第10話 自由を手にするために
マーシュが意識を取り戻したのは、やわらかなベッドの中だった。やわらかな、というか、やわらか過ぎるその感触に、かえって寝心地の悪ささえ感じる。
……何なんだ、この異常なまでのふわっふわ感は……
寝覚めの不快感に、目を開けあぐねていると、不意に頭上で男の不機嫌そうな声がした。
「何者なのだ、その、アステリオンという男は?」
その男が、“アステリオン”と言ったのを聞いて、マーシュは、反射的に飛び起きた。
「アステリオンっ?どこに居る……」
部屋に居た仮面の男達が、一斉に、マーシュを見た。
「お前、アステリオンを知っているのか?」
ルビーリンクスの紋章が描かれた仮面の男が、マーシュのベッドに近付いた。
「……彼は、ここには、いないのか?」
「らしいな。アステリオンを知っているのか?」
ベッドの傍らの男が、同じ質問を繰り返しながら、マーシュを射る様に見据えている。
……ルビーリンクス、ってことは、この男、ラスフォンテ伯爵か……
マーシュの中で、密偵であるマーシュが意識を取り戻し、頭の中から選び抜いた言葉を慎重に口から出す。
「……ずっと、探していたんだ。大陸中を巡って、もう、三年もな。やっと、見つけたと思ったのに……」
「奴は、逃げたよ。女を連れてな。ここの娼家の女将がぼやいていた」
「お……んな?」
マ-シュは、一瞬、伯爵の言葉の意味が分からずに、そう呟いてから、自分の口から出た言葉の意味に気が付くと同時に、自分が何処にいるのかという事に気付いて、慌ててベッドから飛び出した。
「こっ、ここはまさか」
「ふふ……こういう所には、馴染みがないらしいな」
ラスフォンテ伯爵は、低く笑って、テーブルの上の革袋から零れだしている金貨の山を指で弾いてみせた。メルブール金貨が一枚、小さな音を立てて床に落ちる。
「その革袋……」
「ん?」
言いかけたマーシュの視線を辿り、伯爵が何かに気付いたように、半ば金貨に埋もれていた通行証を拾い上げる。
「ああ……そういうことか。ここにある通行証は、お前のものか?マーシュ・クライン」
「……」
「マリアーナ公爵夫人お抱えの従者だというこの記載事項は、お前のことで間違いはないのか?」
この状況で誤魔化しきれるとは思わなかったが、すんなり身元がバレる、というのは自分的にプライド問題なので、すぐに返事が出来なかった。
「……この通行証が、お前のものでないのなら、今晩ここにアステリオンを訪ね、共に逃亡した者が、マーシュ・クラインだということになって、私は国中にその名前の手配書を回さねばならなくなる訳だが」
「それは、困るっ。そんなことになったら、公爵夫人にご迷惑が……」
咄嗟にそう言ってしまってから、それで完全に身バレしたことに気付いて、マーシュは憮然とする。
「お前がマーシュ・クラインで、間違いないのだな?」
「……ああ、そうだ。さっき物取りに襲われて、金貨の袋と通行証を奪われたんだ」
「成程、お前を襲ったその物取りが、ここに来たということだな。つまり、そいつが、ルイーシャの……」
伯爵が、考え事をするようにして、何かを呟く。
「……ベルナール、アステリオンという男の手配書を出せ。奴が捕まれば、正体不明のあの男の手掛かりも得られよう。それから、セレンの隊を街道に向かわせた者たちと合流させろ。女連れだと言うなら、まだそう遠くには行ってない筈だ」
伯爵の指示に、数人の男たちが慌ただしく部屋を出て行った。
「……と、そういうことだから。お前が、アステリオンを探しているというなら、心配ない。彼らが、すぐに探し出してくるだろう。その間に、マーシュとやら、お前が奴の事で何か知っているのなら、すべて話して欲しい」
「……私は、アステリオに会ったこともないし、彼がどういう男なのかも知らない」
「……?見ず知らずの男を探すというのは、随分と不可解な話だな」
「だって、そうなんだから、仕方がないだろう」
「そんな都合の良い話を、この私に信じろと?」
伯爵がクツクツと笑い声を漏らす。
「奴はここの鉱山の監督官だったというが、本来ならば、それは私の友であったアンドレア・オルシーニという男の筈なんだ。三年前、仮面の法に引っかかって、宮廷を追われた男でね。私はその友の消息も知りたいのさ。……公爵夫人絡みで言えないのであれば、その点は配慮するぞ。決して他には漏らさない」
「公爵夫人は関係ない。……今は休暇中だし」
「バカンスで、流刑地巡りとは変わっているな」
「そんな嫌味を言われたって、知らないものは知らないんだから……あんたも、いい加減しつこいな」
「ならば、聞かせてもらおうか、お前が奴を探す理由とやらを」
