第20話 想い出のひと

「おや、メルリーゼの女侯爵様。珍しい所でお会いしますね」

 そう言いながら部屋に入ってきた仮面の人物はカザリンの前に跪き、カザリンが形式的に差し出した手を取って、そこに軽く口づけた。

「母上、お久し振りにございます」

「相変わらず、仰々しい出で立ちですこと。国王陛下」

 そう言われた青年――国王ライディアスは、着ているものが相手に良く見えるように立ち上がった。

「素晴らしいでしょう?この織物は、ファーズから取り寄せたものなんです。仕立てたのは、メルブランカ一の仕立屋アイディランスでね」

「アイディランス……」

 その名前を聞いて、カザリンは何か不愉快な事を思い出した様に、眉をひそめた。

「エッシャーファルトに、恥知らずな豪邸を建てた成り上がり職人が、確か、その様な名でしたかしらね……」

「ああ、あれは、私が建てさせたのですよ。リブランテの工房は、手狭だというものだから。彼は、私の専属の仕立屋なのだしね」

 キャルは、カザリンが溜め息を付くのに気付いたが、ライディアスは何も気付かない風にそのまま話を続ける。

「今日は、母上の歓迎にと思いまして、この宮廷自慢の楽師達を連れて来たんですよ。さあ、皆。中にお入り」

 王の後ろに従って来ていた楽師たちが、部屋の半分程を占領した。指揮者が、王の合図を待って、宝石を散りばめた長い指揮棒を振る。彼らが曲を奏で始めると、王はカザリンの隣に座った。


「……メルリーゼは、私が呼んでも顔を見せないというのに、母上の所へは参るのだな」

 王が、傍らに立っていたキャルに、冗談めかして愚痴を言う。

「……暫く御前を離れておりましたから、陛下がご立腹なのではと、そう思っておりまして、宮廷へ参りづらかったのですわ。本日は、マリアーナ公爵夫人がリブランテにいらっしゃっているのを幸いにと、陛下へのお取り成しをお願いに参ったのでございます」

「……そう、確かに腹を立てているぞ。私の使者は、いつもそなたの屋敷から手ぶらで帰ってくる。挙げ句、そなたは田舎の荘園の一つに引き籠もってしまったというしな……そなたが居らぬと、大輪の花が消えてしまった様で、宮廷が何と無く物足りなく思える。何時でも気兼ねなく、宮廷に参るがよい」

「ありがとうございます、陛下」

 キャルの立居振舞に、仮面の下のライディアスが、自嘲めいた笑みを浮かべた事に、キャルはもちろん気がつかない。




 遠いな、とライディアスは思う。

 彼女はもう、自分の手の届かない所にいる。国王と侯爵という身分、そして、纏ったその仮面によって、二人の距離は大きく隔てられてしまったのだと、そう思わずにはいられない。


……三年たったら、戻ってくる。そうしたら、私と結婚しよう……


 そうあれは、もう八年も前の事。ライディアスがまだ王太子で、十一の年だ。ランドメイアの学舎に留学する直前の出来事だった。


 彼より四つ年上のキャロリーヌは、その時十五。

 逢うたびに、美しく、大人になっていく少女に、彼は焦燥感を覚えていた。彼女が宮廷で男たちの噂に上る度、今まで、自分一人のものだった幼馴染みが、自分の知らない世界へ行ってしまう。そんな気がして、落ち着かない日々を送っていた。

 そんな頃、留学の話が決まり、三年も離れ離れにならなければならないのだと分かった時、彼は決心した。


 薔薇の盛りの、春の昼下がり。

 薔薇の庭園の片隅にあるベンチの木陰に、何時もの様に彼女は座っていた。午後の時間を、そこで読者をして過ごすのが、その頃の彼女の日課になっていた。すっかり淑女然とした彼女は、もう以前の様に、二人で遠乗りをしたり、木登りをしたりということをしなくなっていた。


 人の気配に気がついて、顔を上げた彼女に、ライディアスは意を決して言った。

「三年たったら、戻ってくる。そうしたら、私と結婚しよう」

 彼女が驚いた様な顔をして、彼を見上げる。少年の真剣な瞳に、彼女は微笑んで、そのまま瞳を閉じた。

 初めて触れ合った唇は、柔らかで、薔薇の香りに包まれていた。しかし、穏やかで幸せな時間は、それ以上は続かなかった。


 ライディアスが国を出て三年。間もなく帰国しようかという時になって、ランバルト王から、突然の留学延長を申し付けられ、彼は国へ帰ることが出来なかったのだ。この頃から、彼女からの便りも途絶えがちになり、二人の距離は遠ざかって行った。


 彼が国に戻ることができたのは、それから三年後、父王ランバルトの危篤の知らせを受けての事だった。間もなく、国王は崩御し、ライディアスは父の背負っていた重い宿命と、罪の証である仮面と共に、玉座に座った。


