幕間 宴の夜

幕間  貴顕の階梯  

 劉裕りゅうゆう桓玄かんげん打倒、並びに皇帝奪還の功は盛大なる宴をもって労われた。

 それは建康けんこうにのみとどまらず、京口けいこうに帰還してのちも続けられる。ただしこちらは劉裕の運営によるものである。決起の主宰として、参与者を労うためであった。

 共に戦った同志のもとに声をかけて回り、この機によしみを、と目論む地元の名士や豪商よりのあいさつは劉穆之りゅうぼくしに押し付け、回避する。

「ずいぶんお疲れじゃねェか、将軍どの」

「――手前のツラのおかげで倍増しだ」

 うすら笑いを浮かべた白髪の男が、劉裕の正面に立つ。男の正体を知る者らの顔が、見る間にこわばっていった。

 丁旿ていご

 淝水ひすい以来、劉裕の武勇は天下に広く轟いていた。その武に敢えて挑まんとする者もいないではなかったが、大勢としては「下手に逆らったところでどうしようもない」とみなされてきていた。だと言うのに、丁旿はその劉裕に正面切って殴り掛かったことがあった――理由こそ、劉裕に自らの分け前を奪われたなどという、いかにもでっち上げにも等しきものであったが。

 多くの戦で際立った功を挙げた劉裕は、その褒賞の多くを広く地元の人々に分け与えている。その劉裕が、なぜ敢えて一人の褒賞を奪い、私腹を肥やそうだなどと考えるのか。誰しもが丁旿のふるまいを笑ったものである。

