第23話 回廊にて

 リシアーナ・レティシアという名の、田舎娘の役を、事もあろうに国王の御前で演じる羽目になってしまったリシスは、踵の高い女物の靴を履いた足を、ドレスの裾の中で引き摺る様な重い足取りで、宮殿の長い回廊を歩いていた。

 マリアーナ公爵夫人カザリンと、メルリーゼ侯爵キャロリーヌが、まるで看守の様に、彼の左右の半歩先を歩いている。リシスは回れ右をして逃げ出したい衝動を、懸命に押えながら、まるで鎧の様にやけに重く感じられるドレスを身に纏い、回廊を進む。


 晩餐会用の目許だけ隠した仮面の下で、リシスの蒼い瞳が、何かに救いを求めるように、落ち着きなく回廊のあちらこちらへさ迷う。と、不意にその瞳が、見覚えのある仮面の人物を捕えた。

「……ルビーリンクス」

 ラスフォンテ伯爵は、回廊の反対側からやってきた貴婦人達に気付くと、宮廷の儀礼に則って、立ち止まって仮面を外し、優雅なお辞儀をした。


「これは、珍しい所でお目に掛かりますこと。ラスフォンテ伯は、居心地のいいラスフォンテ宮の外には、お出にならないものと聞いておりましたのに」

 伯爵よりも高位のキャルは、もちろん自分の仮面は外さない。だから、ラスフォンテ伯爵は、目の前にいるメルリーゼ侯爵が、エルシアでリシアーナの侍女をしていた修道女であるという事に気付かない。ただ、ほとんど顔も会わせたこともないメルリーゼ侯爵の当てこするような口ぶりに、ラスフォンテ伯爵は面食らった様な、少し困った様な顔をした。


 ラスフォンテ伯爵のそんな表情にリシスは、ルビーリンクスの仮面の伯爵が、本当にこの人物だったのかと、ふとそう思った。

「……ラスフォンテは、小さな田舎町ですから、宮殿などありませんが、静かで良い所です。折がございましたら、私の屋敷へ、ぜひいらして下さい」

 ラスフォンテ伯爵は、キャルに当り障りのない言葉を返して、微笑した。


「……そういえば、先の陛下が、ラスフォンテに御幸なされた事がありましたね」

 カザリンが、思い出した様に言う。

「はい。私が、ラスフォンテの伯爵号を継いだ継承式の折に、お出で頂きました」

「そう……あれは、五年前でしたか……思えば、あの頃が一番良い時代だった……」

 カザリンは、独り言の様につぶやく。

 ランバルト王の様子がおかしくなったのは、ラスフォンテから戻った頃からだった。間近に迫っていた王太子の帰国が急に延期され、仮面法などという馬鹿げた法が作られて、国王は彼女にさえ、その素顔を見せなくなった。


 人が変わった様に享楽に溺れ、カザリンとは言葉を交わすこともなくなった。突然、理由も分からず、最愛の人から遠ざけられたという思いに苦しんだ日々。カザリンにとっては、辛い思い出である。

 ランバルト王の崩御の折に、最後に見た顔は今でも忘れられない。過日の精悍で理知的な面影はなく、その仮面の下に隠されていた顔は、苦悩に疲れ、やつれて変わり果てたものだった。国王もまた、何かに苦しんでおられた。そう気づいた時、その苦しみを、分かち合えなかった事が何より口惜しかった。


 ライディアス王もまた、その仮面の下に、何か苦しみを抱えている。カザリンにはそう思えてならない。自分に出来ることは限られているが、二度と同じ思いをしないように、出来るだけのことはしておきたい。そんな思いがある。

 リシスのことにしても、国王の身近に信頼の出来る者を置いてやりたいという思いもあって、公爵の話など持ち出したのだ。



「そなたの様な、真面目な臣下が、陛下のお側でお仕えしてくれるといいのだけれど……」

 ふと、口をついて本音が漏れる。

「私は田舎者ですから、華やかな宮廷生活には、どうも馴染めないようでして……」

「ほほほほ……そういう堅物な所は、父親譲りなのねぇ……」

 ラスフォンテ伯爵の答えに、カザリンは声を立てて笑いながら、再び歩き出す。

 リシアーナの事があったせいなのか、メルリーゼ侯爵の彼に対する風当たりは強いようだ。だが、国王を諌めもせず、一緒になって遊び歩いている若者たちを思えば、この青年の実直そうな様子には好感が持てるではないか……


 キャルは伯爵に優雅なお辞儀をして、カザリンの後に続く。リシスは、ラスフォンテ伯爵に目を止めたまま、二人に引っ張られるようにして、足を踏み出した。

 リシスがラスフォンテ伯爵とすれ違った時に、伯爵が、リシスの視線に気付いた様に、こちらに緑の瞳を向けて、微笑んだ。リシスは驚いて、慌てて目を付せた。


……何て、優しそうな顔をする人なのだろう……彼は、ルイーシャにも、こんな表情で語りかけたのだろうか……


 北の地に広大な領地を持つというラスフォンテ伯爵。宰相であるヴィランド枢機卿の子息で、権勢など思いのままだろうに、宮廷には寄り付きもしないで、ラスフォンテの地で長閑に暮らしている伯爵。

 名ばかりの地位に振り回されている自分とは、大きな違いがある。ルイーシャを幸せにするなどと言っても、今の自分には、そんな力などない。リシスは、恋敵であるラスフォンテ伯爵と自分を比べて、溜め息をついた。


 ムーンローズの剣を返してしまえば、それですべてが上手くいく。修道院から逃げ出して、ルイーシャと二人で、どこかの村に住んで、静かに暮らす。修道院で考えていた時は、そう難しい事ではないと思っていた。


