第9話

「今日は、狗奴国との最後の戦の話です」

 本田の話も先が見えてきたようである。

 テープ起こしの作業は職員にやらせているが、古代史に詳しい職員というわけではないので、名前などは正確さに乏しい。難しい名前は平仮名、あるいは片仮名で発音のまま残されている。

 そこで結局、テープ起こししてもらった文章を私自ら目を通し、修正していくという作業が加わる。

 実はこれが案外楽しい。

 インターネットで正確な名称を確認していくついでに、周辺の人物や時代背景をクリックして見ていく。

 中には独断と偏見に満ちた一方的な視点から書かれた内容も見られるが、けっこう皆、辻褄合わせを懸命になってやっていて、なるほどと思うようなことも書かれている。この私が時間の経つのも忘れて、ネット漬けの日々を過ごしているとは、一週間前にはとても考えられないことだった。

 本田の場合はどうなのだろう。

 白山の登山ガイドをやっていたぐらいだから、宗教的なものに惹かれるものがあったには違いないが、おそらくは雪の英彦山で滑落するまでは、自分が応神天皇の生まれ変わりなどと思ったり、口にすることもなかったに違いない。

 本当に滑落がきっかけで自分の前世を知ることになったのだろうか。

 それまでの本田が実は記憶喪失で、滑落で頭を打ち、そのお陰で記憶を取り戻したかのような話ぶりである。当事者でなくてはわからないようなこともすらすらと語る。語るのが楽しくて仕方がないといったふうである。

 たぶんそれは、聴き手としての私の存在も一役買っているのだろう。

 本田のお陰で気づいたのだが、断片的知識になることを覚悟の上で言わせてもらうと、歴史的事実とされていることが本当にそうなのか、時代を遡り、逆に辿って考えていくと、様々なことが見えてくる。

 今までは一本の道しか見えていなかったが、脇道や道の周囲に光が当てられ、恣意的に隠された歴史の真実が浮かび上がってくることもある。脇道と思っていた道が実は本線で、突然寸断されて仕方なく別の道を通らざるをえなくなったことも、教えてくれる。

 なぜそういう結果になったのか、想像力を働かせて様々な可能性を含め、思い描く方がはるかに面白いし、楽しい。中学・高校時代の歴史の勉強とは大違いである。

 学校での歴史の勉強は記憶力テストのようなものだった。アチーブメントテストだから仕方がないといってしまえばそれまでだが、今ではUSBメモリ一つあれば、本の数万冊分の文字や画像データを取り込んで持ち歩くこともできる。

 そんなことをしなくても、インターネットでいくらでも情報は手に入るし、クラウドなるネットワーク上の書庫にデータをこっそり置いておき、外出先からアクセスすることも可能である。

 したがって、知識量の多寡は現代では決定的な能力の差にならなくなってきている。

 しかし本田の話はどうだろう。

 作話の可能性はまだあるにしても、知的好奇心をかき立てるのだ。

 知的好奇心とはやっかいなもので、知れば知るほど、自分が知らないこと、知らされていないこと、見えないように隠されているものがあることに気づく。

 そしてますます知的好奇心は囁くのである。まだまだ、もっと面白いことがあるのですよ、と。

「それでは、始めさせていただきます」

 本田の声にまるで自動的に反応するかのように、私はICレコーダーの録音スイッチを入れた。

       *

 邪馬台国へ向け、我々が本格的に動き始めたのは、寒さが緩み始めた、春分の頃でした。

 難波住吉から二千の兵を引き連れ、播磨国で五百、吉備国でも五百を加えました。吉備国では出雲から調達した砂鉄が大量に用意されていました。これには吉備国の吉備津彦のみならず、伊都国の五十迹手の口添えもあったことが功を奏しました。

 従来、樅の木で作られた木製盾が主流で、雑兵はこれに朱色と漆の黒を塗り、将は神鏡の原料となる貴重な銅の緑青から作られた塗料、緑土を塗っていました。水を弾き、腐食を防ぐ、保存料として使用したのです。

 当時の鏃は、狗奴国などでは石や骨を使用していました。製造が簡単だったからです。破砕法で薄石刃を作ることは可能ですが、、これは木製の盾を通すことはできません。

 一方、鉄の鏃では、木製の盾を通すばかりか、破壊することも可能でした。先端を鋭利にすれば肉体を貫き通すことも容易となり、殺傷力も上がりました。また、以前は鋳型に入れて鋳造するだけだった鉄でしたが、中には叩いて鍛えると、強さが増すものがあることがわかってきました。

 磁鉄鉱である砂鉄を木炭と混ぜ、粘土で作った炉に空気を送り込みながら作る、たたら製法で作り出された、硬くて鋭利に加工できる玉鋼を使用することにより、武器としての剣も、より殺傷能力を向上させることができるようになったのです。

たたら製法には砂鉄とほぼ同量の木炭を使用するので、豊富な森林資源も必要です。そういう理由もあって、後に緑豊かな奥出雲の地で、たたら製法が発達することになります。

 三日三晩、砂鉄と木炭を交互に入れて作る作業はとても過酷で、火加減を見て空気を送り込む『火男』の顔つきが面白く、それが『ひょっとこ』と言われるようになりました。また、火を見つめる時に片眼で見つめることが多く、たたらでは眼がやられて片眼になる者が現われるようになり、彼らは『カンチ』と呼ばれるようになりました。現代では差別用語、放送禁止用語だそうですが・・・・・・。

 近代では足踏みふいごが使われるようになりましたが、微妙な温度管理は、未だにたたら集団を統率管理する、村下むらげによる勘が頼りです。

さらに白鷺が桂の木にとまって製鉄技法を伝えたという伝説から、今もって金屋子かなやご神を祀って桂木を植える風習が残っています。

 白鷺や白鳥は、父方の祖父、倭建命やまとたけるのみことの化身とされており、秦の神の化身も白鷺です。さらに、鷺銅山には多数の新羅から渡ってきた秦の民が技術者として働いていました。彼らは直接新羅から来たのではなく、豊浦を経て来たとのこと。豊浦は父の殯宮もがりのみやが置かれたところでもあり、当時の邪馬台国の勢力圏東端に位置します。

 当時は、たたら製鉄の技術はまだ一般的ではなく、ごく一部の専門集団が行っていたに過ぎません。後の出雲では、火を扱う技術は『村下』による一子相伝であったそうです。秦の者たちが惜しげもなく先端技術を教え与えたのとは大違いです。

 私は吉備国から先に砂鉄を仲津まで送らせ、三千の兵と共に阿岐あき厳島へと向かいました。阿岐の兵二千と合流し、百人以上が乗ることができる御座船を中心に、二百艘を超える大船団で仲津を目指しました。

 仲津から英彦山に向かうルートには、安心院あじむや耶馬渓などの山深い地があり、秦の技術者や彼らに技術を学んだ山の民が移り住み、炭作りに励んでいました。大量の木炭を必要とする、たたら製鉄にはうってつけです。

