第16話 仮面が隔てたもの
扉に遠慮がちなノックの音を聞いて、ルイーシャ・ラ・ヴァリエは顔をうずめていたベッドから、驚いて顔を上げた。
「ルイーシャ?大丈夫なのか?具合が悪いそうだな」
扉の向こうで、ラスフォンテ伯爵の気遣うような声がする。それでも、未だ怒りが収まらないルイーシャは、黙ってドアを見据えるばかりだ。返事が返ってくる見込みはないと、そう思ったのか、扉はすぐに開いてラスフォンテ伯爵が姿を見せた。
仮面を付けたままの顔は、かつてルイーシャが知っていたアルベールとは違いすぎて、彼女の心に戸惑いを生じさせた。思い返せば、アルベールが、ノースラポートに出入りし始めた頃には、もう仮面の法があった筈だが、彼は一度だって、屋敷に仮面をつけて来たことなどなかった。彼女の父親も、都から遠く離れた辺境の地に居を構えていたせいか、そういう部分では鷹揚で、彼女の生活の中で仮面という存在はどこか遠い地のものだった。
「ルイーシャ?」
ラスフォンテ伯爵が、不審な顔で自分を見据えたまま身動き一つしないルイーシャを心配そうに呼んで、そっと手を伸ばしてその頬に触れた。
「熱はない、か」
と、次の瞬間、その手が物凄い勢いで振り払われた。
「触らないでっ」
そう叫んで、ルイーシャが見るからに怯えた様に身を竦ませる。
「ルイーシャ……」
仮面の下から、困惑したような声が漏れ聞こえる。いつの間に、自分たちの距離はこんなに遠くなってしまったのかと思う。いつも自分を笑顔で迎えてくれていたヴァリエ男爵の娘は、どこに行ってしまったのか。それが、あの男の存在のせいなのだとしたら、こんなに腹立たしいことはない。
「ルイーシャ、聞いてくれ、ルイーシャ。あの男は、プランクスなどに出入りするような無法者だったのだぞ。嘘をついてお前を修道院から連れ出したことは謝る。だが、私は、お父上からお前のことを託された身なんだ。お前をあらゆる危険から遠ざける義務がある。そんなお前が、無法の者と関わっているのを見過ごすことなど、出来るはずがないだろう。目を覚ますんだ、ルイーシャ……」
「リシスさまは、そんなお方ではありませんっ。虚言をもって私の身をどうにかしようとしたあなたの方が、余程、無法者です」
「……だから、そのことは、申し訳なかったと言っている、だが……」
「申し訳ないと思っているのでしたら、わたしを解放して下さい。わたしを……エルシアへ帰して……」
「……どうして、そんなに聞き分けがない」
憤りから思わずルイーシャの腕を掴む。
「いやっ、離して」
「ここにいろ、ルイーシャ。私の側に。そうすれば、私はおまえをメルブランカ王国一の貴婦人にしてやることだって出来る。宝石もドレスも望むままだ。昔のように、貴族の令嬢として、かしずかれる身に……いや、伯爵夫人ともなれば、男爵令嬢以上の暮らしが出来るのだぞ。それを、エルシアの修道院に閉じ籠もったまま、一生を送るというのか?」
「宝石もドレスもいらない。一生、修道院にいたって構わない。リシスさまがいてくれれば、わたしはそれだけでいいんだもの。だから、わたしを自由にして」
身をよじるようにして、掴まれた腕を振り払う。そして、ルイーシャはラスフォンテ伯爵を睨み付けて吐き出すように言った。
「あなたはもう、アルーベルさまじゃないもの。私の知っているアルベールさまなら、そんなこと、絶対に言わないわ」
「……」
二人の間を沈黙が流れる。かつて共に過ごした楽しかった思い出は、もう思い出以上の意味を持たないのだと気づかされる。
……たった二年。たった二年だぞ……
失意を覚えながら、ラスフォンテ伯爵はおもむろに仮面を外し、溜息交じりに告げる。
「……私は昔のままだ。変わってしまったのは、お前の方だよ、ルイーシャ」
二年ぶりに、自分を見据えるアルベールの顔を見た。どこか哀しげな表情を浮かべるその顔を。
「……アルベールさま……」