……何も分かっていなかった。外の事など知りもせずに……キャルはそんなこととっくに分かっていたんだよな。それなのに、何故、キャルは、私を修道院から連れ出そうとしたのだろう……


 前を行くキャルの背中に、リシスは、無言で問い掛ける。修道院を出たいと言ったのは、確かに自分だ。だが、話を聞く限りでは、自分たちはまだ修道院にいるべきだったのだろう。それを、キャルは半ば強引とも言える方法で、王都に戻って来た。


 リシスには、キャルという人物が、分からなくなってきていた。宮廷でのメルリーゼ侯爵は、リシスにとって、とても遠い存在である。宮廷の複雑な人間関係と、華やかさの影に見え隠れする駆け引き……そういう事を難無くこなしてみせるメルリーゼ侯爵は、ライディアス王の言葉通り、確かに、宮廷で大輪の花となれる女性であるに違いない。

 そういう華やかな舞台の似合う彼女が、何故、宮廷を退き、田舎に引き籠もっていたのだろう……


 次々と、幾つもの疑問が浮かんでは消えていく。リシスは、その度にキャルを呼び止めたい衝動を押えなければならなかった。


……ダメだ。キャルを信じなければ……ここでキャルを信じられなくなってしまったら、自分はもう前へ進めなくなってしまう……


 リシスは、心にそう言い聞かせながら、無言のまま回廊を進んだ。





 ヴィランド枢機卿は、先刻、息子のアルベールが告げた話の内容を反芻しながら、彼もまた、晩餐会の広間へ向かう回廊を歩いていた。


 枢機卿が、広間の手前の、控の間の前を通り掛かったとき、ちょうど中から、カザリンの一行が姿を現わした。

 相変わらず仮面を付けずに、その美しい顔を露にしているカザリンに、枢機卿は仮面の下で眉をひそめて儀礼的なお辞儀をした。


「ご多忙のあなたまで、陛下のお遊びにお付き合いとは、ご苦労ですこと……」

 晩餐会様の礼服を纏った、ヴィランドの頭上から、カザリンの声が降る。

「顔をお上げなさいな、枢機卿。私の娘を紹介するわ」

 カザリンの言葉に弾かれたように、ヴィランドは顔を上げ、公爵夫人の後ろに控えている娘を見た。

「まさか……」

「ラスフォンテ伯爵が、あまりに頻繁に修道院の姫の元へやってくるとかで、エルシアに居づらくなった様ですの。猊下が、ご子息にどういうお話をされているのかは存じませんけど、その権勢を盾に、姫に言い寄るなど、どう言う了見なのでしょうねぇ……猊下」

 先刻、アルベールは姫の存在を知らないと言っていた。だが、公爵夫人の言いようは、全く逆である。一体、どういうことなのか。

「……おっしゃっている意味が分かりかねますが」

 ヴィランドはそうはぐらかしながら、仮面にその顔を隠している娘を検分するような目でまじまじと見る。仮面の下から覗く蒼の瞳が、ヴィランドの鋭い視線に怯えたように伏せられた。

「ともかく、そんな不都合があった以上、姫は、私が一旦マリアリリアへ連れて帰りますけど、無論、反対はなさいませんわね?猊下」

「……その件につきましては、公爵夫人のお宜しいように」

 ヴィランドは、抑揚のない声で答えた。

「結構です」

 カザリンは、満足そうに頷くと、ヴィランドをその場に残したまま、二人の女を従えて、広間へ入っていった。



「猊下……」

 カザリンに続いて、広間に足を踏みいれようとしたヴィランドの背後で、彼を呼び止める声がした。ヴィランドが振り向いて辺りを見回すと、回廊の柱の影に人影があった。ヴィランドは人目に付かない様に何気ない風を装い、そこへ近付く。男が仮面を外して頭を下げた。


「クロードか。遅かったではないか」

「申し訳ございません。いろいろと、不手際がございまして……」

「らしいな。姫は、公爵夫人がこの宮殿にかくまっていたようだ」

「カサリン様が?」

「今は、その広間にいる。あの娘を、陛下に引き会わせては面倒な事になる。陛下がいらっしゃるまでに、何とか手を打つのだ」

 ヴィランドはそう言いながら、懐から真紅の液体の入った小さな小瓶を取り出し、クロードの手に握らせた。

「……マーメイドの涙……でこざいますか」

 クロードは手渡された毒液の小瓶を、手の中で弄ぶように転がした。

「……ああ、それから、ご子息様がエルシアの修道院から連れ出した娘の方は、カザリン様の手の者が、この宮殿へ連れて参った様でございます」

「何だと?その娘とは、もしや菫の瞳を持つ娘か?」

「……ええ、菫色の瞳の、色の白い……」

「やはり、ルイーシャか。アルベールめ、余計なことを……しかし、またしても公爵夫人か……」

 ヴィランドが苛立ちを帯びた声を漏らす。大切な切り札が、ことごとくカザリンの手に落ちていく。

「あの女狐め……」

 思わず悪態を零しながら、次の手立てを考える。


……しかし、ここに来てあの娘か。ルイーシャ……ノースラポートのヴァリエ男爵の娘。そう……あれは、錬金術師の娘……悪魔の力を持つ恐ろしい娘……


 あの娘だけは、何としてでもこちらの手に取り戻さねばならない。ノースラポートの惨事を繰り返す訳にはいかないのだ。下手をすれば、この国に更なる深刻な痛手を与えかねない。


 ……ともかく、問題を一つづつ片付けていくしかあるまい……まずは……


「……マリアーナ公爵夫人の隣にいる娘が、リシアーナだ。今度は、間違いなく始末いたせ……」

「仰せのままに……」

 クロ-ドは表情ひとつ変えず一礼すると、ヴィランドの前から立ち去った。

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