第10話

「今日は邪馬台国の終焉についての話をしましょう」

 本田はそう言うと、一つ咳払いをした。

 確かに不思議なことだった。あれほどの国家が古事記や日本書紀には記されていない。

 見えない力が働いて、歴史の上からその名が消滅させられたとしか思えないのだ。

 本田がその謎を解き明かしてくれるかと思うと、わくわくしてきた。

 もう、完全に本田の術中にはまってしまっていると言っていいような状態だった。

        *

 邪馬台国の勝利は、魏国や三韓の国々でも話題になりました。そして、その知らせを聞いて、心から喜んだ者がいました。

 倭国帰化後は融通王とも呼ばれた、弓月君ゆづきのきみです。

 秦の始皇帝から五世孫、というのがもっぱらの噂でしたが、実際は五胡十六国時代にチベット系てい族により建てられた、前秦の王族です。

 前秦だったとしても、東晋から独立後、陝西を中心に長安をも手中に収め、華北を統一。苻健が高祖景明帝を称し、新羅や高句麗が朝貢していた、中国大陸を二分する大帝国でした。

 弓月君は鮮卑乞伏せんぴきつぶく部の西秦せいしんに追われ、中国本土を逃れて辰韓しんかんの地にやって来ていました。ここは秦の王族や遺臣が住み着き、秦の民が多いことから、秦韓しんかんと記されることもあります。

 しかし、その頃勢力を伸ばして来た新羅にも迫害を受けたばかりか、頼った先の加羅王家もその煽りを受けて加羅の地を追われ、百済に逃れることになってしまったのです。

 加羅国王は急ぎ、邪馬台国へ使者を送りました。書簡を見て、さすがの台与比売も驚きの表情を隠せなかったと言います。

 台与比売は難波大隅に宮を造営中の私に、早舟を出して連絡してきました。

 知らせを聞いた私は、早速、大和の葛城襲津彦かつらぎのそつひこのもとを訪れました。母、日之巫女の新羅征伐の際に大将軍として活躍した葛城襲津彦ならば、と思ったのですが、葛城襲津彦かつらぎのそつひこは高齢と健康状態を理由に断ってしまいました。

 無論、高齢や健康状態だけが理由ではありません。まだ齢六十にも届いていないのです。息子、葛城葦田宿禰あしだのすくねの妻にと思っていた弟日売おとひめを、私に取られたことをまだ根に持っていたのです。

 私には、ほかに新羅まで遠征を頼める者がいませんでした。

 と、そこへ、ふらりと現れたのが、なんと、戴斯烏越さいしうをつ殿でした。

「どうやらお困りのようですな、誉田別尊」

 と、烏越殿は曰くありげな含み笑いをしました。

 実は大和を訪れる直前、戦勝報告も兼ねて烏越殿の角鹿を訪ねていたのです。そして名を交換したことは、前にお話しした通りです。

 天日槍あめのひぼこを祖とする戴斯烏越殿は、葛城一族とは血のつながりがあります。いや、それどころか、より天日槍に近い本家筋に当たり、しかも魏国にまでその名を知られていた人物でした。

「誉田別尊、いや、誉田別大王ほむたわけのおおきみ。私めにお命じ下さい。葛城襲津彦かつらぎのそつひこを説いてご覧にいれましょう」

 そう言うと、黒尽くめの服を翻して、私の足もとに跪きました。

 それから半時も経たない内に、葛城襲津彦かつらぎのそつひこを伴って、烏越殿がやって来たのです。

「誉田別大王、お待たせ致しました。葛城襲津彦かつらぎのそつひこは喜んで大王のご命令とあらば、新羅だろうと魏だろうと、馳せ参じる所存、とのこと」

 そう言うと、声を上げて笑いました。

 葛城襲津彦は苦々しげな眼差しを送ったものの、烏越殿はにやりと口もとを歪めて、今度は無言で嗤いました。

 実は、息子の葛城葦田宿禰あしだのすくねに負けず劣らず、葛城襲津彦かつらぎのそつひこは美女好きだったのです。

 葛城葦田宿祢は弟日売や台与比売のような、少し小柄でぽっちゃりした、年齢不詳の幼さの残る少女のような姫が好きでした。一方、父親の葛城襲津彦は高木姫のような、細身だが魅惑的な体躯の美女が好みだったのです。

