02-05 孫恩と廬循
まァ馬に乗ったまま近付いたのがいけねェ。
そりゃやべェ奴って思われても仕方ねェわな。
あとに残ったのは若い女、幼子二人、それと、
乳飲み子を見る。土気色の顔、枯れ果てた呼吸。枯れてんのはそんだけじゃねェ、ぼろっ切れから覗く手指もだ。
苦しそうにあえぐちびの顔に、野郎が掌を添えた。その眉根がキツく寄る。
「賀也汝便登仙堂」
ゆっくり顔の上で掌を回す素振りをしながら、抱えてた方の手がわずかに動いた。寄奴が動こうとしたが、もう遅せェ。ちびのうなじがかくん、と落ちる。安らかに眠ったかのような顔つきになった。ただ、もう二度と目が開くこたァねェが。
「――あ」
女の目から涙がこぼれた。震える手で、死体を引き取る。
「ご夫人、
「ありがとうございます、
女はそう言うと、横目で寄奴を見、大げさなお辞儀をしてみせた。そんで慌てて子供二人を促し、退散する。
気付きゃ孫恩って呼ばれた男と寄奴の周りからは人がいなくなり、とは言え遠巻きには見られてるような状態だ。
寄奴はぐるりを見渡し、「あー……」って頭を掻いた。
「悪かった。邪魔しちまったみてえだな」
「いえ、とんでもない。あなたのような士大夫の気にお留め置き頂け、光栄です」
緊張するでも、警戒するでもねェ。物腰と同じく、柔らかな語調。かと言って余裕、ってのとも違う。上手い言い方が思い付かねェな。何の無理もなく、そこにいた、とでも言やいいのか。
孫恩が
「私は
「大した名じゃねぇ。
多少ケツにむず痒さを覚えながら、それでも寄奴は
船上で話を聞いちゃいたが、実際に広陵の町なかに出てみりゃ、思った以上に寄奴の名前は知れ渡っていやがった。第一にゃもちろん
「ありがとうございます、項大夫」
「勘弁してくれ」
手綱は手放さねェままで、馬から下りる。
「にしてもあんた、随分慕われてんだな。遠巻きだが、どいつもこいつもあんたのこと心配してら」
「勿体ないことです」
柔和な笑顔からは、裏が見えねェ。
あるいは本当に、ただの笑顔なのか。かえって寄奴が戸惑うくらいだった。
「だからこそ気になってな。あんた、なんであのガキを殺した?」
どこまでもまっすぐに、ためらいもせず、言葉の剣を突き付ける。騒ぎは起こすなってこそ言われちゃいたが、こん時寄奴ァ返答次第じゃ脳天かち割るくらいのつもりでもいた。
辺りがざわめく。
だが、やっぱり孫恩自体に動じるところはねェ。
「理由が必要でした」
「理由?」
「はい。諦めるに足る理由です。あの子は助かりません。しかし、親子の情はそれを易々と認めるわけには参りません。ですので、私が理由となりました」
「それで、仙堂か」
――おめでとう。君は間もなく、仙堂に召されるのだ。
孫恩がちびに掛けた言葉は、また、母親への慰めでもあったんだろう。死によって、救われる。そう考えでもしなきゃ、まともに立てもしねェ。
身も蓋もねェ言い方だが、ちびが一人死にゃ、その分食い扶持も減る。ってか、減らさにゃ、結局他の奴が死ぬ。分かっちゃいるが、だからといってはいそうですか、なんて訳にゃ行かねェ。
「なぁ、孫恩さんよ。仙堂ってな、何処にあんのかね?」
つい、聞いちまう。
仕方ねェ話だ。寄奴自身、産みの母親にゃ生まれたその日に死に別れてる。思い詰めた親父にゃ殺されかけ、けどひょっこり命を拾って。
その親父殿も、いまや土の下。後妻の
と、そこへ。
後ろから、殺気。
声も掛けずに容赦なしの一振り、やり慣れてる奴の手口だ。
寄奴も迷わず、腰に佩いてた剣に手を掛ける。
「止まれ、
さっきまでの柔和な顔つきからは信じられねェっくれェ、孫恩の声は鋭かった。
振り向いたとこにいたのァ、十四、五になろうかってェガキ。寄奴の剣ァその首筋、皮一枚ンとこで止まってる。
ガキの顔に浮かぶ怒りが恐怖に取って代わんのにゃ、数瞬の間があった。
手から、棒ッ切れが滑り落ちる。
「しつけのなってねえガキだな」
「申し訳ありません。そして殺さずにいて下さり、ありがとうございます」
寄奴が剣を引くと、循、って呼ばれたガキは力なくへたり込んだ。
腰周りが小便に濡れる。
「私の連れ、
「ま、いいさ。己もいい加減どう見られてんのか、弁えるべきなんだろうよ」
ため息と共に、剣を収める。
別に、孫恩に迫ってたわけじゃねェ。にもかかわらず、廬循とやらは問答無用で突っかかってきた。さっきがさっきだった分、血の気がどう、で片付けるにゃ、寄奴にも思い当たりがありすぎた。
孫恩の前髪が、ひと房落ちる。
「にしても怖ええな、あんた」
「何のことでしょうか?」
もう、孫恩の顔にゃさっきまでの笑顔が戻ってた。大儀そうに立ち上がると、びっこを引きながら寄奴の脇を通り過ぎ、廬循に歩み寄る。
「私を心配してくれたこと、それは嬉しい。だがね、廬循。彼我の力の差を見抜けないのはいけないよ」
そこかよ、寄奴が獰猛に笑う。
柄に掛けた手に、ほんのちぃとばかし力がこもった――のと、孫恩が顔を向けてくんのはほとんど一緒だった。
「項大夫。恐れながら、これにて失礼させていただきます。この粗忽な連れの介抱もせねばなりませんので」
そう言って、廬循の手を引く。何とか立ちあがった廬循の目にゃ、もう怯えの色はなかった。憎々しげに寄奴を睨んできやがる。何はともあれ、勘違いから突っかかってきやがったのァそっちだってのにな。
「なので最後に、先ほどの問いに答えさせていただきます。仙道は、今この時、最も求められるべきものです――が、」
片手で廬循を担ぎ、もう片方は、天に向ける。
「そんなものは、ありません」
天に向けたほうの手を握り締め、振り下ろす。
まるで何かを引っぺがし、捨て去ったかのような。
ありもしねェもんを、そうとわかりながらも、拠り所とさせる。
詐術もいいところだ。けど孫恩は、それでいて、民心を掴んでた。
――妖賊、五斗米道。
奴らはずっと先、寄奴の前に立ちふさがることになる。
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