第11話
私は
崖に落ちた本田をまるで救助に行ったとでも言いたくなるような行動が、どうも引っかかって仕方がないのである。
奉幣殿へ元旦の初詣に行くくらいならわからないでもない。英彦山神宮の麓、宮元から上は降り積もった雪のために車両通行止めになったような時に、英彦山神宮からさらに上の山道を走って行って、危険な鎖場を上って8歳の女の子が迷うことなく崖下に横たわる本田を見つけ、後から追いかけてきた父親に救助を求めるなど、通常ではあり得ないことだと思った。
まずは一度、会ってみよう、そう思って警察の調書にある、木下都仍の連絡先に電話をかける。
出たのはなぜだか旅館の受付だった。
私は病院の医師であることを名乗った。そして今回、都仍ちゃんの件、警察に頼まれて担当することになり、一度、お話を伺いたいのだが、と切り出してみた。
するといったん電話が切れ、子供の声で「あ、おじさま、都仍です」と明るい声が受話器の向こうから聞こえてきた。
私は都仍ちゃんの言う「おじさま」の意味を諮りかねていた。
親戚には都仍ちゃんなんて、もちろんいない。しかし妙に懐かしくて聴き覚えがあるような声だった。
「あの、明日の朝、10時頃、お会いできませんか? お山、ご案内したいんです」
どうやって話を切り出そうかと悩んでいたのが阿呆らしくなるほど、あっけなく向こうから話を持ちかけてきて拍子抜けしてしまった。
「わかりました。じゃ、明日、10時に。そちらの家にお迎えに行きましょうか?」
「別所駐車場の交差点、わかります?」
「ええ」
「そこを銅の鳥居と反対方向に国道500号線沿いに英彦山青年の家方面に登っていくと、途中に鷹巣駐車場という無料駐車場があります。そこで!」
喜びに満ちあふれた声が、プツッとまるでテレビのコンセントを引き抜いたようにきれてしまった。なんだかお預けを食らった犬の気分である。
翌朝は快晴だった。少し汗ばむくらいの陽気に、途中でバテなければよいが、と少し気をもんだ。
待ち合わせ場所の鷹巣駐車場は九州自然歩道、俗称「やまびこさん」用の無料駐車場になっていて、別所駐車場はすでにいっぱいだったが、こちらはガラ空きだった。しかも下の広場の駐車スペースは非常に広い。少々のことでは満車にはならないだろう。
10時ちょうどに上から駆け下りてきた少女は、なんとジャージにウエストポーチという出で立ちだった。
「はじめまして。木下都仍です」
ぺこりとお辞儀した少女は、どこからどうみても、小学校低学年。しかし礼儀正しく、言葉遣いと発音が綺麗だった。
不思議なことに息せき切って走ってきたように見えたが、呼吸の乱れはまったくない。
「はじめまして。東九州総合病院院長で精神科の高坂
こんな子供相手に、と一瞬ためらったが、用意していた名刺を渡した。
「メアドも書いてある。嬉しい! 有り難うございます」
私は電話でもう少し詳しく訊きたかったことを早速、訊いてみた。
「それにしても、どういうこと、電話でおじさまって」
「だって、本当におじさまだったのですから」と言う。
「おじさまだった?」
「そう。前世では」
まるで本田みたいな女の子だな、とその時私は思った。
「前世って、もしかして本田氏と同じ頃の?」
「そう。
「稚武王って、
都仍ちゃんは目を輝かせた。
「そう、父さまの弟の、稚武王さま! 和気・・・じゃなくて、本田さんから聞いてたんですね! あっ、先生のお名前と稚武王さま、同じに読める!」
都仍ちゃんは名刺の私の名前を見て、その発見に大喜びだった。
「稚武王の
「いえ。でも、学校に稚也君て子がいますから」
その稚武王は五十迹手と戦い、首を刎ねられたんだっけ、と本田の話を思い出して、私は思わず自分の首に手を当ててなぞった。
「私は武道はからっきし駄目だったけど?」と、都仍ちゃんに言い訳がましく水を向けてみた。
「それは訓練していないからでしょ。おじさまが稚武王なのは間違いありません。今だって、本田さんを助けようとしてるじゃないですか」
別に本田を助けるためにやっていることではない。本田がどうして自分を応神天皇と言って憚らないのか、どうやったら信念を持ってそう思えるようになるのか、それが知りたかっただけなのだ。
