第32話 私を消し去る星の光

 その顔は忘れようもない。自分を罪人だと断罪したランバルトの顔だった。ゆっくりと、ライディアスの視線がリシスが脇に置いた剣に止まる。


「ムーンローズ……まさか、お前が……」

「兄上……私は、あなたの弟です。十九年前、運命の手によって、引き離された双子の弟……」

 弁明するように言いかけたリシスを、ライディアスの声が遮る。

「双子?……双子だと?いや違う。違うぞ。お前は、私の弟ではない」

 ライディアスの声に、狂気を含んだ笑いがまとわる。

「ふふっ……私の弟は、この私と同じ顔。この罪人と同じ顔をしているのだ」

「同じ顔……ラスフォンテ伯爵……」

 リシスの呟くような声を、ライディアスが聞き止め、歪んだ笑みを浮かべる。

「そう、あれが私の弟だ。呪われた双子の片割れだ。我が母、カザリン王妃の罪の証。不義の証なのだ」

「違うっ。母上は、その様なお方ではない」

 リシスの凛とした声が、静かな部屋に響き渡った。確証があった訳ではなかった。ただ、それは事実ではないと、リシスの中の何かが確信していた。


「しかし、ランバルト王はそう思っておられたのだ。……私が罪の子であると……ヴィランドの子であると……」

 ライディアスの顔が、苦悩に歪む。父親だと思っていたランバルトから、不義の子であると宣告された。その時に負った心の傷は、まだ癒えてはいなかった。


 父を裏切っていた母が許せなかった。だが、母の罪を真っ向から弾劾することはできなかった。愛していたものを失う。それは、即ち、心の拠所であったものを失うということだったからだ。

 ライディアスは、父王ランバルトを敬愛し、母カザリンを思慕していた。一方的に離別を言われても、一方的に裏切られたのだとしても、かつて愛し愛されていた者を、そう簡単に憎めなかった。

 憎んで過去を葬ってしまえれば、楽であったろうと思う。だが、憎めなかった。消えてしまった愛を心の隅に抱えながら、罪の意識にさいなまれながら、王として、孤独を生きてきたのだ。それなのに……


 自分を見上げているリシスの顔に、ランバルト王の顔が重なる。

「……何故、その様な瞳で、私を見るのです?罪に服し、全てを仮面で覆い隠して生きてきた。それでもなお、私は許していただけないのですか……父上っ……」

 リシスの顔に、ライディアスの涙が落ちた。

「……陛下。お気を確かに。陛下、私はあなたの弟、リシスです、陛下っ!」

 その声に我に返った様に、ライディアスは、リシスをまじまじと見詰めた。

「リシス……そうか……やはりお前が、父上の望んでいた本当の子なのだな。その顔は、まさしくランバルト王の血を受けた者の顔……お前が、父上の望んだ、正しき王なのだな……ふふ、そうか、お前か……」

 ライディアスが不気味な笑い声を上げながら、リシスのムーンローズの剣を拾い上げた。


 この者が、正しき王。

 自分が願った、正しき……王。


 自分の願いは、こんな形で叶ってしまうのか。

「……いや……まだだ……まだ……」

 今、自分がそれを認めてしまったら、キランはどうなる。その願いが叶ってしまったら、自分はキランを救う術を失ってしまう。


――大切な友を救う術を。


「兄上……」

 自分を見上げる厄介な存在に、ライディアスは笑顔を見せる。それは、何かを捨て去った者の空虚な笑みだった。

「済まない、やはり私は罪人なのだ……お前の存在を……認めることは出来ない……」

 その言葉と共に、リシスの上に剣が振り下ろされた。


――刹那。

 静かな部屋に、鋭い金属音が響き渡った。リシスの目の前で、ライディアスが振り下ろしたムーンローズの剣をキャルの短剣が受け止めていた。

「メルリーゼ……」

 ライディアスは、交わった剣の向こうにキャルの顔を見て、剣に込めた力を抜いた。その瞬間、剣を押し返される力を感じて、手にしていた剣が弾き飛ばされた。そして、呆然とするライディアスの喉元に、キャルが短剣を突き付けた。

