第18話 紋章の意味
メルリーゼ家の馬車が街を抜ける頃には、すでに日は暮れていた。乗っているのは、華やかに着飾り、仮面を纏ったキャルとリシスだ。そのリシスは仮面の下で憮然としていた。母親に会うというのに、当然のようにドレスを着せられた。というのが、リシス的にはどうにも納得出来ない。
……母上にとって、私は、どうあっても娘でなくてはならないと言うことなのか……
そう思うと、何とも言えない気持ちになる。それは、本当の自分という存在を頭から否定されているということではないのか。リシスという存在は、誰にも望まれていない。そういうことではないのか……
リシスはどこか縋るように、キャルに視線を向けた。だが、何かを言いかけた口は、声を発することなく、そのまま閉じられた。
リシスの向かいの席に座っているキャルは、華やかなドレスを纏い、その美しい顔を羽根飾りのついた女物の仮面に隠していて、表情が全く分からない。少し他人行儀なその様子は、キャルが間違いなく、侯爵位の貴族であることを感じさせられる。
修道院では、仮面など付けたことのなかったキャルだったが、このリブランテに戻ってからは、立ち居振る舞いから、会話の一つ一つまでが、修道院でのものとは違っていた。自分の知らなかった、メルリーゼ侯爵の顔を持つキャルに、リシスは戸惑いを覚えていた。
お互いに仮面を纏い、その表情を伺うことが出来ない。そういうことに不慣れなリシスにとっては、相手をとても遠くに感じる。
――キャロリーヌ・フォン・メルリーゼという女性は、一体、どんな人なのだろうか。
彼女が修道院にやって来て、リシスの家庭教師兼侍女として、一緒に過ごした二年という年月。エルシアでのキャルの姿が偽りのものだったとは思わない。ただ、キャルには、一番近くに居たはずのリシスにさえ、見せなかったものがある様だった。リシスが知っていたのは、キャルのほんの一面だけに過ぎなかったのかも知れない。
リシスに修道院の外の世界の事を教えてくれたのは、キャルだった。ルイーシャと出会って、修道院から出て彼女と二人で生きていくのだと決心したリシスに、アステリオンを紹介し、その逃亡に手を貸してくれたのもキャルである。そして今、母親がいるという公爵夫人の屋敷へ向かうリシスに付き添っているのも、キャルだった。
キャルがいなかったら、リシスは今でもきっと、何も知らないままで、修道院でリシアーナとしての生活を送っていたに違いないのだ。リシスの止まっていた時間を動かし、リシスに、本人が思いもしなかった別の生き方を示してくれた。そう考えると、リシスにとってキャルは特別な存在である。
街の外へ流れて出ている水路を渡る橋の上で、馬車が止まった。夕闇に紛れて、馬車から二つの人影が降りる。そして、馬車は、何事もなかったかの様に、そのまま走り去って行った。
「こちらへ……」
キャルが一言そう言って、橋を渡っていく。リシスは無言で、その後をついていった。
橋を渡ると、キャルは水路へ降りる階段を下っていく。リシスが目を凝らしてみると、下に、小船が浮かんでいた。
「本格的に、お忍びなんだな……」
「公爵夫人のお言い付けなの。あなたが都に来ていることを、知られてはまずい人がいるのよ」
「知られてはまずいって……その公爵夫人は、何を心配しておられるのだ?」
「リシアーナ姫は女の子だけど、リシスは男の子でしょう?」
「……だから?」
キャルは返事の代わりに、リシスに小船に乗るように促した。それから自分も船に乗りこむと、慣れた手付きでオールを漕いで船を出した。
水路はやがて地下に入り、リシスが手にしているランプの灯りが、壁面に二人の影を大きくないので映し出す。影は頼りなくゆらゆらと揺れて、リシスの心の中の不安を煽る。
本当にこれで良かったのか……
修道院を出た事は間違いだったのか……
