第6話

「今日は母が亡くなった頃の話をしましょう」

 自らを応神天皇の生まれ変わりと言って憚らない青年は、私から視線を逸らさず、口を開いた。

「お母さまというのは、卑弥呼・・・・・・じゃなくて、日之巫女さまのことですね」

「突っ込むのはそこかよ」と、言葉に出さなくてもわかってしまうくらい、鋭い看護師(男)の視線を背中に感じた。

「はい。邪馬台国女王の最期と、豊比売が邪馬台国女王になるまでの間の話です」

 私は目の前にいる本田という青年の精神鑑定を依頼されただけで、別に話を全部聞く必要は確かになかった。

 だが、精神科の基本は、いや、精神科に限らず医師の基本は、まず、患者の話をきいて診断に結びつく情報を得ることにある。もっとも一部の外科系の医師はそういったまどろっこしいことを非常に毛嫌いし、言葉よりも自分の目で確かめることを最優先にすることがある。もちろん内科系医師でも緊急を要する場合は躊躇することなく、外科系医師に相談、紹介するのだが、手間取って手術するタイミングが遅れたりすると、「これだから内科は」と、目の敵にされることになる。

 そういうこともあって、外科系医師に相談せずに済みそうな精神科を選んだのだが、たまに脳外科のお世話になることもあったりして、世の中、すべて自分の思い描いたようにいくとは限らないことを、何度も身をもって体験することになった。

 まぁ、彼の話を聞いていたら、本田が応神天皇と騙る理由の断片くらいは見つかるかもしれない。

 そう自分に言い聞かせながら、もっともらしい理由をつけて本田の話を聞こうとしていることに気づいて、我ながら驚きを禁じ得なかった。

     *

 正始8年、西暦247年、我々と狗奴国との戦いは、ますます激しさを増していきました。難局打開のため、私や稚武王わかたけのみこをはじめとする武官、大夫たいふ伊聲耆いせえき掖邪狗えきやくら文官に加え、長老の難升米なしめも王宮に呼ばれましたた。さらに仲津からは天候占いのため比売巫女の豊比売も呼ばれ、議論が重ねられました。

 一同を見回し、「何かよい策はないか」と母が訊きました。

 しかし誰も口を開こうとせず、その場の雰囲気が重苦しくなったので、まずは私が口火を切ることにしました。

「このまま戦闘を続けていては、邪馬台国、狗奴国、ともに消耗していき、民にその累が及びましょう。魏に使者を送ってこの戦況を伝え、和睦の道を探るのも必要かと思いまする」

 文官たちは大いにうなずいてくれました。

 これには品陀真若王の弟で、邪馬台国の将軍、稚武王から異論が出ました。

「あの狗奴国くなこくが、卑弥弓呼ひみここが、和睦に応じますかな? それに、魏まで使者を送るとなると、戻るのはいつになるやら」

 伊声耆は和睦に反対するわけではないが、と前置きした上で、「和睦となると、狗奴国は我々に対して、それなりの条件を突きつけて来ましょう」と述べました。

 矢部川以南の狗奴国には稲田が少なく、平野部の多い大川、今の筑後川のことですが、その下流の久留米・大川市付近まで勢力を伸ばしたい卑弥弓呼は、和睦に際してこの地の割譲を求めてくるのは目に見えていました。

 古来、大川より以南の地は、狗奴国が領有していました。母が邪馬台国の女王となってからと言うもの、戦闘を繰り返すたびに狗奴国は敗北を重ね、現在の柳川市の南を流れる矢部川以南まで追いやられてしまったのです。

 矢部川上流の矢部村に八女津媛神社があります。『日本書紀』に「この地に女神あり、その名を八女津媛といい、常に山中にあり」という一節があります。これが八女の地名の由来となったと言われています。

 母が矢部川流域まで支配地を広げ、仲津から巫女を連れてきてここに据えるとともに、地元の人々のために天候や水の占いを行うようにしたのです。

 この地が平定され、それを祝して仲津から連れてきた巫女も一緒になって、総勢八人の巫女で舞ったので、八乙女、それが転じて八女になった、とも言われています。

 このあたり一帯は穀倉地帯で、奴国自ら戦って勝ち取った地ではなくとも、この地を失えば、奴国が黙っているはずがありません。

 それに、邪馬台国内で最大の稲田を有する奴国が邪馬台国から離れて行くとなると、連合国家・邪馬台国の基盤が根底から崩れてしまうことになります。

 母は苦渋に満ちた表情で、「魏の都へ一度行ったことのある伊声耆と掖邪狗が再度、魏の都まで行って魏皇帝に拝謁し、和睦の仲介者の派遣を願い出る、というのはどうじゃ」と、皆に問いました。

 しかし難升米なしめは頭を振って、「魏の都まで遣いを送るとなると、皇帝に拝謁して急ぎ戻ったとしても、二月以上かかりまする。これでは次の戦に間に合いませぬ。私なら日之巫女さまのためなら命を捨てることは覚悟の上なれど、このような体では、帯方ですら辿り着き、お役目を果たすことも適いませぬ。伊声耆殿と掖邪狗殿のお二人は、帯方から戻られたばかり。しかも戦続きで日之巫女さまがお留守のことが多い邪馬台国の政を、お二人には代わって行っていただかなければなりませぬ」と申します。

 さらに伊声耆いせえきが一つ咳払いして付け加えました。

「それに、我ら邪馬台国の事情だけを説明しても埒があかないと思われまする。むしろ、当事国以外の者に状況を説明してもらうほうが、魏も納得しましょう。そうでなくては、皇帝の御旗をいつまでも帯方に置いたまま、我らには渡さぬ、という事態が続くかと思われまする」

 どうも魏は邪馬台国に対して、懐疑的になっているようでした。

 倭国での真の実力者は誰であるか、そして戦に勝利し、倭国をまとめて魏に長きにわたって服してもらえる国家はいずれなのか。

 魏はそれを試しているかのように思えたのです。

 魏と交渉可能な第三者の必要性は、わかっていても、そんな人物が都合よくいるわけがありません。

 ましてや通訳なしで、漢語を巧みに操れる人物など、砂浜から一個の砂粒を探し出せ、と言っているようなものです。いや、百歩譲っていたとしても、今から他国に頼みに行く余裕などありません。

 と、突然、豊比売がにっこり微笑み、口を開いたのです。

「それなら魏や帯方の事情に詳しい戴斯烏越さいしうをつさまを帯方郡へ使者として、遣してみてはいかがでございましょう。漢の言葉も巧みですし、適任かと」

 母をはじめ、一同、皆、驚きの目をもって、豊比売を見つめました。

 戴斯烏越殿は戴斯の発音が似ていて紛らわしいのですが、たらしあるいは太子烏越とも言い、私と同年代の人物です。

 渡来して但馬国に住んだ新羅の王子、天日槍の後裔、つまり武内宿祢や、その子孫と言われている葛城かつらぎ一族とも血のつながりがあり、祭祀に秀でた人物です。

 さらに私の祖母は葛城氏出身なので、私とも血のつながりがあり、越の国、角鹿・・・・・・、現代では敦賀と言うのでしたね、その地でいろんな調理方法を考案し、食の神、伊奢沙和気いざさわけ大神と人々から尊敬を集めている方なのです。

