第3話


「私は都仍とよちゃんに、いや、気やすくちゃん付けで呼んでは失礼ですね。邪馬台国女王で台与比売の生まれ変わりである都仍さまに滑落して気を失っているところを発見、助けてもらったのですから」

 そもそも、都仍とよちゃんがなぜ邪馬台国女王の台与比売とよひめの生まれ変わりだとわかるのか。単に名が同じだけなのではないか。それに英彦山で滑落?

 わずか千二百メートル程度の山で、学生時代に冬のマッターホルンやK2に登頂経験のある、白山の登山ガイドまでやっていた日本山岳会に所属するベテランが、この程度の低山でなぜ?

 こんな私ですら県立高校入学後、英彦山青年の家で新入生参加必須の合宿を行い、登山までさせられた経験もある。それ以前にも小学生の頃、父親に連れられて山頂まで登ったこともある。鎖のある岩場が危険と言えば危険だろうが、滑落するほどのことはないだろう。

 冬山の恐ろしさをまったく念頭に入れていなかった私は、登山を語るには、未熟のそしりは免れない。

「どうして修験道の霊山では女人禁制なのか、ご存じですか?」

 予想もしない本田の問いかけに、頭の中が一瞬、空っぽになってしまった。

 慌てて関連する頭の中の引き出しを片っ端から開け、いかにもと思われる回答をおそるおそる提示してみる。

「それは、血の穢れを忌み嫌ったからではありませんか?」

 本田は嬉しそうに表情を少し崩して大きくうなずいた。

「もちろん、それも一つの理由です。血の穢れを嫌って、生理や出産時に出血をきたす女性ばかりか、傷を負った兵士達も遠ざけたと言います。でも最大の理由は山の磐座に降臨された女性の神である比売神ひめかみをお護りするために、他の女性を近付けないようにするという暗黙の掟だったのです。これは母が元々、山の民と言われていた人々を密偵や諜報活動用の人材として重用するようになったのが原点で、後に修験道として発展していったことも関係しています」

「比売神を守るためなら、女人よりも力に勝る男性を近づけない方が理に適っていると思うのですが?」

 本田は目を輝かせた。

「そうなんですが、男は女性を見た目で判断します。占いの才などを抜きにして、本来、守らなければならない比売神を斬り捨て、自分の好みでどこの馬の骨ともわからないやってきたばかりの外者の女性を代わりに据えたりします。もっともそれは男性に限ったことではありませんが」

 だんだん本題から離れていくのが危惧されたが、本田の話を元に引き戻すのに必要な思考力は、『女人禁制』で使い果たしてしまっていた。

「例えば白山神社。祭神は白山比咩神しらやまひめかみ、つまり菊理媛命くくりひめのみことのことですが、熊野では速玉大社の元宮の神倉山の磐座で祀られていた神は女性で、伊邪那美神のことである熊野夫須美大神です」

 私はメモ帳に片仮名で『ククリヒメ』とだけ書いて頭を掻いた。

 日本の神話に出てくる神々の名前は難しい。漢字は違うのに読み方は同じだったりすることもしばしばだ。

 メモ帳を覗き込んだ本田は私が頭を掻いた理由がわかったようだ。

「花の菊に、理科の理の字です。媛は愛媛の媛です」

「ど、どうも」

 私は再び頭を掻いたが、教えてもらった文字をメモ帳に記すことはなかった。

「熊野権現御垂迹縁起によると、熊野権現は唐の天台山から飛来し、まず九州の英彦山に天下ったと言われています。さらにあの筑紫君磐井の乱が継体21年、西暦では527年に起きて翌年には鎮圧されていますが、その直後の継体25年、西暦では531年に中国北魏の仏教僧の善正法師が日本に渡り、修行の場としての日子山を開いたと言います。学校の教科書で習う、仏教伝来の552年や538年より前の話です」

 私はメモを取るのを諦めた。どうせICレコーダーで録音しているのだ。

 本田は転がってゆく私のボールペンを見て、少し寂しげな表情を私に向けた。

「なぜ仏教が国教となったのか、理由はおわかりですか?」

「聖徳太子がそのように定めたからでしょう」

 本田は小さくうなずいた。

「敏達天皇、用明天皇が疫病で相次いでお亡くなりになり、新興の仏教のせいだ、ということで物部守屋が中臣鎌足、後の藤原鎌足とともに廃仏に動きました。そして穴穂部皇子と結んで聖徳太子や蘇我馬子ら崇仏派と対立しますが、西暦587年に丁未ていびの乱で敗れ、以降、仏教の国教化が進みます。でも、それは表面的なものに過ぎません」

