第8話

 当初は屈強な刑事と病院の看護師(男)が本田の診察には同席してくれたのだが、暴力を振るわれる危険性がないとの判断に加え、ICレコーダーの録音で十分、本田の話す内容がわかるとのことで、まず、診察室から刑事の姿が消え、そしてついには看護師(男)の姿も見えなくなった。さらには通常の診察時間が終了した午後4時以降、面談室で話を聴くことになった。

 もちろん、面談室にはカメラが設置され、ナースステーションのモニター画面に常に映し出されている。さらにある一定以上の大声を出せばアラームが鳴り、ナースステーションから看護師が駆けつけるようになっている。非常用ボタンもテーブルの下に隠されていて、声を出せないような場合は、そちらを押せばよい仕組みになっている。

 もっとも、そんな非常事態は起こるはずもなく、本田の話は今日も続いた。

「今日は私と高木姫、そして末妹の弟日売との結婚の話をしましょう」

「えっ? 豊比売とではないのですか?」

 本田はそれには答えず、少し悲しげな眼差しで口元に笑みを浮かべて話し始めた。

       *

 豊比売が邪馬台国女王となって、五年の歳月が過ぎました。

 その間、大きな戦も無く、豊比売は輝くばかりの美しい女王に成長し、ますます邪馬台国の祭祀に磨きがかかっていきました。

 しかし、そう幸運は長続きしないものです。平和慣れした国には思わぬ落とし穴が待っていることがあるのです。

 秋も深まって山々が紅葉に彩られる頃。日子山川と一ノ宮川が合流する桝田の川縁を歩いている私の姿を認めた豊比売は、侍女を手で制して、一人、土手を足早に降りてきました。

「本当に別尊は、この河原がお好きなのですね」と、少し離れた所から豊比売は私に声をかけました。

 私は後ろを振り向き、豊比売を見つめました。

 高木姫の美しさとはまた別の、愛くるしくて気品があり、時おり子供っぽい表情を見せて笑みを誘うかと思えば、たおやかな身のこなしに心が乱されそうになってしまいます。

 私は再び視線を川面移して言いました。

「この川が大河となって海に注ぎ、祖先がやってきた遠い国々までつながっていると思うと、何だか心休まる気がするものです」

 豊比売は小さくうなずきます。

「それに、このススキの原……。今年は今まで以上に生い茂って、本当に見事だ」

「それはこの五年間、洪水や干ばつ、そして戦乱もなく、草原が豊かに育っているからでしょう。ススキは育つまで年月がかかりますから」

 私は豊比売に向き直って、「豊比売が女王に就いてからは、この国は乱れることなく、天変地異も無かった。私と違って豊比売の政がよかった証だ」と続けました。

「政は、別尊が行っておりますではありませんか。別尊がいらっしゃるから、私は祭祀に専念できたのです」

 しばらく沈黙が流れました。

「でも、この見事なススキの原も、今年で見納めかも知れません」

 目を見開き、私は豊比売を見つめました。

「狗奴国とは間もなく再び戦になりましょう。卑弥弓呼を倒した別尊を狙って、その子、狗古知卑呼が軍を進めているようです」

 河原を吹き抜ける風に、ススキがいっせいに揺れました。

「神託では熊襲の軍と合わせて一万とのこと。山の民に今、確認させていますが、おそらく間違いはないでしょう。このような敵の大軍、邪馬台国だけの兵力ではとても持ちこたえられません。どうか別尊、お逃げ下さい」

 私はさらに大きく目を見開いて言いました。

「豊比売を置いて逃げるなどできません。逃げるなら豊比売も一緒に……」

 瞳を潤ませながら、豊比売は頭を振りました。

「私は邪馬台国の女王。民を見捨てて、逃げるわけには参りません」

「それは私とて同じ。私もここに残って戦おう」

「いいえ。別尊は日之巫女さまの血を受け継ぐ、ただ一人の御子。日之巫女さまの倭国統一の夢を果たすためにも、万が一にもここで命を落とすようなことがあってはなりません」

 と、そこまで言って、一瞬口ごもりました。

 宮殿に立てこもった豊比売に狗奴国の兵が襲いかかり、身を挺して守ろうとした私が斃れるその瞬間を、未来予知したのかもしれません。

「それに、戦になって日之巫女さまの冢墓ちょうぼが荒らされてしまっては、邪馬台国に従う国々が離れていってしまいましょう」

「しかし……」

「狗古知卑呼にとって、このたびの戦は弔いの戦。邪馬台国を滅ぼすのが目的ではありません。第一、広い邪馬台国全土を武力で支配するには、一万でも兵力はまだ足りません」

「とは言っても・・・・・・」

「占いでは別尊がこの地に留まると邪馬台に災いが及ぶと出ております。神託でも誉田別尊は東へ遷り住まうべし、とのことでした。私の方はこの地に留まるべし。一時は困難に遭うも、後に待ち人来たり。禍いを転じて福と為すべし、とのお告げでした。ですから私は大丈夫です」

 そう言うと、豊比売は少し悲しげな微笑みで私を見上げました。

 豊比売の悲しげな微笑みの真の意味を知るのは、ずっと後のことです。私は情けないことに、豊比売が私との別離が寂しいのだろう、くらいにしか考えていませんでした。

「そこで一つ、お願いがあります」

 豊比売の覚悟の眼差しに、私は少し圧され気味に答えました。

「なんなりと」

「仲津宮に私の姉と妹たちがおります。どうか伴って、海沿いに難波の住吉をお訪ね下さい。姉、高木之入日売命の曾祖父、高皇産霊尊たかみむすびのみことが力になってくれるでしょう。その際、日之巫女さまの棺もご一緒されるとよろしいかと思います」

