第33話 一滴の毒

 ここ、何処かしら――

 ルイーシャ・ラ・ヴァリエが目を覚ますと、まず豪華な造りの天上が目に入った。

 長い夢から覚めたように、意識は朦朧としていた。


 何かが起ころうとしている。そんな予感めいた思いに、胸がざわめく。

 何か……それは多分、良くない何か。そんな気がする。


 ひどい疲れを感じて、再び目を閉じる。頭の隅に輪郭のぼやけた情景が浮かんだ。その中に、ゆらりと人の姿が浮かび上がった。


……何?……


 意識をそちらのほうへ集めてみる。すると急速に、今までぼやけていたものが、はっきりと見えるようになる。そこに、一人の少女が立っていた。


 少女の長い黒髪が、炎の巻き起こす熱風に煽られて、優雅に舞い広がっている様はどこが現実離れして見えた。そして、彼女の闇色の瞳が、まるで獲物を捕らえたかのようにルイーシャを捉え、その紅い唇が薄笑いを浮かべていた。そこでルイーシャは恐くなって意識を拡散させた。


……自分は彼女を知っている……前にも……


……マエニモ……ドコデ……?……


――思い出してはいけない。記憶を消すことは出来ないから。ただここに封印するだけだ。……全てを、お前の瞳の中に。だから、忘れなければいけない。何も起こらなかった。何もなかった。それは、お前の為なのだよ、ルイーシャ。


「とうさま……でも、私は……」

 無意識の内に呟きかけて、ルイーシャは目を開ける。そしてぼんやりと天上を見ながら考える。

 その続きは、何だっただろう。

 私は……何?


――思い出してはいけない。


……そう、思い出さなくてもいい。早く願いを聞き出して。この国の王の願いを……そうすれば、何もかも……終わるから……


「……王の……願い?」


 少女の囁きに促されて、ルイーシャは身を起こす。そして、そこにいる王に問いかける。

「あなたの叶えたい願いは何?」 

 

――問うてはいけない。それは、この国を滅ぼす願い。


 王の瞳がルイーシャを捉えた。

「さあ、叶えたい願いを言って」

 立ち上がり、大きく両手を広げて、全てを受け入れるように、ルイーシャは王に微笑みかけた。


「……ルイーシャ?」

 その瞳がいつもと違う光を帯びていた。きらきらと怖いぐらいに美しい菫色の光は、どこか禍々しさを帯びていた。リシスはルイーシャに歩み寄り、その両肩に手を置いて、彼女の顔を覗き込む。

「どうしたんだ、ルイーシャ。しっかりしろっ」

 だが、その菫の瞳は真っ直ぐにライディアスを見据えたまま、リシスの呼び掛けには反応しない。

「……契約によって、お前には、その権利が与えられた……さあ、言いなさい。お前の叶えたい願いは何?」

 どこか楽しげにその言葉を紡いだルイーシャに、ライディアスがゴクリと唾を飲み込んだ。

「……私の願いは……」


――問うてはいけない。それは、この国を滅ぼす願い。


「さあ、早く終わらせて」

「……私の……願いは……キランを星見の呪縛から、解き放つことだ」

「ふふっ。それが、あなたの願いね、ライディアス王。確かに、聞き届けたわ」

 ルイーシャの体から黒い影が抜け出して、そこに人の形を成した。その影の中から現れたのは、東の魔女シータ・アマーリエだった。

「では、その願いを叶える為に、生贄の血を捧げなさい」

「生贄……?」

 シータの指が真っすぐに、リシスを指した。

「一つの国に、王は一人。余計なものは、取り除かなくては。星が正しき軌道を行くために……」


――正しき王を……消し去らなければ、自分が王として結んだ契約は……願いは叶わない。


「……そういうことなのか」

 ライディアスが苦悶の表情を浮かべる。キランを救う為に、リシスを……正しき王を犠牲にしなければならないのか。ライディアスがゆっくりと床に落ちていた剣を拾い上げる。その不穏な気配を感じ取ったのか、キャルがリシスを守るようにその背に庇った。