 母の新羅遠征に同行したこともあり、第三者とはいかないまでも、うってつけの人材であることは、間違いありません。

 服装がまた、たいへん奇異で、喪中でもないのに黒の衣袴を好んで着たので、皆から烏と呼ばれていました。一見、漢服に似ているのですが、道教に傾倒していたのでおそらくは道士が着た道袍の一種でしょう。

 たまたま前日、烏越殿は仲津へ立ち寄ったところを誘われ、豊比売らとともに、母へご挨拶を、と王宮を訪れていたのです。

 母をはじめ、邪馬台国の英知を結集、重鎮が居並ぶ中、祭祀が主で一番政治の世界に遠いと思われていた仲津宮の比売巫女である豊比売が最適な人選を示したのは、本当に驚きでした。

 豊比売は魏へ遣いの者を送る際の、日程に関わる天候占いを行うために呼ばれてやって来ただけだったのです。

 数えで12歳ですから、満年齢でいくとまだ11歳なので、当然と言えば当然ですが、本当に幼い顔立ちで、誰が見てもこの場にいること自体が場違い、と言ってもいいくらいの子供でしたから、皆が驚くのも無理もありません。

 母はよっぽど驚いたのか、目を見開いたまま、「そ、そうじゃな。烏越ならばよい。魏にもその名が知られておるからのう。烏越に頼んでみることにしよう。烏越を呼べ」と言って、席を立ってしまいました。

 後日に私は豊比売に訊いてみました。

「よく烏越殿のことをご存じでしたな」

 すると豊比売は笑みを浮かべて「仲津へ烏越さまがいらした時、黒服の不思議な格好をされている方でしたので、お声をおかけしてみたのです。そうしたら、とても面白いお方で、新羅や魏のこと、そして越のことを詳しくお話していただいたのです」と、答えました。さらにちらりと私の方を見やって、一瞬、間を置いて付け加えました。

「そして昔の和気命のように、私を膝に抱き上げて、あと5年したら妻になれ、とおっしゃったのです」

 そして小さく笑いました。

 確かに見かけは幼く見えますが、すでに12歳になっている豊比売です。5歳の時とはわけが違います。その姫を膝に抱き上げるとは、さすがに心中穏やかではありませんでした。

「で、豊比売はなんとお答えに?」と訊くと、豊比売は「それは、秘密です」と言って、再び笑みを浮かべました。

 私と烏越殿はよっぽど因縁がある間柄のようで、後に角鹿つのがを訪れた時、私を歓待供応するために、自ら伊奢沙和気いざさわけと名乗って出迎えてくれました。

 世間では私と烏越が名を交換したと言われていますが、これにはわけがあります。

 豊比売の天候占いの正確さについて話をしていたら、烏越殿は、「豊比売は本当に素晴らしいお方ですな。才色兼備、とは、豊比売のためにあるような言葉。やはりぜひ、妻に欲しい」と言ったのです。

 そう言えば、と豊比売の言葉を思い出し、「以前、仲津宮で豊比売が烏越殿になにか申しあげたとか。なんと仰ったか、お聞かせいただけませんか?」と、訊いてみました。

 すると烏越殿は、「ならば、品陀和気命と名を交換するのならお教え致そう」と返答しました。

 私はなぜ名を交換する必要があるのか解せなかったのですが、教えてもらえそうなので「名を交換するなら、教えてもらえるとは、まことですか?」と、改めて訊いてみました。

 烏越殿は大きくうなずきました。

「このことは他に漏らさぬよう、二人の間の秘密とするように、との仰せであったからな。ならば、品陀和気命が我と名を交換し、我が真名まなを名乗るならお教えしてもよい、ということになる」

 そうまで言われると、なおさら訊いて確かめたくなるのが人情と言うものです。

私はおそるおそる、「我が名は品陀和気。伊奢沙和気命と名を交換致そう」と申し上げました。

 すると烏越殿は勝ち誇ったように、歓喜の声を上げました。

「これで豊比売は我のものぞ。豊比売は品陀和気命は我が背の君、神前で将来を誓い合った仲であり、何人もこれを妨げることはできない、と仰ったからな」と言うではありませんか。

 私は「あっ」と小さく声を上げ、しまった、という表情を見せてしまいました。

 烏越殿は腹を抱えてしばし笑い転げました。

「いやいや失礼を致した。あの豊比売からそこまで惚れられるとは……。まこと、羨ましい限り。男冥利に尽きるというもの。明朝、浜へ参られよ。差し上げたいものがある」と言って、右手を挙げて軽く振りながら立ち去っていってしまいました。

 翌朝、私が浜に行くと、鼻の傷ついた海豚いるかが現れたのです。

 私は思わず嬉しくなって「烏越殿は御食みけを下さった」と、従者がひかえているのも忘れて、声を上げてしまいました。

 御食は神もしくはその代理である大王に対して献上されるものです。つまり、烏越殿は私を主として認めた、と言うことになるのです。

 私は敬意を表して、伊奢沙和気命と名乗った烏越殿に御食津みけつ大神と、改めて名を与えることにしました。

     *

 正始8年、西暦248年、帯方郡から塞曹掾史さいそうえんし張政ちょうせいらが倭国に渡って来て、出迎えに来た難升米に黄幢こうどう、黄色の旗ですね、それと詔書を手渡しました。さらに帯方郡太守の手による檄文を読み上げました。

 本来は和平交渉の仲介を依頼する目的だったのですが、魏の黄幢が邪馬台国へ渡ったので、烏越殿を帯方郡に遣わした労は、形は違うにしろ、一応報われた形となったわけです。

 難升米はすぐさま黄幢を戦地の我々のもとへ届けてくれました。

 母は詔書と檄文を読み、黄幢に視線をやって、ため息をつきました。

「今さら魏国皇帝の御旗を背に戦って、それで勝てる相手ではないのだがな」

 傍に控えていた私に詔書と檄文を渡し、「魏皇帝の名にかけて、『これを最後と思って命を賭して戦い、必ず勝利せよ』と言うがのう……」と言って、黄幢に視線を移し、再びため息をつきました。

 そんな母を見て私は、「これで我々は魏国皇帝の認めた国と軍、ということになりまする。諸将の意気は、上がりましょう」と答えたのですが、母は腕組みしたまま、何の返答もありませんでした。

 狗奴国との、この戦は壮絶でした。

 建中太尉けんちゅうたいい梯儁ていしゅんが最初に倭国を訪れた正始元年、西暦240年と違い、このたび使者に選ばれた塞曹掾史張政は、魏国帯方郡の文官です。主な仕事は記録。倭国情勢を把握するために派遣されたと思われます。