「承知した」

 私は、しっかとうなずきました。

「本当に、誉田別尊の妻になることだけを夢見て、巫女としての修行を続けて参りましたのに……」

 豊比売は必死に涙をこらえていましたが、堰を切った様に私の胸もとに体を預けて、泣きじゃくってしまいました。

 背中に手を回そうとして、こらえて豊比売の両肩を持って腰を落とし、私は豊比売の顔を覗き込みました。

「豊比売、泣いてはいけない。女王たる者、毅然とせねば」

「そうでした、義兄さま、いえ、誉田別尊。私は邪馬台国の女王」

 涙を手の甲で拭いながら、豊比売はうなずきました。

「あなたの姉妹の身の安全を確保した後、阿(あ)岐(き)と難波住吉の者たちを率いて、私は必ず戻って来る。それまではなにがあっても死んではならぬ」

 大きく豊比売はうなずきました。

 確かに私がこの地を去った方が、国や豊比売に累が及ぶまい。

 そう考えを巡らすと、豊比売の肩を抱く手に力を込めて言いました。

「そして私が戻って戦に勝利したら、豊比売、あなたを妻に迎えよう」

たちまち豊比売の表情が明るくなりました。

 しかし、運命とは皮肉なものです。

 この難波住吉への東遷により、対外的には私の最初の妻は、豊比売ではなくなるのです。

 あの高木之入日売命もまた、私が仲津に在りし頃より心を寄せていたのです。

         *

 奇妙な戦だったと言います。

 狗古知卑呼は、熊襲くまそと併せて一万もの兵を率いて奴国に踏み込んだものの、そのあまりに豊かな土地と、絹の光輝く美しい衣装に目を丸くしました。五年ほど前に戦をした地とは思えぬほどの別世界に見えたからです。

 最初は邪馬台国軍が大挙して再び攻めて来るかと、奴国の宮を一つ焼き払い、そこに拠点を作ったのですが、まったく反撃の素振りもなかったばかりか、奴国の民は水や米を出して、遠征の労をいたわったそうです。

 狗古知卑呼は兵五百を残して九千余で直接、邪馬台国王宮へ向けて進軍し、日子山の周囲を取り囲みました。

 しかし、矢の一つも飛んでこないばかりか、王宮へ通じる階段には水が打たれ、日子山は静けさに包まれていました。

 恐る恐る狗古知卑呼は、五百の兵を引き連れて階段を上り、王宮に足を踏み入れました。

 三十人ほどの女官が入口に控え、狗古知卑呼を広間へと案内します。その室内には香が焚きしめられ、楽の音が静かに流れていました。

 御簾がゆっくり上がり、輝くばかりの美しい豊比売の姿が現れました。

「ようこそおいでなされた、狗古知卑呼。妾が邪馬台国女王、豊です」

 狗古知卑呼は最初こそ、その気品と美しさに気圧され、一瞬たじろいだものの、次第に本性を現してきて、「ほう、これは……」と大股で御簾に近づき、片足を中に踏み込んで、舌なめずりして、豊比売の顎に手をかけて言いました。

「誉田別はどうした」

「誉田別尊は、この地にはおりませぬ」

「何処へ行った」

「難波住吉に行くと申しておりました。今は吉備あたりかと」

 狗古知卑呼は刀を抜いて、豊比売の首に突き付けました。

「嘘を申すな」

「いいえ、嘘ではありませぬ。妾は巫女、神に仕える身。嘘は申しませぬ」

 狗古知卑呼は刀を納めると、今度は豊比売を押し倒しました。裾が乱れて、女官たちは目を背けました。しかし豊比売は抗わなかったばかりか、その口もとには笑みすら浮かべていたそうです。

「邪馬台国女王のこの身を汚されるくらいなら、自ら死を選びます」

 そう言うと豊比売は、舌を噛もうとしました。

 慌てて狗古知卑呼はその口をこじ開け、兵士に命じて、猿ぐつわをはめさせました。

「まぁよい。その内、貴様たちは儂の前にひれ伏し、許しを請うことになる」と言って、狗古知卑呼は兵士に、「連れて行け。そしてこの宮に火をかけて焼き払え」と命じました。

 狗古知卑呼にとって、狙いは父を殺した私、ただ一人だったのです。兵士たちは邪馬台国の美しい娘たちや作物を戦利品として持ち帰りたかったようですが、狗古知卑呼はそれを許しませんでした。

 一つは連合国家・邪馬台国の中でも、国力豊かな奴国に恩を売っておきたかったことが挙げられます。そして将来的にはその豊富な食糧供給力を背景に、邪馬台国をも支配下に置き、より強大な国家を築きたいという願望が狗古知卑呼にはあったようなのです。

 もちろん、本格的な冬が近づいてきており、狗奴国の本拠地、阿蘇山の麓にはすでに雪が降っていて、女連れでは進軍しにくかったことも関係していたのは間違いありません。

 さらに、私が留守の間に、ほとんど無傷で邪馬台国女王を人質に取ることに成功し、おそらく最大の戦になるであろう、次の戦に備える必要もあったからです。加えて、熊襲の傍若無人ぶりに辟易していて、こんな奴らには戦利品を分け与えたくはない、と漏らしていたとか。実はそれが一番の理由だったのかも知れません。

        *

 仲津に戻った私は真若王とも協議を重ねましたが、狗古知卑呼の狙いが私である以上、私が仲津に留まれば、仲津宮が戦火に包まれれるであろうことは明らかでした。

「仲津を決戦の地に選んでも、さて、相手が狗奴国となると、おそらくは五千の兵を引き連れて来るでありましょう。我が方の兵は最低三千は必要。しかし、この仲津のみで集められるのはせいぜい五、六百。近隣から集めても、千には届きますまい。狗奴国と隣り合わせの奴国が危険を冒してまで、遠く離れた仲津まで兵を貸してくれますかな?」

 真若王は先の戦で、熊襲が狗奴国に協力したにも関わらず、何の見返りも無かったので、次は狗奴国単独、あるいは熊襲でも狗奴国に近い者より兵を募るであろう、ならば多くても五千であろう、と踏んでいました。