考えれば考えるほど、分からなくなっていく。自分は一体、何をしようとしているのか。キャルは、自分に何をさせようとしているのか……
リシスは不安に押しつぶされそうになって、ムーンローズの剣を握る手に力を込めた。
「リシス様」
そんなリシスの様子に気づいたのか、キャルがリシスの名を呼んだ。
「……あなたに、知っておいていただかなくてはならない事があります」
「え?」
「あなたが、そのムーンローズを持っている理由を」
「……理由?」
「はい。リシス様、あなたは、ライディアス陛下の双子の弟なのです」
「……陛下の、双子の弟?私が?」
キャルの言葉を、リシスが驚いたように確認する。
「そう。あなたは王弟殿下なの。だから、リシスとリシアーナ……弟と妹では、その存在意義が全く違うという事は分かるわね?リシス様、あなたの存在はメルブランカ王家の極秘機密なの。宮廷には、あなたの存在そのものを、快く思わない人もいる。だから、こうしてドレスを着て来たのよ、リシアーナ様」
「ちょっと待ってくれ、キャル。私が母上に会って、この剣を返せばそれで、何もかもケリが着くのではないのか」
ムーンローズの剣を返して、呪われた過去を捨て去ること。それが、リシスが王都に来たそもそもの目的である。
――国王の双子の弟。
リシスは、突然告げられた事実に、混乱していた。
「それじゃ、今から会いに行くマリアーナ公爵夫人というのは、まさか母上のことなのか?」
「ええ、そう。前国王妃カザリン様よ」
「そんな……ばかな……だって、キャル、お前はっ……」
自分たちの味方になってくれるというのは、嘘だったのか。キャルは、自分たちの未来の為に、力を貸してくれた訳ではないのか。
「お前の言葉は、一体どこまでが本当なんだ……私に、何をさせようとしている……」
リシスが苦悩に満ちた声を漏らす。
そんなリシスを、キャルは黙ったまま見据えている。
「答えろっ、キャルっ!」
リシスの切実な声に、キャルは溜息をつくと仮面を外して顔を見せた。そこに現れた真摯な顔は、これから発する言葉に、嘘などないと信じて欲しいと言っているようだった。それに対して、自分も全てを受け止めるという意思を示すように、リシスも仮面を外した。それを見て、キャルがおもむろに言った。
「……私から言えることは、一つだけです、リシス様。あなたは、決して、必要のない人間などではないのだと。いえ、むしろこの国にはなくてはならないお方……」
「何を……」
「カザリン様は、あなたを捨てた訳ではないのよ。むしろあなたを守る為に、リシアーナという存在が、どうしても必要だったから、だから……」
メルブランカでは、双子は、家系の断絶を招くものとして、忌み嫌われている。王妃が、双子を生んだなどということが、国民に知れれば、国王に対する不信を招く事になりかねない。
だから、十九年前、カザリン王妃が生んだのは、王子一人だということになっている。その双子の片割れは、人知れず王宮から連れ出されて、修道院へ預けられた。
その秘密を知っていたのは、カザリン王妃と、ヴィランド枢機卿、それに、エルシアの修道院長だけである。その当時は、国王にさえも、もう一人の王子の存在を秘匿したのだと。キャルはそう言った。
「全てそれらは、あなたという存在を守る為に、カザリン様が下された苦渋の決断だったのだと、どうか、分かって差し上げて下さいませ。その存在が公のものとなっていたら、この国の慣習に従い、あなたはその場でお命を絶たれていたはずなのですから」
それが、この国に生まれた双子に定められた運命なのだ――
キャルの言葉に、突き付けられた真実に、リシスは押し黙る。
……あのお方が、前国王妃カザリン様……
かつてリシスは、二度、その女性に会っていた。
カザリンがまだ王妃だった頃、そういう身分の人だとは知らずに会ったのが最初。
