第25話 追いかけてくる過去
リブランテの中心に程近いバザールの雑踏の中を、一人の女が歩いている。マントを纏い、フードを深く被り、目許は仮面で隠している。
その風体は、他の街であれば、いわくありげな感じに思われるだろうが、この街では、そう珍しくも無い格好である。歩きながら、同じように仮面を付けた者達と行き会うのに、女は面白そうに口元に笑みを浮かべる。
この国では、あらゆるところに秘密が隠されている。自分の様な異国の者が身を隠すにも、苦労はしない。
全く無防備な国だ。そんなことだから、かの皇帝陛下が、欲しいとお望みになる。野心のある者を引き寄せる。罪作りな国。戦になればまた、民が大勢犠牲になるのだろうに……
雑踏の中で、悲鳴が聞こえた。人々の間に、緊迫した空気がさざ波の様に広がっていく。女がそちらの方を見ると、人垣ができ、その真ん中に人が倒れていた。うつ伏せに倒れているのは、女のようだ。その背に、真紅の矢ばねの矢が刺さっているのに目を止めて、女は眉をひそめた。
……人目もはばからずに、この様な所で……
その真紅の色の意味を、女は知っていた。“戒めの矢”だ。グラスファラオンの黒衣の使徒が狩りに用いる、毒矢である。一度狙われれば、逃れることは叶わない。
「……また女が殺されたのか、物騒な事だな」
女の死骸を遠巻きに見ながら話す、人々の言葉が耳に入ってくる。
「警護兵は何をしているんだ」
「王様が遊びにお金を使っちまって、警護兵の給料も減らされたって話だ。士気も下がろうってもんだよ」
「全く、この国はどうなってしまうんだ……」
国を憂う言葉を背に聞きながら、女は明るい大通りから細い路地へ入り、その暗がりに姿を消した。女の存在を気に留める者など一人も居なかった。
薄暗い路地を奥に歩いていくと、突き当たりに木戸があった。女は少しのためらいの後、それを叩いた。すると、中から誰何の声があった。
「……キャラシャよ」
彼女が名を告げると、木戸が開いた。
部屋の中は蝋燭を数本灯しただけで、やはり薄暗い。その薄明かりの中に、十数人の男がいた。中の一人、椅子に腰掛けていた男の顔に覚えがあった。
「レイヴン・レイズ……軍師殿がこんなところまでおいでとは……」
「それ程、事態は差し迫っているものと、ご理解いただけますかな」
レイヴンはキャラシャと、年はそう変わらない。グラスファラオンの軍師として、皇帝の傍近くに仕えているせいもあるのだろうが、その言葉の端々に、人を見下した様な、尊大な響きがある。なるべくなら、顔を合わせたくない人物だった。
「……星見の件でしたわね。あなたのことだから、もう見当はついているのでしょう?早く済ませてしまいましょう。星見はどこに?」
「そう、簡単な事ではないのですよ」
レイヴンが卓上の占術盤を示す。円形の盤には、幾つもの光点が見える。少しずつ色の異なるその光の点は、それぞれが人の存在を示すものだという。
その盤の中央が黒い影で覆われていた。そこには、一つの光も見えない。
「これが、現在のリブランテです」
「真っ暗ね。何も見えないわ」
「半年も前から、この有様です。下の者では埒が明かず、こうして私が出向く羽目になりました」
「それで、私にもお声が掛かったという訳……」
半年前にエルシア近くの街道で、仕留め損ねた星見。その顔を見知っているのは彼女だけである。
「この様な事態で、あなた様をお探しするのに、手間取りました。勝手にプランクスから姿を消されて。行く先ぐらいはおっしゃっておいて頂かないと。皇帝陛下の寵の篤いのを良いことに、あまり勝手をされては、繋ぎの者が苦慮いたします」
レイヴンの小言に、キャラシャは皮肉を込めた声で答える。
「それでも、あなた達には、ちゃんと私を見つける事が出来る。何も問題はないでしょう」
レイヴンは、やれやれという風に首を振る。どうして、陛下はこんな女にご執着なのかと思う。彼女の力は、確かに便利なものではあるのだが……それを利用し、使いこなすには、厄介なことが多い。
……猟犬ならば、綱を付けて、繋いでおけば宜しいものを……
決して口には出来ない、主への不満を心の中で呟く。レイヴンがそうしている間に、キャラシャは占術盤の上に手をかざし、そこに意識を集め始めた。
その手が光を帯びて、辺りを照らし出す。部屋にいた者から、ため息のようなどよめきか漏れる。レイヴンがこれを見るのは初めてではないが、シャディアの巫女の力を使うこの女には、いつも得体の知れない圧迫感を感じさせられる。全く、嫌な女だ。
キャラシャは記憶の中の、蒼紫の宝石を思い出す。一度見たら忘れない。綺麗な瞳。あれが、星見の千里眼……どこか遠くに、逃げ出していてくれれば、狩らずに済んだものを。何故、このメルブランカに留まっているのか。
「……深い深い闇の中に、潜んでいる。一番闇の深い所……」
キャラシャの言葉に、レイヴンは顔をしかめた。
「王宮か」
「そのようね」
