第30話 夢と現実

……ねぇ……あなた。ここに来て……私の手の中に…… 


 頭の中で、少女の囁く声が聞こえた気がした。

「……だ、れ……?……」

 そう呟いた所で、意識が浮かび上がる感覚がして、ルイーシャは我に返った。

 また、知らない部屋に居た。先刻よりも、内装が豪華な印象を受ける。今度は、部屋の中にはルイーシャの他に、誰も居なかった。周囲の気配に意識を向けると、遠くで人の怒鳴る声や、廊下を走る靴音などが耳に付き、何となく騒然としている感じだ。


「ここ……どこかしら」

 王宮の一室なのだろうとは思うが、ここに来た記憶がない。

「わたし……いつの間に、ここに……」

 フラフラと立ち上がり、どこかおぼつかない足取りで、扉に向かう。


 ここは自分がいるべき場所ではないと感じる。早くここから出て、帰らなきゃと思う。そんな思いに急かされるように重たい扉をそっと押すと、扉には鍵がかかっていなかったらしく、そのまま開く。ちょっと肩透かしな気分で、それでも用心深く、開いた扉のスキマから外の様子を伺ってみる。周囲に人の気配のないことを確認すると、ルイーシャは迷うことなく足を踏み出した。しばらく歩いた所で、自分はどこに帰ればいいのか、という大問題に気づいた。

「……わたし、リシスさまのいる場所を知らない」

 迎えに来たアステリオンに、場所を聞いていなかったという事に今更気付いて途方に暮れる。

「こ、困ったわ……」

 今の自分に当てと言えば、ラスフォンテ伯爵の屋敷しかない。それすらも、リブランテの地理に明るくない彼女には、どうやってたどり着けばいいのか皆目見当が付かない場所だ。


 人の近づいてくる気配に驚いて、ルイーシャは咄嗟に近くの部屋に入り込む。着慣れないドレスに、履き慣れない踵の高い靴。迷路のような王宮の中で、この進退窮まったような状況に、どっと疲労感が押し寄せて、心が折れそうになる。

「……どうしよう」

 思わずその場に座り込みそうになったところに、頬を風が掠めた。ふと見れば、部屋の窓が開いていて、その向こうに庭らしきものが見える。

「外……」

 引き寄せられるように、そちらに向かい、一応辺りの気配を伺いながら外に出る。天から降り注ぐ淡い光に顔を上げると、そこには見慣れた月が輝いていて、それを目にした途端、緊張の糸が切れて、涙が出た。


……ダメ。ここで泣いたら……


 涙と一緒に、力が抜けていく感じがする。無意識に膝が折れて、ルイーシャはその場に座り込んでしまった。こんな所にいたら、すぐに誰かに見つかってしまう。早くここから立ち去らなくてはならないのに。体がいう事を聞かない。


……なんで……こんなに体が重たいの……早く、早く立って……


 心で懸命に鼓舞しても、ルイーシャは立ち上がることが出来なかった。焦りばかりが募る。すると、


「ルイーシャっ」

 離れた場所から、いきなり名前を呼ばれた。

「え……?」

 顔を上げると、仮面の男がこちらに向かって走り寄ってくる。

「えぇ……?いゃ……」

 仮面を見て、もう反射的に逃げないとまずい気がした。重たい体に鞭打ってという感じで気合を入れて、ふらつきながら立ち上がる。そのまま、気持ち的には走り出したいところだったが、数歩進んだ所で意に反して足がもつれた。

……あぁ……

 転ぶ。そう思った瞬間、その男の手に抱き止められた。

「……いや、離し……」


……あぁ、何かこのシチュエーションって……前にも……


「ルイーシャ、落ち着いて。私だ、リシス」

「えぇ?……リシス……さま?」

 戸惑う声を出すルイーシャの前で、男が仮面を取った。

「リシス……さま……どうして……」

「ルイーシャ……?」


……ああ、本当にリシスさまだ…… 


 そう確認すると、思い切り気が抜けた。そんな安堵の気持ちと共に、ルイーシャの意識は遠のく。

「ルイーシャ!おい、ルイーシャ」

 