 しかしもし、伊都国や奴国までが邪馬台国を見限って狗奴国側に付いたら、一万以上の大軍が仲津を襲うことになります。

 もしそうなれば、仲津などひとたまりもありません。

 いずれにせよ、仲津で戦が行われたなら、仲津をはじめ、東九州一帯に甚大な被害が及ぶことは必定です。

「ならばここはいったん退くが上策かと。我が妻、火之戸幡姫ほのとはたの祖父、高皇産霊尊たかみむすびのみことは秦の者の娘を妻にもらい、一族が難波住吉に住んでおります。非常に高齢ですが、依然として健やかであると伺っておりまする。高木姫と末妹の弟日売をお連れ下されば、きっとお役に立てるかと存じまする」と、真若王は言いました。

 私はうなずいて、「真若王は、これからどうなされるおつもりか?」と訊いてみました。

「仲津の守護神とまで言われてしまっては、ここを離れるわけにもいきますまい。それに、我ら武門の者がいなくなれば土蜘蛛が再び勢いづいて、仲津は荒れ果てましょう」

 真若王の言葉に、弟、稚武王の面影がちらつきました。

 今度は真若王を失わなければよいが・・・・・・。

 未だ心が決まらぬ私の様子を見て真若王は、「豊は心配御無用。自分の役目というのをわきまえておりまする。しかもあれは賢い上、腕も立ち、娘にしておくにはもったいないくらい。その内、一人で狗古知卑呼を倒し、狗奴国を平定して戻ってくるやもしれませぬ」

 そう言うと、声を上げて笑いました。

 難波住吉へは船で行くことになりましたが、いかんせん、私以外は女ばかりでしかも大勢。これには、高木姫が一肌脱ぐことになりました。

 いつも巫女候補集めに協力してくれる、志賀島を中心として活動している綿津見の者たちを中心に、船と人集めが行われました。

 難波住吉へ発つ朝、私は母、日之巫女の陵墓に船を横付けし、棺守の兵士とともに、石棺を船へと移動させました。そして船室の一つを仮御陵とし、高木姫が祭祀を行い、日の出の方へ向かって、船を発しました。

 最初に仲津宮比売巫女の妹分である厳島の比売巫女を訪ね、さらに阿岐あき多祁理宮たけりのみやに豪族、安芸津彦命あきつひこのみことを訪ねました。

 安芸津彦命は大いに喜び、兵二千と、仲津へ帰る際の兵五千のための船団の用意を誓いました。

 さて、問題は、吉備です。

ここには吉備津彦を名乗る、五十狭芹彦いさせりひこの子孫がいます。

 彼は五十良と同じく出雲の出で、鬼ノ城きのじょうを中心に製鉄技術を地来の豪族に提供していた秦の血を引く温羅うら犬飼健いぬかいたける楽々森彦ささもりひこ留玉臣とめたまおみらと共に破り、吉備の桃太郎伝説を作った方です。そして一時は、吉備から出雲に至る、広大な勢力圏を作り上げました。

 つまり吉備津彦にとって、五十良を倒した秦の血を引く私は、同族の敵、なのです。

 そこで私は一計を案じました。

 高木姫のやはり妹分で、吉備国に縁がある巫女、倭迹迹日百襲媛命やまとととひももそひめのみことを、吉備津彦の長子に嫁することを提案したのです。そして特産の絹織物を五十匹他、多数の献上物を差し出しました。

 しかし、人の欲望というのは尽きぬもの。吉備津彦は、なんと高木姫を所望したのです。

 確かに高木姫の美しさは、多くの巫女の中でもずば抜けていましたし、その立ち居振る舞いから、皆から尊敬を集め、地位も高いことは一目瞭然でした。

 しかも吉備津彦は、高木姫が未婚であることを、すでに調べ上げていたのです。

 私は一瞬、言葉に詰まってしまいました。

 しかし、後ろに控えていた高木姫は別に驚くでもなく、吉備津彦の前に進み出ると跪き、頭を垂れました。

「吉備津彦命、まことに申し訳ございません。実は難波住吉の曾祖父、高皇産霊尊の宮に参り、誉田別尊との結婚の儀を吉日に行うことになっておりますゆえ、お申し出、お受けすること叶いませぬ。御心、有り難く心に留め置きます」

「妹背をすでに契りし仲にて、申し訳ない」と、私も頭を下げました。

「それはまことにめでたいことよ。知らぬこととはいえ、失礼致した」

 吉備津彦命はそう言うと、前祝いとばかりに、盛大に祝宴を催したのです。

 実は難波住吉と吉備国とは少なからず関係があり、高皇産霊尊から新しい種類の稲の生育技術を教授してもらったばかりでした。しかも縁戚関係もあったので、吉備津彦命としては、争いは起こしたくなかったということもあるのでしょう。

 その夜。

 私の前で高木姫が三つ指ついて頭を垂れました。

「豊比売とのことは父より聞いて存じております。あの場を切り抜けるためとはいえ、巫女の身である私がかようなことを申しあげてしまっては、もう、巫女を続けていくこともままなりませぬ。誉田別尊からどんなお叱りをお受けしようとも、構いません。この身を一生、誉田別尊のために捧げる覚悟でございます」

 立ち上がると、帯を解いて上の衣をするりと落とし、中の衣だけの姿で、私の前に立ったのです。

 私は一つため息をつきました。

「高木之入日売命、もうよいのです。さ、これを着て……」

「ずっと、ずっとお慕い申しあげておりました。豊比売が誉田別尊と出逢う前から、いいえ、豊比売が生まれる前から」

 背中に上の衣をかけようとした私の方に向き直ると、高木姫は私の胸もとを濡らしたのです。

 絶世の美女からこうまで言われ、さらに涙まで流されては、もう、降参するしかありません。

 そのまま一つの褥と夜具で休むことになって、明け方まで高木姫の押し殺した悩ましい声が響き、吉備国の女性たちから高木姫が何か秘薬でも使ったのか、あるいは私がよっぽど絶倫なのか、と噂されたほどでした。