「もし物部守屋が勝利していたら、日本に仏教は広まらなかったのではないですか?」

「はい。その可能性はあったかもしれません。しかしすでに九州には仏教が伝来していましたから、全国に広まる時期は遅くなったかも知れませんが、それは時間の問題だったと思います」

「そしていずれは国教になると?」

「はい。元々、仏教を取り入れようとしたのは、御仏の御利益もありますが、血縁のある氏族の始祖や中興の祖を祀る氏神が全国に多数存在して、それぞれが勢力争いをしたり、出雲などのように地方の豪族の力が強く、大和朝廷の命に従わないところもあり、中央集権国家としては非常に不安定な状況だったからです。そこで新たに仏教を全国的に普及させることにより中央の意思を国の隅々にまで浸透させ、氏神の名のもとに団結する氏族、つまり豪族たちの力を弱めておきたい、という聖徳太子や馬子の考えが根底にはあったものと思われます」

「でも実際、出雲や諏訪、春日や日吉、宗像といった氏神を祀る大社はまだ全国津々浦々にありますよ?」

「はい。そこが仏教のよいところで、如来さまや観音さまなど、仏教の中にも個人のさまざまな事情に応じた崇拝する仏が存在し、日本古来の多神教にも通じる多様性と、既存の神々と争わない寛容さも持ち合わせていたのです。一神教に近い氏神方式では、そうはいきません。でも中には宇佐八幡神宮のように、大和の中央と手を結んで、地方で勢力を拡大したところもあります」

「宇佐八幡が大和朝廷と手を結んだのですか?」

「はい。先生は源氏と平家、ご存じですよね」

「ええ。平家物語は読んだことがあります」

「源氏の武将が戦いに赴くとき、南無八幡大菩薩と唱えるところをテレビなどで観たことはありませんか?」

「そう言えば、大河ドラマや時代劇にもそういうシーン、見かけますね。あ、そうか、この八幡は宇佐八幡のことですね。神宮なのに、菩薩の名を唱えるということは、神仏習合ですね」

「その通りです。欽明天皇32年、西暦571年、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁が降り立ち、大神比義が祈ると三才童児となって、『我は、誉田天皇廣幡八幡麻呂、護国霊験の大菩薩』と託宣があったと言います。それがきっかけとなって、宇佐辛島郷で細々と比売巫女を祀っていた辛島氏ですが、西暦588年から592年の崇峻天皇年間に鷹居社を建て、後に御許山山頂の三つの巨石を比売大神の顕現として祀る磐座信仰を取り込む形で、地元の豪族宇佐氏の聖地小椋山に宇佐神宮として新たに出発することになるのです」

「誉田天皇とは、あなたのことですよね?」

「正確には40世代以上前の前世の話ですし、託宣ですから私が直接言ったわけではありませんが、大神氏の尽力のお陰で八幡神は大和朝廷の仏教を取り入れて神仏習合を果たし、息を吹き返します。さらに仲津宮の関係者である母と私、そして三比売巫女が祀られているのは、偶然ではありません。仲津宮の正統なる後継であることを世に知らしめているのです。そして中央とのパイプ役を担った大神氏が大宮司職を、宇沙都比古うさつひことして古事記の神武東征にも出てくる豪族宇佐氏が場所と建物を提供して主に宮司職や神職を、比売巫女として祭祀を行った辛島氏が神職を担うことになったのです」

「せっかく日之巫女や比売巫女の名が表舞台に出ることはなくなったのに、それじゃ、逆戻りじゃないですか?」

「一つは大和朝廷としては秦の人々の力を借りたかったということもあります。特に東大寺の大仏の建立に際して、技術的な面や金箔に使用する材料が不足していたことも関係あるようです。それに、宇佐亀山に社殿が初めて完成した西暦725年頃には712年の古事記、720年の日本書紀と、邪馬台国や日之巫女が出てこない歴史書が完成し、神功皇后の伝承として語られるようになったので、大和朝廷側としては、ひとまず安心、というところでしょうか」

 ふと、私の頭の中に閃くものがあった。

「そう言えば、英彦山の祭神は男性神だったのではありませんか? 祭神は神功皇后でもよかったのありませんか?」

 本田はぞっとするほど瞳を輝かせた。

「よくご存じですね! 素盞嗚が天照大神の勾玉を譲り受ける誓約うけひの形で生まれた天忍穂耳尊あめのおしほみみみこと、確かに男性神です。もっとも公的にはさらにその子、天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊あめのにぎしくににぎしあまつひこひこほのににぎのみこと、要するに天孫降臨のニニギ尊ですね、そういうことになっています。孫にはなりますが、日御子ひのみこには違いありません」