仮面の下の表情は知りようもなかったが、そこから有無を言わせない強い圧を感じた。人に命じる立場の者の、傲慢で容赦のない、逆らうことを許さない力を持った言葉。これ以上逆らい続けるのは、得策ではない。下手な嘘も、多分この伯爵には通用しない。マーシュはそう判断して、諦めたように溜息を一つ落とした。
「……理由は……自由を手にするために、だ」
「自由?」
「アステリオンを見つけられなければ、私は、一生、幽閉同然の暮らしをしなくてはならなくなるんだ」
マーシュは、伯爵を睨み付けるようにして言った。
「……ほぉ」
伯爵がどこか感心したような声を漏らして、テーブルに置かれていたマーシュの仮面を手にして、それを彼に渡しながら聞く。
「お前、随分と若く見えるが、年は幾つだ?」
「十五」
答えながら、差し出された仮面をひったくるように受け取る。
「十五で、月隠れの夜に花街をうろつくか。幾らなんでも、無謀が過ぎる。ここは都と違って、なかなか物騒な所だ」
そう指摘されて、羞恥に顔を赤らめる。道端でひっくり返っていたのを、こんな場所に運び込まれるとか。みっともないの極みだ。おまけに名前や立場を知られ、更に仮面を剥がれ、素顔を見られ、未熟な子供なのだということを暴かれるとか。
……ほんと、不甲斐ない……
間違いなくここ数年で、最悪の気分だ。
「伯爵様」
開け放たれていたドアの向こうから、仮面の男が一人、大股に部屋の中に入ってきた。それに続いて、別の仮面の男二人に、体を押さえ付けられた職人風の大柄な男が、引き摺られるようにして部屋に押し込まれて来た。
「何事か?」
「はい、鉱山で、監督官だったアステリオンの従者をしていたという男を見つけました」
「その男か?」
ラスフォンテ伯爵が、男に歩み寄ると、男が顔を上げた。
「お前の、名は?」
「リィンヴァリウス」
伯爵の問い掛けに、男は、はっきりした声で答えた。
男の声が部屋に響き渡ったと同時に、耳障りな金属音を上げて、マーシュが手にしていた仮面が、手を滑り落ちて床に転がった。
「リィン……」
呆然とそこにたたずむマーシュに、伯爵が不審の目を向けながらリィンヴァリウスに問う。
「我々は、アステリオンという男を捜している。お前の主人だった男だと聞いたが、相違ないか?」
「ないな」
リィンヴァリウスは、マーシュの事など気にも掛けていないという様に、その鋭い視線を仮面の伯爵に向けている。
「ならば、お前がアステリオンの正体を教えてくれそうだな。奴は、一体、何者なのだ?」
「アステリオン様は、ここの鉱山の監督官だ。それ以上の事を聞かれても、私には判りかねる」
「成程、正直に言う気はない様だな」
ラスフォンテ伯爵は、おもむろに腰に下げていた剣を抜くと、リィンヴァリウスの喉元に突き付けた。だが、リィンヴァリウスは、動揺するふうもなく、ただ伯爵を見据えている。
「アステリオンという男、身分を偽って、このプランクスに潜入し、王家の所有する鉱山で、何をしていたのだ?まさか、石ころを掘りに来た訳ではあるまい?答えろ」
そう問われて、リィンヴァリウスが、ふと笑った。
「石を掘らないで、ここで一体、何をするって言うんです?ここは、鉱山なんですよ」
「真面目に答える気がないならば、お前に用はないが」
伯爵の剣が、リィンヴァリウスの喉の上をゆっくりと滑っていく。そこにうっすらと血が滲むが、リィンヴァリウスは微動だにしない。
「悲鳴ひとつ上げぬとは……たいした度胸だな。こんな所で死ぬには、もったいない男だ」
伯爵がその手に力を込めようとした時、マ-シュの声がそれを制止した。
「お待ち下さいっ」
伯爵が切羽詰まったようなマーシュの声に手を止める。
「何か言い忘れた事でも、思い出したか?」
面白そうに問う声に、マーシュは一呼吸置いて、そして言った。
「……お待ちください……その者は、リィンヴァリウスは、私の兄なのです」
「ほう……」
「申し上げますっ」
又、仮面の男が一人、部屋に駆け込んできた。
「例の者ども、行く先が判りました。東の街道の者から、知らせが……」
「東?……エルシアか。やはり、ルイーシャはまだ、エルシアに」
不審な男の目撃情報は掴んだものの、一緒に逃げた筈のルイーシャを見たものは、この近辺に誰もいなかったのだ。男がまた、エルシアに向かったのだとすれば、ルイーシャは、やはりそこに身を隠しているのだろう。
「すぐに、出立だ」
伯爵の一声で、そこにいた男達は、一斉に部屋を飛び出していった。
「エルシアへ先回りをしてやる。お前達には、まだ聞きたいことがある。しばらく付き合ってもらうぞ」
その一言で、マーシュとリィンヴァリウスは馬車に乗せられて、伯爵の狩りに同伴させられる事になった。
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