錦の御旗ならぬ黄幢はあっても、先に来倭した建中太尉梯儁のように、魏軍の士官ではありません。母に協力して戦術を立てたりするには、少々難がありました。

 母はその時、すでに齢60を超えていて体力的な衰えに加え、巫女としての直感力の衰えもみられたようです。

「夕刻には雨が上がろう。さすれば川を渡って、攻め入るのも易かろう」

 一時、休息を命じた母でしたが、雨は上がらず、矢部川の水量は逆に増してしまいました。

 攻め入る機会を逸した邪馬台国軍に、雨に紛れて川を渡って来た狗奴国軍の卑弥弓呼と、その子、狗古知卑呼の軍勢三千が攻めかかりました。

 降りしきる雨の中、矢が飛び交い、石の鏃が背中に突き刺さって、母は落馬してしまいました。

「母上!」

「日之巫女さまっ!」

 私が副官として傍についていながら、なんという失態。馬を飛び下りて駆け寄り、兵士たちがその矢面に盾となるように集まって、飛び来る矢を刀で払いながら防ぎます。

 私は狗古知卑呼の猛追を防ぎながら、ひとまず奴国の高良宮まで兵を退くことにしました。

 狗奴国軍も兵の半分を失い、これ以上の深追いは禁物と、雨上がりの霧に乗じて引き上げて行ったようでした。

 その夜、高熱が母を襲いました。

 石鏃の創は脊柱に達し、毒が塗られていて神経が麻痺して起きあがることもできない状態でした。

「おのれ、卑弥弓呼!」

 次第に言葉を口にする力も失われていきました。肺に到達した矢創からは空気が漏れ、肺が潰れてしまったのです。

 猛烈な呼吸困難と痛みの中、母は息を引き取りました。

 私は悲しみに暮れる間もありませんでした。

 なんと、一大率であった伊都国王、五十良いそらが邪馬台国の大王に即くと宣言したのです。

「叔父上、それでは話が違う。大和、出雲、秦の血を受け継ぐ仲津の者が代々邪馬台国の王位を継ぐ、というのが母が邪馬台国の女王となる際の条件だったはず。それでは諸国が納得しようか? 叔父上はかつての大乱を、また繰り返したいとお思いか?」と述べたのですが、五十良はゆっくり立ち上がり、「すでに諸国の大半は賛同した」と声を上げ、数歩歩んで振り返りました。

「それもよいかも知れぬな。お前を邪馬台国の王として、また、日之巫女のように矢面に立って戦ってくれると、儂も楽ができる」

 高らかに笑うと、大股で館を出て行きました。

 日之巫女を支えるという名目で、一大率として自らは動かず、各国に睨みをきかせていた伊都国王、五十良は、母が女王の座にいた頃から、実質的な邪馬台国の支配権は伊都国王の手中にあったのかも知れません。あるいは、出雲の血を引く五十良が邪馬台国王の座を譲る代わりに、実質的な邪馬台国の支配権を掌中に収めていたのかも知れません。

 翌朝、邪馬台国王宮では五十良が、かつて母が座っていた薦で編まれた一段高い上座に座り、集まった諸国の代表たちを見下ろしてグルリと睨みをきかせていました。

 諸侯はその視線に恐れを成し、次々と五十良への恭順の意を表しました。

「時に、仲津王よ」

 最初、誰のことを指して言ったのかわからず、諸侯は五十良の視線の先を追いました。皆、驚きました。無理もありません。五十良の視線の先には私の姿があったからです。

 父、仲津彦尊亡き後、一つ屋根の下、兄弟同様に育った又従弟の品陀真若王が実質的には仲津を統治していましたが、息子である私が名目上は、依然として仲津の主だったのです。

 五十良は私を連合国家・邪馬台国日之巫女の子としてではなく、一介の諸侯に格下げして、意図的にそう呼んだのです。

「日之巫女さまの葬儀まで、しばしある。卑弥弓呼の首を日之巫女さまの墓前に捧げるべく、ただちに討伐軍を指揮して、狗奴国へ向かうのだ」

 広間がざわめきました。

「叔父上……、あ。いや、陛下。まだ戦に敗れて間がありませぬ。さらに、田植えをまだ終えていないゆえ、兵も揃いませぬ。時期尚早かと存じまする」

 少々声を荒らげて早口で答えたところ、広間からは、そうだそうだ、という声が次々と上がりました。

 しかし五十良は声の方へじろりと視線を走らせ、私を睨み付けながら、ゆっくりと口を開きました。

「そのような悠長なことを言っておるから、卑弥弓呼に敗れたのだ。これは邪馬台国王としての命であるぞ」

 私は平伏せざるを得ませんでした。

 一方で五十良の強圧的な態度に、反感を抱く者も少なくなかったのです。その一人が品陀真若王の弟で邪馬台国の将軍、稚武王です。

 実は稚武王の母は出雲の出で、五十良とは血のつながりがあります。しかし長らく仲津を守ってきた父方、秦の者の気風を色濃く受け継いでいて、豪傑ではあるが争いを好まず、五十良とは相容れないものがありました。

 私が遠征軍を組織し、準備を整えていたのですが、副将である稚武王と、集めたはずの兵士の姿が見えません。私は胸騒ぎを覚えました。

 そこへ、仲津の豊比売からの使者が稚武王が伊都国へ向かった様子がある、と知らせてきました。

「比売巫女さまがおっしゃるには、稚武王は五十良殿のお子、五十迹手いとでさまを討つおつもりかも知れぬ、と」

 使いの者から耳打ちされた私の顔面から、みるみる血の気が引いていきました。今は自国の中で争っている場合ではないのです。

「馬を引け。ただちに稚武王を追うぞ」

 私は残っていたわずか百の王宮守備兵を率いて、伊都国へと向かいました。

 遠河、今の遠賀川を渡る頃には百五十と兵の数は増えたものの、稚武王の率いていった騎馬三十騎、六百の兵には明らかに及びません。しかも伊都国の兵力は千を超えます。

 稚武王を止める力も無く、稚武王と併せても伊都国を攻め落とすだけの兵力も無く、戦になれば、同胞で血を流すことになりかねません。

 篠栗の地で追いついた私は稚武王に向かって声を張り上げて言いました。

「叔父上、稚武王よ。今、戦ってはなりませぬ。ただでさえ、先の狗奴国との戦いで兵を失い、これ以上兵を失えば卑弥弓呼の思うつぼ。ここは退いて下され。いや、このままこの兵を率いて大川を越え、一気に狗奴国を落としましょうぞ」

 稚武王はゆっくりと馬首を返しながら、じっと私を見つめました。

「義姉上も亡くなられた今、品陀和気命よ、おぬしが本来なら邪馬台国の王となるべきであったのに、なぜ、五十良の首を刎ねてでも王としての責務をまっとうしなかった。王たる者、国をないがしろにする者から国を守ってこそ……」

