***

 そして俺の17歳の誕生日、カーテンの隙間から差し込む強い光とワルツのような小鳥の鳴き声によって目覚めると、昨夜から枕元に用意していた黒いTシャツに袖を通した。


 それは生前父が愛用していたTシャツで、中央に大きくルノワールの描いたイレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢がプリントされているものだった。生地はすっかり色褪せて、首はすでに伸びきっていた。背中側の首元には小さく白い文字でNational Museum of Western Artという文字が印刷されており、つまりそれは国立西洋美術館でしか売られていないTシャツだった。


 俺はその使い古されたぼろ切れのようなTシャツの上からウインドブレーカーを羽織ると、日本随一のメディアアートの発信地である埼玉芸術情報センター、通称SCAMという施設を目指した。


 いくつか電車を乗り継いでやっとのことでSCAMたどり着くと、それはさながら巨大な電子基盤といった得体の知れない建物だった。むきだしの配管やケーブルの束、室外機のような無数の直方体とともに、高速で回転する円筒形の突起物や、様々な速度で点滅する発光体などで覆われており、建物全体が不気味な低い音を立てていた。それ自体がまるでひとつのメディアアートのようだった。


 その異様な建物の外観に俺は怖気付いてしまった。きっとこの中には俺の知らないようなメディアアートがたくさん展示されていて、父と母のようにメディアアートに殺されてしまうかもしれない。


 俺は震える手でポケットからスマートフォンを取り出して、待ち受け画面に設定しているルノワールの《ルグラン嬢の肖像》を見て深呼吸をし、気持ちを落ち着かせようと試みた。


 俺にとって初めての自慰は、父親の部屋にあったルノワールの画集に掲載されていた《陽光の中の裸婦》に描かれている、木漏れ日の中に佇む白い肌の女性像によって行われた。俺はまだ12才だった。そしてその初めての自慰から今に至るまで、俺は印象派の画家によって描かれた女性の姿でしか射精したことがない。


 その中でもこのルグラン嬢は特別だった。裸ではないものの、幼いながらも気品と緊張を感じさせる繊細な表情、なめらかで透き通るような白い肌、西洋人らしくウェーブした藁色の髪、清楚で禁欲的な服、すべてが俺の理想だったのだ。


 俺はスマートフォンをしまうと、勇気を振り絞ってSCAMの入り口の前に立った。グレーのスモークが貼られたガラスの自動ドアが鈍い音とともにゆっくりと開くと、その内部には外観とは真逆の、あまりにも無機質な空間が広がっていた。四方はコンクリートで囲われ、ゆうに10メートルはあろうかという高い天井には規則的に無数の蛍光灯が並べられ、冷たく空間を照らしていた。俺以外には誰ひとりとして人はいなかった。


 その広大な空間の正面に、ステンレスのような素材でできた、長細いカウンターを発見した。そしてカウンターにはスタッフと思われる女性が座っていて、こちらを見ていることに気がついた。


 俺は緊張を悟られないよう、常連であるかのようなふりをして、脇目も振らずカウンターに向かった。しかし、これから起こるであろうことを想像すると、どうしても武者震いは抑えることはできなかった。俺は女性に


「が、が、がくせい、い、い、い、い、いちまい」と、予想だにしないうわずった声で話しかけてしまった。


 すると女性は微動だにせず、「現在. 企画展. は. 行って. おりません. 常設. 展. は. 無料. です.」とひどく違和感のあるイントネーションで返答をした。その顔をよく見ると、それは人間ではなく、精巧にできた人型のロボットだった。


 そのロボットの顔は微笑を浮かべているようにも見えたが、ルノワールの描く女性とはまるでほど遠い、人工的でぎこちない、気持ちの悪い顔だった。






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