……そんなに心配そうな声を出さなくても、大丈夫ですよ……少し、眠いだけ……ですから……


 そう言ったはずなのに、リシスの声はルイーシャの名前を呼び続けている。ふわふわとした浮遊感に包まれて、やがてその声も聞こえなくなった――




「ルイーシャ……」

 腕の中で気を失ってしまった愛しい人を、リシスはそのまま抱き上げた。

 修道院の中とは違って、華やかなドレスを纏い、身支度を整えたルイーシャは、見違えるほど美しくなっていた。これもあの伯爵の力なのかと思うと、心が落ち着かない。ルイーシャに似合うようにあつらえられたドレスも、伯爵の見立てなのだと思うと、どうにも複雑だ。

 彼女は今、自分の腕の中にいるのに、どこか借り物のような気分にさせられる。そんなことを考えながら、ルイーシャを手近な部屋へ運び込んで、そこにあった長椅子に横たえた。

「私のルイーシャ」

 そう囁いて、意識を失ったままの彼女の手を取り、そっと唇を落とす。

 こんな風にしか、存在を主張出来ない自分が情けないと思う。それでも、彼女は自分にとってかけがえのない人なのだ。この手を離したくない。そんな思いが心の中から沸き上がって来る。


……何があっても、決して、この部屋から出ないで下さいませね…… 


「ごめん、キャル」


……この王宮にいる間は、決して、この仮面を外してはなりませんよ……


「申し訳ありません、母上……」


 あの時、部屋の外から、何か騒ぎが起こったらしい気配が伝わって来た。母上は、キャルは、無事だろうか……そんな思いから、じっとしているのがいたたまれずに、扉の向こう側を覗いてしまったのだ。


 そうして、辺りの様子を伺っていたリシスは、反対側の回廊の辺りの庭園に、ドレスの女性がうずくまっているのを見つけた。気付いてしまった以上、そのまま放っておくわけにもいかず、介抱しようと近づくと、あろうことか、それはルイーシャだったのだ。


 思いがけない場所で、再び結びつけられた二人の運命に、リシスは神様に感謝した。突き付けられた重い真実に動揺していた心が、こうしてルイーシャの顔を目にしただけで、挫けている場合ではないと、そう思わされた。

「ルイーシャ……やっぱり、私には君が必要だ……ルイーシャ……君が好きだ……」





――その夢の中で、リシスさまは、きちんとした青年貴族の出で立ちで、長いプラチナブロンドの髪を後ろですっきりと一つに結っていらして、それはそれは素敵で……まるで、王子様のようで。わたしは振り返って、アルベール様に得意げに言うの。

「こんな素敵なお方が、無法の者な訳、ありませんよね」って。


「ルイーシャ……?」

「ん……」

 耳元で、心配そうな声が、わたしの名前を呼ぶ。


……だから、そんなに心配しなくても、大丈夫ですって言ってるのに……


「リシス……さま……」

「ルイーシャ」

 再び名前を呼ばれた所で、覚醒した。目の前に、夢の中で見たのと同じリシスさまのお顔が……

「へ……はっ……」

 素っ頓狂な声を出したルイーシャを見て、リシスが一瞬驚いたような顔をした後で、口元に笑みを浮かべた。

「大丈夫?」


……えぇぇぇ……っと……本物っ?……


「ルイーシャ?」

「はっ……はい。大丈夫……です」

 言って、慌てて身を起こす。

「多分、着慣れないドレスを来て、走り回ったりしたから、それで……なので、もう平気です」

「それなら、良かった」

 心底安心したように言って、今度は、完璧な笑顔を向けられる。


……さっきの……夢、だけど、夢じゃなかったのね……


 そう認識した所で、自分のとんでもない見通しの甘さを自覚する。リシアーナじゃなければ、隣にいても大丈夫、は、完璧に甘かった。修道院の外でなら、女装する必要はないのだから、男の格好をしていて当然なのだ。プランクスへ行った時も、自分は見送り出来なかったけど、きっと男装だったのだろうし……それでも、想像をはるかに超える凛々しい仕上がりに、思考が全く追い付いていかない。