二度目は、二年前、先王が亡くなって、カザリンがマリアリリアへ移る時に、エルシアに立ち寄った時である。カザリンはその時初めて、リシスに自分が母親であると告げていた。
だが、リシスは、カザリンが王妃だった事も、自分が王弟であるという事も教えられなかったのだ。高貴な身分であるというような事は聞いたような気がするが、それだけである。
それでも、何も知らない侍女と二人きりで、修道院の中しか知らずに育ったリシスにとっては、気品のある美しい貴婦人が、自分の母親であるという事実だけでも、天地が引っ繰り返った様なものだった。
「私がリシス様のお世話を任されたのも、カザリン様のあなたを思うお気持ち故でした……」
キャルは、当時のことを思い返すようにして、更に話を続けた。
「その一年ほど前に、私はちょっとした騒ぎを起こして、ランバルト王より謹慎を命じられて宮廷から遠ざかっていたので、カザリン様が、秘密の仕事を頼むのに、ちょうど良かったのかも知れません」
「……騒ぎって?」
何となく、そこが気になって、つい聞き返してしまった。すると、キャルが少し困ったような笑みを見せた。
「その当時、我がメルリーゼ家の私兵団の団長を任されていたのが、アステリオンだったの。その頃の私は、個人的に色々あって、誰かに寄り掛かりたかった。そこを、彼が引き受けてくれた、ということね……」
それは身分違いの恋で、宮廷的にはもちろん立派な醜聞だ。そのことがランバルト王の不興を買って、キャルは宮廷を追われた。
やがて、国王が代わり、ライディアス王の御代になって、再び宮廷への出仕の許可は下りたのだが、キャルは宮廷には戻らず、都を出て領地の別荘に引き籠もった。
「どうせ宮廷に戻ったところで、傷物扱いですもの。そんなことを考えたら、何だか色々面倒くさくなってしまったのね……」
そんなキャルの元を、マリアーナ公爵夫人が密かに訪れたのだ。そこで公爵夫人は、リシスを元の世界へ、宮廷へ戻す為にキャルに助力を頼んだのだという。
「そうして、私はリシス様の新しい家庭教師として、密かにあの修道院に参ったのです」
そこからは、リシスも知っての通りだ。それまでいた侍女に代わって、リシスの身の回りの世話は元より、礼儀作法の類いから、果ては、剣術や体術などの護身術まで、このキャルが面倒を見た。それらは全て、いずれリシスを宮廷へ戻す為だったというのか。
「……では、お前は、私とルイーシャのことなど、はなから本気で考えてくれていた訳ではなかったのだな」
「それは、違います。リシス様が、その心を預けられる者に出会えたのだとしたら、私はそれを大切になさって欲しいと、本心からそう思っております……ただ、お二人で田舎で静かに暮らすという計画に関しては、変更をして頂かねばならないと存じますが」
「……十九年も引き籠っていた私が、今更宮廷になど、戻れると思うか?母上は、本気でそんなことをお考えなのか……」
「ともかく、一度、公爵夫人にお会い下さい。そのお考えを直接お聞きになれば、そのお気持ちも伝わりましょう」
聞いたうえで、自分が宮廷になど戻りたくはないのだと言ったら、キャルはどうするのだろう。リシスは考える。だって自分には、今更それは何の意味も持たない。ルイーシャさえいてくれれば、自分は他に何もいらないのだから。今のリシスの世界は、とてもシンプルだった。
どこか飲み込み切れない思いを抱いたまま、手の中のムーンローズの剣を見据える。リシスを押し包んでいく見えない大きな力に、不安は際限なく増幅される。そんな不安は、修道院の鐘楼の上で交わした、二人の大切な約束すら非現実の向こう側へ押しやっていく。
……ルイーシャ、私に力を与えてくれ……ここから、無事に君の元へ戻れるように……
そんなリシスの小さな願いを乗せたまま、小舟は水路の闇の奥へ進んでいった。
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