仮面を取り去ったその顔は、彼の言うように昔のままだった。つい今まで感じていた、尊大で威圧的な空気は消え、昔のままの穏やかで優しい表情は、ルイーシャに安心感を与える。そして仮面という隔たりが、自分たちの距離を必要以上に遠ざけていたのだと感じる。
「……どうして、仮面なんて、あるのかしら」
ぽつりと、そんな言葉が零れる。それを聞いたラスフォンテ伯爵も、今更、自分たちが仮面を纏う理由を考える。
王命であるからと、言われるままに従う愚かさを、当時、王の周辺にいた者たちは、誰一人感じなかったのかと。愚かな法である、という認識を誰もが持っているのに、これまで、誰一人として、それを正そうとしなかったのだ。
「……ともかく、今更、お前をエルシアになど帰さない。私と結婚するかどうかという話は別にしても、ヴァリエ男爵亡き今、間違いなく、私がお前の保護者であるのだから、今後のお前の身の振り方は、私の同意なしには、何も決まらないのだということは、理解して欲しい……少し、頭を冷やせ、ルイーシャ。そうすれば、リシスとかいう男が、お前が将来を託すに相応しい男ではないと、分かるだろう」
「……」
「……ルイーシャ。私は、昔と変わらずに、お前を大切に思っているよ。それだけは、どうか信じて欲しい」
そう告げた自分を見上げる顔に、もう怒りの色はなかった。ラスフォンテ伯爵はその場に膝を折ると、どこかまだ状況を理解しきれずに、呆然としているルイーシャの手を取り、昔のようにそこに軽く口づけを落とした。そこに先ほどのような、激しい拒絶はなかった。
……大丈夫だ。時間を掛ければ、ルイーシャは、きっと私の元へ戻ってきてくれる……
そんなことを思いながら、ラスフォンテ伯爵は立ち上がり部屋を出ようと扉に手を伸ばした。その手が、ドアノブを掴み損ねて宙を掴んだ。扉が彼の目の前で、勢いよく開かれたのだ。見ればそこに、不審な出で立ちの若い男が佇んでいた。
「何者かっ?」
「リシアーナ姫は、こちらか?」
ラスフォンテ伯爵と男の声が重なった。
男の放った言葉に、ルイーシャが弾かれたように立ち上がる。その男は、顔の下半分を隠す覆面を付けており、顔立ちはよく分からないが、覆面の上の瞳が、鋭い蒼紫の光を放っている。その目が、真っすぐにルイーシャを射すくめた。
――あの男は、プランクスなどに出入りするような無法者。
先刻、ラスフォンテ伯爵が言った言葉が蘇る。この無法の男は、リシスと関わりのある男なのか。まさかリシスは、伯爵が言ったように、本当にそんな男なのか。小さな不安の種がルイーシャの中に生まれる。そして自分は、リシスのことをあまりにも知らないのだと気付かされる。こんなことぐらいで、不安になる程に。あれは、修道院という閉ざされた世界で見ていた
そう思ううちに、男が右手に握っていた抜き身の剣から、血が滴り落ちて、床に黒い染みを作った。それに気づいてたちまち険しい顔になった伯爵が、再び誰何した。
「……貴様、何者だ?」
問われた男は、目の前のラスフォンテ伯爵に視線を移すと、瞬間、目を見開いて呟く。
「……シャルル、か?……いや、似て非なる者か……シャルルの髪は、そんなに明るい金色ではなかったしな……」
男の呟いた言葉に、今度は伯爵の方が目を見開く。
「お前……なぜ、シャルルの名を知っている?」
男はそれには答えず、伯爵の肩越しに再びルイーシャに視線を戻し、大仰に溜息を落とす。
「……ちっ。こちらのお姫様も人違いか。とんだ無駄足だったな」
そう言い捨てて男は踵を返すと、マントを翻して、そのまま逃げていく。
「待て!貴様、シャルルを知っているのか?」
伯爵は男を追って、部屋を飛び出していった。
「出会えっ!曲者だっ!」
伯爵の声が足音と共に、次第に遠ざかっていった。
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