 たまたま正月に暇を持て余してパソコンのスイッチを入れ、新聞社のデジタル・ニュースサイトを覗いたところ、英彦山で遭難者が発見されたとの記事があった。正月早々、まったく迷惑なヤツだとその時は思ったが、今、思えばその遭難者こそが、この、本田だったのだ。

 そんなに高い山ではなかったはずだが、などと考えを巡らせながらインターネットで英彦山の項目を幾つかクリックし、天忍穂耳尊の文字までは思い出せなかったものの、男の神であることは頭に残っていた。そして素盞嗚の剣から宗像三比売神むなかたさんひめかみが生まれたことも、何か奇妙だという感触だけが頭の奥に澱み続けていた。

「英彦山は北岳、中岳、南岳の三峰からなっているのですが、中岳の山頂に英彦山神宮の上宮があります。上宮のある中岳に天忍穂耳尊が降臨されたとの伝承もあります。つまり天孫降臨は英彦山がニニギの尊よりも一世代、早いのですよ。それにしても不思議ではありませんか? こんな地に伊勢神宮と同じ『神宮』の名があるのは」

「え、ええ……」

 疑問は解消されずにそのまま放置され、ますます本題から遠のいてしまっている。このままでは精神鑑定の判断を下すまで、数日かかってしまう気がする。

「本来、神宮と言えば伊勢神宮を指します。これに現在の皇室とつながりが深い明治神宮などが加わります。しかしそれ以外にも宇佐、霧島、鹿児島、鵜戸、宮崎、そして英彦山と、九州各地に神宮が存在し、その数は3分の1近くを占めます。しかも英彦山以外は官幣大社。英彦山だけが官幣中社です。この理由、おわかりになります?」

 もう、ついていけなかった。どこかで話を切り上げなくては、いつまでも本田の話に耳を傾けなくてはならない様相を呈してきた。

 だが本田はそんな私の懸念をよそに、話を続けた。

天叢雲剣あめのむらくものつるぎなど神器をご神体に祀る熱田神宮や国譲りで功のあった武甕槌神たけみかづちかみを祀る鹿島神宮は特殊な例で、基本的には皇室と関係の深い神社に神宮の名が与えられています。しかも英彦山神宮が神宮に改称したのは、なんと昭和50年。実はつい最近のことなのです」

 これはさすがに意外だった。神宮は明治の世に決まっていたと思っていたからだ。

「官幣中社なのに神宮の名を与えられているのは、よっぽど皇室と関係が深いからです。他の大社で神宮の名を冠するお社は、多くは交通の便が比較的よく、皆が参拝しやすい標高がそれほど高くないところにあります。対して英彦山は山深い地にあり、しかも天照大神の長男、天忍穂耳尊が子のニニギ尊より先に降り立った山、日御子ひのみこの山というのが日子山なのです。日之巫女と関係が深い天照大神の名が直接表に出てこないようにしつつ、本来は祭祀の対象が天照大神であることを巧妙に隠しているのです。そして他の天孫降臨の地と言われているところより、さらに前に天孫が降臨した地、つまり歴史が古い地であることを密かに伝えているのです」

 もう、うなずくしかなかった。

「そして弘仁10年、西暦では819年になりますが、鷹が落とした羽に『日子を彦と改めよ』と記されているのを僧法蓮が目にして、『日子山』を『彦山』に改めたとされていますが、これだってそうです」

 なにが「そうです」なのかよくわからず、私は怪訝な顔をした。

「大和に東遷後、邪馬台国の名は表舞台から消え、日本最初の修験道の山として、細々とかつての日之巫女の山をお護りしていたのですが、日子のままでは天忍穂耳尊の生みの親である天照大神の名前が簡単に表に出てきてしまいます。本来お護りすべき邪馬台国の女王であった日之巫女の名をおおっぴらに出して修行ができないこともあり、修験者たちは熊野や白山に去って行きました。しかし11世紀初頭に増慶によって中興され、戦国時代は豊前佐々木氏により数千人の修験者を擁するほど隆盛を誇りました。でも1581年に大友義統の焼き討ちに遭って大半を消失。佐々木氏は豊臣秀吉からも攻められ、勢いを失ってしまったのです」