 結婚の儀の際、高木姫を目にした葛城襲津彦が、「もし、誉田別尊の妃でなかったなら、我が妻問いするものを」と悔しがっていたのを、烏越殿は隣で聞いていたのです。

 そこで烏越殿は葛城襲津彦に言ったのです。

「辰韓の地には私の親類で、高木之入日売命にも劣らぬ、美しい娘がおります。ぜひともご紹介したいと思っておりました。ご子息の葛城葦田宿祢殿にも、我が親族よりご紹介申しあげたい」と言って、新羅へ赴くことを勧めたのです。

 私は葛城襲津彦の手を取って、「先ほどは葛城襲津彦殿の真意を察することができず、失礼致した。新羅までご足労いただくこと、感謝する」と言って、頭を下げました。

 そして、烏越殿の方へ向き直り、「それにしても戴斯烏越殿は、いかにして葛城襲津彦殿に新羅まで出陣いただくことを了承いただいたのか、その顛末をお聞かせ願いたい」と言ったのです。

 葛城襲津彦かつらぎのそつひこは烏越殿の言を遮るように、「いやいや、戴斯烏越殿の言を待たずとも、大王の仰せを断るなど、もってのほか。ましてや、まだ大王になられたばかりの誉田別尊のお覚悟を見極めて、などというような行いは、言語道断でございました。切にお許しを願う次第でございまする」と、床に頭をこすりつけんばかりの様子でした。

 さらに、「辰韓の地には、同胞も多数おりまする。我が祖、天日槍尊あめのひぼこのみことの名にかけて、お救いするためにも、馳せ参じる所存にございまする」と言うと、汗を拭いながらひょこひょこと、頭を下げました。

 豊浦の宮におよそ五千の兵を難波、大和、吉備、阿岐、邪馬台から集め、葛城襲津彦を総大将に、新羅へ向け、出発することとなりました。

 意外にも、その中に烏越殿の姿はありませんでした

 実は、烏越殿を今回の遠征軍から外したのは、葛城襲津彦だったのです。

「どうも、烏越は虫が好かぬ」

 それが理由でした。

 加羅国に上陸した遠征軍は、新羅軍司令官の翊宗よくそうを槐谷まで追いつめ、これを倒しました。また、新羅傘下の沙梁伐国を味方に付け、新羅に対して反乱を起こさせました。さらに十七階級の内の一等級の官位、伊伐飡いばつさんの位にあった新羅軍全軍を統括する大将軍、昔于老せきうろうをいったんは破り、破竹の勢いで新羅の首都金城へ迫ったのです。

 しかし、葛城襲津彦の快進撃はここまででした。

 昔于老は新羅国第十代の王、奈解尼師今なかいにしきんの子で、太子であったのに王位を継がず、王位を継いだ助賁尼師今じょふんにしきんの家系が途絶えた際、昔于老の子が第十六代の王、訖解尼師今きっかいにしきんとなったほど王位に近く、まかり間違えば昔于老は新羅国王となったかも知れない、大人物でした。

 新羅では遠征軍に戴斯烏越がいるものと思っていたのですが、戴斯烏越の姿が倭国軍にないと知ると、昔于老は軍を立て直し、反撃に出たのです。

 烏越殿は新羅で最も畏れられていた、倭国の軍師でした。以前、日之巫女が遠征した時、勇猛であったが力任せの葛城襲津彦よりも畏れられていたのが、実は烏越殿だったのです。

 烏越殿は道教に通じ、不思議な術を使ったと言います。

 それは道教の法奇門と呼ばれ、六壬の式神を召還・操る法で、かの諸葛亮孔明も使ったとされる術です。鬼神を操り、気が付いたら味方同士で殺し合いをして、自滅したと言います。

 祭壇を造り、祈りを捧げる七星信仰の対象は、陰陽道の星神である星辰で、これは道教から持ち込まれたものです。辰は龍神であり、北極星を中心とした北斗信仰、北辰は、八幡神社や妙見神社にも見られます。

