第4話 私だけの美しい花

「ま、待って……下さい……リシアーナ様……」

 掴まれた手にこもる力が普通ではない、というのは、すぐに気づいた。自分の手を引いてリシアーナは全力疾走している。翻るドレスが目に鮮やかに映る。手を引かれるままに、やっぱりこちらも全力疾走しているから、声を掛ける余裕もなかった。それでも、流石に息が切れてきて、苦しくなってきた辺りで、堪らずに声を上げた。


「もう少しだから」

 そう言われて、今度は階段を上る。

「……まって……本当に……も、無理……」

 そう弱音を吐いた所で、リシアーナが足を止めた。

「着いたよ、ルイーシャ」

「……え……ここ、どこ?」

 辺りを見回すと、修道院の鐘楼の上だった。山の稜線が金色に色づいて、ちょうど夜が明ける刻限なのだと気付く。

「わぁ……きれい……」

「……ルイーシャ」

 ちょうど上ってきた朝日を背にしたリシアーナが、ルイーシャを呼んだ。

「え?」

 見上げた顔が静かに下りて来て、その形の良い唇が、そっとルイーシャの唇に触れた。

「……えぇっ?……リシアーナ様……?」

「リシス」

「え?」

「そう呼んで欲しい。リシアーナではなく。君の前では、リシスでいたいから……」

「……リシス……様……」

「うん」

 ルイーシャの声が自分の名を呼んだのを聞いて、リシスは嬉しそうに頷くと、ルイーシャを抱き寄せた。

「あ……の」

 戸惑う声を漏らすルイーシャの耳元で、リシスの声が言った。

「いつか、君と二人、ここを出てどこか遠い場所で、一緒に暮らせたらと、私はずっとそう思っていた」


……それって……


「……そう言ったら、君は私と一緒に来てくれる?」

「……リシス様」

「いや、違うな。一緒に来て欲しい、だ。まさか、こんなに突然、あんな輩が現れて、君を攫っていこうとするなんて、思ってなかった。この秘密の花園で、私だけが君という花を愛でていられるのだと。都合よくそう、思い込んでいた」

 その腕の中は心地良すぎて、まるで夢を見ているようで、現実味がなくて。

「私は君を失いたくない」

 囁かれた声は、あまりに甘すぎて。何も考えられなくなっていく。


……わたし……何て……言えばいいの……


 リシス様のことは好きだけど。だけど、彼の隣にいる自分が想像できない。返事ができずにいると、リシスが身を離して答えを催促するように、ルイーシャの顔を覗き込む。

「ルイーシャ?」

 少しの逡巡の後で、ルイーシャはようやく口を開いた。

「……アルベール様は……亡くなった父のお気に入りで、いずれ二人……結婚すればいいよって……言ってたんです……父が……だから……」


 あの頃は、私と父とアルベール様だけで、私の小さな世界は成り立っていた。

 そこに、この美しい人はいなかった。あのまま何事もなければ……


 全てを焼き尽くす、禍々しい炎の記憶が押し寄せる。記憶の中の熱気に煽られただけで、未だに息苦しさを覚える。あの日から、私の世界は変わってしまったのだ。


 そして今、目の前には、美しい花が揺れている。――私の好きな美しい花。


「……ルイーシャ」


 懇願される様に名前を呼ばれただけで、鼓動が早くなる。


……お、落ち着きなさい、わたしっ……


 平静を取り戻そうと一度大きく息をして、ルイーシャは、リシスの蒼い瞳の中に映る自分に問う。


……わたしはこの花に手を伸ばしても……いいの?……神様はそれをお許しになると思う?……


 自分は本当にそれを願ってもいいのか。そう改めて思うと、果たして自分は、彼に相応しい人間なのかと考えずにはいられない。自分は、たった二年足らずの彼のことしか知らない。その間も、ただその姿を目にする度に、ウキウキと舞い上がっていただけだ。それは恋というより、憧れの方に近いと言えた。彼が男性だと知ってからも、男性というより、どこか女性として見ていた様に思う。