 その年はそれほど大した厳冬ではなかったのですが、仲津の地では例年の数十倍もの大量の炭が作られていました。もちろん、我々が難波に向けて出発する以前から計画していたことです。

 難波住吉と仲津の間の情報のやりとりは、綿津見の者たちが瀬戸内海を高速船で行き来しながら行っていました。通常は丸三日以上かかる難波住吉と仲津の間も、彼らにかかると、星や島々の烽火を頼りに夜通し船を漕ぎ、二日程度で辿り着くことができました。

 難波には海人族の一つ、和珥氏の祖となった日触使主ひふれのおみがいました。その父は難波根子建振熊なにわねこたけふるくまと言い、かつて日之巫女の片腕とまで言われた将軍です。その孫、宮主宅媛みやぬしやかひめは船団を率いる祖父からの言葉を伝えたり、航海状況を私に報告する役目を担っていました。

 通常、御座船へ出入りできるのは、将軍の地位にある者か、近親者のみです。そこへ、船から船へ飛び移りながら御座船へずかずかと入り込んで来る女は、高木姫にとって、我慢がならないのは当然のことでした。

 宮主宅媛が来ると、「して、仲津は何と言っておる」と言いながら二人して船室に入り、声を潜めてひそひそ話をしてしばらく出て来ないのですから、高木姫は気になって仕方がないようでした。

 そして船室から出ると、「よいな、このこと、仲津に早舟ですぐ伝えおくように」と念をおし、宮主宅媛みやぬしやかひめは片膝ついて頭を下げます。

 そして「ははっ」とだけ言うとすぐ立ち上がって、飛び跳ねるように船を移って行きます。宙を飛びながらも、高木姫の姿を見つけると、ニヤリと口もとに笑みを浮かべるのです。

 高木姫はこれが一番我慢ならなかったようです。

「何をお話になっていらっしゃったのです」

「仲津の様子じゃ」

「何をお命じになったのです」

「次の戦の準備のことじゃ」

 私は別にやましいことはなにもしていないのに、まるで情事の痕跡でも探し出そうとしているかのような高木姫のつきまとわり具合がうっとうしくてなりませんでした。

 狗古知卑呼との決戦を前に気分が高揚し、高木姫にかまっている場合ではなかったのです。

 その点、宮主宅媛は女をひけらかすでもなく、実に淡々と任務をこなし、きめ細かな配慮も怠りません。それでいて機敏で、船を飛び移る様など、惚れ惚れします。

「まるで宮主宅媛は飛び魚のようじゃ」と、私が感嘆の声を上げたのも当然でしょう。

 それを横目で見ていた高木姫は宮主宅媛がやってきた時、「飛び魚姫が飛んで来ましたぞえ」と言ったので、宮主宅媛は目を白黒させてしまいました。

 吉備国から船が仲津に着く数日前より、安心院あじむの山々には煙が立ちこめ、鉄を打つ音が響くようになりました。

 我々が仲津に着いた時には、すでに品陀真若王ほむだまわかのみこが兵六百をまとめ、さらに五千人分の武具や装備も調え、今や遅しと待ちかまえていました。

 私はまず、真若王まわかのみこに帰還の挨拶をするとともに、高木姫や弟日売との結婚のことを説明しました。

 もちろん、予め真若王まわかのみこのもとには綿津見の者に託して報せておきましたし、高皇産霊尊からも真若王に対しては、たくさんの土産物が献上されていました。

 私は真若王に、「弟日売と義母、火之戸幡姫を難波住吉に残してきたのが心残りでございます」と言って頭を下げました。

 真若王は頭を振って、「間もなくこの地は戦火に包まれましょう。人質にとられるやも知れませぬ。となれば、思い切った戦術も取れませぬ。誉田別尊のお考えは、最善。むしろ感謝すべきかと思いまする」と言って私の前に跪き、頭を垂れました。

 真若王は高木姫をチラッと見やったようですが、高木姫は顔を上げて父、品陀真若王を正視することができなかったようです。

「高木之入日売命よ、よく戻って来てくれた。誉田別尊の妃として誉田別尊をお支えし、誠心誠意お仕えするように。よいな」

「父さま……」

 高木姫の頬を涙が一筋、伝って落ちました。

 高木姫がわざわざ仲津までやって来たのは、私の身の回りの世話をする必要があったことはもちろんですが、宮主宅媛のような女を近付かせたくない、という気持ちの表れであったのは言うまでもありません。

 しかし故郷に戻って、父、品陀真若王の姿を目にして、よほど今まで気が張っていたのでしょう。安堵して涙腺が緩くなってしまったようでもありました。

 とは言うものの、子の身に甘んじることが許された時間は、わずかでした。高木姫には妃として、そして比売巫女に代わる巫女として、やらねばならないことは、山のようにあったからです。

 まず、戦勝祈願です。

 本来なら巫女の託宣があるのですが、比売巫女も不在、豊比売も不在ということで、あえて行いませんでした。もっともこれには、託宣できない身であるという、高木姫の事情もあったのは言うまでもありません。

 続いて出陣の儀では、高木姫による神舞が舞われました。

 一人破邪の神舞とも言われるこの舞は、一人で二人破邪と同じ敷地の広さを、まんべんなく回らなければなりません。しかも相方がいるように、時に立ち位置を対側に移したり、剣さばきも相方がいるかのように受けたり、攻めたりしなければならなのです。

 本来の破邪の神舞は二人で舞うため、危険が生じます。それを一人で舞うために、我が母、日之巫女が工夫し、秘中の秘として門外不出、知る人もわずかでした。

 以前、豊比売と二人で舞った破邪の神舞は、この神舞の原型だけあって、基本の動作や型がすべて含まれています。そして破邪の神舞を会得した者だけが許されるのが、この神舞なのです。

 大きな戦の前や新年を迎える朝、夜明けの日の光が当たる時に、日子山山頂の磐石いわくらの前で、母が一人で舞いました。しかし母も高齢になり、完全な形で舞うことができなくなってしまいました。そこで、高木姫に密かに伝授していたのです。

 高木姫の神舞を、祈るような気持ちで手に汗握り、見つめていた者が二人いました。私、そして高木姫の父、真若王です。

 実は高木姫は、この時、四ヶ月の身重だったのです。

 そして高木姫が身重であることに気付いている者がもう一人いました。宮主宅媛みやぬしやかひめです。その神舞の一部始終を見ていた宮主宅媛は、次第に足が震え、喉が渇き、呼吸が荒くなってきたと言います。

 そ、そんな……。この女、いや、高木之入日売命は、美しさだけがとりえかと思っていたが、とんでもない。この舞、隙がまったくない。それにあの剣さばき。身軽さでは勝てても、もし、実際に戦ったら、よくて相討ち。しかも、四ヶ月の御子を宿しながら、これだけ激しい動きをして平気だとは……。

