コトバの国のアリス

空美々猫

コトバのカタチ

気がついたらそこは現実とは違う世界だった。つまり私の知っている、私が現実と呼んでいる世界ではないということだ。


目の前には蜃気楼のようなぼんやりとして実態の無い景色が広がっている。そして私は宙にフワフワと浮いているようにそこにいる。足の裏には地面の上に立っているという感覚が無い。足元にある「石ころのようなもの」に触れようとしてみても、そこには触れているという実感が無い。だからそれが果たして「石ころ」なのかはわからない。目に写っている分には「石ころ」に見えるわけだが。


どうやらこの世界には――少なくとも今私の目の前に広がっているところは――物質と呼べるものが無いようだ。すべては輪郭が虚ろで、ふわふわとしている。何かと何かの間に境界線というものがハッキリとは存在せず、それは雲と雲の間に境界線が無いのと同じようなものだ。だけどどうやら一応「個」というものはあるらしい。つまりハッキリと境界線は存在しないが、それでもなんらかの形であれとそれは違うものであり、しかし全く別物かというとそうとも言えない。それは実に掴みどころの無い世界なのだ。


ウサギに話かけられた。いや実際はあの哺乳類のウサギのことではない。漠然としたウサギ的概念とでも言うべき何者かだ。だけど何者かを指す場合、一応そこには名前が必要になる。だから私は便宜的にその何者かを雲ウサギと呼ぶことにする。


「貴女は何処から来られたのですか?」


雲ウサギはとてもかしこまった口調でそう尋ねた。


「どうもこの世界の住人ではないご様子。貴女は我々に比べ、いささか個体がハッキリしている。この世界の住人にはそのようなソリッドな身体は無いのです」


しかし私の身体だって、現実世界にいた頃のそれとは全然違うものになっていた。やはり境界線が薄れ、まるで肉体から魂だけが抜け出てしまったような感じだ。


「私はこの世界に来たのは初めてよ。気がついたらこんなふうになっていた。ねぇここじゃこれが当たり前なの?」


雲ウサギは少し輪郭を歪ませ2,3歩後ずさってから答えた。


「おぉいけません、いけません。そのような言葉使いで話しては。私達は貴女のようにしっかりとした身体を持っておりません。我々は言わば、概念のようなもの。意味的な存在。丁寧に扱わなければ、我々はすぐに歪み、意味を損なわれ、変容してしまうのです」


私には雲ウサギの言っていることがよくわからなかった。私はこの世界の住人ではないし、彼らとは違う存在なのだから。でもどうやら彼らはとてもセンシティブな存在のようだった。そして雲ウサギは「自分達は意味的な存在」だと言った。確かに意味的な存在なら、その意味が書き変わってしまうのは彼らにとって致命的にことなのかもしれない。乱暴な言葉は意味を傷つけ、歪ませるのかもしれない。私の言葉使いはたぶん女が話す分には普通だと思うけど、きっと彼らはもっと丁寧に扱うべき存在なのだ。


私も雲ウサギに倣って、なるべく丁寧な言葉を話すことにした。


「貴方の世界では、このような状態が普通なのですね?」


「その通りでございます。ここにはソリッドなものは存在しません。我々は脆く、壊れやすい。意味的な存在は言葉によって触れ合います。ソリッドな肉体を持たない我々にとってはそれが唯一のコミュニケーションなのです」


雲ウサギはとても洗練された笑みを浮かべて続けた。


「私は以前にも貴女のような方に出会ったことがある。その方もやはり、貴女のように個体のハッキリした方でした。その方の話では、自分たちの住んでいる世界には物質というものがあり、そして物質には境界というものがある。だからコミュニケーションを取る上でも、物理的に他者と触れ合うことができるのだと仰っていました。」


