第5話
英彦山。
大分県日田市との境にある福岡県内で2番目に高い山である。南岳、中岳、北岳の3峰から成り、その標高は一番高い南岳でも1199.6mと意外にも低い。
3000m級の山々に囲まれた山梨県の甲府盆地周辺とは雲泥の差である。しかも平成17年には銅の鳥居横から英彦山中腹、標高500mほどのところにある英彦山神宮奉幣殿に至る全長849m、標高差160mのスロープカーができて英彦山神宮奉幣殿まで15分で行けるようになった。
かつての修験道の聖地は、今や家族連れのハイキングコースと化してしまったようだ。
もっとも奉幣殿から南岳、中岳、北岳を尾根伝いに縦走してぐるりと回ってくると、ほぼ一日がかりとなる。
本田が滑落した場所は奉幣殿から中岳に向かうルートにあり、比較的楽なコースのようである。ただ、鎖のある岩場を越えて行かなければならないので、本田と違ってここ30年以上、まったく山登りなどしたことがない私の場合、いざとなったら引き返すくらいの融通を効かせないと、ミイラ取りがミイラにならないとも限らない。
さて、どのコースで英彦山に行こうかとパソコンで地図を出してみて目を見張った。
このような山深い地にもかかわらず、周辺各地から通じる道が非常に多い。まるで江戸を中心に整備された、五街道のようなのだ。
北九州市小倉の南に位置する銅の産地、香春からは平成筑豊田川線沿いに柚須原で行橋に注ぐ今川沿いの道と合流。柚須原は大任町で分岐した英彦山川からのルートとも合流する交通の要所である。現在の油木ダムの上流、今川の源流近くの宮元の集落まで最短距離で比較的容易にやって来ることができる。
そこから奉幣殿までなら1~2時間。山頂までは4~5時間で登ることが可能である。
この宮元には、江戸時代には豊前坊があって、多くの修験者が集まっていたと言う。今では高木神社がかつての隆盛の名残をとどめているくらいだろうか。
油木ダムの今川流入口、津野地区の扇状台地には、今からおよそ6500年前と推測される縄文時代のズイベガ原遺跡があり、石器や土器が見つかっている。そのような太古の昔からこの地には、本田の言葉を借りるなら『山の民』と呼ばれる人々が集い、暮らしていたのである。
この宮元から英彦山へは大きく2つのルートがあり、銅の鳥居に向かうルートと、普通車では高住神社までだが、そこから薬師峠を経て英彦山山頂へ向かうことができる北岳ルートがある。片方が自然災害などで不通になっても、山頂までの道が確保されているのである。
また、行橋からは国道496号線が途中から祓川沿いに上って行き、ダム建設中の伊良原を経て城井川ルートと帆柱で合流。バス・トイレ付きのコテージまで揃った蛇渕キャンプ場を横に見ながら
築城からは城井川沿いの県道237号線が豊前から求菩提を経て登ってくる県道32号線と
中津からは山国川沿いにかつて日田往還と呼ばれた国道212号線を上って行き、青洞門や耶馬渓を経て山国川が二手に分かれるあたり、花月バイパス分岐から国道496号線を上って行く山深い道がある。通常は山国川下流を渡って、吉富から佐井川沿いに求菩提を目指した方が距離も短く、楽であるが、近くに観光スポットが多いこのルートが楽しめるという意味では一番だろう。
一方、芦屋や八幡方面からだと遠賀川の支流である英彦山川とJR日田彦山線沿いに走る県道52号線を上って行き、JR彦山駅先から国道500号線に入り、銅の鳥居に至る英彦山川ルートが一般的でわかりやすい。途中、『歓遊舎ひこさん』という、道の駅のような食事もできる場所があり、休憩にもうってつけである。
ちなみにこの国道500号線を反対側に下って行くと小石原焼窯元で有名なかつての小石原村、現在の東峰村に至る。さらに江川ダムを経て小石原川沿いに秋月城跡のある朝倉から太宰府、そして宇美へと通じている。おそらくは古代においてはこれがメインルートだったのだろう。
小石原は遠賀川沿いに飯塚、嘉麻を経てJR日田彦山線の終点でJR久大本線の夜明駅近くで国道210号線と合流する国道211号線も通っており、交通の要所である。
これら英彦山へ通じる道は古くから川沿いに発達し、物資の運搬にも一役買っていたようだ。一部寂れたとはいえ、現役で使用されている。
そしてもう一つ特筆すべきことは、英彦山周辺には多数の野営場があることだろう。
英彦山登山道の入口、銅鳥居から少し登ったところにあった修験場の亀石坊や現在の英彦山野営場や英彦山青年の家周辺など、兵を駐屯させるに好都合な広い敷地もある。
かつて数千人規模の戦国大名にも匹敵する数の山伏を抱え、豊前佐々木氏は秋月氏とともに豊臣秀吉に最後まで抵抗したという。
おそらくこれらの敷地は山伏達が修行の場として切り開いたのだろうが、それにしてもこれだけ山深い地にもかかわらず、多方面から通じる道が張り巡らされていること自体が不思議である。
さて、私はいろいろ考えた末、所々、車2台がすれ違うことが困難な場所もあるようなので小型車で行くことにした。
スキーに行くこともあり、私はスズキのジムニーシエラ・ランドベンチャーを所有している。色はノクターンブルーパール&シルキーシルバーメタリック。パジェロと間違えられそうなのが難点で、車両重量も1060㎏と1トンを越えて軽自動車タイプより人一人分以上重量が増えてしまったが、その分、剛性も高く、乗り心地が良くて疲れない。さらに四輪駆動はもちろん、視線が高く、見通しが良くてとても気に入っている。こういう山道にはうってつけの車である。
コースは油木ダムと宮元、高木神社を見てみたくて、今川ルートを選択した。
途中、目に付いた
この近隣には他にも勝山御所カントリーの近く、県道242号線沿いにも曼陀羅寺への途中に大原八幡宮と、242号線を勝山御所カントリーの横を通り抜ける際に単に八幡宮とある社殿があり、さらには県道252号線沿いの上稗田にも神功皇后が新羅遠征軍を解散させた
生立八幡神社では犀川神事『生立八幡神社山笠』行事という祭りが5月第2土・日にある。