 翌朝遅くに几帳の内で朝餉をとった二人でしたが、私はというと、目の下に隈を作ってさすがに疲れきっていて、そのまま再び床に伏してしまいたいくらいでした。一方、高木姫は明らかにそれまでと違う艶めかしい腰つきで、周囲も息をのむほどの妖艶さも加わり、ますます光り輝いていました。

 かくして吉備国を難波住吉の兵三千が通過する許可を得て、無事、我々は最後の一日の行程、難波住吉に向けて出立することができたのです。

 港で見送る吉備津彦命の横では、娘の兄媛えひめがため息をついていました。

 吉備津彦命の妻、阿曽媛は「高木之入日売命のことは、かえって住吉を利することになったのでは? 邪馬台と住吉の結びつきを固くするのに、一役買ってしまったように思えてなりません」と言って、悔しがったそうです。

 さらに、「もし高木之入日売命の話をしなかったなら、兄媛が誉田別尊の妻となる機会があったかもしれないものを……」と言って、嘆息しました。

 しかし吉備津彦命は、「誉田別尊は何か理由あって妻を持たぬかと思っておったが、これはかえって好都合。高木之入日売命を妻にするということは、兄媛も誉田別尊の妻になることができる、ということだ」と言って、むしろ喜んだと言います。

 我々一行が吉備国を訪れる前後で、大きく変わったことがありました。

 それは高木姫が甲斐甲斐しく私の身の回りの世話をしていることと、公然と私の手をとり、面と向かって会話するようになったことです。それまでは巫女として、あまり表に顔を出すことはなかったのですが、まるで私の妻であることを誇示するかのように、常に私の横に付き従っていました。

 その頃、難波住吉の高皇産霊尊たかみむすびのみことのもとに、吉備国から献上物が届けられました。私と高木姫の結婚の儀を祝う品でした。

 高皇産霊尊は訝ったそうです。

 もう間もなく、誉田別尊の一行が到着するはずなのに、そのような話は高木姫からも一言もなく、また、仲津からもまったく婚姻のことには触れていないからです。

 高皇産霊尊は困惑しました。

 もし、本当に私と高木姫の結婚の儀を執り行うなら、相応の準備が必要です。まだ納采の儀も行っていない上、婿となるのは、あの邪馬台国の日之巫女の血をただ一人受け継ぐ私だったからです。

 高皇産霊尊は狼狽しました。

 万一にも無礼があってはならぬ。たとえ間違いだったとしても、盛大に饗応の準備をすることは、遠路はるばるやってきた誉田別尊の労をねぎらいこそすれ、失礼には当たらぬであろう。

 かくして、上を下への大騒ぎで、饗応の支度がなされました。

 そのような中、我々が難波住吉に到着したのです。

 高皇産霊尊、直々の出迎えでした。これには私も恐縮したものです。

 高皇産霊尊は齢八十を超えてはいましたが、立派な体躯で声も明瞭、杖はついていたものの、かくしゃくとしていました。

 高皇産霊尊は私が難波の地を訪れた最大の理由を承知していました。それでいて、いつ、結婚の儀の話を問いただそうか、と、やきもきしていたそうです。

 一方、高木姫は難波に着くと、その足ですぐさま母の火之戸幡姫とともに、祖母である栲幡千幡姫たくはたちはたひめのもとを訪れました。

「そうであったか……。父さまには、何と申し上げようかのう」と、話を聞いた栲幡千幡姫は嘆息したそうです。

 無理もありません。高木姫との結婚が成ったとしても、豊比売がいる限り、正室ではないのです。高皇産霊尊の一族の娘を妻に迎えるからには、側室というわけにはいきません。

 しかも、二人が契りを交わしたことがまことであるということがわかり、吉日を選んで八日後に結婚の儀を行う旨、近隣諸国に知らせてしまったのです。

しばらく沈黙が流れました。

 その沈黙を破って、高木姫が顔を上げました。

「このたびのことは、私が自らの意思で行ったこと。私から大御祖父さまにお話し申し上げます」

 栲幡千幡姫に向かって、厳しい表情で言ったそうです。

 それから半時後。

 高皇産霊尊の館に、栲幡千幡姫、火之戸幡姫、そして高木姫の姿がありました。

 孫娘がひ孫を連れて帰って来たということで、相好を崩していた高皇産霊尊でしたが、高木姫から話を聞いた途端、表情を変えてしまいました。

「栲幡千幡姫よ、お前の娘たちは、どうして皆、自ら背の君を選び、我がもとを離れて行くのかのう」

 高皇産霊尊は、かつて我が母、日之巫女が難波に品陀真若王を伴って船でやって来た時、火之戸幡姫は周囲が止めるのもきかず、品陀真若王の船に乗って、そのまま仲津まで行ってしまったことを、暗に言っているのです。

 当時は下々の者は別として、ある程度の家柄の者は通常は男性の通い婚で、女性の方から男性のもとへ走ることは、あり得ませんでした。そればかりか、そのようなことをすると女性として慎みがない、と陰口を叩かれたものです。

 ただそれは、結婚が互いの一族との血のつながりを意味し、家同士、あるいは一族間での親密な関係を築くための、道具として使われていたからでもありました。

見方を変えれば、母の火之戸幡姫も、そして高木姫も、家や一族に縛られない、自立した女性であったと言えましょう。

「それに、我らに何の相談もなく、段取りも経ずに、いきなり、とは……」

 高木姫は平身低頭していた顔を上げ、高皇産霊尊を真っすぐ見て言い放ちました。

「誉田別尊は私が選んだ背の君でございます。今、倭国広しといえど、誉田別尊を凌ぐ、我が背の君に成り得るお方はおりませぬ。日之巫女さまの倭国統一のご遺志を継ぎ、大王におなりになることができるのは、誉田別尊以外におりませぬ。私の目は過っておりましょうか?」

 高皇産霊尊は、自慢の長い顎鬚をしゃくったまま、ゆっくり目を閉じました。

 さらに高木之入日売命は続けました。

「確かに大御祖父さまに何の相談もせずに私の一存で決めたこと。一族の者として、いかようにお叱りを受けようとも、構いませぬ。しかしもし私が誉田別尊の妻となる身である由、吉備津彦命に申し上げなければ、私はそのまま吉備津彦命のもとに留め置かれていたことでしょう」

