07-06 羅落橋の戦い 下
「
そいつを構わずに、ぶち抜く。
甲冑を着込んだ奴らが、三人、四人と貫かれんだ。それで寄奴の馬の勢いが衰えることもねェ。
たァ言え、何人もがぶっ刺さっちまや、さすがにそれ以上突き出すこともできねェ。
寄奴ァ槍を手放すと、改めて長剣を握る。
「
左右に長剣をぶん回す。紙切れみてェに、雑兵どもが飛ぶ。
おまけに、その後ろにゃ
将軍首二人での特攻なんざ、下策にもほどがあった。だが、やんなきゃなんねェ。魏詠之の名前ァ、この軍にとっちゃ換えがてェ柱だ。そんなんが初っ端でコケる。混乱と恐慌が、必要以上に配下を蝕むだろう。そうなりゃ魏詠之軍がぶち破られ、却ってこっちの背後に回られちまう恐れだってある。
だから、今度ァ
寄奴を阻める奴なんざ、いねェ。ほんのふた呼吸、三呼吸ぐらいの間にゃ、魏詠之軍の側にまでたどり着く。魏詠之の死体を抱え、絶望にくれた顔でじりじりと下がる副官。
そのツラが寄奴を見て歓喜に変わ――るかと、思ったら。
「将軍、左です!」
副官が叫んだ。
目だけを飛ばしゃ、血煙の向こうから、ひょろっとした奴がしみ出てきやがる。
そいつァ、油断って呼べるもんでもねェ。右手の指を順番に動かそうと思ったら、左手の動きなんざ気にし切れねェ、そんくれェの隙間。
――
声もなく、殺気も散らさず、短刀が寄奴の脇を狙う。
避けきれねェ。
なら、殺されねェようにするっかねェ。
朱齢石の短刀が、寄奴の脇をえぐろうとする。
そこに寄奴ァ、肘をぶち込む。
痛みと、肘骨で肉と骨とをぶち破る感触が脳天にとどくのが、ほぼ同時。
同時だ。防ぎきれちゃねェ。肺にまで届かすんなァ避けたが、脇から背中にかけての肉ァ、ごっそりえぐられちまった。
たァ言え、怯んでる暇なんざねェ。ここで引きゃ、相手に付け込まれる。
痛みから立ち直るんなァ、ほんのわずかだが、寄奴のが早かった。
左手から抜けかけた力を強引にかき集めて、朱齡石の野郎がいそうな辺りに、思いっきり裏拳を振り抜く。
確かな手応えと、焼けるような痛みが、寄奴に伝わる。振り向きゃァ、ろくろく甲冑もつけねェでいたやつの鎖骨あたりをぶん殴ってた。
骨と、骨だ。寄奴の手の骨も何本かいっちまったが、朱齡石にだってそれなりの痛手ァくれてやったろう。
たァ言え、朱齡石だけにかかずらってるわけにもいかねェ。あたりにひしめく敵軍の動きを見て――
「恩! そいつを捕らえろ!」
寄奴ァ、声を張り上げる。
ぶちのめした朱齡石に対する、敵軍の動揺が並じゃねェ。そいつァ頼りになる味方を失ったのとも違う、もっとどでけェ何かを失ったかのような。
「そいつが、将だ!」
「承知!」
蒯恩ァ巨体に見合わねェ身軽さで馬から飛び降りると、あっちゅう間に朱齡石を取り押さえた。あわせて後続から縄が寄越される。ろくろくの抵抗もなく、朱齡石ァふん縛られる。
そいつを見届け、寄奴ァ叫ぶ。
「
そのどでけェ声ァ、争乱のきわみにある
寄奴にしてみりゃ、ぐちゃぐちゃの戦況ン中で見出した手がかりをあてにしただけの、言ってみりゃ博打だった。これで朱齢石が楚軍で重い役割を引き受けてなきゃ、ただの遠吠えにしかなんねェ。
っが、そこに構っちゃいらんねェ。どうにかして、楚軍に傾きかねねェ勢いをへし折る必要がある。
寄奴の勘ァ語る。
こいつが、魏詠之も殺した。
殺せるだけの手はずを取れる指揮をして、殺せるだけの武技を振るった。そんな離れ業決められるやつが、一帯を操れるだけの指揮権を、持ってねェはずがねェ。