「……やめて、シャルル」

 吐息のような小さな声が、自分の名を呼んだ。呼ばれた名の余韻に、昔の出来事が頭を掠めた。


――その声の主は、ただ一人、自分が愛した人だった。それなのに……


「お前は立つのは、そちら側か……」

 生じた失望が、黒い感情を生じさせた。そしてそれが、剣を持つ手に力を与え、そこに、明確な意思が込もる。自分を救おうとしてくれた友を救うことが正義でなくて、何が正義なのか。自分を捨てた女の言ういうことになど、耳を貸す必要などない。

「ならば、王に敵対する者として、お前の王に殉じるがよかろう」

「シャルルっ!」

「私はもう、お前の知るシャルルではない!!」

 怒りに任せて振り下ろされた剣が、それを短剣で受けたキャルを、今度は体ごと弾き飛ばした。そしてためらうことなく、その剣先をそのままリシスに向ける。

「兄上っ!」

 そう呼ばれたことが、ライディアスの神経を逆なでた。

「私を兄などと呼ぶなっ」

 そこに、ありったけの憎しみを込めて、ライディアスは剣を横に払った。

「リシスさまっ」

 目の前に飛び込んできたルイーシャの背中を、その刃は容赦なく切り裂いた。


「ル……イーシャ……」

 その小さな体を抱き止めて、リシスが喘ぐように声を発した。次の瞬間、

「ルイーシャっ!しっかりしろ、ルイーシャ!!」

 絶叫ともいうべきリシスの声が、部屋に響き渡った。

「女神の瞳石さえも、お前のものだというのか。正しき王っ!」

 ライディアスの剣が、ルイーシャを抱いたまま後ずさったリシスを、執拗に狙う。リシスはその剣先を懸命にかわすが、ルイーシャを抱いたままでそうそう逃げ切れるものではない。二人は次第に壁際に追い詰められていく。


 シータ・アマーリエは目の前で繰り広げられる修羅場を楽し気に眺めていた。

「……さあ、運命はどちらに転ぶのかしら」

 そこへ、

「趣味の悪さで言ったら、兄上よりも、間違いなく姉上の方が、数段上よね」

 よく知っている声と共に姿を見せたのは、ダーク・ブランカだった。


 シータはそこに現れた白き魔女に、どこかがっかりしたように溜息を洩らした。

「あらやだ、随分早いご登場ね、我が妹姫は。これからが面白いところだったのに」

 シータがそんなボヤキを零す間に、ダーク・ブランカは右手をライディアスの方へ向けた。瞬間、掌が淡く光を帯びる。すると、剣を振りかざした状態のままで、ライディアスが動きを止めた。その剣の下で、ルイーシャを抱いたままのリシスも、驚愕に目を見開いたまま動きを止めていた。


――時間が、止まっていた。


「……ほんと、忌々しいわね、あなたのその能力」

 口元を僅かに歪めてそう呟いたシータに、対するダーク・ブランカは不快を露わにした顔を向けた。

「私と契約しているライディアスの願いは、例え、女神の瞳石を使っても、契約者でないあなたが叶えることは出来ないというのに、なぜこんな茶番を……」

「茶番?いいえ、違うわよ。新しい王の出現を促すために、あなたがライディアスに強いた傾国の契約は、もし新しい王の出現がなければ、本当に取り返しが付かないぐらい、この国を傾けてしまった。まあ、先王がこの国に残した呪いを上書きするほどの魔法を発動させるには、それなりの犠牲が必要だったのだから、そこは仕方がなかったんでしょうけど。そこに付け入る隙が出来てしまったのは、あなたの計算ミスということなのかしらね。つまり、リシスが死ねば、この国は滅びる。それが分かっていて、この私が手を出さないと思うのが、甘いのよ」


「どうして、そんな。先王に不当な契約を持ちかけて、この国を傾かせて……どうしてあなたが、そこまでこの国を……」

 シータはまるで我慢しきれなくて出てしまったかのように、ふふふと忍び笑いを漏らした。

「相変わらず、甘いのねぇ……あなたは。見通しも、性根も。その程度で兄上に刃向かおうというのだから。ホント救いようのないおバカさん。あのね、兄上はもうこの国を手に入れるって決めているの。シャディア殲滅戦の時、この国の王は兄上との約束を違えて、シャディアの姫巫女を連れ帰った。皆殺しにしろっていう、一番大切な約束を違えてね。だから、この国はもう、兄上の滅ぼす国リストに入ってしまっているのよ」