 まるで英彦山の生き字引だ、と思った。登山ガイドをしていたという白山のことなら、もっと饒舌になるかもしれない。

 だが、この程度はパソコンが使えるならウィキペディアなどで調べることができる。30年以上前なら、どこかの大学で歴史学者として十分食べていけたに違いない。今のご時世なら、山小屋のアルバイトと登山ガイドでなんとか糊口をしのぐのが関の山なのかな、と、少しばかり同情した。

「享保14年、西暦では1729年に発せられた霊元法皇の院宣により『英』の字をつけたと言われています。こうすることにより、世間的には日之巫女と英彦山の関係はなかったように取り繕うことができたのです。おそらくこの頃、賀茂真淵らが神道論などを著し、さらには本居宣長らにより古事記や日本書紀の研究が進み始めたことと関係があるように思うのです」

 それにしても、この本田という男は資料やメモをまったく見ずに、すらすらと古代から江戸時代にかけての人名や年代を口にすることができることが不思議だった。その筋の専門家でもこうもうまくは話せまい。

 そして一見、荒唐無稽な話のようでありながら、あとで録音を再生し、文字に起こしてみたら、終始一貫していてほとんど齟齬がない話になっているに違いない。

 こういった話を単純に『電波』として片付ける向きもあるが、本田の話はそういう類いのものと一線を画すように思えた。

「もう一度思い出してください。最初に私が言った言葉を。母が日子山で巫女をしていたので日之巫女、それがなまって卑弥呼と呼ばれるようになったことを。卑弥呼の神的要素は天照大神に、人的要素は神功皇后に振り分けられ、書き起こされたのが日本書紀です。その際、卑弥呼は存在してはならないので、可能な限り史実から隠されてしまいましたが、魏志倭人伝にその名を残してしまったがために、現在、議論となってしまっているのです。実際、卑弥呼の名前が出てきていても、卑弥呼の跡を継いで日之巫女となった台与比売によって成されたことも、卑弥呼として書かれてしまっていることに注意せねばなりません。従って、神功皇后の業績と言われていたことも、実は台与比売によって行われていた部分もある、ということです」

 目の前にいるのが本人が言うように神功皇后の息子で、後の応神天皇と考えると話の辻褄が合う。だが、本当にそういうことがあるのだろうか? 通常ならば、その人物になりきった作話と考えるべきだろう。

 その時、最初に本田が物語を話し始めた際、自分のことを品陀和気命と言ったことを思い出した。

 品陀……。本田⁉

 仁の字は応神天皇の息子の仁徳天皇にもつながる。いや、それ以前に、応神の神と音読みが同じだ。そして都仍は台与と同じだ。

 本来の旧漢字の臺與は書けと言われても、一度や二度、書けたからと言って覚えた気になっても、しばらくしたら忘れてしまって書けまい。応神も正確には應神だろう。

「本田さん。あなたは前世の名前を品陀和気命とおっしゃっていましたが、それはあなたの名字、本田と自己同一性を図った結果ではありませんか? その結果、品陀和気命、つまり応神天皇にイメージを重ねたのではありませんか?」

 自分で口にしておきながら、意地悪な質問だと思った。

 本田はちょっと考える素振りをした。

「私にはその自己同一性という概念がよくわからないのですが、私は時代によっては他にも公家だったり、武士だったり、宣教師だったりしました。時には言葉を持たず、視界に映るイメージだけのこともあるので、獣や鳥だった可能性もあります。ですから正確には何世代前なのか数えられないのですが、たまたま40世代以上前の自分が品陀和気命だったということです」

 私は間髪を入れずに訊いた。

「それは、輪廻転生ということですか?」

 本田は再び口をつぐんで、考えを巡らせていたが、上目遣いに私を見ると、話し始めた。

「輪廻転生とはまたちょっと違うと思います。そもそも我々は、たとえば今、こうして先生とお話をしている本田という人間の本体は別のところにあり、この世界のこの時代において、ちょうど影絵のように、本体の陰が本田という私の体に投影されている、ということです。ただ、陰と根本的に違うのは、投影された肉体が苦痛を感じたり罪を重ねたりすると、それは本体にフィードバックされ、魂と言ってもよいかもしれないその本体も、苦痛を感じたり、罪の意識にさいなまれることだってあるのです」

 私は眩暈がした。

 やっぱりこの本田という男は、『電波』なのかもしれない。これだけの会話が激高するようなこともなくできるし、精神疾患は考えにくい。だとしたら十分、責任能力については問うことができるだろう。