他の神社にありがちな階段を上っていくことはなく、平地にあるのが特徴で、境内には樹齢800年とも言われる大楠がある。神功皇后が三韓出兵から凱旋の途中にこの地に寄って、軍船に張り付いていた蜷貝をこの楠に放って木の守り神にしたという伝説の樹だが、それでは樹齢800年ではすまない。倍以上必要である。従って後世の付会と考えるのが妥当だが、それほど神功皇后はこの豊前の地で愛されていた証でもあろう。
蜷は筑後の蜷城にも登場したくらいだから、神功皇后にとっては身近な存在だったに違いない。
それにしても北部九州は、神功皇后や景行天皇の伝承ががなんと多いことだろう。熊襲を倒したということでは日本武尊の伝承がもっとたくさん残って良さそうなものだが、神功皇后や景行天皇に関連した伝承の方が圧倒的に多い。
女装して熊襲を討ったという日本武尊。実は女性だった神功皇后が熊襲を倒したというのが真実なのではないか、と勘ぐってしまうほどである。
生立八幡神社の北側後方には御所ケ岳という、古代の山城がある。総延長3㎞にも及ぶ
黒田官兵衛(如水)が一時期この地を所領し、豊臣秀吉が島津征伐の途中に立ち寄ったこともあって、一般的には海側の馬ヶ岳の方が有名で、そちらからの登山道は良く整備されているが、御所ケ岳はわかりにくい。勝山御所カントリークラブの前を二度ほど行き来して、諦め、車を降りて地元らしき人に「住吉神社はどちらに行けばよいのですか?」と訊いてみた。
すると、「ホトギ山に登るのかね?」と逆に訊かれた。
「いえ、御所ケ岳です。神籠石を見に」と答えると、「やっぱ、ホトギ山ばい」と言う。どうやら地元では御所ケ岳はホトギ山と呼ばれているらしい。
県道58号線の津積交差点に神籠石の案内板が出ていると言う。国道201号線側から県道58号線を豊津に向かって車を走らせる。勝山御所カントリークラブ入口よりもう少し先まで行くと案内板が出ているその交差点は簡単に見つかった。津積交差点の表示がなかったのが残念である。
真清姫神社の四つ角を南に向かって真っすぐ行くと、住吉神社に駐車場がある。そこに車を駐めて右手に住吉池を見ながら上って行ったのだが、実は御所ケ岳神籠石の登山口にも駐車場があって、そこに駐めることもできる。そこから中門と案内板が出ている道を上っていく。周囲には地蔵尊が随所にあり、四国八十八箇所ではないが、札所にもなっていて、神籠石のある中門からさらに上って行くと大師堂がある。周囲は札所が至るところにあるが、今回は札所巡りが目的ではないので眺めて写真に撮るだけにとどめることにした。
御所ケ岳は標高が247mの小高い山で、馬ケ岳の標高は216m。頂上間は1.3㎞と少し離れてはいるが、双子山のような様相を呈していて、御所ケ岳から馬ケ岳へは急斜面になるものの、片道40~50分もあれば辿り着けることができるだろう。だが、なにせ今日は時間が無い。御所ケ岳の国指定史跡の中門・神籠石の見事なまでに四角に加工され、組み合わされた山城礎石と、実に質素な景行天皇の仮宮跡を見て、ホトギ山への急登直前、青色シートで覆われたところまでで引き返すことにした。途中、木々の合間から南側が少し開けたところがあり、覗いてみる。
遠くに英彦山の山並みが見える。
足下には円墳、前方後円墳とおぼしきこんもりと木々が茂った古墳が至る所に見られる。
片っ端から発掘調査をやれば面白そうだが、町レベルの一地方自治体の財政ではとても無理だろう。宇佐八幡宮と同じ比売巫女を持つ宗像大社をひっくるめて、関連する地域を世界遺産登録のために国レベルで調査をやるくらいでないと、これだけの広大な地域の発掘調査は難しい。
神籠石による山城の石組は久留米の
そう言えば小倉南区、平尾台へ連なる貫山の麓の松尾神社に景行天皇が土蜘蛛討伐の際に立ち寄って手を洗ったという井戸があったが、祭神は木花咲屋比売命、大山昨命、大国主命の別名、大穴牟遅命と出雲系である。荘八幡神社が反対側の山の斜面にあるが、出雲系の人々が大和系である景行天皇に恭順を示した、ということなのかもしれない。
帰りも再び迷ってカーナビと睨めっこしながら、ようやく県道58号線の津積交差点に辿り着いたような有様だった。帰りの交差点に出るまでの案内板も欲しいものである。
この津積交差点から御所ケ岳への道は御所ケ岳からみると北東、鬼門に相当する。道幅は狭くL字に曲がっている。しかも田は水を張ればぬかるみ、人馬は足を取られる。御所ケ岳側からみて守るに適した地形と言えよう。
再び勝山御所カントリークラブの横の山道を通って今川まで出て、川沿いに県道34号線を上って行く。
流れている川は今川なのに、なぜ地名が犀川なのか。
ネットで調べると、千曲川と犀川の関連で、犀とは狭い井、狭い流れを指すようなのだが、信仰深いこの地の場合はどうやら違うらしい。今川中流域の賽の神信仰と関連して賽川と呼ばれていたことと関連しているのだろうと、角川書店福岡県地名大辞典に載っているとのこと。実際に本を買わなくても、ネットでここまでわかってしまうとは、なんとも有り難い時代である。
そう言えば、生立八幡神社付近で今川は急に狭くなって、二手に分かれる。本庄池側が支流なのだが、二つの流れを併せても今川本流の半分にも満たない。この地が英彦山からの伏流水が湧き出て急に水量が増すので、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である
車を走らせていると、川向こうの平成筑豊田川線崎山駅を過ぎてすぐ左手にレンガ造りの煙突が見え、九州の文字が目に飛び込んできた。確かにここは九州なのだが、なんて思って通り過ぎようとしたら、その下に菊の文字があった。
九州菊という銘柄の造り酒屋、林龍平酒造場である。
英彦山からの伏流水が井戸から湧き出てカリウムとリン酸、そして、マグネシウム、カルシウムなどを多く含む灘と同じ硬水である。硬水で酒を造ると秋上がりの切れ味の良い酒になる。
そう言えば林龍平酒造場には『倉の介』という銘柄の特別純米酒があった。スッキリとしてとても美味であったのが印象的で、『倉の介』の『倉』は小倉の『倉』だとのこと。小倉の酒販協同組合が企画し、夢つくしという米を掛米に使った精米率60%の比較的お手頃価格の日本酒である。