「……シャディアって、まさか、そんな頃から」

「兄上が、大軍をもってこの国に侵攻すれば、多くの民が犠牲になる。というのは、分かるわね?愚かな王のせいで、民が被害を被るのじゃ、あまりに気の毒だから、私が救ってあげようかなと、思ったの」

「……救うって」

「メルブランカ王家を滅するために、毒をほんの一滴ね。これほど見事に呪いに掛かるとは思わなかったけど」

「……レスター・ド・ヴィランド」

 ダーク・ブランカがシータの標的となったであろう者の名を呟いて、唇を噛んだ。

「そう、彼。王の従兄弟だったレスター・ド・ヴィランド……後に枢機卿として、この国の実権を握ることになる男。その彼が、いい具合に闇を抱えていたのよ」


 その心に一滴の毒を――


 たった一つの真実を囁いてやるだけで良かった。

 それは、ランバルトの父が、シャディアの姫巫女イリーシャを妃としたことで招いた、この国の歪みだった。そこを魔女に付け込まれたのだと言えた。


 結果、囁かれた言葉は、愛国心の強かったヴィランドに、歪んだ正義感を植え付け、国を傾ける遠因を作った。


「……そうやって人の運命を弄ぶ……そんなことが、いつまでも許されると思うの?」

「あのね、これは生存競争なのよね。シャディアの巫女だって、その血を守る為に、この国の王をたぶらかして、その保護下に身を隠した訳でしょう?その巫女の血を絶やさなければ、今度は私たちの存在が脅かされるんだもの」

「そんな理屈で……」

「私は、毒を一滴垂らしただけよ?呪いを大きく育てたのは、この国の心弱き王たち……弱い者が滅ぶのは、この世界の理なのではなくて?」

「強きことが正義だなんて、私は認めない」

「構わないわよ。だから、あなたは私たちと袂を分かった訳だし。あなたはあなたの正義を貫けばいいじゃない。あーあ。もう少しで、この国の王を退かすことが出来たのに。残念」

「……」

「覚悟しておきなさい。私を退けた以上、兄上が戦を起こす。何れにしろ、この国はもう助からないってことね」

「そんな事、させるものですか」

「そう?あなたが兄上とどう戦うのか、今から楽しみだわ。それじゃぁね、星の魔女ダーク・ブランカ。ああ、闇星の余波はあなたの予想より大きかったみたいよ?あの星を御しきるのは、なかなか大変よね」

「な……」

 意味深な言葉を残して、シータは姿を消した。


――闇星の余波って。


 ダーク・ブランカは慌てて手を開いて、星見の水晶を呼び出し、そこに浮かび上がった星の光の配列を瞬時に読み取った。

「……ちょっと、冗談でしょう。何をやってるのよ、あの子はっ」

 蒼く燦然と輝く星――アステリオンの存在を指し示す星が、その光をみるみるうちに増していく。その光に、小さな銀色の星が、飲み込まれようとしていた。こんな事態になるまで、自分が気づかなかったなんて、その迂闊さが全く忌々しい。

「やられたわね」

 シータがこんな茶番を仕掛けたのは、自分をこちらに足止めする為だったのだと気付いた。彼女の本命は、この銀色の星を消すことだ。

「んもうぅぅっ……」

 その時、一筋の金色の流星が水晶の表面を流れた。

「これは」

 ダーク・ブランカが目を輝かせる。

「凄い……運命を動かすのは、魔女の糸ではなく、人の思い。大丈夫、きっと、大丈夫」

 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、ダーク・ブランカが指を鳴らすと、止まっていた時間が戻った。そして彼女が視線を向けた扉の向こうには、アルベールの姿があった。

「後は、頼んだわよ、有能な伯爵さま……時の魔女のプライドに掛けて、間に合わせてみせるわよ、アステリオン・ラスターク」

 強い意志を込めた言葉と共に、ダーク・ブランカはそこから姿を消した。


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