 私は結論を急ごうとして、半ば誘導的な質問をした。

「だいたい、前世の記憶があること自体、おかしいことではありませんか?」

 本田は間をおかずに答えた。

「確かに通常ならあり得ないことです。ただ、今の私は本体の真名に近い名を持ち、さらにそれが品陀和気命にも通じる名であるがために起こる、いわゆる情報の流入のようなものが起きた結果、と考えてはいかがでしょうか?」

 宗教めいた話になってきて、私の脳細胞が悲鳴を上げ始めていた。

「守護霊と俗に言われている存在は、実は『魂』ともいうべき、その本体なのです。時に現世の『陰』、と便宜上述べますが、その『陰』に対して危険を察知した場合には危険を回避すべき行動を起こすよう、促します。万一、その『陰』がダメージを受けると、魂とでも言うべき本体もダメージを受けてしまうからです。寝ている間は脳による現世の実体への支配力が弱まるので、夢の中でデジャヴのようにイメージを見せることも可能なのです」

 それにしてもこの本田という男、こういった話を表情を変えずに、まるで昨晩食べた献立を列挙するがごとく、平常心で語ることができるとは、恐れ入るばかりである。

「輪廻転生と言われることも、実は本体の陰を映し出す実体の肉体が入れ替わることです。肉体は滅んでも、魂は滅ぶことはない、という表現はある意味、本質を突いていると言えます」

 もう、限界だった。何としても本田の蟻地獄のような話の輪から抜け出さなくては、私の思考回路が持たない。

 そう言えば豊姫は品陀真若王の娘と本田は言っていたが、二人は前世で逢っていただけではなく将来を誓い合った仲のようなことを言っていたな、と思い返した。

「ところで本田さん。あなたは都仍さんと、ひょっとしたら前世では結婚していたのではないですか?」

 本田が珍しく視線を落とし、頬を染めた。

 ようやく本田の宗教じみた話から脱出し、疑問の一つに話を引き戻すことができて、私は安堵の溜息を漏らした。

「え、ええ。今の彼女は満年齢で8歳ですが、12年後、彼女が数えの21歳、満年齢でいくと20歳の時に結婚することになります」

「でもそれは前世の、しかも邪馬台国時代の台与の話で、現世の都仍とは違うのでしょう。ならば、現世の都仍さんはあなたと結婚するとは限らないわけだ」

 本田は予期していたことなのか、小さくうなずくと、再び口を開いた。

「確かにそうかもしれません。でも、彼女は崖下に倒れている私を見つけて、『和気命わけのみこと、ご無事ですか』と声を上げたのです。私はその声を耳にして、意識が戻ったのです。彼女は私の前世の名を知っていました。そして私もその少女が台与比売の生まれ変わりだということが、一目見てわかりました。おそらく彼女も自分が何者なのか、その時、気づいたはずです。いや、ひょっとしたらもうとっくの昔に気づいていたのかもしれません。ただ、それを他の者に知られないように、隠し通していたのかもしれません」

 報告書には本田がストーカーである証拠の一つとして、都仍本人はまったく今まで逢ったことがないと言っているのに都仍の名前を呼んだこと、「以前逢ったことがある」と本田が繰り返して述べていることが記されていた。そしてその後も「一度逢って話がしたい。逢えばきっと思い出す」と、都仍の両親にしつこく迫ったことを挙げていた。

 だが私はそれだけで本田をストーカーだと決めつけるわけにはいかないと思っていた。

 彼の言うことが本当なら(私がそう考えていること自体、本田が意図的に今まで作り話をしてきたとしたら、すでに術中にはまっていると言えるのかもしれないのだが)、木下都仍という少女本人に会って話を訊かなければなるまい、と思っていた。

 それにしても、卑弥呼は頭の中に思い描くことができるが、古代史などろくに勉強したことのない私には、台与についてはさっぱりイメージがわかなかった。

「いったい台与比売とはどういう人物なのです? 幼い頃に前世のあなたと将来の契りを交わしたことはわかりましたが、あの卑弥呼の跡を継ぐほどの才能があったのですか? 特に占いの能力とか」

 私は言ってしまって、しまった、と唇を噛んだ。あの本田の瞳が怪しく輝いたのを目にしたからである。

 私の後ろに立っていた看護師(男)が小さく溜息を漏らしたのを私は聴き逃さなかった。

「それでは仲津宮に入ってからの豊姫の話をしましょう」

 嬉々とした本田の顔を見て、私は頭を抱え、項垂れるしかなかった。


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