……愚者という役を演じるのにも、もう慣れてしまったな。もう……あの場所には戻れない。私は、ただ運命のままに、前へ進む事しかできないのだから……


「……クレセントローズは、確か、アランシアローズから作られる香水でしたか」

 不意に、ライディアスが、独言のようにつぶやいた。

「母上が昔付けていた、あの香り。私は、大好きでした。ほのかで、慎ましく、気品がある。それでいて、南国の情熱的な香り。王妃だけが付けていた、特別の香り。懐かしいな……」

 国王が、やにわに立ち上がって、二人の女と向かい合う。

「香りの主は、誰です?」

 仮面の穴から覗く目は、その口調とは裏腹に鋭い。


 国王が手を振ると、不意に曲が途切れた。楽師達は突然の演奏中止にも慣れた様子で、整然と部屋を退出していく。指揮者を最後に、楽師達が部屋から出ていってしまうと、ライディアスは再び言った。


「ここに、クレセントローズの香りを残していった姫は、一体、誰です?」

 この香水は、カザリンが以前、エルシアに来た折に、リシスに与えたものだ。以来、リシスは女装していた時は、いつもクレセントローズの香りを身に纏っていた。どうやら、その香りが残っていたようだ。


「大方、慣れぬ侍女が、香水の瓶を割りでもしたのでしょう……」

 カザリンが、事も無げに言った。

 部屋に沈黙が下りた。その静寂の中で、僅かな物音がライディアスの耳を捕えた。

「おや、衣装部屋に鼠がいる様だ」

 ライディアスは、大股に部屋を横切ると、衣装部屋の扉を勢い良く開けた。


 床に落としてしまった仮面を拾い上げようとしていたリシスは、突然開いた扉の向こうに、国王の姿を初めて見た。

「……フィアミス……月の女神か……」

 国王の唇がそうつぶやくのを聞いて、リシスは、その仮面の中の瞳に吸い込まれそうな感覚に襲われる。仮面の穴から覗くエメラルドの瞳が、リシスの蒼眼を捉えて離さない。


……初めて会うのに、この瞳を知っている気がする。どう……して……


 そんなことを考えていると、突然手首を掴まれて、衣裳部屋から引っ張り出された。

「衣装部屋に、女神の化身を隠しておくなんて、母上もお人が悪い」

「手を放して差し上げなさい。娘が怯えているではありませんか」

 カザリンが相変わらずの、ライディアスの好色ぶりに顔を顰める。ライディアスは、派手好きの上、遊び好き、女好きでもある。およそこの世の放蕩と名の付くものは何でも精力的にこなす。要するに、暗愚な王として、世間に認識されている。


 キャルは予想外の展開に困惑しながらも、とっさにその場を乗り切る嘘をついた。

「後程、晩餐会へお連れするつもりでございましたのよ、陛下。彼女は、私の遠縁の者で、リシアーナ・レティシアと申します。陛下をびっくりさせようといたしましたのに、支度の途中で陛下が、いらっしゃってしまったものですから……」

 キャルが、半ば笑い声で、ライディアスに説明する。

「確かに、驚いたぞ。……これは、メルリーゼにしてやられたな。後で、装飾品を届けさせよう。その娘に似合いそうな見事な首飾りがある。せいぜい盛装して連れて参れ。宮廷の者達を驚かせてやろう。良いな、メルリ-ゼ」

「はい、陛下。仰せの通りに」

 国王は、軽快な足取りで、部屋を出ていった。


「何て、嘆かわしい……」

 カザリンが不機嫌そうに、手にしていた扇を音を立てて閉じる。

「政務を放り出して、夜毎遊んでばかり。あれが本当に、ランバルト王の子かと思うと……」

「今宵は、公爵夫人の歓迎の席。あまり、ご不快を露になさいません様に……」

「分かっていますよ、メルリーゼ」

「……キャル。まさか、その席に、私も行く訳じゃないだろうな?」

「陛下のお召しでしてよ、リシアーナ姫様。せいぜい、おめかしいたしましょう」

「冗談じゃないっ」

「冗談では、ございません」

 キャルの口調がふいに真面目になったのに、リシスは戸惑った。

「だって……私に、そんなこと出来る訳……」

「ご安心なさいませ。当然、私もご一緒いたしますから。何があっても、あなた様のお側から、離れたりいたしません。このメルリーゼが、必ずお守り致します」

 リシスは、自分が僅かに震えているのを感じた。王の気に圧倒された。自分を捉えたあの瞳が、怖くて堪らない。

「ルイーシャのために、無事に、ここから戻らなくてはいけないのでしょう?」

 キャルが、リシスの肩に手を乗せて、そっとささやいた。


――ルイーシャのため。

 その一言が、リシスに立ち上がる力を与えた。


「大丈夫。私に考えがございますから……全てこのメルリーゼにお任せ下さい」

 言われてリシスは、ただ頷くことしかできない。ここは、キャルの言う通りにするより他に、道はない様に思えた。

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