「厄介な事になったな。こちらは、巫女狩りで忙しい。人手は割けないが……」
「一人で結構よ。私の獲物だもの。……それから軍師殿、狩りには、時と場所をお選びになった方が、およろしいのでは」
「巫女殿の口を挟む事ではありませんよ。……それとも、良心が痛むのですかな?」
レイヴンの言葉に、キャラシャはその顔を睨みつけると、無言のままマントを翻して部屋を出て行った。
「……奴隷の分際で、我々と対等のつもりか」
レイヴンは吐き捨てるように言い、テーブルに拳を叩き付けた。
「……これは珍しいこと。沈着冷静が売りの軍師殿のその乱れ様は……」
何の前触れもなく、部屋全体に、その声は下りてきた。不意に現れた大きな気配に、レイヴンは片膝を付き、その場に畏まり身を固くする。
「……シータ・アマーリエ皇女殿下」
そこにいた者たちも、レイヴンに倣い慌てて片膝を折り畏まる。
俯いた視界の先、何もないはずの床に、光の文様がくっきりと浮かんだ。その文様の中央に水が湧き出たと思ったら、それは水の柱を形成し、水の中から浮かび上がるように人の姿が現れた。そして今度は、くっきり鮮明な声が、レイヴンの耳に届く。
「ふふ……なかなか、苦労しているようね」
「恐れ入ります……皇女殿下には、なかなか成果をご報告できず、まことに申し訳なく存じます」
「ああ、それは、仕方がないわ。何しろ占術盤が使えないのでしょう?私たちの邪魔をしているものがいるのよ。あからさまにね」
「と、申しますと?」
「白の魔女」
「それは……」
思わず顔を上げてしまい、レイヴンは慌てて俯く。そんな様子に、シータ・アマーリエはふと笑みを漏らすと、手を差し伸べてレイヴンをそこに立たせた。
目の前にその人はいた。長い黒髪に縁取られた顔は、その色の白さが際立って見える。彼女の黒い瞳の中に自分の姿を見て、レイヴンは反射的に視線を外した。相手は、グラスファラオンの第一皇女。現皇帝の妹君だ。まともに目を合わせるなど、恐れ多いこと限りないのに。
「久しぶりに会うのだから、ちゃんと顔を見せて」
「皇女殿下……」
にこにことした顔で、容赦なく顔を覗き込まれる。避けようもなく視線が絡んだ途端、心拍数が上がった。
「お戯れは……」
「私は、お前のその真っ黒な髪が好き。キラキラとした黒曜石の瞳が好き。毎日だって眺めていたいの。それなのにお前は、ちっとも帰ってこないんですもの」
「それは……私の力不足で仕事がなかなか片付かず……申し訳……」
言い訳の途中で唇を塞がれた。口づけと共に、体に軽い痺れが走る。
「目を……閉じなさい」
口づけの合間に、そう言われて、命じられるままに目を閉じる。そこに広がった闇の中に、幾つもの眩い光が輝いた。
……これは……
「……これが、本来の占術盤に現れるべき星の輝き」
耳元でささやくようにそう言われ、はっと我に返る。
「今は、闇星に隠されてしまって見えなくなっているようだけど」
レイヴンは、たった今見た光を、頭の中に描き出した。
「こんなとんでもない……ことが……」
本来あるべき筈もない星の配置がそこにあった。そして、それを隠すための、闇星……それらがすべて、白い魔女の仕業だというのか。
「……この私が、長い時間を掛けて紡いだ魔法の完成を、邪魔しようと言うのよ、あの魔女は。ほんと、厄介だわ」
そう言いながらも、どこか楽しげなシータ・アマーリエの様子に、レイヴンは困惑を隠せない。
「文句を言ってやらなきゃならないと思わない?」
「それで、わざわざお運びに?」
「まあ、そうね。ああ、でも、お前の顔が見たかったというのも、本当よ?」
「……それは……ありがとうございます」
当たり前のように言われて、照れ隠しに頭を下げた。
――黒髪と黒い瞳が好き。お前の黒は、特に綺麗。だから、大好きだわ。
出会い頭にそう言われて以来、皇女殿下とは、この距離だ。これ以上近づくことも、遠ざかることもない。子供の時分に出会って十数年。レイヴンは立派な大人になったが、シータ・アマーリエは少女のままだ。魔法使いの一族だという皇家の人間は、年を取らない。だから、二人の距離は、多分ずっとこのまま変わらないのだと思う。それでも、レイヴンは今の状況に満足している。だから……
「星の気配が迫っているわ。可能性のあるものは、全て、芽のうちに摘み取っておかねばならないの。シャディアの巫女の血を持つ者は、一人残らずよ?」
「お任せ下さい、皇女殿下……」
それがどんなに厳しい命令であっても、果たすのだと心に誓う。自分たちを滅ぼす予言の救世主。それを排除できなければ、この笑顔は失われてしまうのだから。
「グラスファラオンの栄光の為に……」
レイヴンの声がそう言うと、部屋の中にいた男たちは、弓を手に携えて、新たな獲物を捜しに、夜の街へと散っていった。
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