第11話終局

 習慣で駐車場に軽トラックを停め、外へ出ると力任せにドアを閉めた。


 その直後、子どもの声が響く。

「ヒーローが帰ってきた!」

 その声の生々しさに、俺は振り返る。

 当然のことに、人影などなかった。

 今度は母親のような声が聞こえた。

「だめでしょ、そっとしておいてあげなさい」

「だってヒーローだよ!」

 そこへ少女の声が混ざった。

「あの人、けっこうアタシのタイプかも」

 快活そうな男の声も入ってきた。

「でも、おっさんじゃんかよ!」

「だってアタシ、おじさん好きだもん」

 最初の子どもが再び声を出す。

「姉ちゃん、結婚したら。家族にヒーローがいたら自慢になるよ!」

 全員の笑い声が響く。


 ここまで酷い劇場型の幻聴は、発症したとき以来だった。


 家族の笑いの中に、批判がましい男の声が割って入った。

「やめろ、おまえたちは知らないのか! あいつは人殺しだぞ!」

 母親の声がする。

「お父さんやめて」

 少女が言った。

「お父さん、変なこと言わないで! あの人は悪いことなんかしてない!」

 お父さんが激しい口調になった。

「あいつはマサキを殺したんだ! お父さんは見てた! 自分の母親だって見殺しにしたんだぞ! 鬼のようなやつだ!」

「そんな、嘘よ!」

 少女がそう言い、鼻を啜って泣き始めた。子どもも声をあげて泣き始める。

 快活そうだった男も鼻声で言った。

「俺、俺、信じてたのに……」


 もう十分だった。

 この、人を小馬鹿にした三文芝居に、怒りが膨れあがった。

 俺の頭のどこかで作られたシナリオが、俺の頭のどこかに潜んでいる役者たちによって演じられている。


 俺はたまらず、怒声を張りあげた。

「クソが! おまえらなんかいない!」

 感情を爆発させると、人の声はやんだ。

 だが、すべての幻聴が途絶えたわけでもなかった。

 どこか遠くから、パイルドライバが基礎を打ち込むような、規則的な金属音が聞こえてくる。

 ヘリコプターが飛んでいる音もする。

 だが、驚かされることもない。

 この手の音は容易く無視できた。

 部屋には耳栓がまだあったはずだ。

 それをつけて、ゆっくり眠らなければならない。


 門を開けて庭へ入ったとき、隣の家の窓が開く音がした。

 これにはハッとなり、思わず見あげてしまう。

 窓はあったが閉まっていたし、何かの動く影もなかった。

 また、幻聴の得点だ。

「クソ!」

 俺は声に出して言ってから、玄関に向かう。

 そこでも声をあげそうになってしまった。

 驚いて動きを止める。


 玄関の前にあるマサキの死体に、白いものが群がっていた。

 怒りのせいでボウガンを車に忘れてきたので、俺は焦った。

 だが、それも一瞬のことだった。

 白いものは三匹のシーズーに間違いなかった。

 ブン太にサクラにスミレ。

 俺が追い払った飼い犬たちが戻っていただけだった。


 犬どもはマサキの腹に群がり、生焼けの内臓を食っていた。

 こいつらにとっては、単なる焼き肉にしかすぎないのだろう。

 俺は疲れていたし、食われている相手は苦痛を訴えるわけでもない。

 犬どもを責めはしなかった。


 旺盛な食欲を発揮するその様子を眺めながら考える。

 ここで死んだら、こいつらは俺も食うのだろうか。

 きっと食うだろう。腐る前に。

 どっちにしろ、俺はまだ生きていたし、今は休まなければならない。

 眠りに入って、幻聴から逃げるべきだった。


 犬どもを放っておいて玄関へ行こうとしたとき、空の上から汽笛のような音が鳴り渡った。甲高く、長く尾を引く音が、何度も続く。

 珍しいタイプの幻聴だった。

 騙されるのを承知の上で、夕日に染まった空を仰ぐ。

 幻聴ではなく、音には実体が伴っていた。

 それを見て、頭がからっぽになる。

 弾き飛ばされた言葉が、しだいに戻ってきて、その物体の認識を可能にしてくれた。

 茸のような形をした巨大な物体が、空から降りてくる。

 表面の模様の動きからして、回転しているようだった。

 その巨体から滲み出るようにして、蒲公英の綿毛に似たものが空中へばらまかれている。

 綿毛の下にぶら下がったものは、開いたり閉じたりして蠢いていた。

 夕日の中の異形は、これまでにも増して、悪夢のような光景だった。


 唖然として見つめるうちにも、巨大な茸は地表へ近づいていく。

 着地点からはずいぶん離れていた。

 それが不幸中の幸いだった。

 唐突に、道路のほうから騒ぎが起こった。

 子どもたちの喚く声がする。

 続いて、走り抜ける足音と、弾むランドセルの音。

 確かめるまでもなく、幻聴だった。

 パイルドライバの響きと、ヘリコプターのローター音も、まだ消えていない。


 犬どもは何を気にするふうでもなく、食事を続けていた。

 こいつらはどんな世界の中で生きているのか。

 世界をどう捉えているのか。

 何も不思議なものなどないのだろうか。


 俺に見える世界。

 そこでは、異世界からの侵入物が空中に子種をまき散らし、俺の飼い犬が人間の死体を貪っている。その死体の死因も得体の知れないものだった。


 俺には見えない世界。

 そちらでは、どこかで建設作業が進行し、ヘリコプターが空を飛び、子どもたちが家路を急ぐ。昔日の日常が続いていた。


  俺の現実がどこにあるのかわからない。

 俺は現実というものを、どこに定めたらいいのか。

 困惑が神経を削り減らした。


 人間が絶滅してもいい。

 俺は静かな世界の王、領主でいたかった。

 その玉座は、侵入者と幻聴、二つの事象によって奪われてしまった。

 もう何も残っていない。命以外は。


 俺は疲れきっていた。頭がぼうっとする。

 夕闇が迫り、冷え込んでくる空気の中で、犬どもが食事を終えていた。

 満足気な顔をして、つぶらな瞳で俺を見つめてくる。

 俺は芝生の上に胡座をかいて座り込んだ。

 三匹の犬どもが、尾を振りながら寄ってくる。

 無感情に、その頭を撫でてやった。

 そこには確かな実体があった。

 犬どもの吐く息が臭い。


 痺れ始めた頭の中でおぼろげに思う。

 最後まで残るのは、きっとこいつらだろう、と。

                  了

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遺残の犬 進常椀富 @wamp

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