それにもし本田が精神的に問題がなく、十分責任能力があるとなれば、ストーカーと認定されれば、懲役刑が適用されることになる。
逆に精神的に問題があり、ストーカー行為を繰り返す危険性があると判断されると、措置入院の可能性もある。
ただ、一般的にストーカー行為は恋愛感情が満たされないために、つきまとい等を反復する行為がベースにあることが必要で、本田が現世の都仍ちゃんに対する恋愛感情は、果たしてどの程度あるのだろうか。
最近では幼女の連れ去り、監禁、レイプなどの事件が相次いでいて、警察としては公安委員会の禁止命令が通じるような相手ではない、犯行に及ぶ前に逮捕、あるいは精神科送りにしたいという組織としての強い意志の現れでもあろう。
それにしても大人の私が大仰にバックパックを背負い、子供の都仍ちゃんは、ほとんど手ぶら、という様子に思わず「山に登るのに、そんな格好で大丈夫?」と訊いてしまった。
「はい、私は彦のお山に登る時はいつもこの格好なので。これでも水と雨具、お金なら持ってますから」と言って、ウエストポーチを軽くポン、と叩いた。
足もとは鮮やかな色合いのニューバランスの子供用登山靴。だいぶくたびれてはいるが、泥はよく落とされ、手入れはいいようだ。
それにしても不思議な子だった。初めて会ったのに、ちっともそんな感じがしない。都仍ちゃんの言うことが本当だとすると、都仍ちゃんは前世では私の姪にあたる。
そのせいもあるのだろうか、まるで親戚の子に会ったような感じで、向こうも人見知りすることなく、言葉遣いは丁寧だが、よそよそしくない。
「よくご両親、一人で出してくれたな」
「お山に行くのはいつものことだから」
なんだかうきうきした表情で、遠足に行くのを楽しみにしている子供のようだった。
「私と山に登ること、言ってきたの?」
少女は小さく舌を出して、頭を振る。
「それは内緒」
私は溜息をつくとともに、少し罪悪感に苛まれた。
ドアロックを解除すると、私より先に車の助手席に乗り込む。発車すると大喜びするところは、やはり子供である。日ごろ、車には乗せてもらっていないのだろうか、なんて考えてしまう。
案内されるまま車を走らせると、豊前坊院天宮寺と刻まれた石柱が見えた。さらに進むと供養塔の先から右に折れて上っていく道が見えてくる。
「そこを右へ曲がって坂を上ってください」
と、都仍ちゃんはためらわずに指示した。私は不安になった。
「そこを行くと、奉幣殿とは別の所に着いちゃうんじゃないの?」 。
「ええ。それでいいんです」
少女の笑顔は無敵である。それまでの不安も、躊躇も、その笑顔一つで払拭されてしまう。
自分にももう少し年上の女の子が二人いるが、このような笑顔を最後に見せてくれたのは、いつだっただろうか。
舗装とは名ばかりの、デコボコで車1台がようやく通れるくらいの狭い道を上っていく。
左手に池とお堂を見ながら進んでいく。わき水が至るところに見られる。
奉幣殿への矢印が見えて、ちょっと驚いた。その表情の変化を素早く見て取った少女は、再びニッコリと微笑んだ。
途中、上り下りしながらスピードを落として走っていると、右上奥に建物が見えてきた。しかし、どうも奉幣殿ではなさそうである。
ヘアピンカーブを上っていくと、広場に出た。後方に白っぽい建物が見える。英彦山修験道館とある。
「そこの駐車場に駐めてください」
少女は車を降りると伸びをした。そして屈伸運動とストレッチを始めた。
「ここに駐めて、本当にいいの?」
私はまたもや不安になった。
「帰りにちょっと修験道館へ寄りましょう。そうすれば大丈夫です。それに、お見せしたいものもありますから。そうそう、準備運動、しておいた方がいいですよ」
少女の勧めで、私も屈伸運動とストレッチをすることにした。
なるほど、確かにジャージは実用的だ。学校の体育の際にジャージを着用するわけである。あれだけの大きく動いても、十分、その動きについていっている。
「今日は頂上までは行きませんから、ストックはいらないと思います。手持ちだと邪魔になるかもしれません。ザックに取り付けておいてください」