 高木姫は周囲の空気が変わってきたことを感じていました。

「それに、よくお考え下さいませ。私は誉田別尊を難波住吉までお連れしたのです。こちらに戻って参ったのです。そして、誉田別尊がこちらに留まる限り、私は正妻同様。名を取るか、実を取るか……。答えは、もう、おわかりでございましょう」と言ってのけたのです。

 さすがは、高木之入日売命。だてに修学院の長はしていません。それに九州の津々浦々、気難しい首長たちを口説き落として、巫女集めをしてきただけのことはあります。もっとも、その美貌あっての為し得る業、であったのも事実、でしょうが。

 高皇産霊尊は顎鬚にやった手を、再び動かし始めました。

「高木之入日売よ、確かにな……。誉田別尊をおいてほかに、この倭国統一ができる者はおらぬのう」

 ゆっくり目を見開いてそう言うと、再び目を閉じました。しかし今度は大きく、力強くカッと見開いて、高皇産霊尊は傍に控える臣に命じました。

「ただちに誉田別尊のための新宮造りに取りかかれ。それまでの間、我が館を仮宮として誉田別尊をお迎えせよ。急げ」

 そして椅子から立ち上がると、火之戸幡姫のもとにゆっくりと歩み寄りました。

「火之戸幡姫よ。そなたが仲津へ旅立った時、一族としての縁を切るとまで申したが、取り消そう。そなたは仲津へ行くべくして行ったのじゃ。そして高木之入日売を産み、その婿として、誉田別尊をこの地へ導く定めだったのじゃ。よき孫や曾孫を持ち、儂は幸せぞ。まこと、そなたたちは一族の宝じゃ」と、火之戸幡姫のその手を取って言ったのです。

「もったいないお言葉、身に余る光栄でございます」

 火之戸幡姫は跪き、頬を一筋、濡らしました。

 その夜の饗応は吉備国とは比べものにならないほど盛大でした。

 高皇産霊尊は本来なら自分が座るべき上座に、私を座らせようとしました。

 上座とは、神の座。神のおわします所、です。一族の長がそこに座るのは、神の代理、神の声を伝える者、という意味合いがあるのです。

「ここは一族の長である、高皇産霊尊の御席。私のような者が座るべき席ではありませぬ」

 私は固辞しました。

 すると高皇産霊尊は、「これは異なことを仰せられる。我は一国主。誉田別尊は大王であらせられる」と言って、譲りません。

「邪馬台国の豊比売が真の女王。私は仲津の主に過ぎませぬ」と、私は頭を振りました。

「ならば、その豊比売をも妻に持つ誉田別尊を大王と申し上げても、差し支え無いと存じまするが」と、高皇産霊尊は頭を下げながら言いました。

 この高皇産霊尊の言葉に、周囲は驚きました。高皇産霊尊自ら、正妻の座は豊比売であることを認めたようなものなのだからです。

「今宵、誉田別尊を一族の娘、高木之入日売命の婿として迎えることができることを、誇りに思いまする。まことによくこの難波住吉までお越しくだされた」

 再び、深々と頭を垂れました。居並ぶ一族の者、全員がこれに続きました。

 その中、高木姫は嬉しさのあまり、高皇産霊尊に抱きついてしまいました。

 皆、腰を抜かさんばかりに驚きましたが、高皇産霊尊はうなずきながら目を細め、しばらくの間、歓喜の涙を流す高木姫の頭を、まるで赤子の頭を撫でるように、優しく撫でていました。

 私が高木姫の婿となり、高皇産霊尊の難波住吉宮に仮住まいすることになったことは、周囲の国々にその日の内に伝わっていきました。

 急に私の身の回りが、慌ただしくなりました。

 近隣諸国から、朝貢する者、お目通りを願う者等が、次々と現れたのです。

 その中に、吉備津彦命の姿がありました。しかも妻の阿曽媛ばかりか、娘の兄媛まで一緒でした。

 兄媛は美しく化粧をし、私が差し上げた絹を仕立てて見事に着飾り、吉備国で最後に見かけた時とは、まるで別人の様でした。

 私の姿を目にした兄媛の潤んだ瞳と、口もとに浮かんだ笑みを見て、母の阿曽媛は吉備津彦命をせかしました。

 一つ咳払いして、吉備津彦命は「こ、これは誉田別尊、先日は大変失礼を致しました。このように盛大に高木之入日売命との結婚の儀が取り行われること、祝着至極にございます」と言いました。実際に結婚の儀が行われるのは、まだ五日先の話です。

「邪馬台より難波住吉の地までお越しになり、身の回りのことで何かと不便もございましょう。我が娘、兄媛に身の回りのお世話はお任せ下されば、幸いに存じます」

 仲津から百人以上もの巫女や女官、侍女たちを引き連れて来た我々に、女手は有り余るほどあります。

「ぜひ、高木之入日売命に手ほどき頂き、誉田別尊のお側に仕えさせて頂きたく存じまする」と、吉備津彦命は頭を下げました。

 高木姫に手ほどきを受けたかったのなら、先に高木姫のもとに赴き、挨拶してから来るはず。その後、高木姫が兄媛を伴って私の所に来るのが通例であり、吉備津彦の狙いが何であるかは、明らかでした。

 しかし、一方で吉備国の国主自ら娘を差し出す、と言うことは、私への恭順の意を示すことでもあり、ある意味、人質として娘を差し出したことと同じです。

 もちろん私の子を産み、その跡を継ぐことができれば、外祖父として圧倒的な権力を得ることが可能となる、という腹積もりがあるのは、言うまでもありません。

 これがそれまでの一国主と、大王と言われ、各国が盟主として戴く者との大きな違いなのです。同じ盟主でも、女性である我が母の場合は、夫は我が父、仲津彦尊一人で跡を継ぐ者も私一人であったので、そういう損得勘定が比較的少なくすみました。長期間にわたって大きな内部でのもめ事もなく、母は女王として君臨することができたわけです。もっとも、一大率の五十良の件を除いて。

