第2話

 日子山の麓を流れる遠賀川の支流、日子山川の河原を私は歩いていました。一面、ススキが生い茂り、天空は澄み渡って、どこまでも見通すことができそうな朝でした。

「姫さま~、姫さま~」

 二人の侍女が河原沿いに上流から声を上げて近づいてきます。私は道をあけるように足を草むらに踏み入れて視線を声の方に向けました。

 その時、小さな人影が私の背後へ回り込みました。

義兄にいさま、お願い、私を隠して」

豊姫とよひめか?」

 彼女は仲津を司る品陀ほむだ真若王まわかのみこの3人の娘の内、2番目の娘で、私の父方の曾祖父を介して、血縁関係にあります。

 ここで予め申し上げておきたいのですが、古代の名前はいろんな書かれ方をします。音が同じであることを利用して、単なるあて字とも思えるような漢字を使用することもあります。

 俗に品陀真若王の中の姫のことを豊姫と書きますが、それは仲津一帯が品陀の一族が三角池のほとりに居を構えるようになって豊かな国になり、そこを中心に広く『豊国ほうこく』と呼ばれるようになったからです。後に『とよの国』とも呼ばれるようになったのは、「豊かで台与とよを輩出した国」という意味合いからで、豊と台与の発音が同じなのを利用したことによります。

 『台与』に台の文字を使うのは、『邪馬台』を与えられし姫、あるいは神輿の始まりである台の上に載せられて人前に姿を現すことが多かったことから「台を与えられし姫」に由来するとも言われています。

 ですから正確には邪馬台国女王となり、狗奴国との戦いに勝利してから台の文字を用いて『台与比売』と書くべきなのですが、母の後を継いで日之巫女となったので、そのまま日之巫女と呼ばれることが多く、女王となってからは台与比売の名を耳にすることは、実際のところ少なかったように思います。

 ほかにも品陀真若王の中の姫は仲津の生まれなので、その両方の意味合いから、中津姫、仲津姫と言われたり書かれたりすることもあったようです。

 話に戻りましょう。

 豊姫にはそれまで直接逢ったことはありませんでしたが、その日、仲津から母の許へ、品陀真若王の中の姫がやってくることは聞いていました。ですからその娘が彼女であることはすぐわかりました。