そうそれこそが私の住んでいる、私の知っている現実世界だ。雲ウサギはさらに続けた。


「しかし我々には物質でできた肉体などありません。そしてこの世界にはそもそも物質などというものが無いのです。だから我々同士は物理的に触れ合うことができません。その代わりに我々は言葉によって触れ合い、コミュニケーションを取るのです。しかし言葉とはとても扱いが難しく危険なもの。それは暴力的になり、残虐になり、致命的な悪意さえ持ちうる。そこにナイフや銃は必要ないのです。ただ悪意を持って、あるいは無神経になって、相手に言葉を投げかければいい。しかし、そんなことをすれば、そういう言葉を使った本人でさえも、何かを致命的に損なってしまいます。だから我々はそのような言葉使いは致しません。それはお互いを傷つけない為にとても重要なことだからです」


状況は現実離れして、まるで夢の世界のようだけど、雲ウサギの言う事は理屈としてはだんだんわかってきた。というか、ある見方をすれば、現実の世界だってそういうものだ。現実世界においてだって、私達は状況によって、相手によって、また扱う事柄に寄って、言葉を使い分ける。


肉体を持って、言葉以外のコミュニケーションを取る私達だってそうなのだ。肉体の無い、意味的な存在の彼らが、言葉を使ってコミュニケーションを取るなら、それはナイフにも変わるのだろうし、あるいは赤子を抱き抱える母親のような手つきにも成りえるのだろう。


「貴女のような異質な存在と相対する時、我々は最大限丁寧に言葉を選びます。それは我々にとって貴女は別の世界から到来した他者に他ならないからです。他者と相対することは未知との遭遇なのです。未知とは、善きものも悪しきものも、我々にもたらします。そういった言わば我々の想像を絶するものと相対する時は、それに相応しい作法がある。貴女方の世界でも超越的な存在、つまり神と呼ばれる存在など相対する時、そこには儀礼があり、作法がありますでしょう?他者と接するというのも、それと同じなのです」


語り終えると雲ウサギはうやうやしくお辞儀をした。私も私なりに精一杯誠意を込めた笑顔でそれに応えてみた。


「とても勉強になりました。貴方とお話しすることができて良かった。ありがとうございます。お話を聞かせていただいたお礼をしたいのですが、何分こちらの世界のことはよくわからないのが残念です」


すると雲ウサギはいえいえと首を振った。


「我々の世界ではお礼というのは、丁寧にきちんと言葉で言うだけでよいのです。他に特別何かをする必要はありません。そして貴女はとても素敵な笑顔でありがとうと仰ってくださいました。それで十分私は感激しております」


そして雲ウサギは私を導くように歩き出した。


「私も貴女とお話ができて大変楽しい時間を過ごせました。私も貴女にお礼をしたい。貴女はきっと貴女の世界に戻れなくてお困りになられていたのでしょう?貴女の世界への帰り方は存じております。ご案内させてください」


「ありがとうございます。それはとても助かります」


現実の世界に戻る方法もやはり言葉だった。雲ウサギが何か呪文のようなものを唱えるとそこに小さな扉が現れた。


「この扉は貴女の世界に通じております。良い時間が過ごせました。お元気で」


「ありがとうございます。貴方もお元気で」


私は雲ウサギに深々と頭を下げた後、その扉を抜けた。


そこは見慣れない駅の改札だった。だけどどうやら現実世界のようだ。人々の喧騒が聞こえ、駅の中から電車の発車のベルが響いてきた。いつもならただうるさいだけの雑踏も今は私をほっとさせた。そう、ここが私の住む世界なのだ。


人ごみの中、私はキョロキョロと辺りを見回した。どうやらここは奈良のようだ。看板に「生駒」と書いてある。奈良にはほとんど来たことがない。もちろん生駒駅なんて初めてだ。京都の私のアパートに戻るにはどの電車に乗ればいいのだろう?とりあえず改札で駅員さんに尋ねてみることにした。


「すみません、ちょっとお尋ねしたいのですが、京都に行くにはどの電車に乗ればいいのでしょうか?」

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コトバの国のアリス 空美々猫 @yumesumudou

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