 稚武王がそこまで言いかけた時でした。篠栗の山々から声が響き、伊都国軍が山の尾根に姿を現しました。

 そして五十迹手自らその先陣に立ち、周囲には矢をつがえた伊都国軍の兵士達が私に狙いを定めていました。

「邪馬台国王の意に背き、わが伊都国に攻め入ろうとする反逆者たちよ。おとなしく我が軍門に下れ。さすれば品陀和気以外の者の命は助けよう」

 五十迹手の声が、静まりかえった山間の多々良川沿いに響き渡ります。

「伊都国王、五十迹手殿、勘違いめされるな。我らはただ今より狗奴国への戦いに向かおうとしているところ。伊都国へ攻め入ろうなどという考えは……」

 私の声を遮り、五十迹手は鋭い眼光を向けて言いました。

「ならば進む方角が違おう。問答無用、反逆者を討つ。矢を射よ」

 いっせい矢が山の麓の我々に向けて放たれました。

「ひ、退けっ!」

 私と稚武王が、同時に声を上げました。

 我々は軍を焼山に戻したものの、すでに二百余が討たれ、残った兵士も手傷を負って、戦意を無くしかけていました。

 追い打ちをかけるように、邪馬台国王宮から、五十良が邪馬台国王の名のもとに討伐軍を率いて、こちらへ向かっているとの知らせが入ったのです。

 稚武王は私に進言しました。

「品陀和気命よ。わが同胞邪馬台国軍と伊都国軍に挟撃されては、命運も尽きたと言ってもよいかも知れぬ。同胞を傷つけるには忍びない。ここは伊都国と一戦を交え、潔く散ろうぞ」

 私の考えは違いました。

「いや、助かる道はまだありますぞ、叔父上。五十良の率いてくる軍の兵士たちは、邪馬台国の者。戦をしたくないのは同じはず。我らが先に不戦の意を示せば、血が流れる戦は避けられましょう。伊都国軍と合流する前に五十良の軍を抑え、全軍でもって伊都国に当たれば、自ずと勝機も見えて来ます。よしんば勝てなくとも、退路を確保しつつ、伊都国軍と互角の戦いをすることができるやも知れませぬ」

 呆れ顔で稚武王は私を見つめ、呟きました。

「義姉上がそういえば言っていたな。『もし、自分が戦うとしたら、品陀和気命のような情を絡めた戦術を立てる相手とは戦いたくない。なぜなら自分が最も不得手とする戦術だからだ』と」

 稚武王の顔から緊張の表情が少し緩みました。でも、事態はそう甘くはありませんでした。

 伊都国軍が山に火を放ったのです。焼山の名の如く、その山は、みるみる炎に包まれていきました。

 私はただちに兵をまとめると、畝原山うねはらやまを越えたところで鉾を立て、陣容を整えました。その地が鉾立山と呼ばれる所以です。

 そして一気に焼山を迂回して、大分に進軍してきた邪馬台国軍の側面に突然姿を現し、五十良の目の前で、馬上から声を高々と張り上げました。

「我は邪馬台国女王日之巫女の子、品陀和気なり。我は同胞の皆と戦う意志は無い」

 そう言うと、腰の剣を鞘ごと放り出しました。他の兵士たちも打ち合わせ通り、弓矢や剣を足下に置きました。

 邪馬台国軍の五百の兵士たちは、顔を見合わせました。

 と、五十良の一つ後ろの馬上に控えていた髭を蓄えた、伊支馬いきまが腰の剣を私の足もとへ投げると、馬を下り、跪いて言いました。

「我らが品陀和気命、日之巫女さまの跡を継ぎ、邪馬台国王となられるべきお方に従い、ここに剣を置きまする」

 再び五十良側の兵士たちは顔を見合わせたものの、次々と武具を放り出しました。

 五十良は激高しました。

「な、何をしておる。邪馬台国王は、我であるぞ。その反逆者を斬れ。これは邪馬台国王としての命ぞ」

 幸い、五十良の命に従う者はいませんでした。

 それもそのはず、数は五百とはいえ、騎馬にまたがる者のほとんどは邪馬台国の文官で、兵は農民という、寄せ集めだったからです。

 もし、まともに戦えば、六百近くの正規軍に勝てるはずもありません。

 ましてや、伊支馬ら文官のほとんどは日之巫女に仕え、日之巫女の子であり、政を共に行い、その成長ぶりをつぶさに見てきた私と命をかけて戦おうなどとは、思いもよらないことだったのです。

 一大率だとはいえ、日之巫女の死後、邪馬台国王を自ら名乗り、強引に邪馬台国王の座を奪った五十良よりも私の方に、はるかに心情的には近かったのです。

 私に向かって跪き、頭を垂れる兵士たちを驚愕の眼差しでみつめ、ジリジリと後ずさりすると、五十良は供の兵士を2人連れて、脱兎のごとく逃げ去ってしまいました。

「ただちに追いましょうぞ」と、稚武王が腰の剣を抜いて言いましたが、私はそれを制しました。

 五十良は遠河を下って海沿いに伊都国へ向かおうとしたましたが、風と潮流に流され、さらには綿津見族に追われて日本海側沿岸を転々とし、能登半島を越え、糸魚川沿いに上って安曇の山間に安住の地を見つけ、その後、磯武良と名を変えてひっそりと暮らしたそうです。

 私はというと、「今は伊都国との戦に備えなくてはならない。それに文官たちや農民に戦をさせるわけにはいかない。傷を負った者もいる」と言って、半分近くの兵士を返そうとしました。

 ところが「品陀和気命、我らが邪馬台国国王陛下。どうか我々も一緒に戦わせて下さい」と言って、帰路に就くべく配された兵士たちは、額が土に付くほど平伏しました。

「わかった。ならば一緒に戦おう。ただし、王宮も守らねばならぬし、政を疎かにするわけにもいかぬ。文官と王宮護衛の任にある者、そして負傷した者は、王宮へ戻れ」

 そう言って、百余を日子山へ向けて返すと、千余の兵を稚武王を副将として隊を再編し、伊都国軍が攻め込んでくると思われる山道に兵を埋伏して、追撃に備えようとしました。

 そこへ、王宮から早馬の伝令が来ました。

 伝令の者は、肩で息をして馬から滑り落ちながら言いました。

「品、品陀和気命……。卑弥弓呼率いる狗奴国軍が、高良宮に迫っております。その数、およそ三千」

 どうやら狗奴国軍は、山鹿から小栗峠を経て、八女の地に入ったようです。

高良宮は耳納山の北西、高良山の山頂にあり、広く筑後から大川を越えて神埼かんざきまで見渡すことができる奴国の拠点です。その西側には広大な田畑が広がり、奴国二万戸の人々を養っています。