なんとも的確な指示である。確かに鎖のある岩場を上り下りする場合には邪魔になるだろう。1000mくらいしか歩かないのなら、前回みたいにストック、これはドイツ語で、英語ではトレッキングポールと言うのだが、そいつのお世話にならなくても良さそうだ。だが、一応、念のため、バックパックに取り付けて持参することにした。
車を停めた修験道館からすぐ、奉幣殿の建物が見えた。どうやら奉幣殿の裏手のようである。脇を回って、正面階段の前に出る。
都仍ちゃんが真っ先に行ったのが手水場。ひしゃくを右手に取ると、左手、持ち替えて右手、そしてもう一度持ち替えて左手に水を注いで口をゆすぎ、左手を洗う。そしてひしゃくを立てて残り水でひしゃくの柄を洗う。
リズミカルにそして流れるような所作に感心していたら、「おじさまもどうぞ」と、置いたひしゃくへ手招きをした。
手渡ししないのだ。
感心しながら、私も同じように手水を使って清める。
そして奉幣殿のお詣りを済ませると、私は早速、鳥居のある階段を目指した。
だが、都仍ちゃんはというと、なんと社務所に手を振りながら駈けていった行ったのである。
「おっはー」
都仍ちゃんが手をひらひらさせながら声をかけると、巫女さんたちも手を振りながら「おっはー」と声をかける。
「今日は時間、どのくらいで行ってくる予定?」
「今日はね、おじさまと一緒なの。だから途中まで」
「あら、残念。おじさまって、親戚?」
「うん、父さまの弟」
都仍ちゃんの後ろを追いかけるように社務所にやってきたら、5人の巫女さんから熱い視線を浴びせられ、思わず「どうも」と頭を下げてしまった。どうやら都仍ちゃんはここの常連のようである。
「じゃ、行ってくるね~」
また手をひらひらさせながら、巫女さんたちに合図する。私も軽く頭を下げながら、後を追った。
鳥居をくぐっての最初の階段は、どこの神社でも見られる、普通の階段である。だが、綺麗な石積階段は下宮を過ぎるとあっというまに終わりを告げ、あとは不揃いの石を置いた階段に変わる。不揃いだけならまだしも、大きめな石で組まれると、大人でもその段差に閉口する。中には浮き石もあって、足を取られてよろけることもある。
しかし都仍ちゃんは、まるで石の上を兎が飛び跳ねるように軽快に上っていく。体操選手のような身軽さだ。
そう言えば都仍ちゃんは、東欧の体操選手のようにちょっとやせ気味で小柄だった。
登り始めて間もなく、第一の鎖場が現れる。
都仍ちゃんは左側の窪みがあるところに足を差し込むと、ひょいひょいと、途中で数回岩に片手をついただけで登っていった。時間にして、20秒程度。
「おじさまは岩場にしっかり両手をついて登ってきてください」と、岩場の頂上から身を乗り出して声をかける。
「あ、ああ」
実際に岩場に手をついて登ってみると、これが案外簡単だった。簡単と言っても、登りきるまで1分近くかかってしまったが。
岩場の上、右手の崖を覗き込みながら「ここじゃないんです。もう一つ上」と微笑みながら言うと、少女は小さくスキップしながら、倒木の下をひょいとくぐって登っていく。
途中、左側が崩落した場所ではくるりと後ろ向きになって、私の方を見ると再び微笑んだ。
「気をつけてください。ここ、滑りやすいし、崖が崩れてロープも落っこっちゃってますから」
次第に大きな石段になって、私は2歩で1段上るという動作を繰り返していたが、都仍ちゃんは歩幅はそれほど広くはないのに、跳ねるようにして時に1歩ずつで石段を登っていった。
前回は500mの道標のところで私はすでに息が上がりつつあったが、今回は違った。慣れもあるのだろう。しかもこの先の状況がある程度わかっている点も大きく違っていて、安心感があった。
東屋風の小屋のところで一息いれてペットボトルの水を飲んでいる都仍ちゃんに追いつき、私も休憩することにした。
「君はしょっちゅう英彦山、登っているの?」
足をぶらぶらさせながら、少女は答えた。
「天気が良ければ、ほとんど毎週の土日」
「どのくらいで行ってこれるの?」