 小さくうなずく姫を隠すように、私はススキの茂みに移動しながら、大岩に掌をつき、侍女たちへ体を向けました。

 秋の実りをもたらす風が川面を吹き抜け、河原のススキが一斉に風に揺れていたその時の光景が脳裏に焼き付いていて、今でも鮮明に思い出すことができます。

 私に気づいて二人の侍女は視線を下げ、足早にさらに下流に向かおうとしました。

「どうなされた」と、私は声をかけました。

 年長の侍女が視線を下げたまま、二歩下がって、組んだ手を額の高さまで掲げ、上体を大きく傾けて申しました。

「これは品陀和気命。大変お見苦しいところを……」

 もう一人の年若の侍女も、視線を下げ、軽く上体を傾けたまま答えました。

「姫さまのお姿が見えなくなり、捜しているところでございます」

 私は背後に中の姫の視線を感じながら、「そう言えば、四歳くらいの姫が、その土手を上がって街道の方へ向かわれたようだ」と、呟くように言いました。

 年長の侍女が再度大きく上体を傾け、視線を足下に落として言いました。

「有り難うございます、品陀和気命」

 もう一人の侍女もこれに続いて深々と頭を垂れました。そして大岩の前を横切り、土手を上ってその向こうの香春と日子山を結ぶ街道へと向かいました。

 侍女達が土手の向こうに姿を消したのを見届け、ゆっくり視線を大岩の陰に隠れる豊姫の方へ移した私は、思わずたじろいでしまいました。なんと豊姫が睨み付けていたのです。

「私は5歳です」

 もちろん、数えの5歳です。

「そ、そうだったな」と言うと、私は目を細め、豊姫の腕を取ると、ひょいと抱え上げました。

「お、降ろしてください、義兄さま」

 豊姫は鼻が触れあうほど間近に私の顔を見て、さらに耳まで朱に染めました。

「豊姫は長じたら美しゅうなられるな。私の母以上に」

 豊姫は瞳を輝かせました。

「本当に? 日之巫女さまよりも?」

 私はうなずきました。

「じゃあ私、大きくなったら義兄さまの妻になるわ」

「それは楽しみだな。約束だぞ」

 ススキがサワサワと音を立て、穂を揺らしていました。

     *

 豊姫はその日、仲津宮、今の中津薦神社の巫女としての認証の儀のためにやってきたのです。巫女になるには巫女の頂点である日之巫女、つまり私の母の承認が必要なのです。

 父親の品陀ほむだ真若王まわかのみこに導かれ、姫は母の前へ進み出て御簾の奥の人影に向かって頭を垂れました。

「豊にございます」

 御簾がゆっくりと上がっていきますが、我が母は一声も発することなく、しばらく沈黙が続きました。

 この沈黙と我が母、日之巫女の威圧感に、年端も行かぬ巫女候補の少女たちは泣くことが多いものなのですが、豊姫はまったくそのような気配もなく、真っ直ぐ腰から上体を傾け、視線は落としたままながら、まるで母の視線の刃に対して体を刃と化して、母の喉元に切っ先を突きつけたかのような緊張感がありました。

 私はその様を母の斜め後ろで目の当たりにして、思わず喉を鳴らしてしまいました。

「顔を上げよ」

 豊姫は傾けていた上体を起こし、母の側に控える私には目もくれず、澄んだ瞳で真っすぐ母を見据えました。

「幼いな。幾つになる」

 臆することなく、まるで母の視線の刃を打ち返すように答えました。

「五歳になります」

「そうか。妾が巫女となったのが六の歳。一年早いな。おそらく巫女としては最年少であろうな、真若王」

 私は驚きました。母が話の流れとはいえ、先に視線を移すのを初めて目にしたからです。

 魏や遼東半島の公孫氏の二代目、公孫康の使者相手にすら、自分の方から先に視線をそらしたことはなかったのです。

 たとえ相手がいかなる大国の使者であろうとも、自分は辺境の地とはいえ、倭国の王である。なめられないためにも使者に対しては毅然とした態度をとること。その一つが自分の方から先に視線をそらさぬことだ、と私に言い聞かせていた母が、です。

 平伏していた真若王が答えました。

「ははっ、日之巫女さまより歳若くして巫女に上がった者は、未だおりませぬ」

母は再び豊姫に視線を移すと、目を細め、ゆっくりと、口を開きました。

「数奇な運命を辿ることになるむすめじゃな」

 豊姫は母に向かって満面の笑みを浮かべて答えました。

「日之巫女さまほどでは、ございません」

 私は額から冷や汗が流れ落ちるのを感じました。平伏している真若王に目を移すと、なんとあの真若王が小刻みに震えているではないですか。

 かつて土蜘蛛と呼ばれた土着の豪族が兵を率いて仲津宮を襲った際、三角池の入り口に仁王立ちになり、鉾と盾ではなく長尺の剣だけを頼りに、真若王は疾風の如く一人で三百の敵を倒し、その倍の数の敵に傷を負わせ、土蜘蛛は退却、仲津宮を守ったと言います。

 戦いの最中、三角池から水蒸気が立ち昇り、水神が品陀真若王に乗り移って巨大な龍神となって土蜘蛛に襲いかかって行ったとか。以来、品陀真若王は仲津の守護神、龍王と賞され、その強力無双ぶりは、なかば伝説と化しているほどです。

