第3話 伯爵と仮面と修道女

 窓の下を覗き込むと、若い男が伸びていた。修道女姿のキャルはやれやれという風にかぶりを振ると、自分の仕える主人がしでかしたのであろう所業の後始末をすべく、中庭に向かった。


 キャルは気を失っている青年の華やかな金色の髪をかき上げると、顔を覗き込んだ。

「あらやだ。ラスフォンテ伯爵さまじゃないの」

 アルベール・フォン・ラスフォンテ――彼は、このエルシアを含む王国の北に広大な領地を持つ、伯爵家の若き当主だ。五年前、十四という若さで伯爵家を継いだ。

 アルベールは、この国の宰相であるヴィランド枢機卿の息子である。僧籍にある枢機卿には、公に婚姻の事実はないから、アルベールはその祖父の子供ということで、表向きの辻褄を合わせている。その祖父が亡くなって、彼は順当に伯爵位を継いだ。このことは、宮廷のゴシップとして誰でも知っている公然の秘密である。


 それにしても、ご主人様は全く面倒くさい人物と関わってしまったものだ。

「……まあ、それも運命?うん。面白くなって来たかも」

 その顔に浮かんだ思わせぶりな笑顔は、騒ぎを聞きつけてやって来た修道女たちの気配に、すぐに消えた。




「……修道院に、毎年多額の寄付を頂いているのですよ。今日は、今年の寄付のお話にいらっしゃるというお話で……それにしたって、このような非常識なお時間にお出でになるとは……」

「気ままな方だと聞き及んでいますわ。そのせいで災難に遭われたのは、お気の毒ですけど、まあ、時間も時間でしたからねぇ……不審者に間違われて修道女に成敗されたのだとしても、文句はおっしゃられないでしょう」

 キャルが苦笑しながら言うと、修道院長は困ったように顔をしかめた。

「キャロリーヌ殿、あまり目立つ行いは……」

 さすがに、リシアーナ姫が蹴り倒したと、本当のことは言う訳にはいかないので、護身術の心得のある自分がやらかしたことにしてある。これも後始末の一環である。

「ご安心ください、修道院長さま。心得ておりますわ。今回は、ルイーシャを守らなければという思いが先に立ってしまったのです。以後は、気を付けますから」

「頼みますよ、くれぐれも……」

「……ん…うう…ん……」

 アルベールがわずかに呻き声を発したのに気付いて、修道院長は言葉を切った。

「修道院長さま、ここは私が対応いたしますので、後はお任せ下さい」

「そう?それでは頼みますよ」

 そう言いおいて、修道院長は部屋を出て行った。



 キャルは伯爵の顔に掛けられていた仮面を外すと、濡れた布でその端正な顔をそっとぬぐう。と、それで覚醒したらしい伯爵の手が、キャルの手を掴んだ。

「ルイーシャ・ラ・ヴァリエ……」

「どなたかと勘違いなさっておいでですか?」

 そう声を掛けると、伯爵が目を開けた。

「……ここは」

「エルシアの修道院の、院長室の、ソファーの上、ですわ、伯爵さま」

「エルシア……ああ、そうだった。こちらへは寄付の話をしに……」

「お加減はいかがですか?頭を打っておいでですから……頭痛や吐き気などはごさいませんか?」

「頭……ああ……そうなのか……」

 身を起こしながら、伯爵がゆっくりと頭を動かす。

「特に、問題はないようだ……」

 そう言いながら、傍らに立つキャルを見上げ、彼女が手にしている仮面に気付くと無言で手を差し出した。キャルが仮面を渡すと、それを付けながら言う。

「介抱してもらったようだから、私の顔を見たことについては目を瞑ろう」

「それは、ご厚情感謝いたします、伯爵さま」



 大陸の西の王国メルブランカ。

 この国では、もう五年も前から、貴族は全て、仮面を付けて歩く。


 先王ランバルトの時代に、貴族階級の者は、自分より身分の低いものに素顔を見せてはいけないという、世紀の悪法と揶揄される法律が制定されて以来の事である。その法によれば、貴族の素顔を見てしまった者は、平民であれば、死刑になるとも言われていた。

 そして、その法律のせいで、この国の人々は、二年前に即位した現王ライディアス5世の顔を、未だに知らぬままなのである。



「その代わりと言っては何だが、ここにルイーシャ・ラ・ヴァリエという娘を呼んで頂けまいか」

「ルイーシャ……ですか?彼女とはどういう……?」

「お父上と親しくさせて頂いていた。ノースラポートの惨事で亡くなったのだと思っていたんだ。それが生きて……無事でいてくれたなんて……こんな所で再会できたなんて……神様には感謝してもしきれない……」

 話しながら、伯爵が目を潤ませる。そんな様子を冷めた感じで見おろしながらキャルが言う。

「ルイーシャという修道女は、亡くなられたお父上の御霊を慰める為に、この修道院で日々祈りを捧げております。すでにもう、神の娘として、俗世とは縁を切った生活をしているのです。どうか、彼女のことを思うならば、お会いにならずに、このままお引き取り下さい」

「そうはいかない。ルイーシャは私の許嫁なのだから。お父上が亡くなられている以上、私が彼女の身を守らなければ、誰が守るというのです」


……許嫁とはまた……厄介なこと……


「……それは、彼女を手元に引き取りたいとか、そういうお話でしょうか」

「ああ、そういうお話だ」

「分かりました、そういうお話でしたら、院長さまにお伺いを立てねばなりませんし、こちらにも都合がございますので、今日の今日という訳にも参りません。そこは、ご了承いただきたく存じます。それに、なにがしかの決定がなされるまでは、彼女は神の娘なのですから、お会い頂くこともご遠慮頂かなくてはなりません」

「……まどろっこしいな」

「それが規則ですので」

 キャルが嫣然とした笑みを見せて言い、院長にお伺いとやらをすべく、一礼して部屋を出て行った。

「……神の娘にしては、艶がありすぎだろう……あの修道女」

 伯爵はそう呟いて、自分の身に起こったことを、改めて思い起こす。



 中庭にルイーシャが佇んでいるのを見つけた時は、夢かと思った。その面影を追い求めながら悲しみに暮れていた自分に、神様はひと時の慰めを与えて下さったのかと。だが、それは幻なのではなく、まごうかたなき現実だった。

「ルイーシャ……」

 一時は、その身をこの腕の中に抱き留めたのに。何者かに頭を殴られて、再び引き離されてしまったのだ。全く忌々しいこと限りない。


『ルイーシャ、頭下げてっ』

『こっちだ、ルイーシャ』


 不意に、記憶の中にその声が浮かぶ。

 青年の声、だ。


 あれが、私を殴り倒して、私の手からルイーシャを奪い去った輩――

 そう思いながら、記憶をたどる。煌びやかなドレスの裾が翻る光景が浮かぶ。こんな田舎の修道院にはあるはずのない煌びやかな……記憶の声とその光景とが上手く結びつかなかった。何か別の記憶が混在しているのか。頭を殴られたせいで、記憶が混乱しているのか。とも思う。


「何にしても、忌々しい」

 ただ一つ確かなことは、自分の手からルイーシャを奪い去った男がいる、ということだ。あの修道女曰く、神の娘であるルイーシャと、あのように気安く接している男がいるという、その事実。それを修道院長はどう弁明するのか。ルイーシャは、恐らく、まだ神の娘にはなっていないのだ。ならば、自分がルイーシャを引き取るということに、たいした障害があるとは思わなかった。

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