……どうしよう……顔が……まともに見られない……


「……それで、どうして、君がここに?」

「え?………ええと。話すと長くなるんですけど……リシスさまこそ、どうして王宮になんて、いらっしゃったんですか?」

「え……うん。……こっちも、まぁ……話すと長くなるかな」

「……」

「……」

 妙な沈黙が下りた。

「あ……のっ」

「え?」

「その……お母さまには、お会い出来たんですか?」

「あ、あぁ……まぁ……一応」

 リシスが俯いて、歯切れの悪い返事を返す。

 自分が王弟だという事実をルイーシャに告げることは、まだ出来なかった。自分でさえ、その事実をまだ受け止めきれていない。その重みを、今の彼女に受け止めてくれとは言えなかった。


……王弟だなんて、重過ぎるだろう……


 それに、自分はいずれ宮廷に戻ることを期待されているらしく、それを否というのは、容易なことではないという気がする。


「……済まない、説得に時間が掛かりそうなんだ」

「そう……なんですね。やっぱり、反対されますよね」

 自分が思っていた以上に、リシスは身分が高い家の人間なのだと感じる。勿論、王族だとは予想しないまでも、元男爵の娘程度では、つり合いが取れないのだというのは、ルイーシャにも理解できた。それに……


 ルイーシャは、チラリとリシスの顔を盗み見る。この容姿であれば、結婚相手など引く手あまただろうと思う。自然、溜息が漏れた。それを聞き止めたのか、

「反対されても、きっと何とかするから」

 と、どこか自分に言い聞かせるようにリシスが言った。 

「何とか……って……?」

 そんなことをすべきではなかったのに、言葉尻を捉えて、つい聞き返してしまった。不意を突かれたように、リシスが顔を上げた。 

「え?……それは、まだ、具体的には……何も……」

 説明できることが、ない。リシスは言葉に詰まる。

「……何も」

 ルイーシャが、呟くように繰り返す。

「何だか………前より、リシスさまが遠く感じます」

「どうして……」

「だって……障害があるのなら、それは、二人でなんとかするものでしょう?それなのに、リシスさまは、それを全てお一人で、なんとかしようとなさっていて、わたし……わたしは、そんなに信用がありませんか?」

「いや、そういう問題じゃなくて、とりあえずは、私の家の問題だから、ルイーシャには、関係ない話というか……」

 本当のことは、まだ言えない。だが、事実をぼやかして話すと、上手く真意が伝わらない。案の定、ルイーシャの顔は、納得できないと言っている。

「……関係ない、ですか」

「だから、心配しなくても、何とかするから」

 歯がゆさから、リシスの口調はついきつくなる。すると、

「だから、何とかって、何なんですか?」

 倍ぐらい、きつい口調で返された。

「何とかは、何とかだよ」

「だから、何とかって、何?」

「だからっ……」


……ああ、ダメだ。これじゃ、堂々巡りだろう……


「そんなんじゃ、わたし、この先、どうすればいいのか、分かりませんっ」

 しまいに、そう言い放って、ルイーシャが部屋を飛び出して行く。

「そう……だよな」

 彼女が正論だ。

 寸暇、自分の不甲斐なさに打ちのめされ、その場に立ちつくす。


 自分では何も決められない。そんな不安定な立場が忌々しいことこの上ない。母の思いを聞いてしまった今、それを無下に切り捨てることも出来ずにいる。立場や、身分や、人の思い。そんなものが、次第にこの体に絡み付いて、じわりと自由が奪われていく。身動きが取れなくなっていく。彼女も不安なのだ。それなのに、自分の余裕のなさを理解してくれない彼女に、憤りを感じている自分がいる。

「……情けない」

 呟きながら廊下に出て、ルイーシャの背中を探す。だが、ルイーシャの姿はどこにもなかった。




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