……だって、こんなに綺麗なんだもの……仕方ないわよね?……


 好きか嫌いかと言われれば、好きなのだと思う。でも、憧れを恋に昇格させるには、自分が彼に相応しい人間なのだという自信が圧倒的に足りなかった。


……だって、こんなにも、何もかも完璧なんだもの……


 迷い困惑しているルイーシャの姿が、リシスの瞳の中でゆらりと揺れた。すると、彼の口から思いがけない言葉が零れ落ちた。

「……ルイーシャ。君の口から他の男の名前を聞くのは……何ていうか……辛い」

「え?」

 目の前でリシスがしょんぼりうなだれていた。

 それはまるで、艶やかに咲き誇っていた花が、萎れかけてるみたいで……


……うそ……こんな顔……はじめて……


「私は、事情があって、今はこんな風だけど、ぜったい、あの男になんか負けないぐらい、男らしくなるから……」


……それって……


 リシスはアルベールを意識しているということになるのだろうか。しまくっていると言ってもいいぐらいに、盛大に。そう思ったら、ふと、気持ちが楽になった。

「……そっか」

「ん?」

 彼も、完璧ではない。そう気づかされる。

 微塵も隙のない完璧なお姫様でなく、目の前の男性は。ドレスを脱いでくれるのなら、少しだけ、隣に並んでも大丈夫かもって思う。だって、リシアーナの隣に並んで歩く勇気をもつ女の子なんて、この世界にはいないと思うのよ。

 でも、リシアーナではなくて、リシスなら。


……きっと……大丈夫よね?わたし……


 自分にそう確認して、目の前の花に手を伸ばすと、そっと引き寄せて、ルイーシャはその胸に額を押し当てた。

「ルイーシャ?」

 頭の上でリシスの探るような声がした。それに応えるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

「いつか、あなたと二人、ここを出てどこか遠い場所で、一緒に。きっと行きましょう、わたしたち」

「……ああ……ルイーシャ」

 安堵と歓喜が入り交じった声を漏らすと、リシスがルイーシャを勢い良く抱き込んだ。その思いの強さを押さえきれない様に、リシスの腕に力が籠った。


 こんなにも、心が温かいものに満たされる。自分にこんな日が来るなんて、想像出来ただろうか。

 リシスの心は今、幸せな思いに満たされていた。間違いなくルイーシャは、リシスの閉ざされた世界に舞い降りて、彼が外に羽ばたく為の翼を与えてくれたのだ。


……私の愛しいルイーシャ……愛している……こんなにも……


 しかし、リシスには、その言葉をルイーシャに伝えることが、まだ出来なかった。自分にはまだ、その資格がないのだと、自身でよく分かっていたからだ。


 だって、今の自分は何も持っていない――ルイーシャを幸せに出来るものを何ひとつ、持っていないのだから。




 物心付いた時にはもう、リシスはこの閉ざされた場所で、リシアーナというお姫様として育てられていた。姫としてのたしなみや教養は一通り叩き込まれたが、それは、この小さな世界で生きて行く為だけのもので、ここを出て外の世界で暮らすには、到底足りないのだろうということは、想像に難くなかった。ルイーシャと共に生きて行くのだとしたら、尚更である。


 それに、この閉ざされた世界から、本当の意味で解放される為には、自分は、リシスではなくリシアーナとして生きて来たその理由を、知らなければならない。そう感じていた。


……その理由を知らなければ、私は過去を捨てられない。そんな過去を抱え込んだままでは、私は、リシスとして生まれ変わることは出来ない……


 不完全で中途半端なままの自分では、ルイーシャを幸せになど出来ない。過去を捨てることが出来て初めて、自分はルイーシャと向き合うことができる。リシスはそう思っていた。

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