 私は馬にまたがると、兵をまとめ、筑後の奴国へ向けて進軍を始めました。

 ところが今度は伊都国軍が追撃してきたのです。

 一度は押し返すには押し返したのですが、このまま伊都国と戦えば、自らも兵を減らし、奴国を助けに行くどころではありません。

 すると稚武王が進み出て言いました。

「兵を百五十お貸し下され。しんがりを務めまする」

 私は稚武王を凝視しました。

 このしんがりの意味するところは、死、以外の何ものでもないからです。

 なぜなら、私を奴国に向かわせるための、足止めなのですから。

 本隊を速やかに奴国に向かわせ、さらに本隊の兵力を温存するためには、しんがりに多くの兵を割くことはできません。

 しかもこの場合、敵兵を足止めすれば、本隊との距離は時とともに離れます。従って本隊からの援護は望めません。となれば、しんがり部隊の命運は定まったも同然です。

「品陀和気命よ、邪馬台国を頼む。立派な大王おおきみになれ」

 そう言って小さくうなずくと馬首を返し、手勢を三十ずつ5隊に分け、魚鱗の陣形に編成しました。

 そして大宰府へ抜ける須恵との分岐点である、大野に向かっていったのです。

 私はその後ろ姿に深々と頭を垂れ、唇を噛みしめながら踵を返し、馬にまたがると、号令をかけました。

「今より夜通し走り、明け方には大川を渡って、高良宮を包囲する狗奴国軍を討とうぞ」

 大いに意気が上がり、冷水を越え、基山に至った時には兵数は千五百にまで膨れあがりました。

 一方、稚武王は米ノ山峠に伊都国軍を誘い込み、わずか百五十で千数百の兵を翻弄していましたが、さすがに多勢に無勢。一人討たれ、また一人討たれて、稚武王と数人になってしまいました。

「兵をひと所に集め、方円を成せ。敵が襲わば、陣形を開いて中へ導け」

 月明かりだけを頼りに、五十迹手は伊都国軍の陣容を整えると、稚武王が来るのを待ちました。

 間もなく、丑寅の方角に斬り合う音が聞こえ、「陣形を開け」と、五十迹手が声をかけます。丑寅の方角が開いて、稚武王らが鶴翼の陣に飲み込まれるように、包み込まれていきました。

 それから半時。

 山の斜面を覆う屍を乗り越え、稚武王は走りに走って、それを伊都国軍が囲んだまま追い続け、ついに稚武王を遠巻きに取り囲むと、いっせいに矢を放ったそうです。

 針鼠が如く、矢を全身に浴びて仁王立ちになる稚武王に、恐れを成して、しばらくは伊都国の兵士は誰も近づくことができなかったと言います。

 五十迹手が刀を抜いてゆっくりと近づいても、稚武王は身じろぎ一つしません。

 下弦の月明かりの中、一閃とともに首が転げ落ち、ようやく稚武王は倒れたそうです。

「なんと恐ろしい敵ぞ。我が軍の半数以上が、この男一人によって失われたのか。しかも、品陀和気の本隊は冷水越えをしたとは……。まんまとこの男に誘い込まれたというわけか。敵ながら、あっぱれ。龍神が如き働きぶり」

 五十迹手はそう言うと、従者の一人に碑文を石に刻ませて、山の麓に祀ったそうです。その山が龍王山と言われる所以です。

 さて、高良山を目指した我が軍は、夜陰に紛れて大川を渡り、狗古知卑呼に敗れて大将を失った神埼軍千五百を加え、三千の兵で卑弥弓呼らの背後を突きました。と同時に、高良宮からも守備兵千余が呼応して、狗奴国軍、三千を挟撃することになりました。

 一瞬で形勢は逆転しました。

 狗奴国軍は、高良山を囲むようにして高良宮を目指し、ジリジリと登っていたところを後ろから突かれたのです。

 私は魚鱗の形の隊を、狗奴国軍を包み込むように鶴翼の陣形に変えました。もちろん、狗奴国軍殲滅を目指した陣形です。卑弥弓呼の指揮する左翼には、私、自ら当たりました。

 四千の兵に挟撃されては、さしもの卑弥弓呼、狗古知卑呼の勇猛をもってしても、敵うものではありません。しかも来るはずはないと踏んでいた私の姿を目にした卑弥弓呼は、大いに動揺しました。

 勢いというのは恐ろしいものです。それまで屍を重ねてきた奴国の兵士たちでしたが、攻勢に転じてからは、まるで不死にでもなったかのように、狗奴国軍を圧倒しました。

 そしてその激戦の最中、卑弥弓呼は奴国の兵士に腹部を射抜かれ、馬上から落ちたところ、その首を刎ねられました。

 子の狗古知卑呼は命からがら小栗峠を経て逃げ帰って行きましたが、付き従う者は一人もいませんでした。

 まさに歴史的大勝利でした。

 母がその生涯をかけて戦っても倒せなかったばかりか、戦いの最中、命を落とすことになった相手、卑弥弓呼を屠り、狗奴国軍三千を殲滅することができたのです。

 日が天中にさしかかる頃、五十迹手の軍が高良山の麓まで辿り着きましたが、すでに戦いは終わっていました。

 奴国王が跪く私を前に、呆然と立ちつくす五十迹手でした。

「邪馬台国大王の御前であるぞ」

 奴国王の言葉に、すでに時、遅きことを思い知らされ、頭を垂れて五十迹手は私の前に跪きました。

 後日、出雲との和睦の議が豊浦の長門で行われた際、五十迹手は白銅鏡、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまと共に十握剣とつかのつるぎを差し出し、帰順したことを居並ぶ出雲の将軍たちの前で示すことになるのですが、この時、私はとても勝利の余韻に浸る気分にはなれませんでした。

 なぜなら五十迹手がここに到着したということは、稚武王がすでにこの世に亡いことを意味していたからです。

 五十迹手にしても、父、五十良の憎き仇敵ではあるものの、伊都国の数倍する国力の奴国と、その危機を救った私を相手に戦をしても勝ち目が無いのは火を見るより明らかです。ただ、もう、跪くしかありませんでした。

     *

 誰しも、次の邪馬台国王は私であると思っていたようですが、私はあまり気が進みませんでした。かと言って、代わる者がいません。あの偉大な母、日之巫女の跡を継ぐと言うのは、そう簡単なことではないのです。

 さらに、一大率であった伊都国王、五十良の印象があまりにも強く、「品陀和気命が邪馬台国王になったら、連合国家とは名ばかり。これからは属国として生きていくしかない」とまで言い切る国の首長もいました。

 奴国はそれでも豊かな土地に支えられて二万戸と人口も多く、兵を組織すれば五千余。必然、発言力も上がり、実を取ることができました。

 でも、他の国々は事情が違っていました。

 四千戸余りでも九州の西端に位置する松浦の末盧国や、三千戸あっても海の中の壱岐の一支国、千余戸ではありますが、やはり海の中の対馬の対海国、そして邪馬台国に敗れた伊都国の前途は厳しいものがあります。

 ましてや数百戸しかない斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、弥奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、対蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、窮臣国、巴利国、支惟国、烏奴国といった小国は、大国と同盟関係を結んで存在を保証してもらうか、連合国家に属し、その一員として従って行くことが、生き残るための道でした。