 烏越殿が台与比売にぞっこんであるのは、台与比売が道教の理など知らないにもかかわらず、それを体得していたからなのです。

 しかも龍神を祀り、龍神の声を身をもって人々に知らしめる巫女なのです。まさに北辰、道教の教えであり、彼女は道を究めた女性道士、坤道こんどうそのものであったのです。

 日之巫女である我が母はすでに高齢でしたが、台与比売は若く美しく、烏越殿は本当に一目惚れ、だったのかも知れません。

 烏越殿は奇門遁甲をよく使い、「その力、百万の兵より得難し」と母から賞賛されたものでした。

 ならば新羅遠征の際に加羅国に留まり、自ら三韓を平定して王位に即けばよさそうなものですが、天日槍の後裔だけあって、王位などより倭国に残した女性のほうが大切だったのかもしれません。

 葛城襲津彦かつらぎのそつひこは、なかなかはかどらない戦況に、大いに苛立ちました。ちょうどそこへ、新羅から和睦の話が持ちかけられたのです。

 その条件として、すでに占領している加羅国の内、二つの地は返すが、残りは新羅がいただく。代わりに、新羅の王族昔氏の娘を葛城襲津彦に差し出す、というものでした。

 この娘が高木姫似の、たいそうな美人だったと言います。

 葛城襲津彦かつらぎのそつひこは我を忘れて、まだ日の高い内から情事に耽りました。もちろん、和睦の条件を快諾したのは言うまでもありません。

 加羅国の王族たちは、これに激怒しました。

 邪馬台国に使者を遣わし、葛城襲津彦を罷免して別の将軍を寄こすよう、激しい口調で迫りました。

 台与比売は烏越殿が同行しているものとばかり思っていたのですが、使者はそのような将軍や軍師はいない、と答えました。

 急ぎ、早舟で私にこのことを知らせるとともに、烏越殿の消息を尋ねました。

 その後、間もなく私からの書状を携えて、烏越殿は邪馬台国王宮を訪ね、台与比売に一部始終を説明するとともに、葛城襲津彦のことを詫びました。

「かえって台与比売さまには、ご迷惑をおかけいたした」

 そう言って、烏越殿を追って到着したばかりの角鹿と大和の兵、三千を率いて、翌日には胸形むなかた、現在の宗像の地から百済へと向かったのです。

 出発の直前、不審に思った台与比売が、「向かうのは加羅ではないのですか?」と訊きました。

 烏越殿は笑って、「我らが着く頃には、百済が戦いの場となっておりましょう」と、答えたとか。

 ちょうどその頃、昔于老の弟、昔利音せきりおん率いる新羅軍が、葛城襲津彦を攻め立てていました。和平交渉を行ったにもかかわらず、倭国に応援を頼み、新羅を攻めようとしている、という理由で和睦は破棄されたのです。

 葛城襲津彦は、倭国に救援を求めた加羅国の王族たちに対して激怒しましたが、すでに手遅れでした。

 百済と合わせて八千の兵の内、半数以上が討たれ、千を超える首級が並べられたと言います。

 加羅国はほぼ壊滅状態となり、百済に逃れた王族たちは、口々に葛城襲津彦をののしったものの、後の祭りでした。

 すでに百済の国境を越えて侵攻してきた新羅軍でしたが、その虚を突いて、烏越殿の軍が昔于老の新羅軍本隊を混乱に陥れたのです。

 突如、後続の陣が乱れ、新羅軍同士で斬り合いを始めたと言うのです。

 昔于老は振り返って驚き、すぐさま駆けつけ、「何をしておる。味方ではないか」と怒鳴りました。

 しかし兵士は口々に、「いや、倭人の兵士がやって来て、斬りつけたのです」と言います。昔于老は周囲を見回したものの、倭人はおろか、他の新羅兵すら見当たりません。

 気を取り直してもう一度、葛城襲津彦かつらぎのそつひこと百済軍が立て籠もる城を攻めると、再び味方同士、斬り合う始末。

 ここはいったん兵を退こうと、後ろを振り返ったところ、目の前に口元に笑みを浮かべた烏越殿がぬうっと現われ、驚いた昔于老は混乱に陥った新羅軍を立て直す間もなく、這々の体で、かろうじて逃げ帰ったと言います。この戦いで弟の昔利音は戦死し、新羅の人々は涙したと言います。