 私は心の中でため息をつきながらも、表情は笑顔で応えました。

「これはこれは大切な姫様を……。それにしても本当にお美しい姫様です」

 私の言葉に、兄媛の瞳が妖しく光ったのを見逃しませんでした。

兄媛の母、阿曽媛は阿曽郷の神官はふりの娘で、巫女です。吉備の地に稲作が伝わって後、神事として米を釜の蒸籠の上に入れ、蒸して混ぜる際の音で吉凶を占う、吉備津神社の鳴釜神事が行われるようになりました。

 阿曽媛は元々、百済から渡ってきた王子温羅うらの妻でした。温羅が吉備津彦命に首を刎ねられ、死んでもなおその首がうなり声を上げるので、阿曽媛に神饌を炊かしめ、吉凶を占うようになった、とも言われています。

 兄媛には高木姫と同じく、秦の血を引く、巫女であるという自負がありました。しかも吉備国では、並ぶ者のない美人と評判でした。

 男をとろかす術は心得ていましたが、あくまでそれは、殿方と一対一、での話です。吉備国では吉備津彦命の娘として、競争相手がいることは、考えられなかったのです。

 それが高木姫の前に出ると、反射的に萎縮してしまうのです。

 誉田別尊の寵愛を受けてしまえば、こちらのもの。

 そう考えて、いろいろ試みてみるのですが、肝心な時になると、決まって高木姫が現れ、未遂に終わってしまうのです。

「あら、兄媛さま、いかがなされました?」

 高木姫に静かな瞳で見つめられると、まるで自分のやろうとしていることがすべて見透かされているように思えてしまいます。

 住む世界が違う。

 兄媛は直感的にそう感じたそうです。

 私の目の前でわざと転んでみせても、兄媛の姿は私と高木姫の眼中にはなく、よしんば目に留まったとしても、「気をつけるがよい」と、微笑みで返されてしまうだけでした。

 よし、次は誉田別尊と二人きりの時に……。

 そう思って努力を重ねたものの、侍女の身では、そうそう私と二人きりになることはありません。

 兄媛が私の妻となる道は、遠くて険しいのでした。

     *

 さてその頃、もう一つの問題が起こりました。

 父、葛城かつらぎ襲津彦そつひこの名代で大和から貢ぎ物を持参した葛城葦田宿禰あしだのすくねは、高木之入日売命に伴われて隣室までやって来た品陀真若王の末娘、弟日売の美しさに心奪われてしまったのです。

 無理もありません。

 当代一の美貌を誇る高木姫の血を分けた末の妹で、まだ十代半ば。少し引っ込み思案のところがあるため、姉の高木姫が目をかけて、いろいろ手ほどきしていたところだったのです。

 葛城葦田宿祢は一通り挨拶を終え、今まさに退席しようとしたところで、偶然思いついたような素振りで、高木姫に訊いたそうです。

「ところで高木之入日売命、今、そちらにおわしたお方は?」

 高木姫は先刻承知でした。なにしろ葛城葦田宿祢の挨拶の声は上ずり、隣室へ視線がしきりに行っていたからです。

 こういう色恋ごとに関しては、並み居る漢どもを退け、私を見事射止めた百戦錬磨の高木姫にとって、朝飯前、ひと目で判断できることでした。

「我が末妹の、弟日売でございます」

 高木姫は恭しく頭を下げて答えました。

 葛城氏と言えば、大和を中心に高皇産霊尊の難波住吉を凌ぐ勢力を誇る大豪族です。武内宿祢の後裔の葛城襲津彦は新羅征討の際、母に軍を提供し、大将軍としても活躍した英雄でもあります。かなりの遠縁ながら、母と血のつながりもあります。

 これは好機、と高木姫は考えました。

 それに、気になることもあったのです。

 最近、弟日売の私を見る瞳が、それまでと違ってきている、と言うのです。

「なんと凛々しいお方……」

 木陰や部屋の隅から私へ、潤んだ瞳で視線を送る現場を、しばしば目にすることになったとか。

 そればかりではありません。

 侍女から、日々のお召し物を濡らすことが多い、と相談されたことがありました。

 侍女から差し出された弟日売の中の衣を見て、高木姫は愕然としました。

 翌日、少し険しい表情の高木姫の姿がありました。

「一度、会うては見ませんか?」

 高木姫は弟日売に葛城葦田宿祢のことを持ちかけてみました。

 しかし弟日売は、「今はまだ……」と言って、まったく関心がない様子。

 そうこうしている内に、弟日売が日中、気分が優れず、伏すことが多くなり、食も細って、夜ごとうなされるような、奇声を発することがある、と知らされました。

 侍女たちは物の怪に取り憑かれたのでは、と懸念しましたが、真の病からではなく、月のもの以外に濡らすことが多いという中の衣を見れば、何が原因かは、一目瞭然でした。

 殿方を得さえすれば自然に快復する病といえば病であろうが、放っておくと侍女相手に我を忘れて弟日売が、たがが外れてしまうようなことをするかも知れぬ。それだけは絶対に阻止せねばならない。さらにそのようなことがもし他に知れたなら、弟日売に、もはや殿方が通ってくるようなことはあり得ない。

 高木姫は決心しました。

 弟日売を救えるのは、誉田別尊以外にない、と。

 結婚の儀を終えて、十日が経った夜。

 その日は夜遅くまで、高木姫と愛し合いました。

 高木姫がいつにも増して情熱的なのは、結婚の儀の後、公務が忙しくなって出かけることが多く、ゆっくり時間をかけて愛し合う時間が無かったせいであろう、と私は思っていました。

 しかし高木姫は、自分が弟日売より先に懐妊するように、体温がいったん下がったところから上昇に転じる日を選んだのはもちろん、男の御子を授かるには少し間をあけた方がよいこと、そして食事は酢のものを控え、丹念に体を清めてからの方がよいことを承知の上で、実行に移したのです。