 これは裏を返せば、連合国家である邪馬台国にとって、小国であってもその国々をいかに多く繋ぎ止めておくことができるかどうかに存在価値が問われている、と言って過言ではありません。

 そして日之巫女の跡を継ぐ者は速やかに葬儀を執り行い、日之巫女からの権力を継承、邪馬台国の支配者であることを皆に示し、配下の国々の首長たちを納得させねばなりません。

 そのためには、当初、狗奴国との和睦の道を探るべく、魏皇帝に母が頼み込んで使者として帯方郡から遣わしてもらった塞曹掾史張政に、葬儀までの間、しばし留まってもらわなければならなかったのです。しかし長居はできません。波風の強い冬の玄界灘を渡るのは困難を要するからです。

 冬になる前までに、つまり、あと3ヶ月の内に葬儀を執り行い、貢ぎ物と共に、魏まで無事に張政を送り届けなくてはならないのです。

陵墓をどこにするかも問題でした。

 私は、遠くは西に邪馬台国王宮のある日子山を望み、東は海を隔てて畿内を望み、仲津を一望できる山国川下流の丘陵に造墓することを望みました。でも、今から新たに造るとなると、到底間に合いません。

 山国川は英彦山の山腹、野峠に源を発し、現在の中津平野を貫いて周防灘に注ぐ河川で、古代には『御木川みけがわ』と呼ばれていました。『筑後国風土記(逸文)』によると、筑紫君磐井が物部麁鹿火もののべのあらかひに討たれて最期を遂げたとされる上膳かみつみけは、この上流域です。みけ御食みけに通じ、これは神もしくは大王への献上物のことを言い表します。

 私は一計を案じることにしました。「卑弥呼以死、大作冢(ちょう)、徑百餘歩、葬者奴婢百餘人」と『魏志倭人伝』に記された母の墓は、新たに造る墳丘墓ではありません。すでにある山を整地し、塚状に盛り土をして、棺を納める石室を造ったものです。。

 そしてかつて母に侍していた婢や、王宮の雑役を行っていた者、千余の人々中から殉死者を募りました。私としては、生きている者を一緒に埋めるなどということはしたくなかったのですが、張政の、「邪馬台国には、始皇帝陛下の兵馬俑へいばように匹敵する陶俑の作り手がおりますかな? いるなら話は別だが……」の一言で、沈黙せざるを得ませんでした。

 姓はえい、氏はちょう、諱はせいと言うと誰のことかわからない方が多いかもしれません。通称の始皇帝と言えば、誰もがその名を耳にしたことがあるはず。そう、中国統一を成し遂げ、初めて自ら皇帝と称した秦の王のことです。

 紀元前210年に亡くなった始皇帝。

 その当時、中国では実に精緻な等身大の陶俑を作ることができました。倭国の技術では土偶や埴輪がせいぜいで、比較にすらならなりませんでした。

 30人ほど募った殉死希望者の中に、まだ十代の若者がいました。家が貧しく、長兄の子供たちが飢えて痩せ細ってしまったのを見かねて、密かに末弟が募集に応じたのです。私はその家に赴くと末弟に辞退するよう諭し、10人の家族が当座は食べていけるだけの食料と、仲津の屋敷近くの私の直轄田、誉田を分け与えました。以降、旧来の「だ」と濁って発音する品陀和気ではなく、濁らずに「た」と発音する誉田別ほむたわけと呼ばれるようになった次第です。

 こういった経緯もあって、なかなか目標の人数に届きません。そこで伊声耆と諮り、高齢で老い先長くないと思われる者や、狗奴国の捕虜で奴隷となった者などを選んで、ようやく人数を満たすことができました。

 さらに仲津から品陀真若王を呼び寄せ、「ひとつ、頼みがあるのだが……」と言って周囲に気づかれないように、あることを耳打ちしました。

        *

 その頃、仲津宮では、「姉さま、姉さま、誉田別尊がお勝ちになりましたよ」と、豊比売が声を上げながら、三角池の鳥居をくぐって岸に着いた小舟を降りると、土手を駈け登ってきました。

 迎えに来ていた高木姫はため息をついて、「豊比売、あなたは神にお仕えする巫女です。もう少し、たしなみというものを覚えなさい」と言いました。

 豊比売は口元に笑みを浮かべながら、わざと怪訝な顔をして、「でも、姉さま、誉田別尊がお勝ちになりましたのに、嬉しくないのですか」と、口を尖らせました。

 高木姫は「そ、それは……」と、少し頬を染め、一つ咳払いして答えました。

「それは嬉しゅうございますとも、比売巫女さま」

 豊比売は、ふくれっ面をして言いました。

「もう、姉さまったら。その、比売巫女さまと仰るのは、お止め下さい。私は姉さまをいつも高木之入日売命とお呼びしなくてはなりません」

 高木姫は頭を振りました。

「あなたは仲津随一の巫女となられたのです。私が比売巫女さまとお呼びして、何の不都合がありましょう。いいえ、本来なら私など比売巫女さまとは、このように立ったままで言葉を交わすことすら、許されないのですから」

「そのようなことをおっしゃらないで、姉さま。姉さまだって、私の前の比売巫女でいらっしゃったのですから」

 口もとに笑みを浮かべて、高木姫は腰の剣を抜きながら、「私は、あなたとこの仲津をお守りするため、剣と学問の道に生きると、日之巫女さまに誓ったのです」と言うと、八双に構えました。

 豊比売も瞳を輝かせて腰から剣を抜き、八双に構えます。

「はぁっ……」

 両者から声が発せられると同時に、剣が火花を散らしました。

 二人の侍女が息せき切って土手に上がって来て、唖然として、剣を交わしている二人を見つめ、「まぁまぁ、高木之入日売命も、比売巫女さまも……」と、年長の侍女が声をかけました。

 品陀真若王が後から土手を登って来ると、驚いて目を見開いて言いました。

「二人とも、何をしておる」

 一歩、二人の間に踏み込もうとしましたが、体がすくんで、どうにもその間に立ち入ることができなかったそうです。真若王ほどの武人が、です。

 その剣舞を目で追った真若王は、さらに大きく目を見開き、「破邪の神舞……」と言って、絶句したそうです。

 驚いて年長の侍女が振り向き、真若王に訊きました。

「えっ、これが、まさかあの?」

 真若王は、ゆっくりうなずきました。

「かつて、天より邪な神がこの地へ降り立とうとしたが、神が宿りし二人の巫女が終日剣舞を舞い、その隙の無い美しい舞に、邪な神は降り立つこともできず、我を忘れて見とれている内に、夜となって降り立つ場所を見失ったと言う、あの神舞だ」

 『日本書紀』巻第一神代上第六段一書第三の条に「三の女神を以ては、葦原中国あしはらのなかつくにの宇佐嶋に降り居さしむ」とあるように、最初、宗像三比売大神が宇佐嶋と呼ばれる、三角池最大の小島、薦休こもやすめに降り立ったとされます。