 烏越殿は新羅軍の退路に沿って、窪地や谷間に兵を伏せさせておいたのです。曹操軍参謀、程昱発案の十面埋伏には及ばないまでも、烏越殿ならではの戦法であったと言えましょう。

 烏越殿は葛城襲津彦が百済軍と呼応して討って出てくれれば、昔于老を捕らえるか、あるいは首級を挙げることができたのに、と悔しがったそうです。

 新羅の一万を超える寄せ手を、わずか三千で殲滅した烏越殿を前にして、葛城襲津彦は顔色を失いました。

 もっともこれは、葛城襲津彦との戦いに集中していた新羅軍の虚を突いたから可能であったので、言い方を換えるなら、烏越殿は葛城襲津彦を囮として、活用したのです。

 烏越殿は葛城襲津彦かつらぎのそつひこを叱責しました。そして、脇に控える昔氏の娘を見て、「ほう……。さすがは葛城襲津彦殿、お目が高い」と言いいました。

 葛城襲津彦かつらぎのそつひこは、「お気に召したか。ならば戴斯烏越さいしうをつ殿に差し上げよう」と言って、昔氏の娘に烏越殿の傍に行くよう、目配せしました。

 しかし烏越殿は、「我の好みに非ず」と言って腰の剣を抜くと、歩み寄ってきた昔氏の娘を一閃、斬り捨ててしまいました。

 そして、「まずはその頭と髭を剃り、邪馬台国女王台与比売さまの御前で平身低頭、詫びた上で沙汰を仰ぐがよい」と言うと、葛城襲津彦の方へは見向きもせず、立ち去ったのです。

 一説によると、葛城襲津彦かつらぎのそつひこは大和の一族の者に顔向けができない、と、その場で自害したとか。実際はそのようなことはなく、間もなく再度、歴史の舞台に登場することになります。

 烏越殿は倭軍と百済軍を率いて、加羅国に残存する新羅軍を掃討し、一気に新羅の首都金城に迫りました。

 再び昔于老が和睦のためにやってきました。

 今度は加羅国はすべて返還する、というものでした。

 烏越殿はさらに沙梁伐国の独立を認めさせた上で和平交渉を締結し、倭国へと戻っていきました。

 しかし昔于老は烏越殿が帰国したのを確認すると、沙梁伐国が新羅に対して兵を向けた、としてこれを討って、再び加羅国を圧迫しました。

 そこで百済へ逃れていた弓月君は、海を渡って難波の私のもとを訪ねました。

 弓月君の語った内容は、『日本書紀』巻十に次のように書かれています。

「臣、己が国の人夫百二十県を領ゐて帰化く。然れども新羅人の拒くに因りて、皆加羅国に留れり」

 私はこれを聞いて、弓月君の領民を倭国へ召還するよう、再び葛城襲津彦を遣わすことにしました。この時、烏越殿にも打診したのですが、病を得ていたことを知って、葛城襲津彦だけ遣わすことにしたのです。

 しかし、葛城襲津彦かつらぎのそつひこはなかなか倭国へ戻って来ないばかりか、音信不通になってしまいました。

 その頃、葛城襲津彦かつらぎのそつひこは国境を越えて加羅国まで昔于老の侵攻を許し、新羅の辰韓の地に留まる弓月君の同胞を救うどころの話ではなくなっていたのです。

 蛇に睨まれた蛙と言うか、一度弱みを握られると付け込まれると言うか、どうも葛城襲津彦は、昔于老と相性が悪かったようでした。

 加羅で苦戦中の葛城襲津彦の情報を得た私は、別に新羅遠征軍を編制、派遣することにしました。

 その将軍に選ばれたのが平群木菟宿祢へぐりのつくのすくねと、的戸田宿祢いくはとだのすくねです。的戸田宿祢は弓の名手で、飛距離では私に分がありましたが、どんな風の中でも正確に的に当てるという腕を持ち、舌を巻いたものです。

