第28話 巫女狩り

……闇に追いつかれる。でも、小さな希望の星。あなただけでも……わずかでも、望みがあるのなら……まだ、間に合うのなら……


 ファラシアは幼い娘を抱いて、大通りを南へ向かっていた。もう少し行けば、街道を通ってアランシアへ向かう辻馬車がある。そこから海路で、ランドメイアへ渡るつもりだ。


 ランドメイアは、ファラシアの故郷だった。そこは特別な魔法結界に守られた島。巫女狩りの手の及ばない、安全な地。そこには、多くのシャディアの民が逃げ込んでいた。ファラシアは身近に闇の気配を感じるまで、そこがいかに安全な場所だったのか、気付いていなかった。外に出るということの恐ろしさを。祖父母の時代から伝えられていた、伝承を軽く考えていた。

 かつて仕えていた主、ジュリアが結婚してメルブランカに来たのに従い、どこか閉塞的な故郷から出られたのを、嬉しいとさえ思ったのだ。一度も帰ることのなかった場所。これまで、そんなに懐かしいと思いもしなかったのに、今になって、無性に帰りたいという思いに取り付かれている。


……そこまで辿り着けるとは思わないけれど……あなただけでも、逃がしてあげられたら……


 心で呟いて、子供をく手に力を籠める。巫女の血を引くがゆえに、もう自分には時間がないのだと、痛いほどに実感する。自分を引き込もうとするその闇を、もう間近に感じた。不意に後方から馬の蹄の音が近づいてくるのが聞こえて、反射的に道の脇に避けた彼女は、その馬が自分の目の前で止まったのに驚いて顔を上げた。



 騎乗の人物を見て、ファラシア・リリィシュは、見るからに困惑した表情を浮かべた。

「エリンネーゼの若様……」

 アルベールが馬から下りるのを見て、ファラシアは抱いていた娘を下ろした。不意に現れた仮面の男に、幼い娘は怯えた様にファラシアの足にしがみつく。

「どうか、こちらへ……」

 ファラシアは低い声でそう言うと、アルベールを伴って細い路地の物陰に入った。

「家を訪ねたら、お前は出て行ったと。何があった?一体、どこへ行くつもりなんだ……私で力になれることがあるなら、言ってくれ」

「若様……私は……私の本当の名は、ファラシア・リィーシャと言います。私はシャディアの巫女の血を引いているから……」

「シャディアの巫女……」

 突然出てきた言葉に、アルベールはその言葉の持つ意味を記憶の中に探した。


 シャディア……というと、その昔、大陸の中央に広がる、緑草海と呼ばれる大平原にあった古王国の名だ。戦に破れ、滅んだ国である。その折には、国を失って多くのシャディアの民が、大陸中へ散っていったという。


 新たにその地を支配したのはグラスファラオンという名の国だった。グラスファラオンがシャディアを滅ぼし、代わって大陸の交易路を支配する様になって、まだ百年は経っていない。


 グラスファラオンは、シャディアの民を一人たりとも生かしておくことを許さなかったという。その国では、多くのシャディアの民が、虐殺されたと聞いているが、しかし、それはアルベールが生まれるよりもずっと前の事ではなかったのか。


「グラスファラオンの刺客は、今でも大陸中で、シャディアの巫女を狩っているのです」

「馬鹿な……今更、何故そのような蛮行がまかり通るんだ」

 憤るアルベールを、ファラシアが悲しげな顔をして見る。

「……予言があるのだそうです。グラスファラオンの神官の予言が……シャディアの巫女の血を受け継いだ者が、グラスファラオンを滅ぼすという予言なのだそうです。だから、グラスファラオンはシャディアの血を絶やすまで、巫女を狩り続ける。どこに逃げても、刺客が追ってくる……だから、私たちは逃げなきゃならない」


 シャディアは、女王の国だったと聞く。女王は国を守る神であり、シャディアの女達は、その神に仕える巫女だった。シャディアの巫女は、ランドメイアの魔法近いに匹敵するほどの異能の力を持っていたという。

 それほどの力を持ちながら、どういう経緯で滅んだものか、詳しいことはアルベールには分からない。しかし、それは、滅んでからもなお、侵略者を恐れさせる程の力だったということなのか。今や大陸屈指の大国に成長したグラスファラオンを、未だに怯えさせるほどの力だというのか。


「だから若様、もう私とは、かかわりにならないで下さい。さもないとあなたまで闇に……」

 アルベールを見上げるファラシアの表情は、険しいものになっている。それは、かつて、ヴィランドの密偵を務めたことのある女の顔でもあった。

「行って下さい。早く。ここから立ち去って」

「待ってくれ、ファラシア。一つだけ確かめたいことが……」

「お話する事など、もう何もございません」

 敢然としたファラシアの言葉は、アルベールに取り付くしまを与えない。

「お願いだ、ファラシア。お前は、私の兄上の消息を知っている筈だ」

「いいえ。何も存じません」

「頼む、ファラシア。兄上の命が危ないのかも知れないのだ」

「若様、お願いですから。もうお帰り下さい」

「ファラシア……」

 アルベールの声を遮って、突然、馬がいなないた。アルベールの耳元で、ヒュッと空気が鳴った。そして、彼の目の前で、ファラシアが小さな呻き声を上げた。

「ファラシア!」

 崩れ落ちるファラシアを、アルベールが抱き止める。ファラシアの肩には、矢が刺さっていた。反射的に、辺りの気配を伺ったアルベールの視界の端に、黒い仮面の男が引っ掛かったが、瞬く間にその男は姿を消した。

「……もう、時が来てしまったのね……」

 ファラシアの弱々しい声が、アルベールの耳に届いた。

「しっかりしろ、ファラシア……そんなに深い傷じゃない」

「若様は……闇の世界の事を……ご存じない。これは、“戒めの矢”。確実に相手を殺す為に矢尻に毒が……若様……アイーシャを……お願い……どうか、この子をランドメイアへ……」

「ファラシアっ……」

「それから……」

「もういいから。喋るな」

「……シャルル様は……王宮に……」

 腕に抱き抱えていたファラシアの体が、急に重くなった。

「ファラシアっ」

 ファラシアは、目を閉じて、もうアルベールの呼び掛けには、答えなかった。

「おかあさん……ねちゃったの?」

 アイーシャがぽつりと言う。

「……」

 アルベールは、その問いに答えることができなかった。ただ、跪いてその場にファラシアを横たえると、アイーシャを無言のまま抱きしめた。

 少女が窮屈そうに、身じろぎをする。こんな運命があっていいのか。やりきれない思いに、アルベールは唇を噛んだ。


……シャルル様は王宮に……


 ファラシアの遺してくれた言葉が、甦る。王宮にいるとは、どういうことなのか。

 国王ライディアスの幼名がシャルルであるという事は、アルベールでも知っていた。そのシャルルと、自分の探しているシャルルが同一人物だということなのか。


……まさか、本当にそうなのか……


 信じられない思いを抱きながら、アルベールはアイーシャ抱き上げて馬に乗せ、そのまま王宮へ馬を向けた。

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