 さすがは、品陀真若王ほむだまわかのみこむすめ、誉田別尊が選んだ妃。

 その日を境に、宮主宅媛は高木姫に対して、口もとに笑みを浮かべるような仕草はしなくなり、軽く会釈程度だが、誰の目にも明らかに頭を下げるようになりました。

 お腹に私を宿し、陣痛に耐えながら、出産を遅らせる秘術を施して新羅征伐に赴いた我が母、日之巫女がもしこの光景を見たら、「別にこの程度、驚くほどのことでもなかろう」と、そっけない返事だったに違いありません。

 一方、兵士たちはその神舞を目にして、多くの者が驚いたそうです。

 まず、舞い手がまるで天女が如き、美しい姫であったこと。そしてその剣さばきが、あまりにも見事であったからです。神剣は銅剣であり、十握とつかもの長剣となると、相当の重量があります。

 兵士たちですら、これほどの重量の剣を自在に扱える者は、ごくわずかです。

「おい、こ、この仲津には、あんな美人の巫女がいるのか」

「ばか、あのお方は、高木之入日売命、誉田別尊のお妃であらせられるぞ」

「巫女であの剣さばきとは、信じ難い。中は空洞の飾りであろう」

「いや、あれは日之巫女さまから授かった、日御子ひのみこ神剣だろう。以前、日之巫女さまがお持ちのところを見たことがある。相当重いはずなのだが……」

 その時、仲津の兵士が横から口を挟みました。

「ま、高木之入日売命なら使えるだろうよ。なにしろ品陀真若王ほむだまわかのみこむすめだからな」

 傍にいてこれを聞いた者は、皆、大きく目を見開きました。

 最前列の将軍席の真ん中に座る、身の丈が七尺近くもあり、腕は皆の太腿ほどもあって、剣で斬りつけたら、剣の方が折れそうな筋肉を持つ、品陀真若王です。

 兵士たちは、顔を見合わせました。

 いったいどうやったら、あの品陀真若王のような父親から、高木之入日売命のような細身で見事な肢体を持つ、美しい娘が授かるのだろうか?

 一瞬、皆の頭を過ぎったものの、誰も怖くて口にすることはできなかったそうです。

 もちろん、兵士たちは高木姫が身重であることなど知る由もありません。もし、高木姫が四ヶ月の御子を身ごもってこれを舞ったと知ったら、果たして、どう思ったでしょうか。

 さて私は五千六百の兵を、本隊は二千、他の二隊は千八百ずつに分けることにし、先陣は真若王にお願いしました。

 兵が少ない時には疾風の如く戦場を駆けめぐり、勇猛果敢な戦いぶりをします。それでいて兵が多い時には重厚で隙のない戦いをして、敵を圧倒する。単に力に頼ることのない、秀でた戦略家でもありました。

 秦の者が多い仲津やその周辺を含め、これだけ武勇の誉れ高い将は、まず、いません。難波根子建振熊なにわねこたけふるくまですら一目置く、武人なのです。

 やはりそれは、素戔嗚尊すさのお五十猛いそたけるに通じる、出雲系渡来人の血が混じっているせいでしょうか。

 第二陣は難波根子建振熊なにわねこたけふるくまが率いることになりました。脇には宮主宅媛みやぬしやかひめが控え、時に馬の足を速めたり遅らせたりしながら、私の第三陣、本隊との間を行き来し、状況を報告してくれました。お陰で私は後方にいながらにして、先陣の状況もつぶさに耳に入って来ました。

 この陣容は陸戦に慣れている品陀真若王を先陣に、高齢で陸戦はやや苦手な難波根子建振熊と私が後方に控えた、魚鱗の陣形を基本としています。

 相手が正面から来ることを想定し、平地の少ない山間や森林での戦に適した陣形です。

 一方、川を挟んだ場合は、私を中心に、左右に難波根子建振熊と品陀真若王を展開し、敵に対して鶴翼の陣形を取ることも可能です。

 我々は大川を挟んでの戦いになると考え、山国川沿いに耶馬渓を経由して進軍することにしました。通常はあまり通らない、山深い道です。

 これを選んだ理由は、この道の方が大川に出るのが早かったからです。急ぐ場合は、大川を川上から一気に船で下ることもできます。

 先陣と第二陣は日田から上座かみつあさくらに入り、現在の寺内ダムのすぐ下、大仏山の隣の栗尾山に布陣しました。この周辺の地は邪馬台国と狗奴国にとって、古から因縁のある地でもあります。

 狗奴国軍が小栗峠を越えて八女に入り、大川を渡るなら、大川の川上に用意した船で一気に下って、栗尾山からの正面だけでなく、側面からも急襲できます。これは水軍を有する難波根子建振熊ならではの戦法です。水を自在に操る戦い方は、水神を祀る、秦の者の得意とする戦法でもあります。

 私の本隊は、野峠からいったん日子山に向かい、黒川高木に布陣をする予定で、軍を進めました。

 黒川高木は交通の要所で、大宰府方面から日子山へ向かう入り口です。中世では小石原を経て英彦山に向かう修験者で賑わい、岩屋権現という修験場もあった場所です。

 南にまっすぐ降りると大川に近く、船で荷を運び、そこからは人力で日子山へ荷を運びます。山の民の活躍の場でもありました。

 黒川高木は戦略的にも重要で、大川の上流から川を下って敵の側面を突くもよし、そのまま山間に大宰府方面に抜け、栗尾山の軍と合流するもよし、敵の動きによって柔軟に対応、作戦の幅を広げることが可能な、絶好の地点なのです。

 おまけに大川からは見えにくく、大川の見張りは大川沿いの山、高山山頂に置けば、馬の脚で山から駆け下りたなら数分で辿り着ける距離です。

 綿津見わたつみ和珥わにの一族は船を巧みに操り、水軍を中心とした戦いを得意としましたが、母は山の民と呼ばれる人々も重用し、情報収集などを行っていました。

 元々、日子山は麓の宮元付近に縄文遺跡があるような地で、古くから山の民がそこに住み、邪馬台国王宮の間を行き来していたのです。

 彼らは後に山岳信仰の山伏の祖となるのですが、それまでは邪馬台国へ荷を運ぶ荷役や、王宮守衛などを主に行っていました。しかし王宮が焼かれ、侍女や女官たちもいなくなり、仕事もなくなって人材の散逸が免れない状況となってしまいました。そこで私は品陀真若王から知らせを受け、難波住吉から指示を出しました。彼らを各地に潜り込ませ、各国の動向を知らせるための、諜報活動の任務を与えたのです。

 数日分の食料を持ち、山中たった一人でも、昼は太陽、夜は月や星々の動きを頼りに、自分の今いるところを正確に把握し、敵国の兵力、穀物生産高などを調べ上げ、報告するという重要な任務です。