 灘の地に居を構え、葛城氏の一族でもあった楯人宿祢たてひとのすくねは、私が的戸田宿祢の名を与えたこともあり、一族の葛城襲津彦の汚名をそそぐために、と自ら名乗り出たのでした。

 平群木菟宿祢へぐりのつくのすくね武内宿祢たけうちのすくねの子で、年は離れていますが、葛城襲津彦の弟です。葛城の名にかけて、兄、葛城襲津彦を助けて新羅征伐を成功させなくてはならない立場にあったのです。

 つまり、族長葛城襲津彦かつらぎのそつひこの尻拭いのために、新羅まで荒波を越えて、一族の者たちが向かうことになったわけです。

 しかし彼らが到着、戦線に加わっても、戦況は大して変わりませんでした。それだけ昔于老がその名の如く、老練な将軍だったのでしょう。

 加えて葛城氏の族長、葛城襲津彦が大将軍として命令する立場では、いかに弟の平群木菟宿祢や、弓の名人、的戸田宿祢であっても、なかなか意見することが難しかったこともあります。

 戦況を聞いた私は、「我が母も征った新羅である。自ら征き、指揮をとろう」と、腰を上げました。

 しかし、おおきみ王の立場というのは難しいものです。邪馬台国王としてならまだしも、九州全土と、近畿・中国・北陸に至る地を統べる大王です。

 新羅に遠征し、もしものことがあったら一大事。万一のことがあれば、同行した将軍は責任を取らなければなりません。皆が必死になって止めるのも、無理からぬことでした。

 私は打つ手がなく、頭を抱えてしまいました。

 その時、一通の書状が角鹿の烏越殿のもとから舞い込んできたのです。

 書状には大きな文字で、「加羅」と記してあるだけでした。

 すでに烏越殿は加羅へ向け海路、角鹿から出発していたのです。手兵はなく、単身で出かけた、とのことでした。

 身内の者に訊いても、「二十日ほど出かけてくる、と言うことでしたので、どちらまで出かけたものか……」と言うばかり。

 どうやら、家族にも行き先を教えていないようでした。

 私はこのことは台与比売以外、誰にも口外しないことにしました。

 と言うのも、弓月君の話が現実のものになると、百二十県から三万人近くの秦の者たちが渡って来ることになるのです。その準備も必要であったし、受け容れをどうするかも問題だったからです。

 さて、加羅に到着した烏越殿は、幾つかの書状を書きしたためると、葛城襲津彦かつらぎのそつひこのもとへ届けさせました。

昔于老せきうろうが攻めてきたら、黄の袋を平群木菟宿祢へぐりのつくのすくね殿に、赤の袋を的戸田宿祢いくはとだのすくね殿に渡して、葛城襲津彦殿は裏山から川伝いに逃れるように」と、葛城襲津彦宛の、白の袋の書に記してあったと言います。

 葛城襲津彦かつらぎのそつひこは烏越殿がすでに加羅に来ているとは思いもよらず、不審に思ったようですが、その文字は明らかに烏越殿の手によるものでした。

「まさか烏越は、角鹿の地に居ながら、この戦況を見越して、これを書いて寄こしたか」と、葛城襲津彦は訝ったとか。

 しかし万策尽きた折でもあり、藁にもすがる思いで、烏越殿の策を用いることにしました。

 それから間もなく、昔于老が二万を超える新羅軍、全軍をもって寄せて来ました。

 葛城襲津彦は平群木菟宿祢と的戸田宿祢に袋を渡し、自らは裏山を経て用意されていた船で逃げ延びました。

 平群木菟宿祢へぐりのつくのすくねは袋を受け取ると表に書いてあるようにこれをすぐ開き、藁葺き屋根の家々に油を染み込ませ、新羅軍全軍が城に入ったところで城門を閉めました。的戸田宿祢も表に書いてあるように新羅軍が入城したところで袋を開き、矢で火を放って、家々を焼きました。

 かろうじて窮地を脱した昔于老は、川沿いに河原を伝って逃れたのですが、平群木菟宿祢が堰を切って、これを押し流しました。

 昔于老は多くの将兵に加え、自分の馬をも失って、命からがら暗闇の山中を月明かりを頼りに新羅の国境を目指しました。しかし、行けども行けども、再び同じ場所に戻ってしまいます。