 しかし、その丁旿が宴の場に現れる、というのであれば。

「今更、何しに来た」

「こっちだって、手前ェに用ァねェよ。ただ、うちの先生が手前ェに会いてェって聞かねェからよ」

 言うと、丁旿は脇に避け、後ろにいた小太りの男に場を譲る。

 そのふくよかな顔つきに似合う柔和な笑みを浮かべる男であったが、細められた目の奥には、確かな鋭さをも帯びていた。

「お初にお目にかかるよ、劉将軍。あたしゃ、姓はとう、名はせんってんだ」

「陶? あぁ、陶侃とうかん将軍のひ孫のか」

 と、拱手した陶潜の目が劉裕の左腰辺りをにらみつけた。

「!」

 弾けるように、劉裕は右上を見る。

 特段、陶潜が動いたわけではない。が、そのやり取りを経て劉裕の――そして、丁旿の顔つきが険しいものとなった。

 とは言え、それもわずかな間のこと。

 再び陶潜を見た劉裕は苦笑を浮かべる。

「済まねえな、何かが飛んできたかと思ったんだが」

「こんな建物の中でかい? 案外、京口も物騒なんだね」

「面目ねえ限りだ。……そうさな、あんたの話あ己も聞いてる。ゆっくり話してえとこだが、あいにくとあいさつ回りが面倒でな。宿とかは決まってんのか?」

「や、北府ほくふの兵舎でも借りようかって話してたとこさ」

「そっか、ならうちに来るといい。己ぁともかく、うちのお袋ぁつねづね旿のこと気にかけてっからよ。今晩くれえなら泊めてやれんだろ」

「そうかい? じゃ、お言葉に甘えさせてもらおうかね」

 改めて、陶潜が拱手する。

 拱手を返すと、劉裕は陶潜の元から離れる。後ろ手に「先生、なに勝手に話し進めてんだ」と戸惑い気味に声を掛ける丁旿の声を聞きながら。

 劉裕の側に立つ大男が、ふと上を見上げた。

「将軍、恐れながら、特段何かが飛んできたようには思われませんでしたが?」

「ああ」劉裕が軽く手を振る。

「悪いな、蒯恩かいおん。きっと疲れてんだ」

 その顔つきは仕種に見合わぬ、険しいものだった。


 劉裕の妻、臧愛親ぞうあいしんの胸元で、娘の劉興弟りゅうこうていがうつらうつらとしていた。その様子をしばし眺めてほほ笑むと、劉裕は立ち上がる。

「じゃ、先生と酔い覚ましてくるわ」

「気をつけろよ、だれが狙ってるとも限らねえからな」

「ああ」

 同席していた陶潜を促すと、二人は自宅の庭に出た。

 満月が広く庭を照らす。あえて明かりを手にする必要もない。

「ずいぶん広い庭だね。の割にゃ殺風景だが」

「飾り立てる趣味ぁねぇからな。ここで手下どもをしごいてんのさ」

「へえ、お役目でもねえのにかい? 珍しいね」

「あんただって似たようなもんだろ? 旿に対するしごきの話聞いてても、楽しんでるとしか思えなかったぜ」

「ま、そりゃね」

 劉裕が、陶潜に振り向く――

 と、陶潜が劉裕に躍りかかってきた。

 幾重もの虚実を交え、狙うは胸元。

 そのなめらかな動きの猶予は、瞬き一つがあったかどうか。

 だが――

「!」

 劉裕の突き出す短刀は、更に速い。

 白刃を喉元に突きつけられ、陶潜の動きが、止まる。

「これで、答えにゃなったか?」

「ああ、腹いっぱいさね」

「そりゃ良かった」

 劉裕が懐に短刀をしまうと、陶潜の顔には、滝のような汗。

「殺さないのかい?」

「あんたにゃ旿ともども世話になってる。そこまで恩知らずじゃねえよ」

「恩、ね」

 汗を手で拭うと、陶潜はふふ、と笑った。

「なるほどね、挨拶のときといい、あたしの手立てを知ってるわけだ。にわかにゃ信じらんねえが、旿のと、将軍。あんたら、おなじもんが見えてんだね?」

「――ああ」

 返事とともに、劉裕は渋面を浮かべる。

「けどよ、よくたどり着けるもんだ。言ってて、己だってよく分かってねえってのに」

「どんだけ旿のを見てきたと思ってんだい。あんたらのこた、多分あたしが一番わかってらあね」

「それもそうだ」

 ふむ、と陶潜が顎をしゃくる。

「なあ、将軍。拾った命ついでだ。誰かとつながっちまってんなあ、いってえどんな気分なんだい?」

 一度、劉裕は月を見上げる。

 間を置くことしばし、陶潜に目線を戻す。

「そんな気持ちいいもんじゃねえよ。こいつの事知ってるやつぁ、旿のこと、腕、って呼んでやがったかな。言われりゃそうだ、手前のふたつの腕よかずっと色んなことができる、っが、くっそ不器用な腕があっちにフラフラ、こっちにフラフラしてるみてえなもんだ」

「まぁ、お世辞にも旿のぁ聡かねえやね」

「ひでえな、あいつにも聞こえてんだぜ?」

「今更さね。さんざん言ってきてんだ。そうだろう?」

 お互いに、奇妙な笑みを浮かべ合う。

「――だな。ようは、己ぁあいつにいくらでも好き勝手できんだ。けど、あいつぁそうじゃねえ。見るもん、聞くもん、感じるもん。思ってることなんかも、全部互いで筒抜けになってる。だが、あいつが己をどうこうぁ全くできねえんだ」

「ずいぶん不公平な話じゃないかい?」

「まったくだ。ひでえもんさ、どうしてこんなことになっちまったんだか」

 豪腕、剛毅で知られる劉裕が、弱々しげな笑みを浮かべる。それを見た陶潜は、はっとしたかのように顔をそむけた。

「ずるいじゃないか、天下の驍勇さまがそんな、いきなり」

「仕方ねえだろ、こんなん誰にも打ち明けられねえんだからよ」

 その言葉には嘆息が混じる。

 陶潜の顔には動揺が現れていたが、一度目を閉じ、大きく息をつくと、あえて厳しい顔を作った。

「まぁ、いいさ。あんがとよ、おかげでいろいろ合点がいった」

「そりゃ何よりだ」

「だから、決めた。今日で旿のぁ、破門だ」

「――あ?」

 劉裕の顔にも険が差す。

 が、構わず陶潜は向かい合う。

「劉将軍。あんたぁ、掛け値なしにすげえお方さね。こっから先も、どんどんこの国を登ってかれるんだろう――旿のを、踏み台にし続けながら」

 最後の一言が、過たず劉裕を貫いたようである。

 わずかに、ぐらりと揺れる。

「あたしゃね、将軍。好きになっちまったのさ、あのぶきっちょのことをよ。何でもかんでも投げやり、いつもだるそうで、ちょいと目ぇ離しゃすぐにサボろうとする。けど、なんだかんだで義理人情にゃ厚くて、困ってるやつぁ見捨てらんねえ、あいつをさ。妙に我が強ええようでいて、けどどっかやけくそなとこもあった。そりゃあそうだ、あいつぁどこに出向いたとこで、いつまでも、どうしようもなく、あんたの飼い犬なんだ。無論そいつぁ、あんた自身だって望んだことなんじゃないんだろうさ。――けど」

 あえて陶潜は拱手し、頭を垂れる。

「あいつの友として、あたしゃ、あんたを許せそうにねえ」

 言葉と、仕種。

 そのまるで噛み合わない二つをしばし見て後、劉裕は長い嘆息を漏らした。

「そう、だな。いっそひと思いにあいつを殺してやれりゃ、どんだけマシなんだか」

 そして、劉裕も拱手する。

「ありがとうよ、先生。心底あいつのために怒ってやれるんなぁ、もう、あんたしかいねえんだ」

 月は真南にかかる。

 それは、最も高いところ。


 桓玄打倒に真っ先に立ち上がった者たちの中でも、特に劉裕、劉毅りゅうき何無忌かむきについては公爵への進爵がなされた。

 爵位は通常、家門によって規定される。公爵位は寒門出の人間がつけるものではなかった――通常ならば。彼らの進爵は、有史以来類を見ない大栄達であった、と言える。

 ただし、ほかの者もそれぞれに進爵を受けているが、この三人ほどの地位には付けられていない。むしろ劉裕の決起に陰ながら協力をしていた王弘らをはじめとした貴族らのほうが高い評価を得ている。

 劉裕ら三人らを頂点とし、貴族の子弟らが挟まる。

 どこに実権が残っているのかは、明らかであった。

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