 それだけではありません。敵国に至るまでの道筋も重要です。抜け道や隠れることが可能な場所も、綿密に調査します。これらをもとに地図を作り、より効率よい兵の配置や進軍を行うのです。

 後の戦国時代になって、これに独特の武術が加わり、忍者が生まれました。

 甲賀や伊賀、真田の地に忍術が発達し、伊賀の近く、伊勢神宮のお膝元の地で忍術を基本に、影流剣法が生まれました。さらにこれをもとに、甲賀と伊賀に囲まれた柳生の地に新陰流が生まれ、徳川幕府の裏舞台で暗躍することになります。

 私は日子山の麓から焼けた兵舎跡に兵を進めました。周囲を片づけて、そこに兵をいったん駐屯させ、数人の供を連れて、日子山の参道を上って行きました。

 王宮は焼け落ちて、残骸が残っているだけでしたが、山頂で祭祀を行う、磐石を中心とした磐座は、まったく手が付けられずに、無傷で残っていました。

 狗古知卑呼くこちひこも祭祀を重要視していたので、さすがに神が降りたまう磐石や磐座には、畏れ多くて手を付けなかったのではないでしょうか。あるいは、自ら邪馬台国の大王となって祭祀を行う際のことも考え、そのままにしておいたのかもしれません。

 さらに宮元の館や田畑も、まるで何事もなかったように見事に保たれ、民が戦乱に巻き込まれることが無かったことに、私は安堵しました。そしてまたしても豊比売の考えが的中していたことに、改めて驚かされたのです。

 豊比売は狗奴国の地下牢に入れられた後、消息は途絶え、身が案じられました。数人の山の民の密偵を出したものの、雪に閉ざされた地へ侵入して無事帰って来ることができた者は数少なく、雪で足跡を辿られ、追跡されて命を落とす者、厳寒で凍え死ぬ者が相次いだのです。

 山桜がその花を散らそうとする頃、狗奴国軍が動いたという第一報が、山の民によりもたらされました。

「狗奴国を発った軍の兵数は五千。一部に熊襲が見られるものの、五百にも満たない数でございます。小栗峠から高良山を目指しているものと思われます」

狗奴国から邪馬台国へ敵が攻めて来る際、山鹿から海沿いの瀬高を通って来る場合と、小栗峠を経て八女に入る場合では、迎え撃つ戦法が異なります。

 海沿いを来た場合は、狗奴国との境を流れる矢部川下流も川幅が広く、川を挟んでの戦いも可能ですが、小栗峠を越えて来た場合は、矢部川上流は川幅が狭く、容易に渡ることができるので、川を挟んだ戦い方はできません。

 むしろ邪馬台国内への侵入を許すことになっても、大川、現在の筑後川を挟んで川の特性を生かした戦い方をする方が、勝利に導く確率が高いと言えましょう。難波根子建振熊のような、水上での戦いを得意とする武将がいる時にはなおさらです。

 この戦いには伊都国軍はもちろん、奴国軍も参加していません。難波を主力に、大和、阿岐、そして仲津の兵が加わっただけの五千六百で、その後、兵士は増えていません。

 伊都国も奴国もこの戦の成り行きを、息を潜めて見守っていたようです。ことと次第によっては狗奴国に加担して、邪馬台国を滅ぼそうと狙っているようでもあり、自分たちへの被害を恐れ、盟主の邪馬台国が危機に瀕しているにもかかわらず、だんまりを決め込んでいるようにも見えました。そして国力の強大な奴国の動きによっては、大きく戦局を左右しかねない状況であったのも事実です。

 狗奴国軍は我々の予想を裏切って、高良山付近から迂回して、現在の田主丸を通り過ぎ、吉井から対岸の上座の恵蘇付近へ渡ろうとしていました。ちょうど恵蘇八幡宮があるあたりです。

 このあたりの川幅は狭く、水深も比較的浅いので容易に渡ることができます。大川を渡れば、黒川高木を出発して妙見川沿いに下ってきている私の本隊の側面を突くことができます。

 栗尾山の真若王と難波根子建振熊の軍はすでに出払って、先に蜷城みなぎに向かってしまっていました。

 真若王と難波根子建振熊は、必ずやこの狗奴国の旧地を奪回に、狗奴国軍は蜷城を通って来るものと考え、挟撃するのに恰好な栗尾山と黒川高木に陣を敷くよう、強く意見したのです。

 それがかえって裏目に出てしまったようです。

 この戦は、狗奴国にとっては、いや、狗古知卑呼にとっては、あくまで父、卑弥弓呼の敵討ちだったのです。旧地回復などはどうでもよいことだったのかもしれません。ただ、私の首級を挙げること、それが目的だったのでしょう。

 私の率いる本隊の二千では、狗奴国軍の五千で急襲されると、さすがに持ちこたえることは難しいでしょう。

 狗奴国軍としては、我が本隊を撃破した勢いで、さらに真若王と難波根子建振熊の軍に向かえば、邪馬台国側は合わせても三千六百の兵力。我が本隊との戦いで、多少、自軍の兵を失っていたとしても、十分勝機はある、と踏んでいたのでしょう。

 敵兵力の分散と各個撃破は、兵法においては、必勝の常套手段なのです。

 恵蘇の上流、大川に面した高山からの伝令により、狗奴国軍の動きを知った宮主宅媛は馬を走らせ、真若王と難波根子建振熊に急を知らせました。

 一方、私はすぐさま進軍の方向を変え、狗奴国軍が渡りつつある川辺へ急行しました。

 すでに馬に乗る数人がこちら側の岸にたどり着き、大勢の狗奴国軍の兵士が一斉に川を渡り始めていました。

 私は後ろに続く兵士に手で堤を切る合図をしました。伝令の兵士はうなずくと馬首を返して、走り戻って行きました。

 私は合図した手を、そのまま背の矢袋に移すと矢を取り、弓につがえました。

 弓は狗奴国軍の木弓と違って一間半ほどもあり、火入れした竹を貼り合わせ、正確に的を射るために形状まで工夫された、最新式の長尺竹弓です。矢柄も太く、鏃は先が鋭利な鉄製なのが特徴です。

 矢をつがえて弦を引くと私の二の腕が、みるみるはち切れんばかりの太さに膨れあがりました。腕が太いのはなにも真若王だけの専売特許ではありません。

 私は馬の鐙に足をかけたまま、馬上で立ち上がり、馬に加速をかけました。そして今、まさに岸から上がろうとする狗奴国軍の騎馬兵に向けて、矢を放ちました。

ブン、と弦が音を立て、矢は空気を切り裂き、一直線に兵士の胸を貫きました。そしてその兵士は馬上から川の対岸、狗古知卑呼の馬の足もとまで飛ばされ、土手に突き刺さりました。即死でした。たぶん、自分になにが起きたかすらわからなかったことでしょう。