「……気でも違ったのか、メルリーゼ。お前は、自分が何をしているのか、分かっているのか?」

 そう問い掛けられて、そこでキャルは初めて剣先の上に乗っている顔を見た。国王ライディアスの顔がそこにあった。


 それが、ラスフォンテ伯爵の顔と重なり、そして、八年前に別れた少年シャルルの顔と重なった。かつて自分を純粋な愛で包んでくれた年下の少年。その顔の面影が、まだそこに残っていた。


……この顔を見せてくださっていたら、もっと、違う方法を考えたのかもしれないのに。仮面は、運命までも隔ててしまった……


 キャルは自分の意思を確認する様に、短剣を握る手に力を込め、そして言った。

「陛下……リシス様は、正当なる権利によって、この国の王となられる御方。その御方をお守りする為なら、このメルリーゼは、命も賭ける覚悟にございます。陛下、メルリーゼの、最初で最後のわがままをお聞き下さい。陛下……どうか、ご譲位下さいませ。命までは、いただくつもりはございません」

「ダメだキャル……剣を引け。私は……私はっ、そのようなつもりで、ここまで来た訳じゃない」

 リシスが止めに入るが、キャルは聞く耳を持たない。

「自分の民に顔を見せられぬ王に、王たる資格があると、お思いですか?不作に苦しむ民を顧みず、政務を顧みず、宮廷で遊び暮らしている者を、王と呼べと、そう仰せですか?」

 キャルの真摯な問いに、ライディアスは低く笑った。

「お前は変わらぬな。強い女だ。私は、自分に王の資格があるとは、端から思っておらぬ。だが、運命の手によって、私は、ここにいる。メルリーゼ、譲位は出来ぬ。王位が欲しくば、私を亡きものとせよ」

 緑の瞳が、キャルを見下している。

 静かな瞳だった。

「……陛下」

 剣を握る手に今少し力を込めれば、全てが終わるのに。何故、自分は躊躇しているのか。剣を持つ手が、凍り付いたように動かなかった。


 静かに、音もなく、暖かい手が、剣を握るキャルの手に舞い降りた。

「いけない、キャル。お願いだから……止めてくれ」

 そこから伝わる手のぬくもりに、心に抱いた氷の刃が解かされていく。

「リシス様……」

「本当にこの国の事を思うなら、剣を引いてくれ。お前は、この私が兄上の命と引き換えに得た王座に、平気で座れると思うのか?血で汚れた玉座に私を座らせるのが、お前の望みだったと言うのか?」

 リシスの澄んだ蒼い色の瞳に見つめられ、キャルは力なく手にしていた剣を下ろした。


「リシス……私は、お前の兄ではない……私は、ランバルト王の子ではないのだから。お前が正当な王位継承者であるのは、誰よりもこの私が知っている。だが、今はまだ譲位する事は出来ない。出来ないんだ……王でなければ、叶えられない願いが……救えないものが……ある。だから……どうしても……」


 何か憂いを帯びた様なライディアスの瞳に、リシスは彼も同じように運命の重さに押し潰されそうになりながら、もがきながら生きて来たのだと知った。

 この場所から出された自分も、ここに残ったライディアスも、共に同じ苦悩を抱えて生きて来たのだと。

「陛下……」

 いつしか、心に浮かんだ言葉が自然と口から溢れ出していた。

「兄上……私は生まれてからずっと、修道院の塀の中で、外の世界を知らずに育ちました。両親のことも、兄弟のことも、何も知らずに。天涯孤独の身だと、そう思って生きてきたのです。それが、二年前、母上が私を訪ねて下さって、初めて自分にも家族と呼べる人がいると、そう知らされて……それが、どれだけ嬉しかったか分かりますか?たとえ血の繋がりがないのだとしても、私が兄と呼べるのは、あなただけです。どうか、兄上と呼ぶことをお許し下さい。そして兄上が、今まで一人で背負って来られたものを、一緒に背負わせて頂きたいのです」

「リシス……」

 その言葉に、ライディアスの瞳が揺れた。

 リシスの瞳には、明るい光が宿っていた。

 その光に吸い込まれる様な、不思議な感覚がライディアスを包む。それは、暗く淀んでいた心を溶かしていく様な、優しい光だった。これが、ランバルト王が望んだ希望の光なのだと思った。そして、それこそが――


――私を消し去る星の光。


 ライディアスは、ただ無感動にその瞳を見据えていた。と、

「あなたの叶えたい願いは何?」

 背後から不意に、そう問いかける声が聞こえた。

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