なるほど、英彦山の伏流水が醸した酒だったか、と納得した。グッジョブ小倉酒販協同組合、である。
今川は英彦山源流で崎山、犀川、豊津、行橋を流れる。この九州菊の地は崎山と言うのだが、この地から少し道を上ると、いよいよ山が険しく迫ってくる。崎山は先山、逆に源じいの森方面から崎山地区に向かって山が突き出ている意味で山の端、山の鼻に相当する地域だから崎山と言われるゆえんであろう。
現在、この山道を回避すべく、行橋添田バイパスが完成。柳瀬小学校交差点がその入口なのだが、初めての人間には、油須原に通じるその抜け道は、カーナビと睨めっこでもないと、間違えそうで怖い。たとえ山深くとも、真っ直ぐ進める源じいの森経由の方が安心である。
しかし道幅が極端に狭く、大型車2台ではすれ違うことができない場面もあって、車の運転に不安があったり、大型車の場合は精神衛生上、バイパスの方が安心かもしれない。
源じいの森には温泉施設があり、休憩するには良いかもしれないが、先を急ぐ身としては、横目に通り過ぎるしかなかった。
そして平成筑豊鉄道田川線の油須原駅を越えてしばらくすると、赤村赤中学校へ曲がるところに英彦山への看板表示がある。県道34号線沿いに大任まで行って英彦山川沿いに上って行く道になるのだが、赤中学校前でそこをさらに曲がって今川沿いの県道418号線で上って行くのが、油木ダムへ向かうコツである。この入り方が案外難しくて、英彦山川沿いに添田まで行って、戸立峠越えして油木ダムの英彦山側津野三区公民川付近に出る方法もあるが、かなりの遠回りになってしまう。
油木ダムは2014年6月にとある高校の女子生徒26人が集団パニックに陥ったことがある、有名な心霊スポットである。
駐車場で車を停めて車外に出てみる。日中でも薄暗く、それこそ何か出てきそうな気配である。
これだけ山深い地ならそれも当然で、おそらくは生徒の一人が過呼吸か何かでパニックになって、それが感受性の強い年頃の女子生徒達に伝染していったのだろう。
かつてズイベガ原遺跡周辺で生活していた山の民達が利用したであろう英彦山に通じる古道も、今ではダムの奥底深く沈んでしまっているのは、少々残念である。
現代における水事情の点から仕方がないとはいえ、地図まで変えてしまうほどの大事業はそれまでの生態系をも変えてしまう。人の手が入ることによって失われた命も多いことだろう。心霊スポットであるかどうかは別として、我々を生かしてもらうために身を削っていただいた山の神に感謝する気持ちくらいは持ち合わせておくことが必要であろう。
さて、目的地の一つ、高木神社である。同じ高木の名を冠する神社が上津野の他、油木ダム横の下津野や英彦山川沿いのJR彦山駅の手前、下落合公民館の先、さらには小石原地区の交差点の近くにもある。上・下津野高木神社ではウサギの狛犬(犬ではないから狛兎か?)が我々を見守ってくれるのが他と大きく異なるところでである。
上津野の高木神社は英彦山神宮開祖の四世羅運上人が創設した大行事社を始まりとする、と言われている。シャクナゲが美しいゴールデンウィークの最中に神幸祭がある。
英彦山の神領である7里4方を守護する48の大行事社の内、『英彦山七つ口』の七大行事社の一つとして、重要な役割を担っていたようだ。
これは太宰管内志にも記され、「上代、彦山に領じたり地には、其神社を建て限とす。是を七大行事ノ社と云。其今ものこれり。七大行事と云は、日田郡
佐田川の寺内ダムよりさらに上流、県道588号線沿いの、今では広く朝倉の名で呼ばれるようになってしまった旧
天正15年(西暦1587年)、14代座主舜有が豊臣秀吉に神領を没収されるまでこの地に座主院が置かれていたという。
御祭神は高皇産霊尊で、ここの祭りが実に興味深い。
宮座、通称『黒川くんち』と呼ばれるその祭りの際に行われる儀式は、榊の葉を口にくわえ、無言で御神酒や鯛、神饌を向かい合って手渡しで、神前に『天狗どり』という方法で運んで行く。
本来は旧暦重陽の節句、九月九日に行われていた秋祭りが、『くんち』の名残であろう。宮座は毎年、十月二十九日前後に行われる。
また、御ほし(糒のことか)改めは、
これら神儀は修験道と関係が深いのであろうが、邪馬台国の頃からの古い占いの手法を今に伝えているかのようにも見える。
英彦山神宮には摂社の一つに
祭神の中で修験道とまったく関係なさそうなのが玉依姫である。
こういう場合、隠れキリシタンの例を挙げるまでもなく、高皇産霊神や熊野久須毘命の名を借りて守るべき本体は玉依姫であることを暗に示していることがある。
そう言えば神籠石のある筑後の高良山にも「高樹神社」があり、高皇産霊神を祀っている。やはり景行天皇や神功皇后と関係があるのであろうか。
我々は残された資料を馬鹿正直に文字面だけを追うのではなく、その裏に隠された意味、そして隠そうとした真意を探らなければならない。
古事記や日本書紀に書かれたことがすべて正しいとは限らない。だいたい応神天皇が113歳、あるいは120歳まで生きたということになっているし、武内宿禰はその応神天皇の曾祖父にあたる景行天皇から子の仁徳天皇の御代まで5人の天皇に仕え、神功皇后の時代にはたびたび歴史の表舞台に姿を現し、日本書紀によると300歳まで生きたという。医学的にはあり得ない話である。
歌舞伎ではないが、名と職責を継いだとみるべきだろうが、何世、何代目かなんて正しく記録に残るわけもない。我々はその冠する名のみ目にするのがせいぜいである。
また、地名というのは非常に興味深い。
津野三区公民館先から県道451号線に入った所は神田という。油木ダムを挟んで津野五区公民館の対岸は大宮司という。さらに上津野の高木神社のあたりから英彦山に向かう地は宮元という名で呼ばれている。