 それを目の当たりにした大川を渡る狗奴国の兵士たちの間に、動揺が走りました。

 すかさず、次の矢を放ちます。

 再び川を渡りきったばかりの一人が腹を貫かれ、川の中ほどまで飛ばされました。さらにもう一人、頭を貫かれ、川を渡りつつあった士卒の頭上に血しぶきを上げて折り重なりました。

 川を渡り、岸に上がろうとする狗奴国軍の足が止まりました。

「矢を射よ」

 ようやく追いついた大弓隊に命じると、空を黒くするほど矢を射かけました。

 川を渡っている最中の狗奴国軍の将兵は、盾で防ぐ間もなく、次々と矢に当たって倒れていきます。我が軍の矢は強力で、盾を使っても破壊され、防いだつもりの木製の盾を貫いて胸や頭まで鏃が至り、屍で川の流れがせき止められてしまうほどでした。

 ちょうどその頃、高山山頂から狼煙が上がりました。

 間もなく、地響きと轟音が周囲を包み、大量の水が洪水となって、大川の上流から押し寄せてきました。

 大川の上流、夜明の地の堰を切ったのです。

 千に近い狗奴国軍の兵士が、水に流されたり、沈んだりしました。

 そこへ真若王と難波根子建振熊の軍が駆けつけ、私を中心に、鶴翼の陣形を基本とした横陣態勢を整え、大川をはさんで、両岸に邪馬台国軍と狗奴国軍が対峙する形になりました。こうなれば、ひと安心です。

 戦いをつぶさに見ていた宮主宅媛は、私と私が率いる軍の強さに、目を見張ったそうです。

 仲津へ向かう船上で目にした、真面目で少し神経質、小心者の私とは別人のようだったとか。

 馬首を並べていた難波根子建振熊は、孫娘の眼差しのその先を見つめたまま、「まったく驚くべき益荒男ぶりじゃな。日之巫女さまが生きておられた頃とは、まるで違う。機を見て敏、用兵も見事。そして兵士も皆、鍛えられておる。我らが加勢しなくとも、誉田別尊だけで、狗古知卑呼は倒せるのかも知れぬな」と、隣の宮主宅媛に話しかけました。

 しかし宮主宅媛は無言のまま、輝く瞳で私を見つめ続けていたそうです。

 それを見て難波根子建振熊なにわねこたけふるくまは、「惚れたか」と、宮主宅媛に問いました。

 宮主宅媛は祖父には一瞥もせず、私を見つめたまま、「はい」と短く、力強く答えたそうです。

 真若王と難波根子建振熊の軍が合流した時点で、兵力の上では、我が軍は五千六百が無傷のまま残ったのに対して、狗奴国軍は四千余りに減じていました。

 我が軍の陣容が整い、単に力押しだけでは無理であると悟った狗古知卑呼は、自軍の布陣も再編成し、しばらく互いに睨み合いが続きました。

 半時ほど経った頃、我が軍の大弓隊が土手に一列に勢揃いし、上向きに弓をつがえました。

 さすがに下流に較べて川幅が狭くはなっているとはいえ、私ならばまだしも、いかな大弓隊といえども、対岸まで矢を水平に飛ばして届く保証はありませんでしたが、上向きに放物線を描けば、対岸まで届く範囲であると判断したのです。

「射よ」

 私が手を振り下ろすと、いっせいに矢が放たれ、土手に陣取る狗奴国軍の兵士に当たって、バタバタと斃れていきました。

「おのれ、誉田別。負けるでない、早く矢を射んか」

 狗古知卑呼は悔しがり、狗奴国軍の弓隊に命じました。矢をつがえると、ばらばらと矢を放ちます。しかし狗奴国軍の矢はほとんど川の半ばで流され、数本、ようやく河原にたどり着いただけでした。再び私が手を挙げると、五百ほどの兵士が矢をつがえます。その手が振り下ろされると同時に、矢が雨霰のように降り注ぎます。

「ひ、退けっ」

 狗古知卑呼は全軍を、いったん土手から下がらせました。

 戦いは膠着状態となり、さらに半時ほど経って太陽が中天に差し掛かる頃、後ろ手に縛られた豊比売を馬上に伴い、狗古知卑呼が川岸の突端に姿を現しました。そして、狗奴国軍全軍が土手に勢揃いしたのです。兵数は三千七百くらいだったでしょうか。

 狗古知卑呼は声を上げました。

「兵を退け、誉田別。そして貴様一人、我が陣へ来い。さもなくば邪馬台国女王である、この女を殺す」

 私も負けずに声を張り上げます。

「狗古知卑呼よ、お前が先に豊比売を返すのなら兵を退こう」

「先に退くのは、貴様の方だ」

 豊比売が捕えられている限り、こちらから先に手が出せぬ。

 私は唇を噛んで狗古知卑呼を睨みつけました。

 私の姿を認めた豊比売が微笑みました。

 長いこと地下牢につながれたせいで、やつれて薄汚れた姿とはいえ、その神々しいばかりの美しさは、変わりませんでした。

 私は胸が痛みました。そして自分の無策を悔やみました。

 しかし、その私の目の前で、予想だにしないことが起こったのです。

 豊比売は後ろ手に縛られていた荒縄を狗古知卑呼の腰の剣で擦り切りました。さらに前を向いたまま後ろ手で剣を右手に取り、体を前屈させて背中越しに孤を描くように剣を振り上げたのです。

 狗古知卑呼は首から血しぶきを上げて、馬から転げ落ちました。そして動かなくなってしまいました。

 狗奴国軍の兵士たちは浮き足立ちました。

 あまりのことに、私も目の前で何が起こったかを理解するまで、少々時間を要してしまいましたが、すぐ我に返り、手を前方に振って命じました。

「矢を射よ。ただし、豊比売には当てるなよ」

 大弓隊が前に出て、再び空が黒くなるほどの矢を狗奴国軍に射かけます。

両翼の真若王と難波根子建振熊が合図すると、三千六百の兵が川をせき止めるほどに、一気に渡って行きます。

 入れ違いに豊比売は頭を下げ、矢の下をかいくぐり、私目がけて馬を走らせ、しぶきを上げて川を渡ります。

 土手を下って岸辺まで馬を進めていた私は、豊比売に手を差し伸ばしました。そして豊比売の手を取ると同時に一気に引き上げると、豊比売は私の胸もとめがけて飛び移りました。