「我が背の君、誉田別尊」

 空が白み始めた頃、少し改まった高木姫の口調に、もう懐妊したか、と動揺してしまいました。

「末妹、弟日売のことでございますが……」

 私は首を傾げました。

 弟日売と葛城葦田宿祢のことは、つい数日前に高木姫から持ちかけられたばかりであったからです。

「葛城葦田宿祢との婚姻の話、うまく運ばなかったか」と、私は高木姫に訊きました。

 葛城からは一族の中から葛城之野伊呂売かつらぎののいろめが侍女に、と遣わされ、その返礼をどうすべきか、頭を悩ましていたのです。

「はい、私からも弟日売に勧めてみたのですが、すでに思いを寄せる君がいるとのこと」

 私はまさかその対象が自分だとは思わず、「そうか。ならば葛城の話を断って、弟日売が思いを寄せる相手とやらに話を付けるしかないな」と言ってしまったのです。

 高木姫はすかさず、「ですからこうして、誉田別尊にお話し申しあげておりますのでございます」と、続けました。

 あまりにも驚いてしまって、高木姫を愛撫する手が止まってしまいました。

「お、弟日売が私に?」

「はい」

「そ、それはまことか? すでにそなたや豊比売が妻としているではないか?」

「はい」

「そなたは、それでよいのか?」

 私は高木姫の瞳を、穴が開くほど見つめました。

 いくら身内であるからとはいえ、末妹までも妻に迎えよ、と言うのです。

 小さくため息をついて、高木姫は私に事情を話しました。

 さすがに驚きを隠せませんでしたが、悠長なことは言っていられない状況です。それに結婚の儀を行うまでは、正式な夫婦ではありません。別の背の君が通い、結婚の儀でお披露目された夫が、数日前とは違っていた、ということも、ままある話です。

 しかし豊比売のこともあります。

 今、豊比売はどうしておろうか。

 私の心は乱れました。

 豊比売は狗古知卑呼に捕らえられ、地下牢につながれていると伝え聞く。一刻も早く助けに行かねば。

 そう思いつつも、月日は容赦なく過ぎていきます。

 かと言って弟日売のことも捨ておくわけにはいきません。

 ある夜、私は珍しく高木姫のもとを訪れませんでした。高木姫は私がもう弟日売の所に渡ったかと思ったそうですが、実は豊比売のことを考えている内に時が経ってしまい、高木姫のもとへ伺う機を失してしまったのです。

 高木姫は弟日売のもとへ侍女に探りを入れさせたのですが、弟日売の所にも訪れていないとの知らせに驚くとともに、私が未だに豊比売のことを心にかけていることを、改めて身をもって知ったようでした。

 数日後。

 私は意を決して弟日売の室を訪れることにしました。

 それまで伏せていた弟日売でしたが、急いで香を焚きしめ、薄化粧をして衣裳を整え、私の前に姿を見せてくれました。

 仲津にいた頃の、色白でふっくらした容貌は見る影もなく、痩せこけ、色の白さだけが目立って、いっそう病人らしさを際立たせていました。

 弟日売は結婚の儀の宴に出なかったことを咎めに来たのだろうか、などと思いながら、顔を上げたそうです。

 その時の表情は、今でも瞼に焼き付いています。

 口を小さく開けて潤んだ瞳を大きく見開き、何か言葉を口にしたようでしたが、私には聴こえませんでした。

 葛城葦田宿禰も家柄を考えると婿としては申し分ないものの、自分の一生を託すに値するとはなかなか思えなかったようです。

 私は私で、弟日売は、なんと豊比売に似ているのだろう、と思って改めて弟日売を見つめました。

 確かに高木之入日売命のように他を圧倒するような美人ではありませんが、豊比売のような大きな瞳を持ち、背格好がほぼ同じ。豊比売のような溌剌とした様子は無いものの、少しやつれた表情が、今、狗奴国で受けている豊比売の苦難を連想させ、私の胸を締め付けました。

「お加減が優れないと伺いましたが、やはり仲津を離れて、水や食も違い、お体に障ったかも知れません。なるべく早く仲津に戻れるよう、準備を整えますゆえ、今しばらくお待ち下さい」

 弟日売は頭を振りました。

「誉田別尊のせいではありません。むしろ私のことで誉田別尊には、かえってお気遣いさせてしまい、申し訳ございません」

 今にもその場にくずおれてしまいそうな弟日売のお辞儀に、今宵、もしこのまま自分が帰ってしまったら、弟日売の命はそのまま消えてしまいそうに思えました。

 私はどうも病弱の少女に弱いのかもしれません。

 その夜、私は初めて弟日売の寝所に泊まり、褥を共にしました。

もちろん弟日売は、うなされるような奇声を発することはなく、歓喜の声に変わったことは言うまでもありません。

 高木姫は私が弟日売の寝所に泊まったことを使いの者から知らされ、一人身の夜の長さを思い知ることになったようでしたが、これも大切な妹のため、と忍を貫いてくれたようです。

 ところが三日目になっても私が現れないと、さすがに心が乱れた様子。

もう心は弟日売に移ってしまったのだろうか、と不安になり、侍女を弟日売のもとにやって、こっそり様子を伺っていたようです。

 弟日売は弟日売で、まさか三日目も続けて私が訪れるとは思っていませんでした。

 男性が女性のもとへ三日通い続けるということは、夫婦の契りを交わしたということ。神に報告して、三日の祝いをしなくてはなりません。

 これは弟日売の心を咎めました。

 何しろ高木姫との結婚の儀が行われたのが、つい先日のことです。ここでまた新たに結婚の祝いを行うことは、高木姫から夫になったばかりの私を奪うことになってしまうからです。

 そして何よりも、弟日売は私の心が知りたかったようです。

 自分と高木之入日売命、そして正妻である豊比売、三人の中で誰を一番愛しているのか。

 もし、自分を一番愛してくれるとしても、二人の姉のことを考えると、手放しでは喜べません。中でも囚われの身となっている姉の豊比売のことが脳裏に浮かぶと、自分がこのように幸せになってよいものだろうか、と心が痛みました。