 そんな真若王を震え上がらせたのです。豊姫はただではすむまい、と、私も息が詰まり、胸が締め付けられる思いでした。

 しかし母は一瞬間をおいて、止めどもなく笑い出しました。

「真っことそうじゃのう、そうじゃのう」

 こんな母の姿を目にしたのは初めてでした。人前で声を上げて笑うなど、前代未聞のことです。

 一方、豊姫はというと、口元にかすかに笑みを浮かべて、笑っている私の母を静かな瞳で見つめていたのです。

 わずか数えで五歳の少女と、その祖母にも等しき年齢の巫女の頂点に君臨する日之巫女。まるで立場が逆転したかのような通常ではありえない光景に、私は戦慄を覚えました。

 その後、認証の儀は呆気なく終わりました。

 本来の認証の儀は神にお伺いを立て、日子山の山頂で神託を得て、それを日子山の中腹にある宮殿で巫女候補の娘に伝え、「全身全霊をもって、巫女としての勤めを果たすことを誓います」と、証を立てるものなのですが、豊姫にはすでに神託が下されていたのです。

「品陀真若王の中のむすめを仲津の巫女に迎えよ」と。

 仲津宮では30人ほどの巫女がいるのですが、地方の宮に所属する巫女の最上位である比売巫女に次ぐ地位にあった巫女が結婚することになり、巫女のポストが一つ空いたのです。品陀真若王の3人の娘の内、豊姫の姉で一の姫の高木之入日売命たかきのいりひめのみこと、私たちは高木姫と呼んでいますが、彼女もすでに巫女として仲津宮で活躍しており、このたび、辞めた巫女に代わって5人抜きで比売巫女につぐ地位に就くことになったのです。

 母も高齢となり、日之巫女を継いでくれる後継者を探す必要性に迫られていました。中でも高木姫は母のめがねに適った巫女の一人で、最も有望な日之巫女候補でした。

 ここで当時の私の父と母のことを時代背景も含め、説明しておきましょう。

 大和国の王子、倭建命やまとたけるのみことが九州に赴いた際、仲津の主だった品陀若王の娘との間に一子をもうけたのが我が父、仲津彦なかつひこです。

 北部九州は古くに辰韓しんかんから渡ってきた秦一族と、同じ渡来系で出雲を本拠地とする、新興の素盞嗚すさのおの一族がせめぎ合っていました。

 秦の人々は農耕や祭祀に優れ、土木や養蚕、鋳金などの技術を主に北部九州に広めていきました。また、優れた資質を持つ諸国の首長などの娘たちを集めて巫女として教育を施し、祭祀を行っていました。

 しかし、このことが素盞嗚をはじめとする出雲族と争いのもととなったうえ、あの、八岐大蛇伝説が生まれるきっかけになったのです。

 初代素盞嗚が一世紀頃出雲地方へ渡来。その子孫が神門川かんどのがわ中流の飯石郡須佐郷、現在の出雲市佐田町須佐、つまり出雲西部の小盆地に居を構えました。

 ちょうどその頃、出雲の長、足名椎命あしなづちのみことと、その妻、手名椎命てなづちのみことの娘、櫛名田比売くしなだひめを巫女修行と称して仲津へ差し出すよう要求していた秦の者たちが、豊浦から海路、出雲へやって来たのです。

 秦の民は水神である龍神を祀っていました。龍神は蛇に通じ、大蛇がオロチと称されていました。つまり八岐大蛇とは海路やって来た、秦の中でも最も恐れられていた海人族の首領たち、八部衆のことを言ったのです。

 その頂点に君臨していたのが、私の母方の祖父、息長宿禰でした。また、仲津に居を構えていた品陀王ほむだのみこは息長に次ぐ地位と、八部衆の中でも長老として息長宿禰おきながのすくねの参謀的役割を果たしていて、海神族八部衆は圧倒的な勢力を誇っていました。

 まともに戦っては勝ち目はないと考えた素盞嗚すさのおは、八部衆の首領たちを迎えて酒宴を開くことにしました。首領たちは秦一族と同じ渡来系のスサ族の王、素盞嗚が饗応してくれると聞いて喜び、全員出向いて酔ったところを、素盞嗚に呆気なく斬り殺されてしまったのです。

