する様に。また、そんな顔をする」

「……」

「ラスフォンテ伯爵家には、他にも隠し子がいたという設定だ」

「設定……」

 この友は、また別の仮面を被ることにしたようだ。

「放蕩者のアルベールが出奔したので、代わりに私が呼び戻された、というな」

「そうか……」

「おじちゃまっ」

 唐突に、足元で子供の声がして、キランは驚いて下を見た。淡い海色の瞳の少女が、満面の笑みを浮かべてそこにいた。


「おじ……さま?」

 キランが怪訝な顔をして、シャルルの顔を見る。

「あ、いや……アイーシャ、おじ様は止めてくれないか。どうも、妙に年を取った気分になって微妙だ」

「えぇ~?でも~おにしゃまが……」

「そのお兄様と、私は同い年なのだがな」

「顔にご苦労が出てらして、幼子には老けて見えるのでしょう」

 アルベールが戸口で、面白そうにシャルルの憮然とした顔を見ている。

「お前は自分がお兄様と呼ばれるのを独占したいだけなんだろうが。お兄様は譲ってやるから、せめて名前で呼ばせる様にしてくれ……」

「はいはい、エリアス様。アイーシャも、いいね。このお方は、エリアス様とお呼びしなさい」

「はい、おにしゃま。エリアスさま、わたし、おふねにのるのよ」

「それは、良かったね」

「はい!」

 少女は元気に返事をすると、ぱたぱたと走って部屋を出ていった。

「子供がいると、いいな。場が明るくなる。そう思わないか?キラン」

「そうだな……」

 確かに、この宮殿の雰囲気は、以前とは変わってきている。それは多分、仮面が消えたせいだろう。


 仮面とは、秘密を覆い隠すものだ。秘密でないものでも、仮面を掛ければ、それは、他人が触れることの出来ないものとなる。仮面がなくなった事で、そこに潜んでいた全ての秘密が消えたのだ。

「……顔が見えるのは、いいな。この国の女は、美女が多いし」

 ふと思い付いたように言ったキランの言葉に、シャルルが声を立てて笑った。


「それで、出発はいつ?」

「今から出るので、ご挨拶に寄ったのですよ。船がアランシアの港を出るのは、五日後ですから。急ぐ旅でもありませんし、子供連れなので、のんびり行きます」

「……戻っては、来るんだろうな?」

「まあ、いつになるかは分かりませんが、いずれは……」

「ならいい。気を付けて行って来い」

「では。クロード、兄上が無茶をしないように、見張っておいてくれ」

「……ああ」

「……私は、そんなに信用がないか」

 不服そうなシャルルに、アルベールは笑顔で手を振って、部屋を出て言った。

「そんなに……か?」

 代わりに聞かれて、クロードが苦笑する。

「あれでも、労りのつもりだ」

「……分かりづらいんだよ、持って回った言い方して」

 少し照れながら、ぶつぶつと零す友に、クロードはただ鼻で笑うばかりだった。

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