 一方、主を失った狗奴国軍は多数の戦死者を出し、散り散りに退却して行きました。その間、わずか四半時のことでした。

 豊比売を抱きしめたまま、私は驚愕の眼差しで彼女を見つめました。

「驚いたな。ひょっとしてそなたは……」

 豊比売は私の唇に人差し指を当て、言葉を遮りました。

 ひょっとしたら豊比売は、倒そうと思ったら、いつでも狗古知卑呼一人くらい、倒すことができたのかも知れぬな。

 私はそう思ったものの、口に出して言うことはしませんでした。

 勝ちどきを上げる我が軍に、豊比売は手を振って応えます。そしてゆっくりと私の方へ振り向いて言いました。

「誉田別尊、きっと助けに来ていただけると信じておりました」

 そう言うと、私の服を握りしめ、胸元に顔を埋めて泣きました。私は言いたいことが山のようにあったのになにも言えず、涙ぐんで豊比売を力一杯、抱きしめるだけでした。

 私は邪馬台国の戦勝を記すとともに、敵ではありましたが、多くの戦死者を出したことを鑑み、この地に祠を建て、恵蘇と名付けて祀るよう、命じました。

 さて、邪馬台国は狗奴国に勝利はしたものの、豊比売の払った代償も大きなものがありました。

 馬を下りたものの、体をうまく支えられない脚を見て、私は「豊比売、脚をどうなされた」と、訊きました。

 半年近く、狭い地下牢につながれ、脚が萎えてしまっていたのです。

「心配御無用です。しばらく湯治でもすれば、治ります」

 その時、数人の仲津の兵士がやってきて、

「豊比売さま、これにお乗り下さい」と、畏まって豊比売の前に進み出ると、「どうぞ」と示しました。

 板の両脇に腕の太さほどの丸太をくくり付け、豊比売を乗せて肩に担いで運ぶ、と言うのです。

「このままでは上に乗った豊比売が滑り落ちてしまう。回りを囲うものを工夫せよ」

 私はそう言って、手摺のようなものを取り付けさせました。

 ちょうど台の上に乗せられたような格好だったので、以降、台を与えられし比売、台与比売と記されるようになった所以です。

 この台を担ぐ形が、輿、さらには神輿の原型となりました。

 時が下って和銅六年、西暦七一三年に起こった隼人の乱を鎮めるに当たり、宇佐は秘策を講じます。それは薦神社の三角池に自生する真薦を刈って枕形の御験の薦枕を創り、ご神体として、小さなお社に納めて輿に載せ、これを奉じました。これが神輿の始まりです。

 台与比売は輿に乗せられたのも束の間、敵を掃討して戻ってきた真若王に、馬上からあの太い腕に抱きしめられていました。

 一方、宮主宅媛は、「あれが、台与比売……」と、同じく馬上から驚愕の眼差しで見つめていました。

「巫女であるとは聞いていたが……」

 言葉が続きません。

 難波根子建振熊が馬に乗ったまま、ゆっくりと近付いて来ましたが、口は半開きで無言のままでした。

 宮主宅媛の表情を見て、「宮主宅媛よ。お前の戦う相手は、二人とも桁違いに凄い相手じゃな」と言ったそうです。

 宮主宅媛は無言でうなずきました。

「高木之入日売命だけでなく、あの台与比売も、品陀真若王のむすめと言う。母は違うらしいがのう」

 宮主宅媛は驚いて難波根子建振熊なにわねこたけふるくまの顔を見ました。そして台与比売を抱きしめ、相好を崩す武将を改めて、まじまじと見つめました。

 難波根子建振熊をして、一目置かせる真若王です。

「げにも」と、宮主宅媛みやぬしやかひめはうなずきました。

 確かに狗奴国との戦いは終わりを告げました。そして邪馬台国は見事に勝利しました。

 しかしこれは同時に、宮主宅媛と台与比売、そして高木之入日売命も巻き込んだ、三つ巴の女の戦いの始まりでもありました。

 ふと、宮主宅媛は台与比売と視線が合いました。

 これだけ大勢の兵士の中、女は台与比売と、宮主宅媛だけです。目に留まるのは時間の問題でした。

 輿がぐるりと回って、宮主宅媛のもとにやって来ます。

「こ、これは台与比売さま」

 反射的に宮主宅媛は馬を下りると、腰を落とし、頭を下げて跪いてしまいました。

 この私が、こんな小娘相手に、震えている……。

 まるで何もかも見透かしているような、澄んだ瞳で見つめられ、私の目の前にもかかわらず、思わず跪き、頭を下げてしまったのです。

 これでは主従関係ではないか。

 宮主宅媛はその時、思ったそうです。

 宮主宅媛の額に、冷や汗が一筋、流れ落ちました。

 台与比売はにこやかな笑顔で、「あなたが宮主宅媛ですね。難波根子建振熊宮主宅媛との一族の者とか」と訊きました。

「はっ。初めてお目にかかります」

 宮主宅媛は台与比売を、顔を上げて見ることができませんでした。

「我が夫、誉田別尊をお助け頂き、心より感謝申しあげます」

「も、もったいないお言葉でございます」

 ほとんどひれ伏すに近いほど、宮主宅媛は頭を下げました。

「顔をお上げ下さい、宮主宅媛」

 その声に、宮主宅媛は恐る恐る顔を上げました。

 幾多の戦場を祖父、難波根子建振熊と戦ったことのある宮主宅媛でしたが、まるで金縛りにでもあったように、思うように体を動かすことができなかったと言います。

 宮主宅媛が戦いの中に身を置く女だけに、あのような囚われの身でありながら、敵の首領が帯びている業物を使い、一閃、その首領を斬って捨てた光景を見せられれば、当然の反応でしょう。

 でも、それだけではありませんでした。

 格が違う。

 宮主宅媛はその時、そう思ったそうです。

 宮主宅媛は日之巫女に実際に会ったことはありません。会えば、おそらく同じ感想を持ったことでしょう。

 一介の武人などとは違う、国を司る者の威厳というものを、宮主宅媛は肌で感じとったのです。

 この台与比売と、誉田別尊の一の妃の地位をめぐって、これから戦って行かなければならないのか。

 ほとんど絶望的なほどまでの隔たりを、その時、宮主宅媛は感じていました。

 しかし宮主宅媛のよいところは、それだけの格差を感じながらも、卑屈になることなく、また、狡知に頼ることなく、正々堂々と相対するところです。そして常人なら諦め、自棄になるところを、たゆまぬ努力を重ねていくところです。

 台与比売は台与比売で、宮主宅媛が唯一人、女がこの戦に加わっている意味を、そして私の傍にいる理由を察したようでした。

 でもまだ宮主宅媛が私の正式な妻とはなっていないことも、その身振りや表情から感じとっていました。

 台与比売は小さく安堵の吐息を漏らしました。

 実は台与比売には、姉の高木姫や弟日売のことは、まだこの時点では知らされていません。

 私は台与比売の無事を喜びましたが、台与比売が囚われの身となっている間、高木姫ばかりか、末妹の弟日売まで妻に迎えていることを台与比売に伝えるには、忍びなかったので、しばらくそのことは口に出せずにいました。

 一方、邪馬台国勝利の知らせは早馬で仲津へ、そして各国へ、また、難波住吉には綿津見の者によって伝えられました。

 高木姫は知らせを聞いて喜びましたが、同時に台与比売の不在の間に私を奪った形となり、しかも世間体では高木姫が最初の妻ということになっていて、さすがに気が咎めたか、台与比売がいつ仲津へ来るのだろうか、と不安になっていたようです。