平成の大合併をはじめとする市町村合併によって旧地名が失われ、字名にひっそりその名を残すだけとなった地も多い。字名の中には古代の姿を垣間見ることができるものもある。限界集落も多くなり、古老による伝承は絶えてしまったが地名にかつての姿を残しているところもある。都心部では字名を排して何丁目、と記すことが多いが、できれば案内板には字名を併記してほしいものである。そうすればその土地への愛着と敬意が薄れることを少しだが留めることができよう。
上津野高木神社から英彦山へは高住神社への県道451号線と銅の鳥居側の418号線の2つのルートがある。
無料の別所駐車場が国道500号線側にある銅の鳥居側を行くのが、一般的にはお勧めである。そのまま国道を渡って行ったところには有料駐車場もあるが、2時間で500円なので、上宮まで足を伸ばすと4時間はみておく必要があるので、最低、1000円払うことになってしまう。
どうせ今日は本田が転落した場所の確認に来ただけである。時間はそうはかかるまい、と考え、有料駐車場に駐めることにした。
有料だから皆、敬遠して空いているだろうと思ったら大間違いである。子供や年配者のいる家族連れでは利用することが多いようで、天気の良いゴールデンウィークの最中など、長蛇の車列ができることもある。無料駐車場が朝10時頃には満車となってしまうせいもある。
狭いスペースに駐められる車だとこういう時に助かるものだ。ただ、一人だけ乗った車がそういったスペースを見つけて駐めると、大人数の大型ワゴン車でやってきた運転手から、殺気にも似た鋭い視線を浴びせられることがある。
チラッと車に視線をやると、子供4人と奥さんと思われる女性、それから高齢の両親まで乗っていたりする。
運転手に同情の念を帯びた視線を送って小さくうなずき、ちょっと深めに一礼すると、湘南ナンバーの大型ワゴン車の運転手は大きく溜息をついて、ハンドルに突っ伏した。
両側に土産物店が建ち並ぶ参道を行き、古い石の鳥居をくぐって石を敷き詰めた幅の広いなだらかな石段を上って行く。秀学坊跡など、僧坊の跡が石段の左右に見られる。大きなモミジの樹も参道の左右にあり、紅葉の時期はさぞかし美しいだろうと思いながら、先を急ぐ。
両側に灯籠が立ち並ぶ少し急な石談を上りきったところの左側に、朱塗りの柱が美しい英彦山神宮奉幣殿が目に飛び込んでくる。山の緑には朱塗りが本当に映える。
参拝をすませて正面、英彦山神宮上宮・中岳登山道の石段を上って行く。
しばらく行くと眼前にそそり立つ岩場が道を塞いだ。よく見ると右側に鎖が垂れ下がっている。岩と岩の狭い隙間に足を踏み入れ、左手に鎖を持つ。
ところがこの鎖がかえって邪魔だった。右手を岩場に置いて、左手で鎖を持つと、持ち替えがうまくいかずに、つい、手を放してしまうのだ。
さすがにその時は途方に暮れてしまったが、その先は手の置き場を探し、足場を確認しながら身を預け、登っていった方が楽だった。岩場登山の基本に3点支持というのがある。手足4点の内、1点だけフリーにして動かしながら登っていく方法である。そんなことはまったく知らないながらも、自然にそうなっていたようだ。
本田は鎖場の崖から落ちているところを発見されたという。確かに鎖場を登りきった所が右側は崖になっていて、刑事が見せてくれた本田が落ちた現場の写真のようにも見える。
あまりにもあっさり見つかったので、拍子抜けだった。
いくら雪の日だったとはいえ、こんなところを白山のガイドまでしていたという本田は滑落したのか。
少し軽蔑の気持ちに加え、わざわざ足を運んだわりにはあまりにもお粗末な現場だったので、怒りにも似た気持ちがこみ上げてきた。
とりあえず、崖からの写真を5枚ほど撮って、鎖場の写真も上から撮り、これでよし、と小さくうなずく。
もう午後2時をだいぶ回ったが、せっかく英彦山に来たからには、上宮にも詣りたい。
ちょっとケチの付いた気分を払拭すべく、頂上を目指して登ることにした。
それにしても、まだまだ石段の階段が続く。奉幣殿からほんのわずかしか歩いていないのをあざ笑うかのように、400m、500mの道標が立て続けに現れる。
800m地点の道標の横から数歩登った所に木の長椅子の休憩地点があって、一息入れることにする。なにせ、まだこの倍以上歩かなくてはならないのだ。
両膝とその周囲が熱を持っていたが、小休止と水分補給で落ち着きを取り戻し、再び参道に戻る。しかし、まるでこちらの気持ちの裏をかくように、なんと再び目の前に鎖場が現れた。
鎖場が二箇所なんて聞いていないぞ。
だが、確かに岩肌がそそり立ち、左側は崩れそうな山肌に網が張ってある。
私はここで重大なミスを犯した。
最初の鎖場は周囲を慎重に確認したが、この鎖場では気分的に余裕がなく、もう、先を急ぐことしか考えていなかったのである。本田が滑落した場所が、下の鎖場と勝手に思い込んでいたことも災いした。ろくに写真も撮らずにそのまま進んだことを後悔することになる。
奉幣殿より1000mの道標を過ぎてすぐの左手に比較的新しい作りの中津宮があって驚いた。
奉幣殿と上宮の間の真ん中くらいの意味合いだろうが、中津という呼称を用いること自体、本田が言うように、英彦山と仲津には何らかの関係があるのかもしれない、などと思ってしまう。
そう言えば、宇都宮氏の居城があった地は現在ではみやこ町と称するが、その昔の表記は豊前国仲津郡
いずれがが本物の城井か、などと野暮な議論は無意味である。
参拝しながら仲津と中津はどういう関係だったのだろうか、などと考えてしまう。それにしても、ここはまだ奉幣殿から1000mをわずかに過ぎた所。あと1200mもある。登り始めてすでに1時間以上が経過している。急がなくてはならない。気がせく。しかしまだ目の前には不規則に積まれた石段がこれでもかと嘲笑するかのごとく積まれている。
修験道の聖地と呼ばれた英彦山。ここはかつて修行の場だった所である。先人達はこの石を運び、積んでいったわけだから、単に登るだけの我々より、もっと過酷だったに違いない。
半ば朦朧とした意識で関銭跡の看板を左手に見ながらしばらく上って行くと、広場に出た。水場もあるようだが、飲めるのだろうか?
