第2話 運命のひと
ルイーシャ・ラ・ヴァリエが、このエルシアの修道院に来たのは、二年ほど前のこと。彼女が、まだ十五才の時だった。それまでは、このメルブランカ王国の最北にあるノースラポートという辺境の田舎町で、その地の領主である父親と二人で暮らしていた。母親は、彼女が物心つく前にすでになかった。
そのノースラポートは、ある日忽然と、この世界から消えた。大火に嬲られたような廃墟の中で、ルイーシャをはじめ僅かな人数だけが保護されたという。そこで何があったのか、ルイーシャはほとんど覚えていなかった。
燃え盛る炎の断片的な記憶。
何かを伝えようと、必死で叫んでいる父の姿――
覚えているのはそのぐらいだ。
父が伝えたかった声は、残念ながら記憶の中に残ってはいなかった。父とはそれきりになっている。ノースラポートは、今では住む人も居ない廃虚となっているという。
長い間、意識をなくしていて、目が覚めた時には、もう、このエルシアにいた。ノースラポートで救護活動を行った修道院のつてで、彼女はここエルシアの修道院長に保護されたのだと聞かされた。他に身寄りのなかった彼女は以来、この修道院で修道女見習いとして生活している。
周囲の修道女達は彼女に優しかったが、それが何と無く、気を使われている優しさだったのが、ルイーシャにはたまらなかった。大好きな父を亡くした哀しみを抱え、これまでの自由気ままな生活とは全く勝手の違う、規則で縛られた修道院という環境にもなかなか馴染めず、向けられた親切を素直に受け取ることが出来ない程、心に余裕がなかった。ただただ息苦しくて、何も面白いことなどない生活。この先、死ぬまでここにいなければならないのかと思ったら、言いようもなく気持ちが塞いだ。
そんな折だった。
丁度、礼拝の時間で、修道女達は皆、礼拝堂へ籠もっていた。ルイーシャは、院長の目を盗んで、礼拝堂から抜け出してきたところだった。
ふと見ると、中庭を、美しいお姫様が侍女を連れて歩いていた。
彼女は、ルイーシャに気付くと、優しく微笑みかけた。
灰色の修道院の中で、そこだけが鮮やかな色彩に彩られて、一枚の絵のように、ルイーシャの瞳に焼き付いた。
あまりの衝撃に、呆然として、声を出すことも出来なかった。我に返った時には、その姿はどこにもなかった。自分は幻を見たのか。そんな気にさえさせられた。
その話を 同室のセシリアさんにすると、この修道院には、禁忌なるものがあるのだと教えてくれた。修道院の敷地の奥に、回廊でつながれた別棟の建物があって、そこには身分のある、さる姫君が住まわっているのだという……
「でもね、誰もその姿を見た人はいないのよね」
そばを通る度に気になっていた、人の住んでいる気配もないほどひっそりとしている別棟。普段は施錠されていて、ごくたまに、都から身分の高そうな人物がやってきて、泊まっていくことがあるから、そういう客人用の宿泊施設なのだと思っていた。
古参の修道女達も、建物の主だと言われる、その姫君の姿を誰一人見たことはないのだという。聞けばそれは、もう十数年も前からのことだと言い、今では、一種の禁忌となっているのだと。いるのかも知れないけど、関わってはならない。いないものとして扱う。それが修道院長はじめ、修道女たちの暗黙の了解なのだという。
いないハズの姫君。
それが、リシアーナ姫だった。
でも、自分は出会ってしまった。そんな美しいお姫様に出会えたことが、ただ嬉しくて、友達になってしまった。おまけに、気付けば好きになっていて、彼女が実は男なのだという秘密まで知ってしまっている。
顔を合わせる度に嬉しくて、でも手を伸ばしてはいけない人だと思うから切なくて、少なからず生じる葛藤に、いつも困惑させられる。
今朝もまた、そんな感情にただ弄ばれていたルイーシャの耳に、その声は聞こえた。
「……ルイーシャ?ルイーシャ・ラ・ヴァリエ……?」
戸惑いを帯びた青年の声が――リシアーナとは別の声が、ルイーシャの名を呼んだ。
ドキリとさせられて、反射的に窓辺を見上げる。リシアーナの姿はすでにそこになく、ルイーシャは安堵の息を漏らす。こんな朝早くに、誰も見ていないとか、おめでたい常識はごみ箱に放り込まなくてはならないようだ。というか、こんな朝早くに、男の人の声を聞くというのは、尋常なことではない。
……だってここ、女子修道院よ?……
普通は、朝早くなくったって、男性は基本立ち入り禁止な場所だ。十中八九不審者だと思っていいだろう。そんな人に、名前を呼ばれるなんて。
……そんな人に何でわたしの名前、知られているの?……
ルイーシャは恐る恐る声のした方を確かめる。少し離れた場所に、顔を白磁の仮面で覆い隠した若者が佇んでいた。
……やっぱり、変な人だった――っ……
仮面を付けているから、表情はよく分からない。目の部分から覗く、エメラルドの瞳が、獲物を狙う猛禽のそれのようにルイーシャを見据えている。
……いや……怖い……
もう、第一印象で怖い人認定してしまったから、彼が大股で中庭を横切り、物凄い勢いで自分の方に向かってくるのを見た途端、思い切り悲鳴を上げていた。
「やめろ……何でそんな声出すんだっ……」
悲鳴を上げ続けるルイーシャの口を、狼狽する声と共に大きな手が押さえ付ける。
「頼むから、大人しくしてくれ、ルイーシャ……」
「むぐむぐっむぐむぐっっ」
(知らない男に抱き付かれて、口を塞がれているこの状況で、大人しくしろとか、どの口が言うのよ)
「いてっ」
相手の指にかみついてやったら、拘束が少し解けた。
「いやっ……離し……」
「落ち着け、私だ、ルイーシャっ」
「えぇ……?」
「アルベールだ」
「え……?」
アルベール。耳に覚えのある名前だった。だが、混乱している頭に、すぐに誰とは思いつかない。
「……誰?」
「アルベール・フォン・ラスフォンテ。君の父上の……」
「ルイーシャ、頭下げてっ」
「え?」
頭上でリシアーナの声がして、言われるままに頭を下げつつ、そちらを見る。と、リシアーナが、窓枠に足を掛けてそのままひょいと飛び降りたのが見えた。
「え……なっ……」
ルイーシャが息を飲む間に、ドレスの裾がふわりと花か咲いたように広がり、何事かと顔を上げたアルベール某の側頭部に、リシアーナの華麗な空中回し蹴りが決まった。
「えぇぇ……」
青年がよろめいて地面に崩れ落ちる。その衝撃で仮面が落ちた。
「……あ」
その顔には、覚えがあった。よく、父の元に遊びに来ていた……あの人。
「こっちだ、ルイーシャ」
リシアーナに手を引かれて、ルイーシャは取り敢えずその場から逃げ出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます