第22話

 女はぞっとするような一切、体温を感じさせない笑みまじりに、鮎美の顔を撫でる。鮎美は一切、動けず身体を硬くする。

「きれいな顔ね。肌のお手入れもいきとどいてるみたいで。あなた、もてるでしょ?」

 女性にしては少し低い声で言う。ハスキーよりももう少し低い、だろうか。

「それに、ほっそりとした首ね」

 にやついた女は刃渡り十センチほどはあろうかというナイフをみせてくる。

 よく研がれた刃先を揺らめかせつつ、女は鮎美のそばでしゃがみこみ、ナイフの腹を頬へおしあててくる。

 凍えるような冷たさに、ぞくりとしてしまう。

 女は笑いながら頬から首筋をそっと移動させる。

「知ってる? 喉って意外に綺麗に切るの難しいの。でも切るとね、血があふれだして、ピューピューって、空気を吸おうとするたびに変な音がしてくるの。それにあわせて血があぶくになって、びゅるびゅるってこぼれるのよ」

 鼓動が早まり、呼吸が浅くなる。震えがとまらず、歯の根があわなくなる。カチカチと歯の鳴る音が頭に響く。小刻みな震えが手錠を揺らし、金属特有の硬い音がたった。

「前の子は、ちょーっと勢いで殺してちゃったからぜーんぜんたのしめなかったのよね。あ、でも誤解しないで。私は別に乱暴ってわけじゃないわ。ただ、相手があんまりにも小生意気なやつだったからおしおきをするつもりだったの。でも殴り馴れてないのってダメよね。すぐに手が痛くなってきちゃってね。それでも青痣だらけにしてやったらスッキリしたわ。そいつ、歯が折れて、ふがふがって間抜けな音させながら、たすけてくだふぁい、って言い出したのよ」

 女はまるで世間話でもするようなノリで語り、こらえきれないというようにぷっと笑い出す。

「なあに、人が面白い話ししてるのに。泣いたらダメじゃない」

 言われてはじめて鮎美は自分が泣いていることに気づく。そして意識をすると、咽まで漏れ出してしまう。

「怖かった? でも安心して。あなたは綺麗に、時間をかけてあげるから。顔だっていきなりはしないわ。そこは最後。それまでは足からゆっくりと、ね」

「っ……」

 太ももにさっと浅く裂かれる。傷口から小さな血の雫が浮き上がり、じんわりと鮮やかな赤色のラインとなっていく。

「綺麗な肌がもっと綺麗になった、でしょう。あぁ、でもほんとうに羨ましい。こんなに白い肌。染みのない肌……今が一番なのよね」

 また一本、浅い傷をつけられた。

「私も、私たちも、昔はそうだったのよ。でも、醜くなるの。年をとったりね」

 その目はまるで薬物中毒者のように彼女にしか見えない世界を映しているようで、白目がやたらと強調されて見えた。

 薬中なのか。どちらにせよ、刺激することは得策ではない。涙が口の端に触れる。温いしょっぱさが口のなかにじわりと染み入ってくる。

(た、たすけて……誰か……あ、あきら……っ)


「警部、どこへ向かってるんですか。代々木の捜査本部……じゃないですよね、この道は」

「捜査本部で検討をしている間に、藤岡巡査がなにをされるか」

「でも、鮎美がどこにいるのか、まったくわからないじゃないですか」

「……いや、そうでもない。……確証はないが、一分一秒とて無駄にはできない状況だ。行ってみるしかない」

 幽人が車を走らせた向かったのは渋谷区笹塚――。

 住所をみて、あきらも気づいたようだった。そこは北野舞の住居だ。

 幽人が言う。

「遺留品を確認したときから、ひっかかってはいた。あれだけいろいろなものがそのまま残されていたにもかかわらず、家の鍵だけが見当たらなかった」

「……そういえば」

「それに、北野舞の住宅は、有賀俊太郎の指名手配手続きによって一切、かえりみられることがなかった」

 あきらたちは夜の闇に半ばとけこみかけた建物をみあげる。マンションは築三十年はたっていそうで、五階建て。壁のところどころにはヒビがはしっている。時間帯もあるのだろうが、部屋の電気がついていなければ廃墟と見間違えしてしまいそうな薄ぼんやりとした印象だ。

 北野舞の部屋は201号室。部屋数は一階あたり五部屋。二階はどの部屋もカーテンが閉められているが、それでも室内照明がかすかにもれているのを確認できるのは二部屋。

 幽人とあきらはマンションにはいり、階段で二階までかあがった。


 鮎美は服を半ば脱がし(手錠のせいで完全に服を脱がせない)、下着に向いた姿を、松浦という女はにたにたしながら眺めている。

 どれくらいの時間が経ったのか、カーテンが閉め切られた室内からでは分からない。部屋には時計もない。ただ時間の経過を計るのは自分がどれだけ傷つけられたか、だった。太ももや腕にはいくつかの浅い傷ができ、血が流れている。まだ出血多量で死ぬような量ではないが、鮎美は空気のこもった蒸した室内で今にも窒息してしまいそうな気持ちの悪さに何度も襲われていた。心臓が痛いくらい暴れていた。

 流れ出た血を白いカーペットが吸い、小さな染みをつくる。鮎美はそれを見つめ、必死に落ち着こうとする。このままでは恐怖で頭がどうにかなってしまいそうだった。

「――ちょっと警察官でしょう。これくらいでもう、きついとか言わないでよ」

 顎を乱暴に掴まれ顔をあげさせられる。鈍い傷みに鮎美は顔を歪めた。

「あぁぁ……本当に、きれいな顔……。憎たらしすぎるくらい、活き活きしちゃって……」

 女の冷えた声が、生臭い息ともにかかったかと思った矢先、手が首にかかった。きつく締め上げられる。気道が塞がれ、呼吸が出来なくなる。

「あ、あっ……ァア……ッ」涙が溢れて、視界が歪む。必死に身をよじる。手足を塞がれた揺するたび、金属的特有の硬い音をたてる。こめかいの血管がドクドクと強く脈打つ。

 頭のなかが裁断されるように意識が薄れていく――。

「……なーんちゃって」

 不意に首にかかっていた手から力が抜ける。

 鮎美は床の上にくずおれ、ゲホゲホと激しくむせかえった。


 201号室の電気メーターはしっかりと回っていた。北野舞はすでにこの世の人ではないにもかかわらず、だ。

「……警部、お、応援を」

 あきらはかすかに顔を強張らせる。下手に刺激することは鮎美の生命にもかかわる。

 そうかといって、ここでもたついていても結局はおなじことだ。

「下手に警察を呼べば騒ぎになる。それに犯人が気づけば藤岡巡査を迷わず殺すだろう。あいつはもう有賀俊太郎であって有賀俊太郎じゃない」

「それでは、私たちだけ、ですか」

「嫌か?」

「いえっ」

「俺に考えがある」

 幽人はあきらの耳元で囁くように言った。


 呼び鈴が鳴った。それまで悦びに満ちていた女の目が鋭くなった。

 女は口に人差し指をあてて囁くように言う。

「……静かに、ね。無関係の人を巻きこみたくはないでしょう?」

 脅しではないことはすぐにわかった。

 鮎美は弱々しくうなずくが、女は念のためにかティッシュを丸めたものを口にねじこんできた。

 女は呼び鈴がなりやむのを待つ。二度三度無視していると、呼び鈴がやんだ。

「舞ーっ!」

 ドンドンと扉をたたくと同時に、声があげられた。

「もー、いるんでしょーっ! 居留守なんてしたって、だめなんだからねーっ!」

 訪問者は何度も扉を叩く。相手は酔っているのか、呂律が回っていない。

「でてくるまでずーっと待ってるんだからねーっ! いーわよぉー! そっちがその気ならーっ! 叫んじゃうんだからーっ! みなさーん、201号室の北野さんはーっ!」

 女は舌打ちすると刃を後ろ手に隠しつつ玄関に向かう。

(だ、だめ……)

 危険をしらせるべきだ。警察官である自分が。しかしそれは思いだけで終わって、どうにもすることができなかった。自分は恐れているのだ。嬲られ続けることが理性を麻痺させていた。

 さっきのナイフの冷たい感触が恐怖となって、心を縛りつけていた。

 扉がひらかれる。

「あ、いるんじゃーんっ!」

 訪問者が誰なのか、床に転がされている状態ではわからない。

 鮎美は恐怖と戦いながら身をよじり、床を転がる。

 女の背中で訪問者は見えないが、かろうじて、チェーンロックをして、腕いっぽんが入るか入らないか程度に扉をあけた状態で会話をしているのはわかった。

「……あなたー……誰?」訪問者は戸惑った声をだす。

「私、舞のバイト仲間。今、彼女は旅行中で。私、実はアパートおいだされちゃって。旅行中、部屋をつかわせてもらってるの」

「旅行……? そんなの聞いてないけどなー」

「突然思いついたみたいで」

「じゃあ、つきあってるカレシにでも振られたのかなー」

「かもね。それじゃ……」

「待って待って.。閉めないで。今、友だちにメールするからさ」

「なんで?」

「舞の部屋で飲もうってメールしちゃったんだよね。だから、中止ってメールおくらないと」

 訪問者が携帯をいじっているのが、かすかにみえた。

「よしっと……。あー、じゃあ、どうしよっかなぁ。だったらもうちょっと居酒屋でねばればよかったなー」

「それなら、部屋で飲みますか……?」

 女は面倒そうな印象をがらりと切り替えたように言った。

「え、いいのぉー?」

 あいての乗り気な態度に血の気がひく。

(だめよ!)

 声を出そうとするが、押しこまれたティッシュのせいで、むぅぅぅぅ、という呻きしかならない。訪問客は「あれ、今、なんか……。誰かいるの」と聞く。女は「そうですか?」ととぼけ、チェーンロックを外し、女を招き入れようとする。

(だめ! に、逃げてっ!)

 女は訪問者を招じ入れつつ、背中に隠していたナイフを逆手にもちかえる。

 そのとき、突然ひびいた音に鮎美は音のしたほうをふりかえった。

 音は締め切られたカーテンの向こうから聞こえる。

 女もふりかえった。

 ダンッ! ダンッ! 鈍い音がたてつづけにひびいた直後、ガラスが砕ける音がひびいた。

「警察だっ!」

 男がカーテンをおしのけてはいってきた。

 女は振り返り、背中に隠していたナイフを構える。が、その刹那、玄関扉の隙間から腕が伸びるや、女の刃物を握っている手首をつかんだ。女は気づいて、自分の身体をつかって玄関扉を閉じようとするが、訪問者は閉め出されまいと半身を室内にねじこんだ。

「離せッ!」

 女は吼え、暴れる。手首を掴む腕をふりはらおうとする。一方、ベランダから押し入り、警察だと名乗った男は女めがけてとびかかった。

 ナイフを封じられた女はうつぶせに押し倒される。

 瞬間、女の髪が床をすべる。セミロングの髪の下からショートの髪があらわれた。

「平気か、虎熊っ」

(虎熊……?)

 そんなめずらしい名字は警察という狭い世界でそうそういるはずもない――。

(あきらっ……)

 腕をおさえながら、親友が姿をみせる。

「鮎美っ!」

 あきらはかけよってくると、口のなかにつめられていたティッシュをとってくれた。

「あき……ら……っ」

「鮎美っ!」

 喉が狭くなって言葉がでないなか、鮎美は無言でかぶりを振る。

「どけええっ!」

 絶叫があがると同時に、なんとかとりおさえようとしていた男をはね除け、女がたちあがる。 床に転がったナイフをすくいあげるや、こちらめがけてはしりよってくる。逆手にもったナイフをあきらの無防備な背中めがけて振り下ろす。

「あきらっ!」鮎美は絶叫した。

 あきらはその大柄な体格からは想像ができない素早さで振り返るやふりおろされるナイフを弾き、一本背負いをきめた。床にたたきつけられる鈍い音がひびく。

 床を転がったナイフは、ベッドの下へすべりこんでいく。

 女はあきらによって床に俯せの恰好で押さえつけられながらも奇声をあげて暴れ続けた。大柄なあきらが今にもはねとばされてしまいそうなほどに女の力は強かった。

 しかしそれも、あきらが女の腕をきめるまでのことだ。女はくぐもったうめきを漏らし、抵抗はやんだ。

「警部、大丈夫ですかっ!」あきらは跳ねとばされた男へ呼びかけた。

「……すまん、油断した」

「鮎美は」

「へ、平気」

 そのとき、それまでくぐもっていたうめきが、調子の外れた声に変わる。

 突然のことに、その場の誰もがぎょっとした。

 笑い声だった。女は表情を引き攣らせながら笑っていたのだ。

 底知れない不気味な笑声に、室内はたちまち包まれた。


 あきらは手錠をされ、足とテーブルの足とをさらにつながれている人物を見つめる。

 ここは代々木警察署の取調室。

 カツラを剝ぎ取られ、化粧もおとされたその姿は間違いなく、有賀俊太郎だ。

 制圧したときにはどこかどうみても女性にしかみえなかったのに。いや、こうして間近に見ても、目つきや口元に時折うかぶ微笑、言葉遣い、そのすべてに妖しい色香を漂わせる。

 部屋にはあきらと幽人のふたりきり。もちろんマジックミラーをとおして飯塚警視たち、幹部たちはみているが、一切、口をはさまないという確約を得ていると幽人はいっていた。

「有賀俊太郎はもういない、と考えてもいいか」

 机をはさんで向かい合う幽人が言うと、俊太郎は肯定するように微笑した。これで着飾り、化粧をすれば相手は自分に気が合うと思い、ほいほいついていきそうだ。しかし幽人には通じない。彼のポーカーフェイスは僅かも揺るがない。

 俊太郎は逮捕されてからというものの、すこしも動揺したそぶりはない。まるで捕まったという実感がないという風だ。そしてそれは装っているようにはみえなかった。

「僕が有賀俊太郎ですけど」

「つまらない演技はやめろ。俺には分かる。有賀俊太郎はもういない。お前はもう歪みを背負い込みすぎて、お前の姿がぼやけてしまっている」

 ちらっとマジックミラーを見てしまう。彼らにしてみれば異次元の会話だろう。

「――有賀俊太郎は恋人の魂を呼びもどそうと儀式をおこなったことはわかっている」

「警察がそんなことを信じるの?」俊太郎はくずれた笑みで片頬をひきつらせる。

「儀式はデタラメだろう。そんなものはどうでもいい。重要なのは死者に対する強い執念。それが浮遊霊……おまえらを引き寄せた」

 幽人は分厚いファイルを開き、これまで手に入れた証拠を示した。

「俊太郎は健気な子よ。一世一代の恋に身を焦がした挙げ句に殺人まで犯し、灰になった」

 俊太郎――いや、彼に取り憑いているなにものかは、まるで他人事のように嬉々としている。

「……なぜ、彼は千鶴の母親を殺したんだ。彼女はだいぶ前に母親とは縁を切っていたはずだ」

「でも手帳には住所が残っていた。彼はね、千鶴の死を伝えに言ったのよ。でも、母親はあっそうって軽く流しただけじゃない、千鶴を死んで当たり前のように悪し様に言った。それで、キレちゃってね。抵抗ができなくなるくらい殴りつけ……それから、前々から気になっていたサイトのことを調べたのよ」

「俊太郎は本気だったのか」

「彼はね、千鶴の死を引きずりつづけていたのよ。売人殺しで偶然手に入れたドラッグを使用して必死に悲しみから逃れようとしていた。でも悲しみから逃れるのと同時に、狂気の萌芽がうまれた……」

「どうしてそこまで分かる。お前らがはまだそのとき、いなかったはずだろ?」

「私たちは彼と肉体を共にして記憶は共有していたのよ」

「……私たち、か」

「そう。私たちは共犯だった」

「分かっているのか。これは取り調べだ。そしてお前は今、自白した」

「証拠はそろっているんでしょう。それに、どうなろうと私たちは、構わないもの。それに、こんな与太、あなた以外、誰が信じる?」

 俊太郎はマジックミラーを見つめ「でしょ?」と同意を求めるように言う。

「――俊太郎は千鶴の母親でいろいろ試してね。私たちが手を貸したのは、そのつぎから。憑代になれるだけの女の子をひっかけるのは俊太郎じゃあ、無理だったから。俊太郎は奥手だった。千鶴は特殊な子だったからうまくいっただけ。……でも春日千鶴をつくろうとするたび、不完全なものしかできなかった。俊太郎は、自分のなかの怒りを抑えることができなくなっていたのよ」

「制御できなくさせていたのは、お前たちの憎悪だ」

「そう?」ふふっと、俊太郎は歯をみせて笑う。

「春日千鶴に近づけた唯一の女性を、お前は殺そうとした。彼女の存在が、有賀俊太郎のよりどころになることで彼が心の安定を得るのを防ごうとした」

「当然でしょう。ひとりだけ幸せになるなんて……ねえ? それに、彼が苦しむ姿がみたかったから。あの子を殺せなかったのは残念だけど」

 ほくそ笑むことをやめないしゃべりかたに、あきらは怖気を震わないわけにはいかなかった。

 その目は、幽人をみているようでなにもうつさず、まるで人間ではない――それは人間性の欠如という意味ではなく、言葉そのままだ――、まるで人間の真似ごとでもしているようにしゃべっているような錯覚を受けた。すべてが違和感という言葉にむすびついてしまう。

「でも、警察にあなたみたいな人がいたなんて……。あなた、狂ってるって思われてるんでしょうねえ。あなたさえいなかったら……。あーあ、あの婦警さんを切り刻めなかったのが唯一、心残り」

 俊太郎はあきらへ視線を向け、にたりと口角をもちあげる。あきらは思わず目を逸らす。見入られたら自分すらなにかをされてしまうような気がしたのだ。

「もう終わり?」

 幽人がたちあがると、つまらなさそうに言った。幽人は無視し、あきらを促して部屋を出た。

 廊下では飯塚警視やその部下たちがそろっていた。

「――今の話しだが、とても裁判ではつかえんぞ。自白にしても荒唐無稽だ。弁護士に責任能力がないという恰好の材料をあたえるようなものだ」

 飯塚警視は厳しい顔のまま言うと、幽人はうなずく。

「わかっています。しかし証拠はそろっているんです。有罪にもっていくことに支障はないでしょう。中身がどうあれ、あの身体が他者の血にまみれていることは事実です」

 飯塚警視は口のへの字にして、あきらたちと入れ替わるように部下とともに取調室へ入っていった。

「警部。これで、終わり……なんでしょうか」

 有賀俊太郎が一連の事件の犯人であることは疑いようがない。しかし、今のやりとりに従えば、有賀俊太郎は加害者であり、また被害者という一面をもっている。そして彼の意識はもうどこにもない。

「――俺たちにできることはここまでだ」


エピローグ


「……鮎美?」

 あきらは囁くように言いながら病室に入ると、鮎美は窓へむけていた視線を向け、笑顔をみせてくれる。

「あきらっ、来てくれたの?」

 鮎美は中野にある警察病院に入院していた。ケガそのものは軽く、すでに治ってはいるようだが、精神的な部分が問題らしく、今もまだ療養中なのだった。

「……忙しいのに。ありがとう」

 顔色もよく、今すぐに復帰してもいいくらいだった。

「やめてよ。――それにしても病院の個室なんて初めて入ったけど、静かでいいね」

「まーね」

 鮎美は少し微妙な顔をする。最初は六人部屋だったがかけつけた鮎美の父親が、大切な娘を他の入院患者と一緒に寝かせられるかと個室に移させたのだ。

「静かなのはいいんだけどさ、夜になると寂しいんだよね。本を読むのにも飽き飽き……」

 ふう、と鮎美は息をついた。たしかにサイドテーブルには小説やマンガが置かれている。

「……お父さんになにか言われたの」

 鮎美が憂いの顔をみせることなんて滅多にはないが、何度か接したことはある。そういうとき、いつも鮎美は親とぶつかったあとだった。そもそも大学進学をやめ、警察学校の扉を叩いたのすら親の反対をおしたのだった。

「警察、やめろって」

 一つ間違えれば殺されていたかも知れないことを思うと心配するのは当たり前だ。

「どうするの」

 鮎美は唇を尖らせる。

「やめるわけないじゃないっ。そりゃ怖い思いはしたけど。私、この仕事、好きなんだから」

 鮎美には妙に図太いところがある――とはいえ、さすがに今回ばかりはそう楽観的にはいえないだろう。本人は必死に隠しているつもりだろうが、その目や表情の端々に不安の影がいつまでも晴れずに残っていることが分かる。

「それに、犯人の人質になれるなんて人生で一度あるかないかでしょ」

「あ、あのね……」

 扉がノックされた。鮎美が応じると、「失礼します」と幽人が顔をだした。

「警部っ!?」

 予想外の人物の登場にあきらは背筋を伸ばす。

「来ていたのか。邪魔をしてしまったか?」

「いえ。そんなことありません。あの、失礼ですが……」

「あ、こちらは私の上司の――」

「あなたが樋筒幽人警部!?」

 あきらが口を開く前に鮎美が言った。その目が面白そうにきらきらと輝いている。

「具合は?」

 初対面の相手にも幽人はやっぱりぶっきらぼうだが、鮎美は一切気にしていない。

「はいっ! もうすっかり元気ですっ!」

 鮎美は破顔した。親友のはしゃぎようにあきらはため息をつく。

「それは良かった」幽人はにこりともせずに言った。

「ところで警部、私に守護霊ってついていますか」

「ちょっと、なに言って――」

 幽人はあきらを目顔で制すると、じっと鮎美を見つめる。鮎美はその視線を受けとめて、見返した。しばらく互いに見合っていたかと思うと幽人はふっと視線を逸らす。

「特になにも感じないな」

「ちぇ、そうですか。……あーあ。ざーんねん」

「ちょっと鮎美ってば」

「ま、いっか。それでも私がこうしていられるんだもん。あきらが私にとっても守護霊かもね」

「ちょっと……。勝手に殺さないでよ」

 あきらはからかわれたと知って唇をとがらせると、鮎美はごめんごめんと言った。

「それじゃあ」と幽人は踵を返す。

「もう帰っちゃうんですか」

「仕事があるからな」

「あの……。また、お見舞いにきてもらってもいいですか」

「ああ、構わない」

「ほんとうですか」

「ああ。入り用なものがあったらこいつに言ってくれ」

「今日はありがとうございます」

「お大事に」

 幽人は部屋を出て行く。

「警部、私も行きます。――じゃあ、鮎美、またね」

 暢気な顔で手をふる鮎美に手を振りかえし、幽人を追いかけて病室を出た。

「お前まで出てくる必要はないだろう。しばらくは休暇だろう」

 休暇というよりは謹慎に近い。捜査本部への連絡を怠り、独断で現場に突入したのだ。結果は良かったが組織に所属する身として危うすぎると声があがったのだ。

「それは警部だって同じじゃないですか」

「休みの日は部署で資料を読むのが恒例なんだ」

「なら、私もおつきあいします。――あの、鮎美はふざけてるわけじゃないんです。そうは見えないかもしれませんけど……」

「わかってる。彼女の心は、傷ついている。……俺は来なかったほうがよかったかもしれない。彼女に無理をさせてしまった」

「そんなことありません。あの笑顔は本物でしたから」

「すまん」

「え?」

「俺がもっと注意を払っていれば、彼女が襲われるような目に遭うこともなかった」

「やめてください。第一、鮎美を救えたのは警部のおかげなんです。警部が気づいてくれなかったら最悪のことだって」

 病院を出て駐車場へ。あきらが助手席にのりこむのを幽人は特に咎めなかった。

「――もし、お前が望むなら別の部署への異動をなんとか上申してみよう」

「……私は、足手まとい、ですか」

「そんなことはない。今回の捜査でも助けられた。俺としてもお前の体力は心強い」

「ありがとうございます。それを聞けただけで十分です。まだまだ警部の下にいさせてください。いくら警部でも、そうひょいほいと警察組織で勝手はできませんし、なにより犯人追跡は警部だけは大変じゃないですか」

「どこへでもということは無理だろうが地域課に戻すくらいなら……」

「私は警部の下で働きます」

「そうか……」

 助手席に収まり、シートベルトをする。

 車はいつものようにそっとすべるように走り出した。


(END)

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警視庁刑事部特命捜査課~人格喪失 魚谷 @URYO

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