 たとえ台与比売が来なくても、邪馬台国女王で、しかも身内です。いずれはこちらから戦勝の祝いに伺わなくてはなりません。

 その時は、すぐにやってきました。

 帰還した台与比売は、焼け落ちた王宮を横目に、そのまま日子山山頂に上ると、磐石の前で戦勝報告を行いました。

 その日は宮元の私の館に泊まり、翌朝、まだ日が昇らぬ内に故郷の仲津へと向かったのです。

 仲津では、一足先に戻っていた真若王と、高木姫が出迎えました。

 高木姫は戦勝の出迎えだと言うのに、顔色が優れませんでした。

「あ、あの、台与比売……」

 うろたえる高木姫の腹部に台与比売の視線が吸い寄せられていきます。そして「姉さま……」と言って、しばし凝視しました。

 台与比売は顔を上げ、「御子がおわしますのか?」と、訊きました。

「えっ、ええ……」

 高木姫は台与比売から目を逸らし、私に懇願するような視線を送ります。私は私で何と説明したらよいか、途方に暮れながら、

「台与比売、実は……」と、二歩、三歩と歩みを進めました。

 台与比売は、ゆっくり屈むと、高木姫の少し膨らんだ腹部を軽く触れました。

 その時、まるで電気が走ったかのように驚き、慌ててその手を引っこめてしまいました。次の瞬間、その瞳から涙がこぼれ落ち、むせび泣いたのです。

 高木姫と私はほとんど同時に声をかけました。

「台与比売、相すまぬ」

「台与比売、これはその……」

 台与比売は涙を拭いながら言いました。

「いいえ、いいえ、別尊と姉さまがご結婚なされたことは、すでに存じております。いえ、正しくは、私が別尊に姉さま方を難波住吉にお連れ下さるよう、お願いした時に、こうなることはわかっておりました」

 言いながらも、嗚咽を上げて泣き続けました。

「違うのです、違うのです、私が泣いているのは……」

 途中まで言いながら、ハッとなって、言葉を押し殺しました。

 私と高木姫は互いに顔を見合わせました。

 台与比売は高木姫の宿す御子の未来を、運命を、垣間見たのではないかと思うのです。

 これは後の話ですが、高木之入日売命が産むことになる大山守皇子おおやまもりのみこは私にとっては一の御子です。

 私の亡き後、皇位を巡って宮主宅媛の子、菟道稚郎子命うじのわきのいらつこのみことと台与比売の子、大鷦鷯尊おほさざきのみこと、そして大山守皇子おおやまもりのみこの間で争いが起こり、大山守皇子は亡くなるのです。

 台与比売がそのことを予知したのかどうかはわかりませんが、高木姫の御子のことはその後、一切、口にしませんでした。

 出産の祝いも、一の御子の誕生であったにもかかわらず、邪馬台国女王にしては、質素なものでした。

 高木姫は自分が私の最初の妻になったことを、台与比売は恨んでいるのだろう、とずっと思っていたようです。

「台与比売には、本当に悪いことをしたと思っています。私にはそのうち、神罰が下るでしょう」と、後に漏らしたと言います。

        *

 私は秦の者から別符べつふ、今の別府に湧く湯がよいと聞き、台与比売を別符に連れて行くことにしました。

 別符は香春に居を構える辛嶋氏の所有地でした。

 湯量が多く湯温も高い。それゆえ、ふんだんに湯を使うことができました。しかも川底から湯が湧き、川がまるごと温泉であったり、せき止めて池を造って、河川敷では腰湯を、川に入れば肩まで浸かることもできました。

 広い湯槽の中で歩くと、足腰に負担をかけずに、弱った筋力を徐々に回復させることができるので、リハビリにはうってつけです。

 入口の小屋で湯衣に着替えて、温泉に入ります。台与比売が入った温泉は、巨大な花崗岩をくり抜き湯槽とし、湯を貯めた露天風呂でした。

 所々に剥き出しの荒い岩肌が顔を出していますが、体が触れるところは岩とは思えないほど綺麗に磨き上げられ、自然な風合いを損なわず、広々と天空と海が見えるのが特徴です。

 一見、山間の鄙びた湯のようにも見えますが、実は辛嶋からしま氏の別荘の離れ湯なのです。あと半月早かったら、山桜の舞い散る中での湯を楽しむことができたでしょう。秋には楓と銀杏が湯槽に映えるように配された、見事な造りでした。

 台与比売は湯に浸かるなり、歓喜の声を上げ、抜き手でひとしきり泳いだ後、岩を背に顔だけ私に向けて声をかけました。

「ああ、いい湯です。別尊、一緒に入りませんか? 戦の疲れも取れましょうぞ」

 私は岩風呂の入り口に背を向けたまま、少し離れた所に控えている侍女の視線を気にしながら、「ご、ご冗談を」と答えました。

「私は巫女です。冗談は申しません」

「ならば、私を困らせているのですか?」

「一緒に入ることが別尊を困らせるのですか? 三日の祝いもした身と言うのに」

 台与比売は、岩陰から身を乗り出すようにして訊きました。

 私は言葉に窮し、何か言おうとして台与比売の声の方へ視線を移した、その時です。なんと悪戯な東風が、湯煙を綺麗に払って二人の間を吹き抜けて行ったのです。

「あっ」

 小さく声を上げて、台与比売は慌てて岩陰に身を隠しました。

 私は目が釘付けになってしまったことを打ち消すように、「そ、そうですね。しかし、三日の祝いをすませた妻が夫に湯衣姿を見られて、そのように身を隠したりしましょうか」と言ってみたものの、その動揺ぶりは隠せず、声は上ずり、説得力に欠けた物言いとなってしまいました。

 ぴったり体に張り付いた湯衣は、かえってその体の線を浮き上がらせてしまいます。

 さすがに、14歳の頃とは違う。

 私は台与比売が熱を出して寝込んだ時のことを思い出して呟いてしまいました。

あれからもう四年以上もの月日が流れたのだ、と、鮮明に脳裏に焼き付いてしまった台与比売の肢体を思い返して、改めてそう思いました。

 狗奴国に囚われたせいで、痩せてしまって、以前のふっくらした柔らかな面立ちは失ったものの、かえって幼さが払拭されて大人びた印象を与え、台与比売が妙齢の女性であることを、その姿は雄弁に物語っていました。

 三ヶ月後、熊襲を追って薩摩半島まで遠征した際、開聞岳を目にした私は、「まるで、台与比売の胸乳のような、美しい形をした山である」と、思わず口走ってしまったのは、あまりにもこの時の印象が強かったからです。