右手にある古びた建物は高木神社と関係が深い
正面には風雪にさらされ、朽ちかけた木製の鳥居が参拝客を上宮へと誘う。鳥居手前のお地蔵さんに並んで「奉幣殿より一,八〇〇M」の道標が立っている。奉幣殿から山頂までは2200mなので、あと400mで到着である。
てっきり山頂に修験者のお堂があるものと思っていたが、これより先は神の聖域として畏れていたようにみえる。祭神は高皇産霊神、玉依姫、熊野久須毘命であることは前に書いた通りだが、ふと思ったのは、山頂の上宮で高皇産霊神を祀っていた玉依姫をお護りし、宮外の雑用を行っていたのが熊野久須毘命と考えるのがしっくりくる。『三国志』のいわゆる外伝、東夷伝倭人条、俗に言う『魏志倭人伝』によると、卑弥呼は「鬼道に事え、能く衆を惑わす」とある。
確かに神懸かりとなって託宣する様は、ちょうどその三国時代、道教の流れをくむ五斗米道の張魯が民を導いたと言われる『鬼道』のように映ったのであろう。
年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて国を治む。王となりしより以来、見る者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。
ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。(三国志外伝 東夷伝倭人条)
この「男弟」と「ただ男子一人あり」は同一人物ではないだろう。そして後の「ただ男子一人あり」の部分が、どうも熊野久須毘命と、そして玉依姫が卑弥呼とイメージが重なって仕方がないのである。
鳥居をくぐるとその先にこれまた古い石段が続いている。周囲には枯れて葉を付けていない樹木が目立つ。残念なことに急に霧が出てきて視界が悪い。石段の10段先が見えない。引き返すべきか悩んだが、ここまで来て上宮を拝さずにはいられない。まずは目の前の石段を一歩一歩上っていく。
ところが、行けども行けども辿り着かない。霧でルートを間違えたのか、と自問してしまうほどだ。
そうこうする内に、数人の女性参拝客らしい声が聴こえてきた。
「霧よ、霧。凄い霧」
「せっかく山頂まできて、なんにも見えやしない」
「雲の上にいる気分ってやつ?」
見上げると左上に内に上宮の社が見えて安堵する。
女性参拝客は3名。「こんにちは」と声をかけると、手前の一人は「こんにちは。お疲れさまです」と微笑んで応えてくれたが、もう二人はお喋りに夢中で、声をかけても気づかないようだった。
標高の表示の欠けた英彦山中岳の文字を確認し、外から参拝する。「扉を開けたら必ず閉めて下さい」との張り紙があることからして、引き戸風の扉は開けることも可能なのだろう。しかし今にも壊れそうなその外観と、新しくそこだけ取って付けたような文字通りの取っ手に恐れをなして、開けるのは憚られた。
記念に2枚ほど写真を撮り、水分補給して、急ぎ、下山することにした。幸い霧は次第に晴れてきて、登りの時ほど不安感にさいなまれることはなさそうだ。
『南岳を経て鬼杉へ』の看板を横目に、もと来た奉幣殿への道を小走りに気味に下りていく。可能ならばトレイルランニングのように華麗に駆け下りて行きたいものだが、すでに疲労が体の至る所に顔を出し始めている。おまけに下りの方が足にかかる負担が大きい。ここで足が攣ったり膝を痛めたり怪我をしたら、明日の仕事に差し障りが出てしまう。いや、それ以前にこんな山奥でテントもなしで夜明かしするのはご免である。
ツェルトという非常用簡易テントは急激な天候の悪化時に緊急避難的な野営にも使用できるほか、被ったり体に巻き付けて夜露をしのぐ使い方もあり、軽量で握り拳程度の大きさということもあって、軽登山でも持参しておくと心強い。
登山の時に携行すべきものとしては、ほかに一番重要な水、レインウエア、携行(行動)食、トレッキングポール、そしてライトが挙げられよう。ライトは手がフリーになるヘッドライトタイプが良い。最近ではこれに登山用GPSが加わるらしい。
つい、重量があるのでライトは省きたくなるが、山は太陽が傾くと一気に暗くなっていく。まだ日没まで1時間近くあるのに木々に囲まれた谷間などは光が十分届かない。浮き石などに足を取られて転倒、滑落したら本田の二の舞である。
最近では充電式で3000ルーメンを超える足場が悪い登山でも明るくて見やすいヘッドライトが出てきている。そこまでなくても1000ルーメンもあればある程度は実用に耐えられる。予備の電池等があればなお良い。
英彦山と、山の名が付くからには最低でもこれくらいは持参していくべきであった。
決まった参道以外に足を踏み入れたりせず同じ道を往復するだけで、脇道に逸れたり山頂を縦走するようなことをしなければGPSや国土地理院の2万5千分の1地形地図とコンパスは不要だろう。いや、そもそも私のような素人は地形図を見せられてもさっぱりわからない。
行動食は英彦山のような低山では不要と考えがちだが、俗に言うシャリバテ、ハンガーノックの低血糖状態が続いてしまう登山では、脂肪を燃焼させるためのクエン酸回路を回すことすらできなくなってしまう。
おにぎりでも良いのだが、その日の内に食べてしまわないといけないし、小分けできない。さらに、そこそこ重量があってスペースも取られる。そこで、古くから定番のキャラメルやチョコレートの出番である。グリコのキャラメル一粒には16キロカロリー含まれていて、実際、300m走るのに必要なカロリーがあるそうだ。軽量なクッキーやドライフルーツなどもお勧めである。