 最大とは言っても、徑百餘歩。ほぼ、母の墓と同じ大きさです。その広さの中で足場がよいのは、わずか30歩程度です。

 舞ったのは三比売大神の内、田心姫神たごりひめのかみ湍津姫神たぎつひめのかみの二人で、市杵島姫神いちきしまひめのかみが三角池の鳥居の前で齋を行った、とされますが、この三比売と同じ名の比売巫女が登場するのはまだ後の話なので、後世の付会かと思います。しかしそれほど、この三比売巫女の名は知れ渡っていました。

 三角池を背に、まるで美しい一幅の絵のように、巫女装束の二人の乙女の剣舞がしばし繰り広げられていたそうです。

 二人の打ち振る剣が弧を描き、少し高木姫の方が背丈が高いとはいえ、その動きまでもが美しく対称を成していたそうです。しかもどんなに動いても、大きな円、例えて言うなら土俵の中に収まるような所作です。あたかも結界を描くように。

その昔、三角池の中に浮かぶ薦休で舞ったとされる神舞なので、限られた大きさの円を描くような動きになったのです。

 二人が舞ったその場所に、現在では社殿の奥の殿が建てられています。

 もっとも現在の薦神社に社殿ができたのは、宇佐亀山に神亀2年、西暦で言うと725年に一之殿ができてずっと後の承和年間、西暦834~848年の間のことです。

 建立が遅れた理由は、継体天皇21年、西暦527年に起こった磐井の乱が原因で、当時の薦社で祭祀を行っていた仲津辛島氏が磐井に荷担したため、薦社がしばらくの間、廃されたためです。

「この神舞の難しさは、共に力量の等しい二人の巫女が真剣を交え、舞うことにある。一歩間違えば、一人を傷つけ、殺しかねない舞ゆえ、かつての悲劇の後、封印されて久しいと聞くが、我が娘たちがいずこでこれを会得したものか……」

 当時の三角池は現在の十倍を優に超える広さを持ち、仲津の水源でした。ですから祀られていたのは水神である龍神です。

 薦神社の紋は宇佐の三つ巴ではなく、一つ巴です。元来、巴は水に由来する紋で、宝玉の勾玉、魂、命に関連するものです。

 天候を占い、命の根源、水を支配し、これをいかに調整するか。それが巫女たちに課された大切な使命だったのです。

 そして巫女、中でも最高位の比売巫女は、この池と周囲の宮地を管理する宮司よりも地位が高く、大切にされました。

 なぜ、宮司よりも巫女の方が地位が高かったのか?

 この三角池では平成の今も続く薦刈の神事が行われ、刈った薦で清畳を織り、また、束ねて枕とします。そして池の薦休にこれを敷いて神を待つのです。

 すると、現在でも残る池の南側の大楠に神が降り立ち、薦休で衾を共にすることによって、比売巫女は神と一体化して、神のお告げを託宣しました。

 つまり巫女は、神の化身と考えられていたのです。

 豊比売と高木姫、二人が互いに跳躍し、剣を交えて対側に降り立つと、直ちに振り向き、構えます。その束ねた長い髪が、左右に揺らいで止まった時でした。

「二人とも、それまで」

 真若王が二人の結界の外から声をかけました。すると、二人から発せられていた気がふっと和らぎ、結界が揺らいで消えていったそうです。

「ふう」、と真若王は肩で息をして、「それにしても、驚いたな。二人が破邪の神舞を舞うとは」と言いながら、やっと一歩、二人の方へ歩みを進めました。

「これは父さま」

 剣を納めて二人は真若王に向き直ると、一礼しました。

 二人の呼吸は、ほとんど乱れを見せていませんでした。長時間に及ぶ剣舞を可能とするため、呼吸法まで考えられていたからですが、そうは言っても相当な運動量です。

 これにはさしもの真若王も驚いたそうです。

「高木姫のみならず、豊比売までも会得していたとは……」

「父さまはこの剣の型をご存じなのですか?」

 豊比売が小首を傾げて訊きました。

「ああ。古に封印されし神舞だ」

 二人は笑いをこらえていましたが、豊比売はついに、その口を閉ざすことができなかったそうです。

「何を笑う」

「だって……」

 ついに我慢できなくなり、高木姫も目に涙を浮かべるほどに笑ったそうです。

「そんな、神舞とは畏れ多い……。ただ、剣の稽古をしていただけなのですよ、父さま」

 高木姫は涙を拭いながら答えましたが、豊比売は言葉も出ないほど、笑い続けていたそうです。

 憮然とした表情の品陀真若王に気づいた高木姫が「私がまだこの地で巫女であった折、身を守るための剣、ということで、日之巫女さまより型を学んでおりました」と、説明しました。

 高木姫の言葉に、真若王は目を見開いたそうです。「剣の型」と言うには、あまりにも動きが激しい。そして、一歩間違えば、命取りになりかねない危険をともないます。

 少し落ち着きを取り戻した豊比売が、口を開きました。

「私は姉さまに、稽古を付けて貰っていたのです。こういう世の中です。比売巫女として、我が身を守るくらいはできないと」

「そうか……」

 真若王はそれだけを言うと、天を見上げて呟いたそうです。

「あの悲劇にもかかわらず、ちゃんと伝承させておいたのだな、日之巫女さまは。身を守る剣の型と言って、高木姫に教えていたのか……」

 実はこの破邪の神舞は、剣の型を母が高木姫に教える際に用いた、教育的な剣舞だったのです。

 高木姫は我が母、日之巫女が秘密裏に自分に教えた剣舞のことは、その時点では、まだ誰にも語っていませんでした。

 真若王は、昔、日之巫女がこの地で巫女だった、幼き頃を回想していました。

 日照り続き、戦争続きでこの地に飢饉が押し寄せ、千余の死者が出たことがありました。その折、この地の長老が巫女たちに、破邪の神舞を希望したそうです。

 しかし、当時の仲津の巫女の最高位、比売巫女であった母は拒否しました。なぜなら、自分と同じくらい上手に剣舞を舞うことのできる相手がいなかったからです。

 それでも民百姓までが神舞を希望し、ついに母はしぶしぶ承諾することになったのです。

 神舞の当日。

 早朝から霧に覆われ、ねっとりと肌に絡みつく生暖かい空気に、母は気が進まなかったそうです。

 神舞が始まって間もなく、一気に天空を分厚い雲が覆い、中を閃光が駆けめぐりました。雷に驚いた相方の巫女が一瞬、剣を握る力を緩めました。その巫女は母の剣を受け止め損ねて剣は地に落ち、手首を切り落とされてしまったのです。手を失った巫女は、神罰を受けたとされ、その夜、自ら命を絶ったそうです。

 以来、母は破邪の神舞を封印し、二度と人目に触れることなく、その名を留めるのみとなってしまいました。

 何と言う偶然。何と言う因縁。我が二人の娘が、あの日之巫女さまの神舞を伝承され、さらにはその跡を継ぐことになろうとは。これも運命か。

 真若王は豊比売に向き直ると、跪いて頭を垂れ、視線を地に落としたまま、「比売巫女さまには、申し上げねばならないことがございます」と言いました。

二人の侍女も、すぐさま真若王に続いて跪いて頭を下げました。父、真若王のその様子に、高木姫も豊比売と顔を見合わせましたが、ゆうるりと豊比売の前に跪いて頭を垂れました。