「奉幣殿から上宮までは1時間ちょっと。帰りは30分くらい。上でお詣りしても往復2時間かからないくらい」
私の所要時間の半分以下、なんてものではない。まるでトレイルラン並だ。
最初の段差が小さい階段では兎のようにぴょんぴょん跳ねているように見えたが、段差が大きい石段を着地した勢いそのままにジャンプして登っていく様は、まるで鹿が飛び跳ねているようだった。
時おりその後ろ姿に見とれて下から見上げている私を目にして、「おじさまのエッチ」と、顔を赤らめ、両手で尻を隠す様が、また可愛らしかった。このような少女も、もうしばらくすると反抗期になってしまうのだろうか。
スカートではなくジャージ姿で、パンツが見えるわけでもないし、まだ子供の体型で魅惑的なヒップラインをしているわけでもない。通常の大人はこのような学童や幼児に性的興奮を覚えるようなことはないが、ストーカー行為や連れ去り、性犯罪に走る者がいるのも事実だ。
しかもそういった犯罪者は解離性同一性障害などの精神疾患を有する者が多いというわけでもなく、むしろアルコール依存症に似た、性犯罪行為から抜け出せない苦しみを持つ者も少なくない。その場合は抗うつ薬が効くこともある。攻撃性が強い場合は男性ホルモンを抑えるホルモン治療薬で改善する場合もある。『認知の歪み』を修正させる認知行動療法というのもある。だが、本人が治療に積極的でないと、なかなか改善は難しい。
本田の場合はどうだろうか。
相手は誰でもよいわけではない。木下都仍という少女のみが対象であり、そういう意味では確かにストーカー的側面を持つ。しかしそのまま性犯罪に至るような行為をするとはとても思えない。
さらに問題なのは相手の少女も本田に対して少なからず好意を抱いているようで、被害に遭っているという自覚がない、あるいはそういった感覚がない。いや、そもそも本当に被害に遭っているのだろうか? 被害とすれば、なにが被害なのだろうか。
まだ学童ということもあって、保護者の考えが強く反映されるのは当然だし、もし自分の娘だったら、やはり警察に通報し、娘には本田と逢うことを禁じるだろう。
再び鎖の岩場が現れたのは、それから間もなくのことだった。
都仍ちゃんは鎖の斜面ではなく、大きく右側に迂回して、石の凹凸が激しい、切り立った右側の斜面を登り始めた。
斜面頂上で下を指さす。
「ここなんです。
私も息を切らし、汗を拭いながら斜面を登っていったが、頂上付近では鋭く切れ込みの入った岩肌が続き、足もとがよろけてしまった。
「日ごろここを登っている人なら、雪が降る冬はぜったい右の斜面は登りません。雪で岩肌がわからなくなっているからです。凍っていて滑りやすくもなっています。本田さんは英彦山、初めてだったので、そういうことわからなかったのだと思います」
僕はうんうん、とうなずきながら、写真を撮りまくった。岩の表面が見えている今でさえ足場が悪くてよろけそうなのに、冬、雪で覆われていたら、私も確実に崖下に落ちていたことだろう。
「ひょっとしたら神さまが私を本田さんに引き合わせるために、そして本田さんの前世の記憶を呼び覚ますために、ちょっと悪戯したのかもしれません」
そう言うと、まるで慈母のように優しく微笑んだ。
「それにしても大晦日の深夜に、よくこんな所に来ようなんて思ったな」
「寝ていたら声が聴こえたんです。聴き覚えのある
そう言うと、頬を染めた。
台与比売の生まれ変わりなんだから、それくらい当然か、といつの間にか本田の世界に入り込んでしまっている自分に気づいて、溜息をついた。
「冬山を登るのに、装備もそれなりのものがないと・・・・・・」
都仍ちゃんは頭を振った。
「履き慣れたいつもの靴で行ったら、スパイクが付いた簡易アイゼンっていうのを持っていったけど、結局、使わなかったもん。あ、ストックは必需品。先のゴムを外して、雪道にグサグサ刺していくの」
まるで雪合戦でもして楽しんでいるかのような都仍ちゃんのあっけらかんとした口ぶりに、そんなところで滑落した本田に少し同情した。
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