 次第に付き従う将兵は減っていき、とうとう一人になってしまいました。

 昔于老は考えました。

 これは八門遁甲の死門に誘い込まれたのではないか。しかも方角が悪い。新羅へ戻る道は、奇門遁甲で言うところの庚の方角である。

 このようなことができるのは、戴斯烏越をおいてほかにはいない。あの戴斯烏越がこの地へ来ているのだ。

 昔于老は恐怖しました。

 我が命運も、ここで尽きるか。

 昔于老はそれでも諦めませんでした。洞穴に身を隠して倭軍の追跡をやり過ごし、日が沈みかけた薄明かりの中の移動を繰り返しました。そしてぐるりと遠回りをして、六日をかけて、ようやく新羅へ帰着することに成功したのです。

 新羅では昔于老の消息が数日経っても不明であったので、戦死したのではないか、との噂が流れていただけに、無事の帰還に、まるで戦に勝利したような喜びようだったと言います。

 占いで昔于老の命が未だ尽きていないことを知った烏越殿でしたが、深追いはせず、さらに一書をしたため、葛城襲津彦に届けさせると、自らは加羅の湊に留め置いた船で角鹿へ戻ることにしました。帰り着いたのは出発してちょうど二十日目のことだったと言います。

 烏越殿が葛城襲津彦に宛てた書には、葛城襲津彦が加羅の地に留まって、弓月君の百二十県もの秦の民を倭国に渡らせるよう、細かくその手筈が書かれてあったそうです。

 まるでそれを待っていたかのように、直後、邪馬台国女王台与比売から、秦の民をまずは美夜古の地へ迎え入れることにした、と連絡が入りました。

 そして、対馬、沖ノ島、大島、宗像に上がる狼煙を目指して船を出すように、との指示に従い、約三万とも言われる、秦の民の大移動が開始されることになったのです。

 邪馬台国では、さらに航海安全も兼ねて、沖ノ島の沖津宮に田心たごり比売、大島の中津宮に湍津たぎつ比売、宗像の辺津宮には異例なことですが、仲津宮比売巫女であった市杵島いちきしま比売を配し、万全の体制が整えられました。

 宗像の者が先導するとはいえ、大規模な船団を組んで一気に渡る軍事行動とは違い、海に出たこともない一般民衆までが、中には家財道具まで載せて対馬海流と玄界灘の荒波を渡って来るというのは、至難の業です。

 各島に宮を置いて、風雨が強い際には避難できるようにし、さらには天候等の情報も狼煙を使って随時提供しました。渡ることが可能と判断される日には、白色の狼煙を上げて、それを目印に船を出すのです。

 この狼煙というのは便利なもので、その上がり具合から、風向きや強さを知ることができます。また、薪に樹皮や金属粉を混ぜて、色を付けることもできました。

 今後天候が荒れる可能性があり、短時間で渡る必要があるのか、渡るのに適した天候がしばらく続くのか、それを狼煙の色で示したのです。

 まさに、至れり尽くせりでした。

 もっとも弓月君の件が無ければ、このような充実した支援体制は、構築できなかったでしょう。

 さて、葛城襲津彦は秦の民とともに宗像に渡ると、陸路、難波大隅宮へ参上し、戦勝報告を行いました。

 私は大将軍、葛城襲津彦の労をねぎらい、褒美を与えようとしましたが、葛城襲津彦は、「平群木菟宿祢と的戸田宿禰の助けがなかったなら、このように大王の前にご報告に参ることすら叶わぬこと」と言って、固辞しました。そしてその褒美は、平群木菟宿祢と的戸田宿祢に分け与えていただくよう、懇願しました。