登りの時にはあまり感じなかったが、急いで下ると膝に相当の負担がかかる。特に石段が積まれ、段差が大きいとてきめんだ。
こういう時にはトレッキングポール(ストック)があると非常に助かる。富士登山では金剛杖に焼き印を押してくれるのを楽しみにしている人が多いが、トレッキングポールの方が機能的にできており、さらに2本あった方が足場が悪いところを降りる時には膝の負担がかなり減るのでお奨めである。
以前はアルミ製が主流だったが、近頃はカーボンタイプの200gを切る軽量で耐久性のある製品が出回っている。使用するかどうか迷った場合でも、バックパック(ザック)に取り付けていけば邪魔にはならないので、山道ならば持参すべきである。値段は少し張るものの、アンチショック機能が付いたものも多くなってきていて、トレッキングポールを持つ腕への負担の軽減も図られている。
カメラとスポーツドリンクしか持参していなかった私は、つくづく登山に関しては素人である。
帽子と靴だけはちゃんとしたのを選んだつもりだったが、店員の勧めるまま、本格登山をやるわけでもないのにLOWAのヌバックレザー靴を買ったのは失敗だった。片足で重量が850gもあるのである。確かに日本人の足幅に合わせた足型を採用していて履き心地は良い。ソールも張り替えができるので長く愛用するには好都合である。
ただ、通常のウォーキング用シューズと違ってハイカットのため、甲から足首への立ち上がりも急で、足首を守るにはとても良いが、その分、重量も倍くらいになってしまう。
初心者なら、まずは履き心地もだが、ハイカットでも軽量タイプを選ぶべきだろう。
これは後日談になるが、友人と
途中、急に雨が降り始めてレインウエアは着込んだが、足下が冷えた。そして何よりその重量故の足の重だるさがとどめを刺した。
LOWAのヌバックレザー靴はゴアテックスと1枚皮を使用しているが、レザー部分は風合いを保つためのスプレーだけでは不十分で、防水スプレーをしていないと少しずつ水がしみ込んでくるようだ。
だが友人はまったく足もとを気にしている様子がなかった。
友人が履いていたのはアサヒのウォークランド・サハラGT。幅広の4Eはもちろん、ミドルカットというべきだろうか、本格登山用のハイカットほど深くはない。サイズが25.5㎝で重量が470gと非常に軽く、ゴアテックスを使用した防水タイプである。ゴアテックスだから透湿性も確保され、蒸れることのない優れものである。
加えて防水スプレーと防汚スプレーをして対策も万全だと言う。
「富士登山もこれでぜんぜん平気だった」と言う。価格も本格登山用皮製の3分の1程度である。
他にもウォークランドにはムート・ゴアテックスという、ローカットタイプの比較的平地を歩くのに適した、ウォーキング用モデルもある。ゴアテックスの名が付いているように、これも防水透湿性に優れている。
勾配が急な山道の登りでは、ミドルカットやハイカット登山靴の靴紐は上2段ほど外して足を曲げやすくし、下りの際には足首から上の靴紐をキッチリ締め上げて足が靴先に嵌まり込まないようにするとともに、足首への負担を靴に分散、軽減させると良い。同じ原理で、下山時には膝の負担を軽減すべく、ザムストなどの本格的な膝用サポーターを装着すると、さらに楽である。
ウォークランドは元がアサヒシューズだけあって登山専門店でなく、通常の靴店で売っているのが有り難い。試し履きができるからである。ただ、他社製品に較べて利益率が高くないらしく、置いていない店も多い。もちろん注文は可能である。
しかしここで念を押しておく。
靴はネットで購入してはいけない。履いてみなくては良さも悪さもわからない。試し履きできるところを探すべきである。一部でも革を使っている登山靴だと、通勤用などと同じような感覚でキッチリちょうどのサイズを選びがちだが、長距離を歩く登山では、体重に加えてザックの重量も加わって足が膨張し、かかとに人差し指が余裕で入るくらいの、1サイズ上の靴を選ばなければならない。足の指先が中で少し広げられるくらいの余裕も必要である。
結局、私は友人のその靴と同じものを購入し、あと数年早く出会っていたらもっと快適に登山ができて運動不足も解消されたのに、と悔やまれた。
「ローバーのタホープロなら4~50リットルのバックパック背負ってガレ場を行くのも平気だから、中・上級向けかな。夏場の山小屋一泊登山程度ならお釣りが来るくらい、登山靴としてはとても良いものだよ。ただ、本革を使用しているから、手入れはきちんとしておかないとね。でも、ま、その前に、まずは20リットルのバックパックを背負って軽量タイプの登山靴で日帰り登山に慣れてから、だね」
登山や写真、オーディオにしても、その道にはまって、酸いも甘いも知り尽くしたアマチュアの経験者にまずは訊くべきである。
プロの場合はそれを仕事にしているので、アマチュアとは相容れない考え方を持っている場合もあり、参考にするのはよいが、実際に使用すると素人の手に余ることがあるので注意せねばならない。
初心者が最初からハイエンドのものを手に入れてもその良さがわからない。わからないどころか、その良さを生かせれば強力な武器となるものが、かえって我が身に仇なすこともある。
話がだいぶ横道に逸れてしまった。
下の鎖場まで戻ってきたのは午後6時すぎ。まだ周囲は明るく、路面に不安はなかったが、本格的に膝に来てしまった。おまけに日頃の運動不足が祟って、左足のふくらはぎが攣り始めた。スポーツドリンクも山頂で飲み干してしまい、脱水や発汗による電解質異常も起きていたのかもしれない。