 その夜、弟日売は私の愛撫の手を拒みました。

「どうなされた?」と訊いても弟日売は体を捩って、少し身を引くようにして、「誉田別尊は、意地悪です」と答えて、夜具を引き被ってしまうばかり。

 私は少し怒った口調で、「何が、意地悪なのですか?」と訊きました。

「それを問うこと自体が、意地悪なのです」と言って、弟日売はとうとう背を向けてしまいました。

 どうも弟日売は素直じゃないらしい。

 そう思ったものの、すでに弟日売の夜具に手がかかってしまっていて、今さら引っ込めるわけにはいきません。

 言葉とは裏腹に、少し汗ばんだ弟日売の体は、私を拒みませんでした。

「意地悪、意地悪……」

 弟日売はそう言い続けながら、歓喜に身を震わせ続けていました。

 翌朝、私は日が昇る前に起きました。高皇産霊尊に三日の祝いの報告に行かなければならないからです。

 蒸かした赤米に新酒、そして鯛。さらに絹五匹を供の者に持たせて、高皇産霊尊の館へ歩き出そうとしたその時、「私もまいります」と言って、弟日売が声を掛けました。

 身支度は調っていました。顔も目の下の隈が取れ、頬にも紅をさし、正装でした。

 こうしてみると、豊比売と弟日売はまことに似通っていて、私は思わず吐息を漏らしてしまったほどです。

「ならば、一緒にまいろう」

 弟日売の手を取り、歩みを進めました。

 高皇産霊尊の館の離れでは、朝餉の支度をしていました。そこへ朝早く、突然の訪問をすることになってしまったのです。

 神への捧げものに加え、絹を持参しての二人連れです。これが何を意味するのか、高皇産霊尊にはすぐわかったようでした。

 既に高木姫から、私と弟日売が近々伺うことになるであろうと知らされていたようですが、高皇産霊尊は訝って、その時は聞き流してしまっていたのです。

「誉田別尊よ、いや、我が大王よ、顔をお上げくだされ。我が一族の娘を二人も……。娘たちをお頼み申す」

 私の手を取り、涙しました。

 私と弟日売の結婚の儀は、内々だけで、こぢんまりと行われました。

 高木姫との結婚の儀で盛大に祝ったばかりで、あまり立て続けでは、周囲の国々にも申し訳なかったからです。

 そういう配慮と同時に、あまり立て続けでは、変に勘ぐられる恐れもあります。私は大王であり、難波住吉一国が独占できる存在では無くなっていたのです。

        *

 狗奴国との戦になるのは春先であろう、と私は考えていました。雪解けにならないと、狗古知卑呼が兵を率いて狗奴国を出ることができなかったからです。阿蘇山の麓は、冬は寒く風も冷たく、雪も多く積もります。

 狗古知卑呼が足止めを食らっている間に、私がやるべきことは、山のようにありました。

 まずは兵集めです。

 難波住吉の国力では、三千出せないことはありません。しかし国を空にするわけにはいきません。警備のために、千は残しておく必要があります。

播磨や近江などは小国で、それほど兵を出せるとは思えません。

 となると、頼りは葛城一族です。

 葛城襲津彦は母が新羅遠征のおり、世話になっています。頼めば千くらいは兵を貸してもらえましょうが、あまりこれ以上借りを作りたくはありません。

 もし、逆に葛城から兵を二千出す、と言われた場合、断りにくいばかりか、葛城襲津彦が将軍としてついて来るようなことがあったら、軍の指揮が非常にやり難くなってしまいます。

 自ら領地や兵を有していて、それを自由に動かすことができる国主と違い、今は大王と、名前の上では国主を束ねる地位ではありますが、私は実質的な権限が伴わない傀儡にしか過ぎないのです。しかも邪馬台国から離れ、女王は囚われの身です。

 さて、どうやって兵を調達するか。

 私は各国の国力、主に人口にあわせて兵の派遣を要請しました。従って人口千人の国は三十名ほどですむ一方、人口三万を超える大和葛城でも千名未満に抑えるという方法で、公平に兵を集めることにしたのです。

 葛城襲津彦はそのやり方を見て、「いつも日之巫女の側につききりで、胎中将軍と笑っておったが、なかなかどうして、食えぬ男よのう」と、傍に控える息子の葛城葦田宿禰に、眼光鋭く語ったそうです。

        *

「つい、長々と喋ってしまいました。今までと違って、ここは落ち着いて話ができます。次もここでお願いいたします」

 本田はそう言うと、頭を下げた。

 私は訊きたいことがあったはずなのに、頭からすっかり抜け落ちてしまっていて、さらにはそれを考え、思い出すだけの気力も残っていなかった。

「今日の話は俗に言う、応神天皇の東遷、ですね」

 本田は驚きの眼差しを私に向けた。

「そ、そうです。本当によくご存じですね」

 家に帰っても、インターネットで毎晩、卑弥呼や応神天皇のことを調べているので、知らず知らずのうちに詳しくなってしまっていたのだ。

「確かに世間ではそう言われていますが、難波に向かったのは畿内を制圧するためと言うわけではありません。実際は九州から命からがら脱出した、というような体たらくで、当時は軍事力などないに等しい状況だったのです。でも、かえってそれがよかったのかもしれません。もし、軍を率いて吉備国を訪れていたら戦になって、我々は敗北していたに違いありません」

 本田は改めて私を凝視して、小さくうなずいた。

「最初、お会いした時にも感じたのですが、先生は私にとって身近な方のように思えてなりません。もちろん、前世での話ですが」

 私も医師と患者という関係を超えた、親近感のようなものを感じていたのだが、職業柄、そういった先入観を排して、公平に接し、判断しようと心がけているつもりである。

 しかし実際のところ、どうなのだろう。今まですべての患者に公平に接してきたと、胸を張って神に誓えるだろうか。

 不安が過ぎった。

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