 実は私の隣に烏越殿がいて、例の如く口元を歪ませ、葛城襲津彦を見てにやにやと笑っていたのです。

 おそらく私はすべてお見通しのことであろう、とその時、葛城襲津彦は確信したそうです。

 かくして秦の民を多く受け容れた豊国は人口も増え、稲作に加えて養蚕や製鉄も盛んになり、国力も充実。その勢力圏を南は宮崎周辺にまで伸ばしました。

 仲津宮も辛嶋氏出身の比売巫女を新たに迎え、かつての隆盛を取り戻しました。

 品陀真若王は私の父の仲津彦の名を継ぎ、仲津のみならず、豊国全体の王となりました。

 結果として、後の筑紫国の母体となった西の奴国、そして東の豊国と、北部九州を二分する構図が明らかとなってきたのです。同時に、邪馬台国の存在意義が問われることとなりました。

 近隣の出雲や阿岐、吉備と言った大国や狗奴国に対抗するために必要だった連合国家・邪馬台国が存在せずとも、豊国や奴国で十分、その機能を果たすことができるようになったのです。

 私が新羅征伐や秦の民の渡来で成果を挙げ、倭国の大王おおきみとして認められるようになって、さらに邪馬台国女王の地位を相対的に低くすることとなったこともあります。

 秦の王族、弓月君がやってきて臣下の礼を取るようになると、それは一層、顕著なものとなりました。

 倭王の地位が邪馬台国女王から難波大隅宮の私のもとへと移るのは、もう、時間の問題でした。

        *

 ある、秋晴れの日。

 久しぶりに邪馬台国を訪れた私は、日子山川と一ノ宮川が合流する桝田の河原で一人、川を眺めていました。

 秋の心地よい日差しの中、二人の侍女を伴い、ゆうるりと土手道を歩いていた台与比売は私の姿を認め、二人を制して、土手をそろりそろりと下りて行きました。

以前の台与比売なら、走り下りることくらい容易でしたが、さすがにまだ用心せねばならないようでした。

 一面、ススキが河原を覆い尽くし、穂が風に揺れていました。

「別尊は、本当にこの河原がお好きですね」と、歩みながら、私の背中越しに声をかけてきました。

「日之巫女さまの新しい陵墓の造営も順調だとか」

 私は台与比売の声の方にゆっくりと向き直りました。

「ええ、大和の三輪山の麓、於保以智おほいちの地に来春には出来上がりましょう。急ぎ造った仲津の冢とは違い、豊国と大和の二つの様式を併せ持った新しい形の陵墓です」と、答えました。

「日之巫女さまの念願だった倭国統一、成し遂げた証、ですね」

 そう言うと台与比売は、ポン、と小さく飛び跳ねるように、私の胸元近くに歩み寄りました。

 台与比売のその身のこなしを見て、「もう脚はよいのですか」と訊きました。

 台与比売は、「はい。以前のように破邪の神舞を舞うようなことはできませんが、歩くには不自由はしませんし、駆けることもできます」と、口元に笑みを浮かべて答えました。

「本当に台与比売には、ご迷惑をおかけした。こんな脚にしてしまって申し訳ない」

 そう言って私は深々と頭を下げました。

「何をおっしゃいます、誉田別尊。あなたのお陰で守ることができたのですよ、このススキの原を、邪馬台国を」

 台与比売は両手を広げ、ススキの中を舞いました。ススキはそれに応えるように、穂を揺らし、綿毛を飛ばしました。

 五回、六回と廻り、台与比売はよろけて倒れそうになってしまいました。

 私はその背中をしっかり腕で受け止め、ゆっくりとススキの絨毯の上に横たえました。

 台与比売は私を見つめ、「以前も、このようなことがありましたね」と、言いました。

「台与比売が熱を出した時……」

 私もうなずきながら、笑みがこぼれました。

「あの時は女官長には、悪戯が過ぎました」

 と言うと、台与比売も笑みを浮かべました。

 ほどなく私たちの姿はススキに隠れて、土手の上に控える侍女たちから見えなくなってしまいました。年若の侍女が不安になって、土手を下りようとしましたが、年長の侍女はそれを制しました。目を細めて口元に小さく笑みを浮かべ呟くように言ったそうです。

「台与比売さまは、幼き頃からの誉田別尊との約束を、今、果たされたのです」と。

        *

 翌年。

 託宣により、私は倭国の大王おおきみに就きました。

 台与比売は邪馬台国女王を辞し、仲姫命なかつひめのみこととして、正式に一の妃となりました。

 台与比売、二十一歳の春でした。

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