今回は下の鎖場は、最初から鎖を使わずに降りることにした。足の置き場になる窪みを上手に伝って降りると良いことがわかったからだ。
降りきる直前、再び足が攣りかかった。滑りそうなのをこらえて、左足の爪先を伸ばしきっていたからだ。急いで足背を前屈させ、ふくらはぎを伸ばすと、スッと痙攣様の痛みはおさまった。
しかし完全に戻ったわけではないので、だましだましペースを落として用心しながら下っていくしかなかった。
奉幣殿が見えた時には、涙がこみ上げてくるほど嬉しかった。
さっそく札所前の自動販売機でスポーツドリンクを購入して一息入れ、ストレッチを施す。
足の疲労はかなりのものだったが、少し休憩して水分補給をしたお陰で残りの階段を降りきっても車のアクセルワークには支障は無い程度で、帰りのルートをどうするか、思案する余裕はあった。
まだ夜道というほどではないので、来た道とは違う、国道496号線沿いの蛇渕キャンプ場を覗いて、犀川帆柱の地を見て帰ることにした。
神功皇后が三韓出兵へ向けて造船のために樹を切り出したことでその名が付いた、北九州の帆柱山。その帆柱連山の最高峰の国見岩から現在の八幡の町を見下ろし、夕方の下山の最中に「更に日が暮れた」が語源となって、「更暮山」からこの山に「皿倉山」の名が付いたとも言われる。
昭和32年に開業した皿倉山へのケーブルカーは、なぜか帆柱ケーブルと呼ばれる。皿倉山の麓も帆柱町である。更に暮れてしまう山より、帆柱の方が力強く、意気揚々とした雰囲気が伝わるからだろうか。神功皇后を愛する人々は、帆柱の名の方を大切にしたようだ。
車は野峠から国道496号線を左に折れ、みやこ町、行橋方面へと向かう。そのまま真っ直ぐ国道500号線を下れば、耶馬溪から中津へ通じる、山国川沿いの国道212号線、日田往還に出る。
くねくねと山道をつづら折りに降りていく。対向車は一台もいない。
左右には杉や檜の丈の高い木々が立ち並ぶ。
突然、道幅が広がったと思ったら、道路に沿って右側に立ち並ぶバンガローが目に飛び込んできた。
バンガローの向こうは祓川である。卑弥呼、本田流に言えば日之巫女が穢れを祓った清めの川だろうか。
川と道路との合間に調理可能なバーベキュー・スペースや、バス・トイレ付きと思われる大型2階建てのコテージも立ち並ぶ。夕暮れ時で、それぞれ灯りがともっていて、ゴールデンウィークということもあり、ほぼ、満室のようである。バーベキュー・スペースで若い女性客が歓声を上げながら調理している様を横目に見ながら下っていく。山ガールだろうか。こういう時、一人で車を運転している身は、少々寂しいものがある。
さらに下っていくと駐車場が右手にあり、30台近くの車が駐まっている。たいていが家族連れであることを考えると、相当の収容人数である。
ホームページを見ると蛇渕の滝や龍神橋もあって、散策には良さそうだが、いよいよ日が暮れてきて、とてもそんな気分にはなれない。
そしていよいよ犀川帆柱地区。
犀川帆柱特産組合の文字が目に飛び込んできた。帆柱は茶の産地だそうで、豊前(城井)宇都宮氏が抹茶ではなく煎茶を好んだため、この地に煎茶を作る茶畑ができたという。
犀川帆柱特産組合の少し英彦山側に右に折れる道がある。県道32号線である。これをそのまま下って行くと牧の原キャンプ場がある。その手前には宇都宮氏の終焉の地、城井ノ上城址があるのは先に述べた通り。
牧の原キャンプ場を下っていくと、右に折れる求菩提地区へ通じる道があり、これも県道32号線である。そのまま真っ直ぐ下って行くと、全国3位の幹周りを誇る大楠のある本庄地区へ通じる県道237号線である。
本庄と地名が付いているのに、なぜだかその道沿いにあるのは築上町立城井小学校というのが不思議である。
黒田官兵衛に滅ぼされても、豊前の城井宇都宮氏は地元の人々から愛されていたのだろう。
車はそのまま国道496号線の山間の道を下っていくが、とても国道とは言えない狭さである。
『ミニ直売所おこぼう庵』の立て看板が所々にみられる。まもなく道路右脇に本当に小さな直売所が見え、左側建物の脇には城井宇都宮鎮房の幟が、トタン板の建物の壁にはゴールデンウィークらしく、鯉のぼりが10本以上ぶら下がっていた。
残念ながらすでに店じまいの時間帯のようで、せっかく以前、友人から教えてもらった「つるんとしていなくて、まるで餅のような歯ごたえのあるこんにゃく」を手に入れることができなくて、残念である。
店から少し下ったところには
なるほど、おこぼう庵の名の由来か。
なんとなく納得して、左に祓川を見ながらさらに国道496号線を下っていく。
大山祇神社大イチョウの看板と右に折れる山道が見える。
狭くて日がほとんど差し込まない暗い道を堪え忍んで下っていくと、少し開けたところに出る。まるで廃校かと思うようなコンクリートの建物と、その奥には古い木造の旧校舎らしき建物もみえる。ふるさと会館入口とあるので、おそらくは旧校舎をリニューアルしたものだろう。
さらに下っていくと古い社の鳥居が見える。どうやらここが
ところがその先に山肌を削り、整地した、一部にはブルーシートか被さった大がかりな工事現場に出くわした。
至る所に工事を知らせる立て看板が見られる。左側は祓川の清流であるが、右側の山は削られ、かなり高い位置に橋が架けられようとしている。
斜めに傾いた豊国楽高木神社の道標が何とももの悲しい。豊国楽は犀川下伊良原地区の産土神、高木神社に奉納されている華麗で色彩豊かな衣装に包まれた12人の打子と呼ばれる太鼓奏者と5人の中老と呼ばれる年配者の囃子方によって奏でられる子供楽である。