 薩摩富士とも呼ばれる開聞岳ですが、その当時の私は富士山を未だ知らなかったので、もし、富士山を見たことがあったら、きっと富士山に喩えたに違いありません。

「身を隠したのは、別尊がそのような目で見るからです。きっと、いかがわしいことをしようと、思い描いていたに違いありません」

 私は「ふぅ」と、一つため息をついて、

「台与比売のお加減が悪い時に、私はさようなことは致しませぬ」

「嘘。かの時、私が気を失っているのを幸いに、口移しをしたではありませんか」

「あ、あれは……」

「ほら。別尊は嘘つきです」

「あの折は……。台与比売があのままではお命に関わる、と思ったゆえ」

「気づかないのをいいことに、我が口もとを濡らすようなことをしたのでしょう。それでは私が……」

 と言いかけて、台与比売は頬を染め、口をつぐんでしまいました。

「では、今ならよろしいのですか?」と、私は訊きました。

「別尊は嘘つきに加えて、意地悪です」

「意地悪なのは、どちらです?」

 台与比売付きのうら若き侍女は、痴話喧嘩とでも思ったのか、最初は聞こえぬふりをしていましたが、次第に顔を赤らめ、とうとう俯いてしまいました。

 侍女たるもの、たとえ目の前で何が起ころうと、平然と対処するのが務め。それが男と女の成すことであっても、です。その意味ではこの侍女は、まだまだ修行が足りなかったと言えましょう。

 台与比売の「意地悪」という言葉に、弟日売のことが頭を過ぎりました。

そう言えば、難波住吉の弟日売はどうしているだろう? またあの手癖が出ていなければよいが……。

 台与比売の相手をしながらも、弟日売のことを案じていました。

 それにしても台与比売も、弟日売も、どうして私のことを意地悪、と言うのだろうか。それとも本当に自分は意地悪なのだろうか。

 女心というものは、まったくもって不可解だ。

 私はそれ以上、考えるのを諦めました。

 と、台与比売が一つ、くしゃみをしました。

 春とはいえ、まだ時おり、冷たい風が吹きます。ましてや腰上を湯から出した状態では、背に汗をかくのに体はかえって冷えて、いっそう寒く感じることがあります。

「もう一度、お暖まりになりませんと、風邪を引きますぞ」

 私の言葉に、意外にもおとなしくうなずいて台与比売は湯船に戻ると、顔だけ私の方へ向けました。

「今度は狗奴国に行くのでしょう。再び争いが起こらなければよいのですが」

「山の民の話では、狗奴国にはもはや兵士は存在せず、熊襲や果ての隼人国まで逃げて行ったようです。むしろ残った民を安んじるよう、官吏と護衛の兵士を留め置いた方がよいかも知れません」

 台与比売は再びうなずきました。

 政のことになると、すべて口にしなくとも解り合えるのに、不思議なことです。

        *

 台与比売の脚は次第に回復し、夏が終わる頃には、駆けることもできるようになっていました。しかし背丈が低い台与比売は幼き頃、父の真若王に肩車してもらって遠くが見渡せた時の感激に等しい輿がとても気に入ったようで、いつも公的行事の外出時には輿を使用しました。

 馬でもよかったのですが、我が母、先代の日之巫女と違い、勇ましい武将という印象が薄く、騎乗するといっそう背丈の低さが目立ってしまうので、どうも気に入らない様子でした。

 さらに台与比売の訪れたところでは、台与比売が使用した輿を賜わって祀ったり、あるいは台与比売のために輿を創って使用後に祀るところも現れ、非常に喜ばれたことも理由の一つでした。

 当初は屋根のない質素な輿でしたが、次第に綺麗に装飾され、屋根が付き、大型の輿が造られるようになっていきました。

 秋の収穫を祝う祭では、邪馬台国女王である台与比売に感謝を捧げるべく、皆が集まり、飲み食いや歌舞に興じたり、輿をかついで練り歩く様が、各地至る所で見られるようになりました。

 これが出雲系の神社、例えば諏訪神社などの櫓を建てる際の御柱の神事と大きく違うところです。

 古代、出雲大社の『大社』は今の読みの『たいしゃ』ではなく、『おおやしろ』と読みました。それは本殿の高さが八雲山とほぼ同じ、100m近くもあったからです。

 その本殿を支える柱、宇豆柱は土台部分では私が二人でも手を回せないほどの太さの杉の木を三本束ね、それを8基も使用していました。

 御柱の神事はこの宇豆柱、神柱を切り出して建てる作業を伝承するために行われるようになったものです。

 大国主神の国譲りの際、出雲側の建御名方神たけみなかたのかみが大和側の建御雷神たけみかづちのかみに敗れはしますが、建御雷神は腕を剣に変化させて建御名方神を驚かせ、ようやく勝利したというくらいですから、純粋な力競べでは建御名方神の方が勝っていたのかもしれません。もっともこの件は『古事記』にはありますが、『日本書紀』にはありません。異伝、異説まで記してなるべく正確に史実を記録し、残そうとした『日本書紀』にないとなると、腕を剣に変化させた建御雷神に対して批判もあり、載せないことにしたのかもしれません。

 建御名方神の勇猛さを讃え伝える御柱祭は、今でも諏訪大社をはじめ、全国の諏訪神社で行われています。

       *

 私は本田の話を聴きながら、神事や伝承に隠された歴史の裏舞台に想いを馳せた。

 勝てば官軍。悪の栄えた試しなし。死人に口なし。

 歴史は勝者の側から語られる。勝者が正義であり、正義は常に勝つ。都合の悪い史実は記載しないことにより、なかったことのようにしてしまう。

負ければ賊軍であり、敗者は悪とされ、どんな約束や正当な理由があろうとも、敗れて死すれば反故にされる。

 最近でこそ、インターネットやSNSなど情報伝達手段の多様化によって、敗者や弱者、マイノリティーと言われていた人々の情報も発信、入手することが可能になり、たとえば黒田長政に謀殺された城井鎮房きいしげふさや、その娘で山国川の畔、広津の千本松河原で磔にされ殺された13歳の鶴姫のことも調べればわかってしまう。

 13歳で邪馬台国の女王となった豊姫。同じ年齢で磔にされ殺された鶴姫。この差はいったいなんだろう。生まれた時代が悪かった? 生まれが悪かった?

 子は親を選べない。この不公平、まったくやりきれない。

 神功皇后じんぐうこうごうも蜷で造った城に和平交渉と称して狗奴国の将兵を呼び寄せ、城に入ったところを、蜷城を破壊、殲滅したと言う。

 酒を飲ませて酔っ払ったところを素戔嗚に殺されてしまう八岐大蛇然り。

 まるで謀殺された方が「悪」なのだから、殺されて当然のような扱いである。素盞嗚に殺されたのはもはや人ではなく、大蛇である。

 今、我々が在るのは彼らの犠牲の上であることを、本田の話は改めて思い知らされる。

そうやって歴史の暗闇に葬られてしまった人々に思いを寄せ、せめて心の中で手を合わせる気持ちだけは忘れないでいたいものだ。


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