寄奴の野郎、持ってやがるからな。このへんの博打についちゃ、ほぼ外すこたァねェ。思ったとおり、信じらんねェ勢いで、楚軍の動きが乱れてく。
のんびりそいつを眺めてる暇なんざねェ。寄奴ァ蒯恩と、魏詠之軍のうちまだ心が折れてなかった隊長格に撃滅の命令を飛ばす。蒯恩の動きが鋭でェんなァ言うまでもねェが、隊長格の動きもなかなかに悪かねェ。
そいつを見届け、寄奴ァようやく一息つく。背中の傷に顔をしかめる余裕も生まれた。
「くそ、派手に抉ってくれやがって」
傍らに転がる、朱齢石に言う。
青ざめた顔にゃこれでもかと脂汗が滲んでる。呼吸も荒れェ。っが、そんな中にあって、目元ァ涼しい。
「天下の暁勇に傷を負わせることが叶いました。本望、とまでは申せませんが、武人としては誉れです」
言うと、強引に口元を引き上げる。
「貴様、劉裕様に対して――」
周りの奴らがいきり立ち、朱齢石に殴りかかろうとした。
「やめろ!」
っが、そこに寄奴ァ一喝する。びくり、殴りかかろうとした奴だけじゃねェ。寄奴の周りを固めてる隊の奴らまでもが身をすくめた。
朱齢石から食らった傷ァ、思いのほか深けェ。油断すると朦朧としかけさえする。だがこんな初っ端で、寄奴までコケるわけにゃ行かねェ。
「武人って言ったか。ならお前の値段ぁ、誰が振るうかでも変わるよな?」
そんなん、その行く末が楽しみで仕方なくなるってもんだ。
「手前は魏詠之を殺した。そのぶんの恨みをひっかぶって、なお有り余るだけの武が振るえるか?」
寄奴の言葉に、周りァざわつく。
そりゃそうだ、魏詠之を殺し、寄奴にすら深手を与えた奴に、その場で勧誘ってんだからな。あの場にいるどいつもが、ワケのわかんなさに慌てふためいたろう――あの野郎、最悪だからな。そうやって辺りをワチャワチャにさせんのが、楽しくて仕方ねェんだ。
朱齢石ァわずかに目を見開いたが、やがて顔を伏せ、重々しく、言う。
「剣は英雄に振るわれ、輝きましょう」
呉甫之が落ち、朱齢石が寝返り。こうなっちまや、皇甫敷にしたっていつまでも隊列を保てたもんじゃねェ。
きっと、朱齢石の動かし方こそが虎の子だったんだろう。そいつを失って、打つ手がなくなったのか。間もなくドラの音が鳴り響きゃ、楚軍ァ撤退を開始する。
追撃ァそこそこに、ひとまず寄奴らァ羅落橋の周りで勝鬨を上げる。
一気に攻め寄せてェとこじゃ、あった。っが、魏詠之と、寄奴の脇。そうホイホイと軍を転がしちまえるような被害じゃねェ。
「貴様、劉裕! なんだその大怪我は、一人突っ走ったと思えば、しかも敵将を――」
「それよりよ、無忌」
怒り満面の何無忌に、寄奴ァ痛みを抑え込みながら、無理してあっけらかんとした声で割り込む。
「こないだの辻占い、当ってたみてえだな。聞いたときにゃまさか、と思ったがよ」
寄奴が思い出すんなァ、決起の前日、京口で戯れに見させた占い。
占いァ言った。寄奴、何無忌、魏詠之。三人のうち、二人がまばゆく輝いてた、ってな。
なんで、ひとりァ輝いてなかったのか。
――死ぬからだ。
何無忌ァ、はっとする。
「行くしかねえみてえだぞ、無忌。詠之のぶんまで、とことんよ」
悔やみ、悲しんでられる暇なんざねェ。ここで立ち止まっちまや、それこそ魏詠之も犬死にになる。
傷の周りの肉がうごめく。
まるで、強引に傷を塞ごうかって勢いで。
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