延享4年(西暦1747年)に犀川木山村が小倉祇園の田町楽を学んで生立八幡宮に奉納されていた楽打ちを、文久2年(西暦1862年)に木山村が幟山と呼ばれる山笠タイプに変更するに伴い、下伊良原村がこれを譲り受けたことを記す明治元年の免状一札まである。
この高木神社に奉納されていた豊国楽も2012年が最後という。
それというのも、この伊良原地区がダムに沈むからである。住民は高台の地や行橋に移転してしまって、この高木神社も高台に移されるという。
Googleの航空写真地図を見ると、山を削り、新たな道が作られ、岩屋河内や釜の河内地区の高台に真新しい住居が築かれ、今、まさにダムに沈もうとしている伊良原地区の有様が見て取れる。
おそらくこれから本格的に工事が進んで国道496号線は道幅も広がり、通行するのも快適になるだろう。しかし伊良原地区の人々はバラバラになり、代々耕してきた田畑をダムの補償と引き替えに失ったに違いない。
限界集落に近い状況で、林業を中心とした産業くらいしかないように見受けられるこの地区には致し方ないことかもしれない。
だがひとたび郷里を離れて別の地に移ってしまった人々は、もう戻ってくることはない。手放した土地はダムに沈んで二度と耕すこともできない。
英彦山源流の油木ダムに続いて、同じ英彦山を源流とする祓川までもダムに沈むとは、なんとも悲しい気がしてならない。
重苦しい気分を引きずりながら、京都カントリー倶楽部を左手に見てわずかに明るさの残る国道496号線を下っていくと、右手に中高一貫校の育徳館が見えてきた。
小倉小笠原藩の思永館が慶応2年(西暦1866年)小倉城自焼後、香春町に文武所として再開。明治2年(西暦1869年)に現在の豊津の地に移り育徳館と改称。翌、明治3年育徳館開校。明治12年に豊津中学となり、香春と小倉にあった分校はそれぞれ香春中学、小倉中学として独立することになった。
つまり県立小倉高等学校の母体は思永館であり、直近では豊津中学なのである。
戦後の昭和23年に学制改革により県立豊津高校と改称。翌24年には豊津女子高校を統合して男女共学となり、以後、地元豊津の名を冠して親しまれてきた。
平成12年に中高一貫校に指定され、平成16年に福岡県立育徳館中学校の一期生が入学。豊津の地に移っての最初の名称、『育徳館』の復活である。平成19年には育徳館高等学校に校名が変更され、正式に中高一貫校となった。
少し国道を行橋側に下ると、みやこ町立豊津中学校もある。さらに行橋市内に入ると、県立行橋高校、そして今川の辺の京築地域ナンバーワン進学校である県立
今や分校の小倉高校に北九州・京築地区のトップの座を奪われた形の育徳館だが、中高一貫となって、どのように復活してくるのか、楽しみでもある。
ただ、中高一貫校にありがちな高校3年生を受験に特化してしまうのはいかがなものなのだろうか。
確かに中学3年間と高校2年間によく遊び学んでもらい、最後の一年間は受験というテクニックを教える、というのは一つの方法かもしれない。
ただ、塾や予備校は選択肢として自らの意思で選ぶことができるが、県立の高校となるとそうはいかない。
一方で人口密集地の都心部と違って、田舎の場合は周囲に塾や予備校は少なく、通うための費用も馬鹿にならない。
それを県立でやってくれるのだから良いではないか、というのも一つの考え方ではあるが、さて、受験のテクニックを教える側の教師のレベルとその効果のほどはいかに?
などと考えながらハンドルを握っていたら、腹が鳴った。
思えばここまでの道中、早めの昼食を済ませ、御所ケ岳と英彦山に登り、途中、奉幣殿でスポーツドリンクを口にしただけである。
とりあえず目についたコンビニに車を寄せると、早速、コーヒーとサンドイッチを腹に詰め込んだ。少し疲れて眠気もさしてきていたので、眠気覚ましとばかりに大きく深呼吸をする。
明日は再び本田の精神鑑定につきあわなければならない。また長い話になりそうだ。
だが、英彦山を訪れたおかげで、心の奥底にわだかまっていたモヤモヤが少し晴れた気がした。
そして英彦山というものがどういうものなのかが、修験道や登山には縁遠い私にもおぼろげながら掴むことができたように思えた。
まだゴールデンウィークは始まったばかり。
土曜日から来週の火曜日まで一気に8連休の会社もあるかもしれないが、医療機関はなかなか休むわけにはいかない。ましてや入院患者のいる病院の場合、具合の悪い入院患者を放っておいて、自分たちだけ遊びに行くわけにもいかない。
入院施設を持っていない個人の診療所も、特に内科系では注射や点滴のために限られた時間、連休中には密かにそういった患者のために開けているところもある。
それに較べたら入院患者がいないので当直の必要もなく、外来も大学から派遣してもらっている総合病院の精神科は、かなり恵まれていると言ってよいだろう。さらにウチの場合、私は院長職にあるため、外来は本田のような場合は特別に私が担当することもあるが、基本的には中原先生が研究日の木曜日の午前、週一回のみである。しかもその木曜日に用事ができた場合、大学医局に一ヶ月ほど前に伝えておくと、交代要員を送ってくれる。有り難いものだ。
とはいえ、甘えてばかりもいられない。まずは明日の本田の精神鑑定をきちんとこなそう。
気を引き締め、もうわずかになった我が家までの車のハンドルを握ると、アクセルを踏み込んだ。
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