 そして豊比売は、先ほどまでの子供らしい表情が嘘のように、凛とした気品あふれる、少し厳しい表情で言ったそうです。

「構いませぬ、品陀真若王。今、ここで承りましょう」

 真若王は鼻が地に付くほど頭を垂れて言いました。

「ははっ。今朝、誉田別尊より邪馬台国王宮に呼ばれ、仲津宮比売巫女さまにはこの度、お隠れになった日之巫女さまの跡を継ぎ、女王としてこの邪馬台国を統べていただきたい、との命にございます」

 二人の侍女は、一段と額が地に付くほどまで平伏しました。

 驚いて少し顔を上げようとした高木姫でしたが再び平伏し、心の中で呟いたそうです。

 いつかこの日が来るとはわかっていたが、とうとう来てしまった。豊は、もう私の手の届かぬ所に行ってしまった、と。

 豊比売はさほど驚くでもなく、落ちついた表情で答えたそうです。

「承知しました。速やかに支度願います」

 それもそのはずで、日々のお勤めの薦休の儀式を行っていた際、龍神がすでにそのことを告げていたからです。

 ついにこの日が来た。

 心の中で、そう呟いた豊比売でしたが、とてもこれから一国を率いて困難に立ち向かって行くとは思えぬ、喜びに満ちあふれた表情をしていたそうです。

 実は邪馬台国のことよりも、仲津の比売巫女となって以来、逢う機会が少なくなった誉田別尊と頻繁に逢うことができるようになることの方が嬉しかったのではないか、と、この時の様子を、後に高木姫が述懐しています。

        *

 品陀真若王に伴われて王宮を訪れた豊比売と誉田別尊が逢うのは、半年ぶりでした。

 仲津宮で比売巫女に就任したのが、豊比売11歳の時。

 これは、高木比売が比売巫女を辞したためなのですが、この齢で比売巫女とは、異例を通り越して、前代未聞の驚きの人事でした。

 あれから、まだわずか2年。

 仲津の比売巫女が巫女としては邪馬台国の日之巫女に次ぐ地位にあるとはいえ、13歳で日之巫女の跡を継ぐというのは、周囲にとって、信じ難いことでした。

「日之巫女さまが危険であるとの神託が出て、すぐに早馬を出したのですが、雨中、冷水で馬が足を滑らせ、転倒して伝令の者まで怪我を負い、着いた時にはもう……」

「いや、豊比売のせいではありません。私がもっと的確に作戦を進言していれば、あのようなことにはならなかったのですから」

 少し重苦しい沈黙が流れました。

「あ、あのぅ」

「と、豊比売」

 二人同時に声を発しました。

 豊比売は少し俯き、顔を赤らめ、潤んだ瞳でゆっくりと上目遣いに見上げると、「す、すみません、誉、誉田別尊」と言って、いったん視線を落としました。

 そして一つ深呼吸をして呼吸を整えると、少し紅潮した顔を、今度はしっかりと上げて豊比売は訊きました。

「あの、何か……?」

「このたびは、豊比売には本当に大変なことをお願いすることになって……」

「いえ、誉田別尊のお頼みですから。ただ、私は政治や戦(いくさ)のことはわかりません。誉田別尊にお助け頂かなくては、すぐに立ち行かなくなるでしょう」

「そんなことはないでしょう。聞いていますよ、仲津宮でのこと」

「えっ?」

「破邪の剣をお遣いになるとか」

 破邪の神舞に使用する剣、破邪の剣はけっこう重量があるのです。それを思い通りに振り回すのは、実はかなり難しい。相当の鍛錬を要することなのです。

 私は弓はそれなりに遣いますが、剣に関しては、あまり得意な方ではありません。だから豊比売が剣の遣い手ということで、感心していたのです。

 母、日之巫女の傍らに控え、最前線で直接敵と剣を交えて戦うことより、遠くから迫り来る敵を弓矢で射ることを専らとしていたので、直接対峙する剣よりも弓の方が上手となってしまったのです。

「あ、あれは、姉さまからまだ型を習っているだけで……」

 豊比売は耳たぶまで真っ赤に染めて、再び俯きました。

「でも、あの剣を使って、高木比売と対等に破邪の神舞を舞うことができるとは……。さすが、真若王の血を引く姫さま方です」

 豊比売は息をこらえて、頭を振るのが精一杯でした。

 高木姫のような見目麗しい、そして魅惑的な体躯をしているむすめといえども、真若王のような伝説的人物を父に持ったばかりに、言い寄る男は多いのに、未だに独り身というのは、少々気の毒のような気がしないでもありません。そして豊比売の父も、同じ真若王であることを忘れてはなりません。

 もう、気の毒なほど豊比売の顔は紅潮し、床に額が付くほど、頭を垂れてしまいました。

その初々しさに、私は思わず抱きしめてしまいたくなる衝動を抑えるのにひと苦労でした。

 上ずった声で、「豊比売は何と申されようとしたのです?」と私は訊きましたが、豊比売は俯いたまま、頭を振るのが精一杯でした。

「豊比売の比売巫女としての実力は、我々、仲津や邪馬台国王宮の者はよく存じています。しかし、諸国の首長たちが納得してくれるかどうか……」

 まだ幼さの残るその顔立ちを見て、さすがに不安の色を隠せませんでした。

 しかし豊比売はゆっくりと顔を上げ、「私によい考えがあります」と言うと、優しく微笑んだのです。その微笑みは、気のせいか少し大人びた、母性すら感じさせる表情でした。

        *

 本田はまるで古代の語り部のようにここまで淡々と語ると、左腕を返して腕時計に視線を走らせた。

「今日はここまでにしておきましょう」

 私も壁の時計を見て驚いた。

 本田を診察室に呼び入れて、すでに40分以上も経過していたのだ。その間、ほとんど本田が一人で喋り通したのも驚きだったが、それを我々は、じっと聞き続けていたのだ。私などは本来の仕事を忘れて、まるで日本昔話の朗読でも聴いているかのような錯覚を覚えた。

「豊比売の日之巫女継承の儀につきましては、また明日にでも」

 そう言うと本田は軽く頭を下げた。

「あ、ああ、そうだね。有り難う」

 別にここは礼を言う場面ではないのだが、不思議と感謝の言葉が口を突いて出た。

 作話かもしれない、いや、たぶんそうなのだろうが、彼と都仍ちゃん以外には知り得ない封印された歴史の一端を垣間見ることができたことに、自然と感謝の念が涌き起こってきたことは事実だった。

 私はICレコーダーを手に取り、録音をストップさせた。そしてカルテが開かれたパソコン画面に視線を移し、さて、何から手を付けてよいものか、小さく唸った。

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