 素盞嗚がその尾を斬り落とそうとしたところが、その刃が欠けてしまい、不思議に思って尾を裂いてみたところ、素晴らしい太刀が出てきたというのが、『古事記』に記された草薙の剣、天叢雲剣あめのむらくものつるぎです。

 素盞嗚の剣は『尾』、即ち『頭』に付き従ってきた下っ端の兵士の所持する剣にすら劣っていたのです。

 その後、さらに素盞嗚らは豊浦を経て、北部九州に侵攻。素盞嗚すさのおの子、五十猛いそたけるらが、現在の福岡地区の伊都国に拠点を置きました。ちなみに伊都は五十いその文字を用いて伊蘇いそに、さらに伊都と変化したものです。

 また、周防灘沿いにやってきた一軍は、行橋の名の元になった行事ぎょうじに拠点を置き、小倉の地を縦断して香春かわら道をやってきた一軍は、香春岳の麓に拠を置いて、戦いを繰り広げました。

 これが倭国大乱、西暦190年頃のできごとです。

 香春は銅の産地としてつとに有名で、銅は銅鏡、銅鐸をはじめ、銅剣などの製作には欠かせない鉱物資源です。

 幸い母は品陀王のもとに身を寄せ、池に薦が群生している別名、薦宮と呼ばれる社で巫女をしていまして、難を逃れたのです。

 母は幼い頃より陸より船の上を好み、天候を読む才にかけては誰も及ばなかったそうです。

「雲が西から東へ流れていますが、もうすぐこちら側は晴れます。胸形の方はまだ雨と向かい風の中。攻めるなら、あと半時以内に」と、かつて志賀島しかのしまに拠点を置いた息長が胸形を攻めた際、決定的な判断を下す材料を提供したといいます。

 さらには幼いながらも陽光を背に船首に腕組みをして立ち、向かってくる胸形の兵士達に「比売神さま」と畏れられ、ほとんど戦闘もしないまま、従わせてしまったそうです。

 かつて私の祖父、息長宿禰おきながのすくねが「我が娘がもし男だったら、息長の名は大陸にまで知れ渡ることになったであろう」と言って嘆息し、行く末を案じて娘が女として育つことを希望して、母方の親類でもある品蛇王のもとに6歳の時に巫女として預けたそうです。

 その地で巫女としての才能も大いに開花したのですが、仲津の主であり海神八部衆の知恵袋と言われた品蛇王の薫陶を受け、大陸の最新の兵法をはじめ、戦の駆け引きについては、さらに磨きがかかったと言います。

 品陀王亡き後、その息子で仲津の主となった品陀若王ほむだのわかみこは「親爺の一番傍にいて、最もその教えを受け継いだのは、息長の娘だからな」と言って、その才に舌を巻いたそうですが、教える側だった若王の父、品蛇王をして、「天をその背に戦う姫さまを前にしては、我が戦術など児戯に等しい。人智を越えた戦い方は、戦略と片づけるのもおこがましい。まさに天啓、天の意志である」とまで言わしめたとか。我が母のことながら、幼くして品蛇王からそこまで賞されるとは、やはり恐るべき才能の持ち主だったのでしょう。

 十代半ばの頃の出雲との戦いでは、ほとんど壊滅状態まで陥った若かりし父を助け、夜陰に乗じて貴船社に駐留する出雲軍の幕屋に火を放ってこれを全滅させました。さらに反転して西に向かい、峠を越えて香春に駐留する出雲軍の側面を突いてこれも叩くことに成功しました。その功もあってというか、戦場をくぐり抜けて来た連帯感のような盛り上がりから、公には結婚していないことになっておりましたが、我が父、仲津彦なかつひこと結ばれることになったと言います。

 もっとも主導権は父ではなく、常に母にあったようです。父は気が優しく、とても戦いの中に身を置くには相応しくない人間でした。そういう意味では、母がいなくてはその後も含め、とてもあれだけの戦果は得られなかったと思います。

