第5話 動き出す時間
「王都へ、ですか?」
キャルがお茶を注いでいた手を止めて、リシアーナの顔をまじまじと見た。
「王都に行って、母上に会う」
「……お会いになって、どうなさるのですか?」
「私にはもう、リシアーナの名は必要ないから。この剣と共に、母上にお返しする」
リシアーナが手にしていたのは、かつて赤子の自分に、母が持たせたという親子の証を示す一振りの剣だ。
「……それは、奥方さまとの、親子の縁を絶たれるということですか。そんなことをなさっては、奥方さまが、どんなに悲しまれますことか」
キャルがそう言うと、リシアーナの表情がたちまち険しくなる。
「先に縁を絶ったのは、向こうではないのか」
感情を昂らせて、語気を強めたリシアーナを、キャルはただ黙って見据えている。
「私は母上に捨てられたのだろう。このような場所で、隠れ住んでいなければならない姫とは、何だ?しかも、性別を偽ってまでとは……まともではない……」
「それは……」
「私は、元々いないハズの……いるべきではない人間なのだろう。ならば、この世界から居なくなった所で、誰に迷惑がかかる」
「リシアーナ様……」
「私を捨てた母でも、黙って姿を消すのは、親不孝だと思うから、せめて別離の言葉ぐらいは伝えに行くべきだと思ったのだ。それ以上の譲歩は、もう出来ない」
その決意が固いものだと理解すると、キャルは軽い溜息をつきながら訊く。
「ここをお出になって、その先は……どうなさるのですか」
「……どこか小さな村で、ルイーシャと二人で静かに暮らして行けたらと思っている」
思わぬ答えに、キャルが破顔した。
「まぁ……それは」
これは、ただ現状を憂いての逃避ではなく、前向きな決断ということか。そういう話ならば、望むところ……いや、むしろ大歓迎だと言っていい。彼女が胸に秘める、大きな計画の為には……
キャルの中で準備されていた時計が、静かに時を刻み始める。
「……そういうお話だったのですね。……もぅ、リシアーナ様ったら、告白なさる時は、教えて下さいませねと、申しましたのに」
キャルが、にこにこと指摘すると、リシアーナが照れたように視線を外した。
「……いや……それは、何と言うか、勢いというか、成り行きというかで……急なことだったから」
「でも、快いお返事を頂けたのでしょう?」
「ああ……」
リシアーナが、見るからに幸せそうな笑みを浮かべる。
「……気持ちを伝えて……ルイーシャの気持ちも聞いた。それでも、今の私では、それ以上は……いつか、私が本当の意味でリシスになれたなら、ルイーシャに正式に求婚したいと思っている。だから、キャル……」
「よろしゅうございましたね」
つい、そんな言葉が出たことに、キャルは自分でも驚いていた。だが、そう思ったのは、本心だ。
この二年程の間、教育係として共に暮らした日々、キャルはリシアーナの姉の様な気持ちで、彼の世話をしてきた。
リシアーナとルイーシャの小さな恋も、その出逢いから微笑ましく見守ってきた。正直、リシアーナ姫という枷を嵌められているリシスが、その思いをルイーシャに告げることは、難しいだろうと思っていた。だが、どうだろう。自分が思っていた以上に、彼は立派に成長してくれていた。これは、嬉しい誤算だ。二人が結ばれるのかどうかはともかくとして、
……時は満ちた、ということだわ……
数日後、改めて修道院を訪れたラスフォンテ伯爵は、修道院長からルイーシャが姿を消したと聞かされ、憤りを隠せなかった。
先般、不審な男について問いただした時には、全く心当たりがないとまで言い切っていた修道院長が、その同じ口で、ルイーシャには、どうも密かに懇意にしていた男がいたらしく、その男と逃げたらしいと言ったのだ。
「……よくもまあ、その様な」
「私もまさか、あの娘がそんな大それたことをするとは思いもよらない事で、驚いているのですよ。姿を消した後で、親しかった修道女たちに厳しく問いただしてみたところ、実はそういう者がいたのだと……」
修道院長は、申し訳なさなどこれっぽっちも感じられない風に、しれっとした顔で言う。
「世間知らずが、たちの悪い男に誑かされたということなのではないのか?」
「……それは何とも。ルイーシャは、ここに馴染めず、元のような暮らしに戻りたがっていたのも事実ですから」
「では、連れ戻す気はないとおっしゃられる?」
「それが彼女の意思ならば、私がとやかくいう事ではないと存じますよ」
「ならば、」
ラスフォンテ伯爵が大きく息を吸い込む。
「この私が、ルイーシャを保護したならば、彼女が私の元に戻ることをお認めになるということでよろしいか?」
「それは、彼女はもうこの修道院の庇護の外に出た者ですから、伯爵さまのよろしいように……しかし、何も手掛かりのないものを、見つけるのは至難の業でしょう」
修道院長がそういうと、ラスフォンテ伯爵が不敵な笑みを浮かべる。
「ラスフォンテの力、甘く見られるな。この私が捕まえると言ったら、必ず捕まえてみせるのだからなっ」
そう言い捨てると、ラスフォンテ伯爵は勢いよく部屋を飛び出して行った。
「……中々、面白いお方ですのね。ラスフォンテ伯爵って」
思わせぶりに笑いながら、修道院長室の隣から、キャルが姿を見せた。
「……このラスフォンテの領内で、あの伯爵さまを、いつまでもたばかっていられるとは思いませんよ、キャロリーヌ殿」
修道院長が溜息交じりに言う。
「分かっていますわ。ほんの少し、時間稼ぎが出来ればいいのです」
「それで、菫の君のご様子は?」
「別棟で、リシアーナ様の身代わりとして、お姫様の役を懸命に頑張っておいでですわ。よい機会なので、淑女の立ち居振る舞いでもお教えしようかと……」
「そうですか。本物のお姫様は、無事にプランクスまで辿りつけると思いますか?護衛の者ぐらい手配しても宜しかったのでは……」
「秘密を守るというのは、なかなか厄介なものなのですわ。関わる人間が増えればそれだけ、秘密は漏れやすくなるのですから。この私が仕込んだのです。ならず者の程度の相手なら、リシス様ならば問題ありません。それに、そのぐらいの障害は、楽勝で越えて頂かなくては、と、個人的にはそう考えております」
「信頼しておいでなのですね」
「はい」
キャルが自信ありげに、満面な笑みを見せる。
……リシス様は、この私が育てた、私が仕えるに値する王なのだもの……
いよいよ動き出すのだ。
――私の王が。
傾きかけたこの国を救う、救国の王が――
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