     *

 本田はなぜだか寂しげな笑みを見せた。

 話を聞いていて途中で気づいたのだが、本田の話には神功皇后の逸話や伝承が混じっているように思えた。

 北部九州には神功皇后の伝承、足跡があちらこちらに見られる。地名にもそれが残っている。例えば北九州市八幡西区の皇后崎こうがさき

 神功皇后が新羅へ遠征した際、船を洞海湾へ突き出た岬に停泊させた地、とされている。皇祖神武天皇を祀る一宮神社が坂を上った所にある。神武天皇が即位する前、皇子だった時代に滞在した岡田の宮跡と言う。

 こういった話は地元、八幡西区黒崎出身の医師から耳にタコができるくらいしつこく聞かされたものだ。

 ひょっとしたら岡田の宮に詣る途中だったのかもしれない。神武天皇への戦勝祈願、あるいは戦勝報告でもしたのであろうか。

 他にも香椎の宮や応神天皇を産んだとされる筑紫宇美八幡宮。

 そこから竹で編んだ笊桶、小桶しょうけに生まれたばかりの御子を入れて筑前大分だいぶの地に至る峠を越えたのでこの峠を「しょうけ峠」、そしてそこを越えることを「しょうけ越え」と言う。

 筑前大分だいぶで遠征軍を解散、「大分おおわかれ」したのでこの名が付いたと言う。大分八幡宮の裏山の小高い丘は、皇室古墳埋蔵推定地「仲哀天皇御陵」とされている。

 前後するが、神功皇后は筑後川支流、寺内ダムのある佐田川流域の林田に河貝子かわにな(蜷)を集めて城を築き、和平交渉と称して狗奴国の将兵を呼び寄せ、城に入ったところを、蜷城を破壊、殲滅。この地の狗奴国軍をことごとく討ち平らげ、筑後川以北から狗奴を一掃したと言う。

 蜷城が転じて美奈宜の地名となり、現在の三奈木にその名を残し、その地に美奈宜神社が創建され、今に伝えられている。

 少々歴史に詳しそうな北部九州の人間に神功皇后の話を間違っても振ってはいけない。ましてや歴史や考古学に興味があるなどと口を滑らそうものなら、即座に拉致され、その地へ案内される覚悟をしておかなければならない。

 さらにもう一つ注意が必要である。それは決して反論してはいけない、という点である。生半可な知識での議論は、彼らの地元愛の前には、火に油を注ぐのが関の山である。

 まるで自分の身内のようなその熱い話しぶりに閉口しながら、うなずいて聞いているうちに気づいたら古代史にほとんど興味の無かった自分ですら、いつの間にかこの程度なら苦も無く答えることができるほどまでになってしまっているのだから、驚きである。耳学問怖るべし、である。

 神功皇后以外にも、仲哀天皇の父、日本武尊やその父、景行天皇が土蜘蛛を討ったという足跡が北部九州のあちらこちらに見られる。

 それにしてもなぜだろう。本田は仲哀天皇とは言わずに仲津彦と言う。

 その頃の私は諡号の『タラシナカツヒコ』の意味するところや、日本武尊の没年と仲哀天皇の生誕年の乖離が日本書紀では数十年にわたっていることなど、知るよしもなかった。

 これも後に知ったことだが、応神天皇が生まれたのは仲哀天皇が亡くなってからのことで、父親の顔は知らないのである。さらには新羅遠征からの帰途、生まれそうになったら石を腹に当てて冷やして出産を遅らせたとか。その石が壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納され、今に伝わる。

 もっとも新羅遠征はなかった、熊襲征伐に行った際の話である、と言う説もあって、未だ定まってはいない。

 思わず本田の話に聞き入ってしまった私だったが、ふと我に返って大切なことを訊き忘れていることに気づいた。

 ストーカー被害に遭っているとされた、現世の都仍ちゃんとどうやって知り合ったか、ということである。そして、なぜ、その娘をつけ回したのか、である。

「そういえば、現世の都仍ちゃんとは、どうやって知り合ったのです?」

 ふっ、と本田の表情が曇った。

 私は手元にある、警察の事情聴取に基づいているという報告書に目を走らせた。そして目を丸くした。

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